平成24年第65号が出来ました。

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●創刊号メニュー(2006/1/15発行)
創刊にさいして
江戸時代の大仏復興と公慶上人(前編)
戌2題(狛犬・洋犬)

《創刊にさいして》
 

昭和61年(1986)春4月、京都史跡散策会が発足して、例会200回(月一回)に到達したのは、平成17年(2005)の秋(10月)でありました。主に近畿圏の古社・名刹を巡拝して、そこにまつわる歴史・物語と貴重な文化財などを見学して、会員の皆様と共に勉強してきました。足掛け20年、京都史跡散策会の維持運営は、私と家内(山口須美男・永子)と二人三脚で歩んできました。
その内容は、企画・下調べ・下見・寺社拝観交渉・資料プリント作成・交通手段とアクセス・会員連絡・食事場所・会費徴収などでありました。
加齢により私どもは、散策会を維持運営することがしんどくなり、後継者を募りましたが、数名の候補者がありましたが、会の運営を引き継ぐことが困難であるとの結論がでて、まことに残念ですが、第200回(平成17年10月)の例会で存続に終止符がうたれました。
過去200回の例会内容に、説明が舌足らずであったり、過去の20年間には、づれた観光情報があり、これを現在版に整理して、今年から月一回、このホームページで補足して、新しい情報を提供したいと思っています。また、特に興味や関心のあった情報を発信していきます。史跡散策会の資料プリントの作成に参考にした歴史書や物語・小説なども紹介をしていきます。
しかし、どこまで続けられるか、月刊京都史跡散策会の継続に挑戦していきます。乞うご期待です。


京都史跡散策会で、第143回(佐保川 般若坂の古刹)と第165回(東大寺大仏開眼1250年)とで東大寺や五劫院に参拝しましたが,江戸時代,大佛復興や大佛殿再建に生涯をかけた公慶上人については詳しく触れていません。昨年(平成17年2005)は,公慶上人が亡くなって300年にあたり、奈良国立博物館では、特別展―東大寺公慶上人展―を企画して、大佛復興と大佛殿再建にかけた公慶上人の生涯とその行跡の全貌を明らかにする初めての展覧会が催されました。この際に、公慶上人展に展示していた資料などを参考にしながら公慶上人略伝≠記してみました。展覧会の会期は平成17年12月3日〜平成18年1月15日。

【江戸時代の大仏復興と公慶上人(前編)】
 
東大寺の大佛殿は戦火で2度焼失して、現在の建物は、宝永6年(1709)に再建されたものであります。
治承4年(1180)12月、平家の軍勢による南都焼討ちによって東大・興福の両寺は灰燼に帰し、大佛殿も創建後430年にして焼失しました。朝廷は翌養和元年(1181)に再建の勅令を下し、造寺官を任命しましたが、すでに力が衰えた朝廷では造営費の捻出ができず、諸国に勧進して再建をはかることとなりました。その任にあたったのが俊乗房重源です。
まず大佛を鋳造修補したのち、文治元年(1185)から造営用の材木を求め、翌年には周防(山口県)の杣にでかけて実際に用材を捜しました。そして建久元年(1190)には立柱上棟の運びとなり、同6年に竣工しました。
鎌倉時代に俊乗房重源上人によって再建された大佛殿が、ふたたび焼失したのは永録10年(1567)のことであります。この永禄の大佛殿炎上は世に言う「三好松永の乱」によるもので、いわゆる三好三人衆とよばれる三好一族は、大和の松永久秀にとられた失地を回復しようとしていた筒井順慶と結んで松永久秀を除こうとしました。
永録10年4月、松永勢は多聞城にこもり、三好三人衆も筒井順慶の軍とともに天満山・大乗院山に陣をはりました。さらに三好勢は東大寺大佛殿に本陣をおき、多聞城を攻撃しました。そのとき般若寺・文殊堂など、また、東大寺・興福寺の塔頭や寺人の家が焼き払われました。このような三好勢の攻勢に対して松永勢は松井安芸宿所・西院郷・北水門・南水門郷を焼き払い、その猛火は天を焦がしました。そのため7月23日には戒壇院・千手堂か類焼しています。
10月10日、ついに松永勢は三好勢の本陣であった大佛殿の焼討ちの挙にでます。


