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●第47号メニュー(2009/11/15発行)

【巷の小社の神々 京洛編】(その4)

〔岡崎神社〕 〔吉田神社〕 〔道祖神社〕 〔諏訪神社〕
〔道祖神社〕 〔網敷・行衛天満宮〕 〔藤森神社〕
〔御香宮神社〕 〔古御香宮社〕

〔岡崎神社〕 京都市左京区岡崎東天王町
 
 岡崎神社は、左京区岡崎東天王町にあります。延暦13年(794)平安遷都の際、宮都鎮護のため四方に祀られた4社の一つでありました。また、この地は平安時代初期、清和天皇皇后藤原高子(二条太后)の御願になる東光寺のあったところで、当社はその鎮守社となっていました。東光寺は延喜5年(905)に勅願寺となりました。同10年皇太后が薨ぜられ、本寺において法会が行われました。その後、応仁の乱の兵火にかかって寺はなくなりましたが、当社は残りました。祭神は、八坂神社と同じく素戔鳴命・櫛稲田姫命及びその御子8柱(五男三女八柱命)を祀るところから、古くは東天王社と呼ばれていました。これは素戔鳴命の本地が牛頭天王であるという信仰から、すべて素戔鳴命を祀る社を、昔はみな天王社といっていましたが、現称に改めたのは慶応年間(1865〜67)のことであります。毎年10月11日より16日に行われる祭礼は、岡崎一帯の祭礼で、かつては大太鼓を牛に引かせて前駆し、神輿一基、剣鉾11本が区内を巡行しましたが、今は神輿と剣鉾は境内に奉祀し、子供神輿と稚児行列になっています。そのなかの剣鉾で犬鷹鉾は粟田神社の阿古陀鉾とともに有名であります。
 〔雨神社〕は当社の本殿の東にある末社です。祭神は大山祇神ほか4柱を祀っています。創建由緒は不詳ですが、鹿ケ谷山中にあった如意寺の鎮守として祀られたもので、もとは如意ヶ嶽山中、池地蔵の近くにありましたが、大正6年4月にこの地にうつされました。雨乞い祈願の信仰があります。

(左)吉田神社 (右)岡崎神社
 

〔吉田神社〕 京都市左京区吉田神楽岡町
 
 吉田神社は、吉田神楽岡の西麓、東一条通の東端しに鎮座する神社であります。当社は貞観元年(859)、中納言藤原山陰が、祖神である奈良平城京の春日神社を、長岡京の大原野神社にならい藤原氏の氏神である奈良春日神を勧請し、平安京の守護神としたのが起こりであります。
 御堂関白藤原道長は当社を氏神社としました。また、法成寺を創建して氏寺としました。
古来朝野の崇敬厚く、式外社でありますが、二十二社の幣例に列せられ、祭祀奉幣の例は大原野神社に準ぜられました。藤原氏の氏神三社の一つとして栄えました。
一条天皇の御宇、卜部氏(後の吉田氏)が当社の社務に任ぜられてより子孫世襲となり、室町時代に吉田兼倶(かねとも)が唯一神道を唱えて大元宮を創祀し、吉田流神道の総本家として全国の神職界に絶大な権威を保持し、社運も隆盛を極めました。
兼倶は吉田山西の社を今の地に移して、まず斎場を設け、文明16年(1484)10月5日に「天神地祇八百万神」「 日本国中三千余座」「大元宮」などに6枚の勅額を下賜され、26日に上棟式、11月24日「神国第一の霊場」として遷座の儀を行いました。
兼倶は唯一神道を提唱し、本地垂迹説に反対し、神道こそ儒教・仏教の根本であると唱えました。
 当社本殿は、慶安年間(1648〜52)の建築で春日造であります。祭神は健御賀豆智(たけみかづち)神、伊波比(いはひ)主神、天之子八根命・比売神の四柱の神を祀っています。境内に鎮座する摂社神楽岡社は、神楽岡の地主の神といわれ、大雷(いかづち)神、大山祇神、高靈神を祀っています。創建は甚だ古く、延喜式に霹靂(へきれき)神祭三座(坐山城国愛宕郡神楽岡西北)とある神社で雷除けの神として崇敬されています。その南にある摂社若宮社は天忍雲根(あめのおしくもね)神を祀り、末社神竜社は卜部兼倶を祀っています。
 また、昭和32年11月に創祀された末社菓祖神社は、菓子の祖林浄因を祀り、同じく末社今宮神社は一に木瓜大明神ともいい、大己貴命ほか二柱を祀る吉田町の産土神で、社の四隅に厄除けの青龍・白虎・玄武・朱雀の四神石があります。毎年10月14日に行われる今宮祭は、木瓜祭ともいい、神輿が吉田町一帯を巡行します。
 厄除けの祈祷を行う、2月の節分は、吉田詣ともいい、大勢の参詣者が群集します。
 
