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●創刊号メニュー(2006/1/15発行) |
創刊にさいして |
江戸時代の大仏復興と公慶上人(前編) |
戌2題(狛犬・洋犬) |
【江戸時代の大仏復興と公慶上人(前編)】 |
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この時、東大寺の伽藍で焼け残ったのは南大門、鐘楼・二月堂・法華堂・念仏堂・正倉院・転害門・閼?井屋などでありました。この猛火により廬舎那大佛の御首は焼け落ち、右手は溶解し、佛体には大きな損傷うけました。 大佛殿のごとき巨構の再建は、鎌倉の重源上人のような献身的な人物の出現と時代背景がなければ不可能で、江戸時代の文治政策が昇華し、その基礎も安定した貞享・元禄 時代を待たねばなりませんでした。 その後の大佛は、両手や肩などは修復されますが、木造銅板貼りの仮の頭部を付けた大佛は、屋根がない状態の露佛で100年以上の歳月が過ぎていました。 その大佛を復興したのが公慶上人です。公慶上人は勧進帳を作って諸国を歩き、将軍家や大名、富豪や商人、庶民に至るまで勧進をして、大佛復興を成し遂げました。続いて大佛殿の再建に着手しますが、その完成を見ることなく、宝永2年(1705)に58歳で亡くなりました。公慶上人が亡くなって今年で300年。大佛復興と大佛殿再建により、奈良は全国から大勢の参拝者を迎えるようになりました。現在のような観光都市奈良は公慶上人がその基礎を築いたとも言えます。 公慶上人は丹後国宮津の人で、慶安元年(1648)に生まれ、父は生駒高山にあって頼茂と称し、母は四宮氏であります。父は京極高広の家臣でありましたが、彼が3歳の時に藩をしりぞいて、南都の水門郷に居を構えていました。 |
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万治3年(1660)、13歳のとき父にともなわれ、東大寺大喜院に入り英慶法印について出家し、式部卿公慶と称しました。朝夕拝する露座の銅板貼りの大佛をみて、その修理と大佛殿復興をこころに誓いました。 | ||
貞享元年(1684)、公慶37歳のとき幕府の許可をえて、勧進をはじめました。そして大佛殿再建の勧進のために東大寺の寺内に龍松院(いまの勧化院)に住房をつくって、ここを中心として再興の仕事を開始しました。かつて鎌倉時代に重源上人が庶民の奉加喜捨を得るときに用いた「蓮実の杓」(勧進杓)を持って奈良・京都・大阪を勧進し、多大の反響を起こしました。 大阪の豪商北国屋治右衛門の寄進した銅塊3000余個が、通交する人びとの手により転送されて、東大寺に到着しています。そして貞享3年(1686)大佛の鋳掛けを始めると同時に用材の切出しにも着手しました。 翌年の貞享4年の正月三ヶ日の間、大佛の前で樂を奏し、永禄10年(1567)以後中絶していた儀式を再興し、以後、毎年5月8日から19日まで、経堂にて千部法華経を読誦するようになりました。同年の4月2日より8日まで、千人の僧を請じ、五百人の工匠を集めて釿始めの盛儀を行ないました。このときに、参列した僧俗は5万7千160人でありました。 焼損したり欠落した大佛の連弁を鞴で鋳掛けはじめたり、大佛の胎内の材木が、露座であったがために朽損していたのを取替えました。また大佛の仏頭については、永禄の兵火のときに落ちて、そのままになっていたのを山田道安が銅板でこれを補修していたものを、いまその面容を模して鋳物師広瀬国重・岩本兵庫正次によって鋳掛け始められました。また失っていた大佛連弁の18枚を新たに鋳造しました。その蓮華下の石座が悉く砕けていたので、これは石工の遠藤庄大夫と吉野又三郎によって修理されました。 元禄2年(1689)3月19日には公慶上人は奈良を出発して江戸に向い、修理の進行状況を幕府の寺社奉行に報告しています。 公慶上人の勧進は、幕府の援助を背景としていますが、まず地元より始める必要がありました。いくら幕府が動いても、まず大和の人びとに協力を得られないならば、再建は不可能に近いため、公慶は、そこで『大佛縁起』の講談をして勧進を訴えました。 公慶上人は、勧進という事業は簡単にできることではないので、まず都市集中の、江戸・京都・大阪、そのほか都市化している場所への、勧進勧化することによって実質的な効果をあげようと考えました。 そこで貞享2年(1685)に、浅草長寿院に江戸勧進の拠点を設けました。そして江戸での勧進はじめとして『大佛縁起』の講談を熱心に語りました。その口上に公慶上人は、「南都東大寺大佛殿は聖武天皇の御願により、良弁僧正の開基になるが、総国分寺とも金光明四天王護国の寺ともいわれる東大寺が、はじめ治承の兵火に焼かれ、いままた永禄10年の兵火に炎上した。そののち慶長年中に東照権現様(徳川家康)が大佛仮堂をつくられたが、いまや年を経て朽損はげしく、そこで自分は処々をまわり、諸国勧進をいたし、さらには御公儀の御上意にもとづき、何とかして大佛殿御普請の完成をとげたい」と訴えました。その復興の順序として、まず大佛尊像の修理から始めなければなりません。 |