 
この時、東大寺の伽藍で焼け残ったのは南大門、鐘楼・二月堂・法華堂・念仏堂・正倉院・転害門・閼?井屋などでありました。この猛火により廬舎那大佛の御首は焼け落ち、右手は溶解し、佛体には大きな損傷うけました。
大佛殿のごとき巨構の再建は、鎌倉の重源上人のような献身的な人物の出現と時代背景がなければ不可能で、江戸時代の文治政策が昇華し、その基礎も安定した貞享・元禄
時代を待たねばなりませんでした。
その後の大佛は、両手や肩などは修復されますが、木造銅板貼りの仮の頭部を付けた大佛は、屋根がない状態の露佛で100年以上の歳月が過ぎていました。
その大佛を復興したのが公慶上人です。公慶上人は勧進帳を作って諸国を歩き、将軍家や大名、富豪や商人、庶民に至るまで勧進をして、大佛復興を成し遂げました。続いて大佛殿の再建に着手しますが、その完成を見ることなく、宝永2年(1705)に58歳で亡くなりました。公慶上人が亡くなって今年で300年。大佛復興と大佛殿再建により、奈良は全国から大勢の参拝者を迎えるようになりました。現在のような観光都市奈良は公慶上人がその基礎を築いたとも言えます。
公慶上人は丹後国宮津の人で、慶安元年(1648)に生まれ、父は生駒高山にあって頼茂と称し、母は四宮氏であります。父は京極高広の家臣でありましたが、彼が3歳の時に藩をしりぞいて、南都の水門郷に居を構えていました。
万治3年(1660)、13歳のとき父にともなわれ、東大寺大喜院に入り英慶法印について出家し、式部卿公慶と称しました。朝夕拝する露座の銅板貼りの大佛をみて、その修理と大佛殿復興をこころに誓いました。
貞享元年(1684)、公慶37歳のとき幕府の許可をえて、勧進をはじめました。そして大佛殿再建の勧進のために東大寺の寺内に龍松院(いまの勧化院)に住房をつくって、ここを中心として再興の仕事を開始しました。かつて鎌倉時代に重源上人が庶民の奉加喜捨を得るときに用いた「蓮実の杓」(勧進杓)を持って奈良・京都・大阪を勧進し、多大の反響を起こしました。
大阪の豪商北国屋治右衛門の寄進した銅塊3000余個が、通交する人びとの手により転送されて、東大寺に到着しています。そして貞享3年(1686)大佛の鋳掛けを始めると同時に用材の切出しにも着手しました。
翌年の貞享4年の正月三ヶ日の間、大佛の前で樂を奏し、永禄10年(1567)以後中絶していた儀式を再興し、以後、毎年5月8日から19日まで、経堂にて千部法華経を読誦するようになりました。同年の4月2日より8日まで、千人の僧を請じ、五百人の工匠を集めて釿始めの盛儀を行ないました。このときに、参列した僧俗は5万7千160人でありました。
焼損したり欠落した大佛の連弁を鞴で鋳掛けはじめたり、大佛の胎内の材木が、露座であったがために朽損していたのを取替えました。また大佛の仏頭については、永禄の兵火のときに落ちて、そのままになっていたのを山田道安が銅板でこれを補修していたものを、いまその面容を模して鋳物師広瀬国重・岩本兵庫正次によって鋳掛け始められました。また失っていた大佛連弁の18枚を新たに鋳造しました。その蓮華下の石座が悉く砕けていたので、これは石工の遠藤庄大夫と吉野又三郎によって修理されました。
元禄2年(1689)3月19日には公慶上人は奈良を出発して江戸に向い、修理の進行状況を幕府の寺社奉行に報告しています。
公慶上人の勧進は、幕府の援助を背景としていますが、まず地元より始める必要がありました。いくら幕府が動いても、まず大和の人びとに協力を得られないならば、再建は不可能に近いため、公慶は、そこで『大佛縁起』の講談をして勧進を訴えました。
公慶上人は、勧進という事業は簡単にできることではないので、まず都市集中の、江戸・京都・大阪、そのほか都市化している場所への、勧進勧化することによって実質的な効果をあげようと考えました。