〔道祖神社〕 京都市下京区新町通松原下ル
 
 祭神は猿田彦命・天鈿女命で、旧の無格社でありますが、由緒はすこぶる古いものがあります。
 「宇治拾遺物語」巻1によれば、今は昔、東宮傅(ふ)道綱の子に道命阿闍梨という僧があって、お経を読むのがとても上手でありましたが、出家のくせに女が好きで、和泉式部といい仲になり、毎夜式部のもとに通っていました。ところがある夜、式部のもとで就寝中、ふと目をさまし、それから読経をしていましたが、いつしか八巻を読み終わり、明け方になって一休みしようとしていると、人の近付く気配がするので、怪しんで「お前は誰か」と尋ねると
  「私は五条西洞院のほとりに住む翁ですが、今宵は結構なお経をおよみになり、まことにありがたく聴聞致しました。世々わすれることは御座いません」
 といいます。道命は
  「法華経はいつでもよんでいる。どうして今宵にかぎって、そんな事を言われるか」
 とといただすと、翁は
  「身を清めて読経されるときは梵天・帝釈天をはじめ高貴の方々が聴聞されるので、私などが近付いてお聞きすることは思いもよりません。しかし今宵は行水もせずに読経されたので、梵天・帝釈天も聴聞されないひまをみて、おそば近くにまいったのです」
 といいました。だからほんのかりそめに読経するときでも、かならず身を清くしてよむべきで、恵心僧都も「念仏読経には四つ(行・住・坐・臥)の威儀をやぶってはならぬ」といましめています。この文中にある翁は、この地に祀られている道祖神というのです。
 道祖神とは道路の悪魔をふせいで行人を守護する神とされ、また疫神や悪霊を村境や峠・辻・橋のたもとで守り防ぐものと信じられ、生者や死者、人間界と幽冥界の境をつかさどる神とも考えられています。
 この神は陰陽道や仏教などの信仰と習合しました。道祖神信仰は関西よりも関東地方に多く、京都では出雲路の道祖神、油小路三哲の道祖神社か知られています。
諏訪神社
 
〔諏訪神社〕 京都市下京区諏訪町通五条下ル下諏訪町
 
 祭神に武御名方(たけみなかた)命・八重言代主(やえことしぬし)命を祀る旧村社でありますが、その創建と由緒は明らかではありません。
 社伝によれば、坂上田村麻呂が東北平定から無事凱旋したことを感謝して、信仰していた信州の諏訪大明神を勧請して、延暦20年(801)に創建しました。その後、荒廃していたのを源義経が、文治2年(1186)に整備再興したと伝えています。その後、荒廃と復興を繰り返し、室町時代に足利義満が神馬を奉納して、この時に社域も復活しています。
 いまは本殿と社務所だけでありますが、ちなみにこの地は、平安時代には敦明(あつあきら)親王(三条天皇皇子)の別第南院のあっところといわれ、またその南につづいて大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の六条南院があり、当社はそのいずれかの鎮守社とし祀られたと考えられます。
 
