号数索引 創刊号 第2号 第3号 第4号 第5号 第6号
  第7号 第8号 第9号 第10号 第11号 第12号
平成19年 第13号 第14号 第15号 第16号 第17号 第18号
  第19号 第20号 第21号 第22号 第23号 第24号
平成20年 第25号 第26号 第27号 第28号 第29号 第30号
  第31号 第32号

第33号

第34号 第35号 第36号
平成21年 第37号 第38号 第39号 第40号 第41号 第42号
  第43号 第44号 第45号 第46号 第47号 第48号
平成22年 第49号 第50号 第51号 第52号 第53号 第54号
  第55号 第56号 第57号 第58号 第59号 第60号
平成23年 第61号          
             
平成24年 第62号 第63号 第64号 第65号    

●第45号メニュー(2009/9/20発行)
【巷の小社の神々 京洛編】(その2)
〔江文神社〕 〔岩座神社〕 〔崇道神社〕 〔三宅八幡神社〕
〔八瀬天満宮社〕 〔御蔭神社〕 〔熊野若王子神社〕 〔大豊神社〕

〔江文神社〕祭神 倉稲魂命 京都市左京区大原野村町
 
 江文神社は大原野村町の西南、江文山(金比羅山)の麓に鎮座します。大原から静原を通り市原へ至る道にあります。大原八郷の産土(うぶすな)神(かみ)として古くから崇敬され、本殿には倉稲魂命を祭神とし、級長津彦社などの末社をもつ旧村社であります。創建は不詳ですが、江文山を神体として創祀されたと推察されます。式内社ではありませんが、鬱蒼たる樹木に覆われた境内は、古社らしい森厳さに満ちています。
当社には「大原雑魚寝」という、節分の夜に拝殿にて行なう行事がありました。むかし、大原村蛇井出(現井出町)の大淵という池に大蛇が棲み、ときどき里に出て人を害するので、里人は一ヶ所にかくれ、難を避けていました。いつしかこの神社がその場所に選ばれ、節分の夜にはここで参籠通夜して一夜を明かすようになりました。
 西鶴の『好色一代男』にはこれを採り上げ、その夜の情景を面白おかしく記しています。
節分の夜に里の男女が拝殿に集まりフリーセックスが許されていました。しかし一村の男女が一ヶ所に集まり、灯を消すこととて風紀上いかがわしく、明治には禁止されたと伝えられています。「嫁に貰い手がなければ大原に行け」といわれたほどで、大原雑魚寝がとりもつ縁がありました。
(左)江文神社 本殿 (中)三壷大神 (右)琴平神社
 

世之助が大原の里の雑魚寝よりわれの雑魚寝はなまめかしけれ(祇園歌集) 吉井 勇
錦木の立聞きもない雑魚寝かな 与謝蕪村
 

 現在の例祭は、5月5日でありますが、9月1日の「八朔祭」には湯立ての神事があり、夜には大原地区の青年男女による踊りの奉納が行なわれています。「金比羅山」は江文神社の背後に突兀(とつこつ)としてそびえたつ山をいい、古くは江文山と称していました。高さは海抜582m、全山秩父古生層の露岩に覆われ、すこぶる怪奇な山容をしています。近年はロッククライミングのよき練習場として、初心の登山者によって大いに利用されています。
 『山城名跡志』巻五によれば、むかしからこの山頂に火壷・風壷・雨壷という自然の石窟があって、風雨祈願の信仰があり、魔所と怖れられていました。一説に造化三神(天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)を祭祀していると伝えられています。
 おそらく古代祭祀の遺跡磐境と思われます。近年、山頂近くに金比羅大明神と崇徳天皇を祀る琴平神社が創祀されました。口碑によれば、讃岐国(香川県)で憤死された崇徳天皇は「朕死なば都の見ゆる所に祀るべし」との遺言により、霊をなだめるため、都の見えるこの地に祭祀したと伝えられています。
 