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貞享2年(1685)、まず大佛修理の手始めに大佛胎内の材木の修理にとりかかりました。そして新しく勧進の事務所として龍松院を勧進所にあて、その促進化をはかりました。 まず五刧思惟の阿弥陀仏を龍松院内に移して未来永劫に至るまでも、自分は勧進して大佛および大佛殿を再建してやまないことを、阿弥陀仏前に誓い「天下泰平を祈るためには、大佛殿の成就をおいて外にはない」との公慶上人の意志は俊乗房重源上人の遺志をつぎ、その決意をあらためて強調しました。 当時寺領3500石という旗本にも及ばない東大寺が、18万両(約200億円)におよぶ大工事をなしとげるには、天下の大事業であり、必死の試練でありました。 貞享3年(1686)大佛尊像の鋳掛けが始まりました。もともと山田道安が銅板をもって仮に補修していたものを改めて鋳造しなおさなければなりません。その鋳造に要した銅は6万5754貫におよびました。大佛胎内の枠組みの用材が淀奉行によって寄進されました。 貞享5年(1688)公慶に上人号が贈られました。そして公慶上人はひたすら重源上人の先例にならおうとしました。重源上人の鉦鼓を持ち出し、これを打ち鳴らして町々を勧進して歩きました。 公慶上人の勧進帳には、『南都大佛修復勧進帳』、『南都大佛殿勧進帳』、『大佛講名帳』、『南都大佛後光勧進帳』の4種のものがあります。 この間に大佛の仏頭は元禄3年(1690)4月8日に鋳造を終了しました。つづいて元禄4年正月には、東大寺八幡宮の造営に着手して完成しています。 元禄4年まで仏頭の再鋳に要した工事の内訳は、用いられた材料が、銅6万5754貫、炭2万8056俵、鋳掛けの手間賃が、銀20貫536匁8分、尊像の胎内の用材は銀75貫431匁2分、このとき動員された鋳物師が4万206人、人夫が3万8582人で、その手間賃は合わせて1万1178両(約12億円)という巨額なものでありました。 |
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元禄5年(1692)3月8日から一ヶ月におよぶ大佛開眼供養が厳かに営まれました。開眼供養の3月8日には、勅使として甘露寺頭右大弁藤原輔長が参列し東山天皇の御厳文が仏前で読まれました。開眼導師には東大寺別当勧修寺済深法親王があたり、供養の導師には興福寺一乗院眞敬法親王、結願日の導師には華厳長吏兼安井門跡尊勝院道恕大僧正があたりました。 この式場には、大佛の頭上に板葺きの屋根を構え、連弁の上の台に仏供をそなえ、石座の上に開眼導師の高座を設けて、その傍らに公慶上人が座して供養は始まりました。 この日、東大寺の学侶・両堂衆・末寺の僧など46人が出仕し、衆僧の散華大行道があった後、導師によって先に聖武天皇・後白河法皇などが用いられた、正倉院にあった天平開眼の筆によって、開眼の作法が始められました。 導師は、そののち仏眼真言を唱え、ついで釈迦宝号をとなえたのち舞楽の奏樂が行なわれました。この間、奈良町奉行の大岡美濃守忠高が、初日、供養当日、結願日に参詣しています。1ヶ月間は毎日法華千部経を読誦し、遠近諸宗の衆僧がかわるがわる奉仕して、このときに参加した僧侶は1万2000名に達しました。そして、一般参列者の数は実に20万5300人でありました。 まさに永禄の炎上後百余年目にこの盛儀が営まれたことになりました。またこの法会の間に大佛殿廻廊跡に板屋を設け、惣持院にあった良弁僧正の衣や袈裟、自筆の願無辺仏土功徳経、硯、東大寺の印蔵にあった聖武天皇宸筆、光明皇后の宸筆の写経、聖宝僧正の五嗣子如意などをならべて一般の人々に閲覧させました。そのために、供養の期間中に、奈良・大阪間にある闇峠越えの道は、参詣の人で延々とつながり、京都と奈良の間にある木津川の船頭は数日で1年間の収入があり、奈良の旅篭は人をさばき切れず、臨時の旅宿が方々に設けられました。 |
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編集:山口須美男 メールはこちらから。