〔道祖神社〕 京都市下京区油小路通塩小路下ル
 
 祭神は猿田彦・天鈿女の2神を祀っています。当社は、西洞院七条より西北の地にあった宇多天皇の亭子院の鎮守として創建されたと伝えていますが、その詳しい由緒は明らかではありません。社域には本殿以下、拝殿・中門があり、末社に書聖天満宮があり、洛陽天満宮二十五社中の一つに数えられ、烏石葛辰の銘になる石碑が建っています。
 当社の前の油小路通は、旧市内より南の西九条・上鳥羽に通じる重要な往還路にあたり、江戸時代にはここに野菜市場がひらかれ、付近の魚棚町には海産物や魚類を取扱う市場があってすこぶる殷盛をきわめていたので、ここに集落が営まれて不動堂村と称しました。
 ここは京都市中に入る南の関門の一つであったから、道路交通守護を祈って道祖神が祀られたものと思われます。
〔網敷・行衛天満宮〕 京都市下京区西七条御領町(御前通七条上ル)
 
 菅原道真を祭神とする洛陽天満宮二十五社中の一つで、その創祀は明らかではありませんが、「三州名跡志」巻十一によれば、かつて道真が筑紫へ左遷されるとき、博多から上陸するにあたって御座(円座)がなかったので、船のトモ綱で間に合わせたところ、内心非常に立腹され、一夜にして頭髪が白くなったといわれています。この相を絵にあらわしたのを網敷天神像または一夜白髪ノ御影ともいわれ、当社はその神像を祀ったものであろうか、と記しています。
 また行衛天満宮は、もと当社から西へ100mの地にありましたが、近年合併したものであります。行衛は正しくは靭負(ゆきえ)で、旧地が右京西靭負小路に面していたから、社名としたと思われます。西靭負小路は一に猪熊通ともいい、むかしは北野の南門から唐橋を経て吉祥院に通じる平安京右京の道路の一つで、道真はこの道を通って吉祥院に通われたという伝説があります。道真の死後、右京七条二坊に住む多治比文子に託宣があり、われを北野の右近の馬場に祀れとのことでありましたが、彼女は家が貧しくて社殿を造ることが出来なかったので、自分の家に祀ること5年に及びました。
道祖神社
 
〔藤森神社〕 京都市伏見区深草鳥居崎町
 
 当社の創建由緒については不詳ですが、社伝によれば、神功皇后が三韓征伐より凱旋の後、その旗と兵器を納められたのが起こりで、境内にある旗塚はそれを埋納したところであると伝えています。
 また、早良(さわら)親王は天応元年(781)蒙古追討にあたって当社に詣で戦勝を祈願されています。かかる伝承から祭神を神功皇后とし、あわせて武内宿禰や早良親王など十二柱に及ぶ神々を奉祀しています。このように祭神が多いということは特異なことで、これがため当社については古来より種々の伝説があります。
 中央参道を進むと蒙古兵の首塚という蒙古塚があります。さらに進むと壮大な割拝殿があり、その奥に本殿があります。本殿の建物は、正徳2年(1712)に中御門天皇から宮中の内侍所を下賜されたものであります。本殿中央には素戔鳴命・別雷命・日本武尊・竹内宿禰・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇の7神を祀り、東殿には舎人(とねり)親王、西殿には早良親王・伊予内親王・井上内親王を祀っています。西殿は旧塚本社で、桓武天皇の皇太子で、非業の死をとげた早良親王の邸宅跡にあったと伝えられています。
 室町末期の吉田神社の祠官吉田兼右は「諸社根元記」をあらわして藤森縁起なるものをかかげ、山崎闇斎は寛文11年(1671)「藤森弓兵(ゆずえ)政所記」をつくって当社を武神なりと称しました。しかしいずれも伝説をもとにしてつくられたものであって、このまま信じることはできません。
 残された文献などから、当社は旧深草郷内に祀られていた真幡寸(まはたき)神社・藤尾社・塚本社などの諸社を、中世に於いてこの地に合祀したと考えられています。「山城名勝志」巻十六によれば当社にはもと本宮と新宮とがあって、本宮の祭神は二座でありましたが神号は不詳で、新宮は三座で祭神は早良親王・井上内親王・他戸(おさべ)親王としています。本宮二座とは真幡寸ノ神二座だと考えられます。この神はこの地にあった先住民が農耕守護神として雷神を祀ったものであり、古くは弘仁7年(816)7月に官幣に列していて、昔から厚く崇敬されていたことがわかります。
 また、新宮三座は御霊信仰によって奉祀された神々で、雷神としてもあがめられ、中世には藤森天王・藤森天神として一般に知られ、新宮が有名になるに反して本宮(真幡寸ノ神)の方はいつしか忘れ去れてしまいました。
藤森神社
 