そこで貞享2年(1685)に、浅草長寿院に江戸勧進の拠点を設けました。そして江戸での勧進はじめとして『大佛縁起』の講談を熱心に語りました。その口上に公慶上人は、「南都東大寺大佛殿は聖武天皇の御願により、良弁僧正の開基になるが、総国分寺とも金光明四天王護国の寺ともいわれる東大寺が、はじめ治承の兵火に焼かれ、いままた永禄10年の兵火に炎上した。そののち慶長年中に東照権現様(徳川家康)が大佛仮堂をつくられたが、いまや年を経て朽損はげしく、そこで自分は処々をまわり、諸国勧進をいたし、さらには御公儀の御上意にもとづき、何とかして大佛殿御普請の完成をとげたい」と訴えました。その復興の順序として、まず大佛尊像の修理から始めなければなりません。
貞享2年(1685)、まず大佛修理の手始めに大佛胎内の材木の修理にとりかかりました。そして新しく勧進の事務所として龍松院を勧進所にあて、その促進化をはかりました。
まず五刧思惟の阿弥陀仏を龍松院内に移して未来永劫に至るまでも、自分は勧進して大佛および大佛殿を再建してやまないことを、阿弥陀仏前に誓い「天下泰平を祈るためには、大佛殿の成就をおいて外にはない」との公慶上人の意志は俊乗房重源上人の遺志をつぎ、その決意をあらためて強調しました。
当時寺領3500石という旗本にも及ばない東大寺が、18万両(約200億円)におよぶ大工事をなしとげるには、天下の大事業であり、必死の試練でありました。
貞享3年(1686)大佛尊像の鋳掛けが始まりました。もともと山田道安が銅板をもって仮に補修していたものを改めて鋳造しなおさなければなりません。その鋳造に要した銅は6万5754貫におよびました。大佛胎内の枠組みの用材が淀奉行によって寄進されました。
貞享5年(1688)公慶に上人号が贈られました。そして公慶上人はひたすら重源上人の先例にならおうとしました。重源上人の鉦鼓を持ち出し、これを打ち鳴らして町々を勧進して歩きました。
公慶上人の勧進帳には、『南都大佛修復勧進帳』、『南都大佛殿勧進帳』、『大佛講名帳』、『南都大佛後光勧進帳』の4種のものがあります。
この間に大佛の仏頭は元禄3年(1690)4月8日に鋳造を終了しました。つづいて元禄4年正月には、東大寺八幡宮の造営に着手して完成しています。
元禄4年まで仏頭の再鋳に要した工事の内訳は、用いられた材料が、銅6万5754貫、炭2万8056俵、鋳掛けの手間賃が、銀20貫536匁8分、尊像の胎内の用材は銀75貫431匁2分、このとき動員された鋳物師が4万206人、人夫が3万8582人で、その手間賃は合わせて1万1178両(約12億円)という巨額なものでありました。
元禄5年(1692)3月8日から一ヶ月におよぶ大佛開眼供養が厳かに営まれました。開眼供養の3月8日には、勅使として甘露寺頭右大弁藤原輔長が参列し東山天皇の御厳文が仏前で読まれました。開眼導師には東大寺別当勧修寺済深法親王があたり、供養の導師には興福寺一乗院眞敬法親王、結願日の導師には華厳長吏兼安井門跡尊勝院道恕大僧正があたりました。
この式場には、大佛の頭上に板葺きの屋根を構え、連弁の上の台に仏供をそなえ、石座の上に開眼導師の高座を設けて、その傍らに公慶上人が座して供養は始まりました。
この日、東大寺の学侶・両堂衆・末寺の僧など46人が出仕し、衆僧の散華大行道があった後、導師によって先に聖武天皇・後白河法皇などが用いられた、正倉院にあった天平開眼の筆によって、開眼の作法が始められました。
導師は、そののち仏眼真言を唱え、ついで釈迦宝号をとなえたのち舞楽の奏樂が行なわれました。この間、奈良町奉行の大岡美濃守忠高が、初日、供養当日、結願日に参詣しています。1ヶ月間は毎日法華千部経を読誦し、遠近諸宗の衆僧がかわるがわる奉仕して、このときに参加した僧侶は1万2000名に達しました。そして、一般参列者の数は実に20万5300人でありました。
まさに永禄の炎上後百余年目にこの盛儀が営まれたことになりました。またこの法会の間に大佛殿廻廊跡に板屋を設け、惣持院にあった良弁僧正の衣や袈裟、自筆の願無辺仏土功徳経、硯、東大寺の印蔵にあった聖武天皇宸筆、光明皇后の宸筆の写経、聖宝僧正の五嗣子如意などをならべて一般の人々に閲覧させました。そのために、供養の期間中に、奈良・大阪間にある闇峠越えの道は、参詣の人で延々とつながり、京都と奈良の間にある木津川の船頭は数日で1年間の収入があり、奈良の旅篭は人をさばき切れず、臨時の旅宿が方々に設けられました。
前編おわり 次号につづく