〔岩座神社〕祭神 天照大神 天御中主神 他 京都市左京区岩倉上蔵町
 
 岩倉町の産土神として崇敬される旧村社でありました。本殿は八所明神社(祭神天照大神ほか7柱)と十二所明神社(祭神天御中主神ほか11柱)の2社からなっています。現在の社殿は新しいものですが、勾欄には天正20年(1592)在銘の擬宝珠をはめ、社前の四角型石灯籠には慶長19年(1614)の銘があるので、それ以前の建立と考えられます。境内には、猿田彦社・一言主社をはじめ、多くの摂社・末社があります。明治以前は大雲寺の鎮守社でありましたが、のちに岩倉神社と改称しました。
 当社の旧鎮座地は、現在お旅所となっている西河原町の山住神社の地にあたりますが、その創建年代は不詳であります。『三代実録』元慶4年(880)10月13日条に「石座神社に従五位下を授く」とあり、それ以前からの創祀であることが知られます。
 なお当社の例祭は毎年10月23日に行なわれますが、その前夜の松明の神事には、雌雄大蛇の形をした松明を点じ、五穀豊穣の祈願が盛大に行なわれます。
 「山住神社」は石座神社より南へ約500m、岩倉川にのぞむ岩倉西河原町にあります。境内には社殿がなく、一個の巨大な自然石をもって神体としているだけで、古代祭祀の磐座の形態をよくとどめています。当社は、もと石座神社と称していましたが、明治維新後、その名を大雲寺の鎮守社にゆずり、山住の神と号して石座神社のお旅所となりました。
(左)一言主神社 (右)八所大明神 十二所大明神
 
〔崇道神社〕祭神 早良親王 京都市左京区上高野西明寺山町
 
 早良親王を祭祀しています。社伝によれば、当社は早良親王(?〜785)を祭神とする旧高野村の産土神で、古くは「高野社」とも「高野御霊」とも称していました。
祭神早良親王は光仁天皇の第2皇子で、桓武天皇の皇太子でありましたが、長岡京造営の中心人物藤原種継暗殺事件に連座して、淡路島に流される途中、絶食して憤死しました。
 ところか親王の死後、京で悪疫が流行し、また、さまざまな崇りは、故親王の崇りとうわさされ、桓武天皇は怨霊を鎮めるため、早良親王に崇道天皇の追号を贈りました。
 貞観5年(863)には神泉苑で御霊会が催されました。それより御霊は悪疫をもたらす神として畏敬され、また村の出入口に祀ってその侵入を防ぎました。この地は若狭街道の入口にあたる所から、崇道天皇を祭祀し、その御霊を慰めるため当社を建立しました。旧称は崇道天王社であります。上御霊神社とその由来が同じですが、いまは高野一帯の産土神として崇敬されています。例祭は5月5日で、神輿は順行路を定めず神慮のままに渡御します。
 崇道神社は中世に近辺の廃社を合祀して高野郷総社となり、また大正4年に式内社の出雲高野神社・小野神社・伊多太神社が併せ祀られています。小野神社は小野氏の氏神で小野妹子・毛人父子を祭神としています。背後の山中にある毛人の墓から慶長18年(1613)、金銅小野毛人墓誌(国宝)が出土しています。墓誌は長さ約59cm・幅6cm・厚さ3mmの鋳銅製で、渡金が施されています。この墓誌は発掘の顛末を刻した銅函に入れられて、元禄10年(1697)もとの場所に埋め戻されました。その後、明治28年に盗難にあいましたが、取り戻されて再び埋納され、大正3年の調査の際に取り出されて、現在は崇道神社の所蔵となっています。墓誌は表裏に計48文字が記され、その文面から毛人の子毛野の時代に追納されたものと考えられています。
 「出雲高野神社」は由緒・祭神とも不明ですが、一説に出雲氏か移建した上御霊神社の前身といわれ、現在は玉依姫命を祭神としています。
(左)小野毛人墓碑 (右)崇道神社
 