〔御香宮神社〕 京都市伏見区御香宮門前町
 
 社伝によれば貞観4年(862)9月、境内に清泉が湧出し、水はかんばしくて四方に薫じ、病者はこれを服用すれば病気はたちまち癒ゆるといわれていました。これに因んで御香宮と称し、地名も石井郷(紀伊郡)と呼ばれたと伝えています。
 室町時代は伏見荘の鎮守社になって信仰を集め、伏見宮家などの保護を受け、猿楽・
相撲・風流が行われていました。
 清泉を神格化した神社の一つであります。現在の祭神は、神功皇后および沖哀天皇・応神天皇ほか6柱としていますが、はなはだ疑問であります。また、「延喜式」にその名は見えないので、その祭祀は近世と考えられます。
 北村季吟はその著「菟芸泥赴(つぎねふ)」(貞享元年刊)に、当社は筑前国糟屋郡(福岡市香椎町)にある香椎宮(祭神神功皇后・仲哀天皇)を勧請したものであり、御香椎の下を略して御香の宮といったと記しています。
 豊臣秀吉は征韓の役にあたって備前長光の名刀を奉納して、当社に戦勝祈願をしています。今もその刀剣は社宝として残っていますが、神功皇后祭神説はこの頃から喧伝されたものと思われています。
 秀吉の伏見築城にさいし、深草の大亀谷に移して城隍神(伏見城鬼門除けの守護神)とし、神領3百石を寄進しています。徳川家康も朱印3百石をよせています。その後、家康は社殿を旧地にもどして、あらたに社殿を
造営しました。とくに伏見城に滞在中に伏見で生まれた紀伊(徳川頼宜)・水戸(徳川頼房)・尾張(徳川義直)の三侯の藩祖と秀忠の娘千姫が誕生したため、当社をもって産土神とあがめ、多くの社殿や石鳥居・石灯籠などを寄進したことから、江戸時代には大変有名になりました。慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、南方にあった伏見奉行所を攻撃する官軍の拠点となりました。
 ちなみに当社は「延喜式」に記す「御諸(みもろ)神社」であるという説があります。御諸とは御森と同義で、神の鎮座する森をいい、神の降臨する山や森を神格化したのが御諸神社で、おそらくこの地の先住民か桃山山中に創祀したものと考えられます。御香宮はこの御諸神社の後身と思われ、香水伝説や神功皇后祭神説が唱えられて、のち社名を変えたと思われます。

(左)御香宮神社表門(拡大) (中)拝殿(拡大) (右)本殿背面
 

〔古御香宮社〕 京都市伏見区深草大亀谷古御香
 
 当社は深草大亀谷古御香町にあります。ここは文禄年間(1591〜96)、豊臣秀吉が伏見築城にあたって御香宮神社を移し城の鬼門除けとして祀ったところであります。
 神社は伏見城の破毀後、徳川家康によっていまの伏見大手筋に還されました。それより旧地は古御香と呼ばれ、現在の御香宮神社の御旅所となっています。

≪月刊京都史跡散策会47号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その4) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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