★ 戌 2 題(戌歳にちなんで)
《 狛 犬 》
 
神社の社頭で必ず見かけるのが一対の狛犬であります。それらは石造であったり、あるいは木造だったり、なかには美しく彩色されたものなどもあって、さまざまな意匠に富んでいます。いかめしい表情にもかかわらずどことなくユーモアがただよい、狛犬には身近な親しみを感じさせてくれます。
 狛犬の歴史をたどっていくと、狛犬を「高麗犬」とも書くように、起源は大陸であります。中国では漢代の帝王の陵墓に、土で作ったものが置かれていた記録があります。これは外敵を防ぐというのか、神聖であるべき陵墓を侵されないように、一種の呪物として置かれたと考えられます。この中国の伝統風習が日本にも伝わってきて、平安時代後期である藤原時代から使われ始めたといわれています。
狛犬はもともと宮中の天皇の御座所の高御座にかけてある御簾や机帳の裾を押さえるのに置かれたものでありました。これを鎮子と呼んでいますが、裾のひるがえるのを防ぐあおり止めです。そこへ天皇の玉座を守護するといった意味も加わって、神社や寺へ広まっていきました。
 一対の狛犬は前肢を踏んばった姿で左右に向き合って置かれ、社前に対して右は口を開き、一方は口を閉ざしています。これを阿像、吽像とそれぞれ呼んで、古くは阿像は獅子、吽像は狛犬と区別し、総称して獅子狛犬と言いならわしていました。古い狛犬には額に1本の角を生やした一角獣も見られますが、今日では獅子と狛犬の区別なく、単に狛犬とだけ呼んでいます。
 神社に狛犬が置かれるようになったのは、学問的には神像の成立と関連づけて考えられています。現在残っている狛犬の中で、藤原時代の作と認められているものは意外なほど少ないのです。薬師寺境内の八幡宮、滋賀県の御上神社、安芸の厳島神社です。
 薬師寺八幡宮の狛犬は、これらのなかでも最も個性的であります。垂直に立てた胴体を太い前足がささえ、顔やいきよくはねあげた尾などにも、精悍な猛獣の躍動感といったものがあり、非常に勇壮な姿です。
狛犬の姿形も時代とともに少しずつ変化してきます。尾を例にとれば中世にはだんだん貧弱になってきて、逆に近世になると物凄く派手になりました。現代に近づくほど定型化されてきました。古いものには個性があって美術的に優れたものがあります。
 東大寺の奥にある手向山八幡宮には、一棟を三つにしきった本殿のそれぞれの縁に、都合3組6体の木造狛犬が安置されています。当社は、大佛建立にあたって宇佐八幡を勧請した東大寺の鎮守社であります。大佛殿の西、老樹に覆われた若草山の山麓にあって、お水取りで知られる二月堂はすぐ北にあります。
 狛犬はもともと神社だけでなく寺院の門にも安置されています。それは明治の神仏分離で今日の姿になりました。平重衡の兵火で焼かれた後、鎌倉時代に再建された東大寺南大門には、砂岩で彫刻された立派な台座を持った一対の石造狛犬が、仁王像と壁をへだてて門の内側に配されています。