〔三宅八幡神社〕祭神 応神天皇 京都市左京区上高野三宅町
 
 崇道神社の北にあります。三宅とは大化改新前の大和朝廷の直轄地屯倉(みやけ)の置かれた所と考えられています。社伝によると推古天皇の時、遣隋使小野妹子が隋に行く途中、筑紫で病に罹りました。たまたま近くにあった宇佐八幡宮に祈願したところ、病気も治ったので、帰国後報恩のため宇佐八幡を勧請して創建したと伝えています。はじめこの付近にあった伊多太神社の境内にありましたが、明治になって現在地に移したと伝えられています。
 また、一説には、南朝の忠臣備後三郎三宅高徳がこの地に移り住み、邸内の鎮守として祀ったのに因むといわれています。
 俗に虫八幡≠ニも云われていますが、祭神には応神天皇を祀っています。はじめ田の虫除けの神でありましたが、のちに子供の疳(かん)の虫除けの神としてあがめられ、近世以降は小児の諸病平癒祈願の信仰で有名になりました。毎年9月15日に行なわれる例祭には、子供づれの参詣者で大いに賑わいます。
(左)三宅八幡神社拝殿 (右)三宅八幡神社 
 
〔八瀬天満宮〕祭神 菅原道真 八瀬天満町
 
 八瀬天満宮は八瀬の東北、御所谷山麓に鎮座する旧村社であります。当社は菅原道真を祭神とする八瀬の産土神で、比叡山法性坊の阿闍梨尊意が道長の没後に勧請したと伝えられています。社伝によると、道真が幼少のころ、比叡山法性坊の尊意について学んでいました。比叡山に登るときには、この地を休息地としていました。境内に「菅公腰掛石」があります。またこの地は、後醍醐天皇が叡山行幸の際、鳳輦をしばしば止めて休憩されました。この御所谷は、当社の背後200mの地で、もと山王権現を祀っていましたが、今は天満宮社の境内に移されています。
 本殿・舞楽殿のほか、老中秋元但馬守喬知(たかとも)を祀る秋元神社があります。喬知は、戸田忠昌の子で、はじめ甚五郎高朝といいましたが、上総国(千葉県)秋元庄の秋元家の養嗣子となり、万治2年(1659)但馬守、寺社奉行を歴任し、元禄12年(1699)に老中となりました。宝永元年(1704)武蔵国(埼玉県)川越城主となり、正徳4年(1714)8月、66歳で亡くなります。
 喬知は資性(しせい)聡明(そうめい)にして礼儀を重んじ、人民を哀れみ、訴訟の決断には極めて公正(こうせい)真摯(しんし)であったと語られています。
  たまたま老中として在職中の宝永年間(1704〜11)、比叡山延暦寺と八瀬村民との境界争いが起こり、後醍醐天皇以来、地租免除の恩典に浴する八瀬村民は、それにより生業を奪われて困窮しました。全村死活の問題として、ただちに江戸幕府へ訴えましたが、幕府は容易にこれを採り上げようとしません。そこで老中の喬知に愁訴したところ、彼は現地に赴きつぶさに調査し、八瀬村民の言い分を認め、土地争いを解決し旧例どうり一切の年貢を免除しました。当社は村民が、この報恩のためにその霊を祀ったものであ
ります。
 「赦免地(しゃめんち)踊」は灯篭踊りともいわれ、秋元喬知の遺徳をしのんで、毎年10月11日に行なわれる秋元神社の例大祭に奉納される芸能であります。
(左)秋元神社(拡大) (右)赦免地踊り(拡大)
 
〔御蔭神社〕祭神 玉依姫命・玉依姫命 上高野東山
 
 御蔭(みかげ)神社は上高野の東北部、比叡山麓の御蔭山に鎮座する賀茂御祖(下鴨)神社の境外摂社です。本殿は2棟からなり、東殿に玉依姫命、西殿に鴨建角身命を祭祀しています。
 御蔭山は一に御生山(みあれやま)ともいい、下鴨神社の祭神鴨建角身命の女玉依姫が、別雷神(上賀茂神社祭神)を産みたもうたところといわれ、中世以降は神の降臨地として神聖視されています。この山には、二葉の葵が生えているので、一に二葉山とも言われます。
 境内は鬱蒼たる樹木が生い茂り、森厳な雰囲気がただよっています。一説にはここはもと小野神社の旧鎮座地ともいわれています。
「御蔭祭」は御神霊を下鴨神社に移す祭礼をいい、毎年5月12日、賀茂葵祭にさきだって行なわれます。当日は神馬に錦蓋をかざし、神職・伶人は騎馬にて扈従(ぐじゅう)し、300余の共奉員は楯・鉾・弓などの神具をささげて前後を警護し、下鴨神社より当社に至って祭儀が行なわれます。かくて神霊を神馬に移すと、ふたたび道楽を奏しつつ還幸されます。その祭礼・儀式の優雅典麗なことは、古来葵祭に匹敵するといわれていましたが、近年は道路交通上、行列は自動車をもって行なわれ、昔の盛儀をみることはできません。
 なお、祭の飾りに葵を用いるのは、雷と地震の呪いのためといわれ、別雷神が雷神、大山咋が地の神であることに由来すると云われています。
(左)大豊神社末社 大国神社 (右)御陰祭(拡大)
 
〔熊野若王子神社〕祭神 国常立尊 伊弉諸尊 伊弉冉尊 天照大神 同左京区若王寺町
 
 当社は後白河法皇が、永暦元年(1160)に、紀州の熊野権現を勧請して創建、祈願所としました。小規模ですが、新熊野神社・熊野神社とともに京都三熊野に数えられる名社であります。はじめ若王寺の鎮守社でありましたが、明治初年の神仏分離によって寺は廃寺となり、神社のみが残りました。祭神は国常立尊・伊弉諸尊・伊弉冉尊・天
照大神の四神とし、天照大神の別号「若一王子」に因んで社名としました。一説に禅林寺(永観堂)の鎮守社として創祀されたので、禅林寺新熊野社と称したとも伝えられています。
 中世には武家の崇敬厚く、足利尊氏は天台座主良海僧正を当寺の別当に任じてからは、当寺の管主は修験道を兼職し、本山山伏の棟梁となり、聖護院門主の入峰にさいしてはその先達をつとめています。しかし修験道場としてよりも花の名所としての方が知られていました。寛正6年(1465)3月、足利尊氏・義政がこの地の花をめで、しばしば宴を開いたと伝えられています。『翰林五鳳集』にも若王子の花をたたえた詩を載せています。
 しかし、応仁の乱の兵火に罹災して荒廃しました。のち豊臣秀吉によって再興され、江戸時代には境内に多くの桜・楓を植樹して復元を計り、昔日の盛観を取り戻しています。
 現在の社殿は昭和54年4月に修築されました。本殿はもとの4棟を改めて一社相殿となりました。他に拝殿・神饌所・社務所がありますが、中には旧本地堂や旧祖師堂は神仏習合時代をしのばせる遺構として注目されるものであります。
今も東の山中には奇岩老樹が多く、瀑布もあり、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として知られています。また、奥殿前の山道を東へ50m登った若王子山頂に、同志社の創立者新島襄と夫人、襄の協力者であった山本覚馬、門下生の徳富蘇峰の墓があります。
 
〔大豊神社〕 祭神 少彦名命 応神天皇 同左京区鹿ケ谷宮ノ前町
 
 哲学の小径から疎水にかかる大豊橋を渡ったところにあります。はじめは社殿背後の椿ヶ峰を神体とした山霊崇拝の社で、鎮疫の神として朝野の崇敬が厚く、椿ヶ峰天神とか大宝明神と呼ばれていました。
 社伝によれば、当社ははじめ椿ヶ峰の山中にあって、椿ヶ峰天神と称していましたが、後一条天皇の寛仁年間(1017〜20)、山麓の現在地に移り、大豊大明神の神号を賜わりました。たびたびの火災で、現在は狭い境内に本殿・拝殿・末社があるのみで昔の面影はありませんが、鹿ケ谷・南禅寺一帯の産土神として信仰されており、また、ツバキの名所としても知られています。
 当社の境内末社に大国神社があります。社前に狛犬がわりにつくった石造の鼠像一対があります。高さは約30cm。左の鼠像は珠を、右の鼠像は巻物をそれぞれ両手にかかえています。珠は水器・酒壷を意味し、子宝を得るといわれ、巻物は知恵を授かるといわれています。社伝によれば祭神の大国主命はあるとき野火に遭遇し、身の危険にさらさましたが、多数の鼠がどこからともなくあらわれ、大国主命を洞窟に導いて救ったと記されています。

≪月刊京都史跡散策会45号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その2) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

Google