 狛犬が寺にもあるということは、神社の楼門に仁王像が安置されていることと同じ意味で、神仏習合の姿であります。奈良時代の大寺では門の表側に仁王像、裏側に狛犬を置いています。この古い形式を踏襲しているのが東大寺南大門です。この狛犬は高さが1,8m、明治30年(1897)に狛犬としては初めて旧国宝の指定を受け、いまも国の重文になっています。
もとは大佛殿の前の中門に置いてあったのを後にここへ移しました。製作が建久7年(1196)の鎌倉時代の初期。狛犬で製作年代がわかる貴重なものです。
 治承の兵火で頭が落ちた大佛の修理のため、中国宋から鋳物師の陳和卿らを招きました。その一行の中に石工がいて、大佛の台座の補修が終って後にこの狛犬を作りました。口を開いた姿、胸飾りの装飾などは日本では珍しいものです。日本では中国風の狛犬は、九州の宗像神社や観世音寺にあります。
 
《 洋 犬 》
江戸時代中期から明治初年にかけて、日本の開港地には貿易相手の国々から多くの外国人やってきましたが、そのうちには愛玩用・警備用として、また狩猟用として多くの品種のヨーロッパ系の犬を飼う人がいました。これらの多品種に分かれた犬は、在来種で品種の多くない和犬とは明かに外見が異なりました。一般にこれらヨーロッパ系統の犬を洋犬、またはカメ≠ニ呼びました。その呼称の起こりは横浜です。居留の英米の人びとが自分の犬をCome here≠ニ呼んでいるのを、英語を解せぬ日本人は犬の名と思いこみ、カムをカメと発音するようになりました。しかし、このようにその呼称が普及したのは単なる発音だけでなく、犬=噛め・噛むという動物的な連想が働いているとも思われます。
 洋犬の品種としては、まず狩猟好きの外人によるポインター種が多く、そのほかウサギ狩用の猟犬、ピーグル・グレイハウンド・セッターなどの種類がありました。番犬・愛玩犬としてはフォックスハウンド・ブルドック・マスチフ・グレートデーン・テリア・マルチーズなどがありました。
 そして上流社会の日本人が彼等と交際して狩猟を流行にとりいれ、洋犬品種の猟犬を飼育しはじめたので、前記の種類のほか、スパニェル・フォックステリヤなども入ってきました。しかし、内外人ともに同種類の犬を牡牝2頭そろえて飼うことが殆ど無かったので、おのずと雑種ばかりが増加しました。
 これらの洋犬が開港地から始まって広く全国的に飼われるようになると、洋犬の病気であるジステンバーが、在来和犬や日本狼に感染していきました。日本狼が明治後期に絶滅したのは、野生の日本狼がジステンバーに無防備であったがためといわれています。
 


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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