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●第63号メニュー(2012/2/19発行)

【小堀遠州の庭園】(そのV)

〔弧蓬庵庭園〕
〔遠州をめぐる人々〕 【村瀬左介】 【 賢 庭 】 【山本道勺】
〔終りに、遠州伝説の謎〕

【弧蓬庵庭園】
 
 小堀遠州が大徳寺山内の塔頭龍光院に弧蓬庵を造営したのは、慶長17年(1612)、34歳のときで、江月宗玩を開山とし創始しました。それから30年ほど経過した寛永20年(1643)に、弧蓬庵を現在地に移転しました。
 その間、遠州は城の普請、茶の湯や造園、和歌、書の世界などに幅広く活躍し、いわば総合芸術家としての地位を確立しています。徳川幕府の作事奉行として活躍していた遠州が、官を辞して隠棲するための、隠居所兼菩提所の弧蓬庵は、みずからの好みを十分に発揮する数寄の空間の完成でありました。
 しかしついに完成を見ることなく、その前年(正保4年1647)に死去しています。計画から完成までの期間は6年の長きにおよんでいます。
 150年後の寛政5年(1793)には火災により灰燼に帰しましたが、まもなく遠州を敬愛する松平不昧公によって、ほぼ旧態に復されました。
 遠州は、千利休の高弟古田織部を師とした近世の代表的な茶人であり、建築家であり、造園家であり、書画にも通じた大芸術家が終の棲み処とした弧蓬庵は、遠州自身の芸術の総決算でありました。
(左)弧蓬庵全体平面図(拡大) (中)方丈南庭二重のまがき(拡大) (右)門から玄関への延段(拡大)
 
 弧蓬庵という号は、弧蓬すなわち「一艘の舟」を意味し、弧蓬庵書院を海上に浮かぶ舟と見立てて設計の意図としています。遠州は近江の生まれで、幼少より琵琶湖の景に慣れ親しんでいます。その風景を終の棲み処に取り込んだとしても不思議ではありません。背後に展開する庭も近江八景を縮景化した造形であります。
 弧蓬庵の庭は表門の前から始まります。堀に架かる石橋は優雅な櫛形の高欄付であります。四隅の割石による橋挟石は、ふつうは庭園内の橋のデザインでありますが、門前の切石橋との組合せは、建築と庭園を一体と考えた遠州ならではの意匠であります。
 表門から玄関に向けて、実に表情豊かな敷石が打たれています。先ず目につくのは、短冊形の切石と自然石の組合せであります。切石は視線を奥へと導く働きをし、左右に配されることにより、敷石全体に緊張感と変化を生んでいます。また敷石道(延段)の玄関への曲り角では誘導的な曲線を入れた切石を敷設しています。
 板石や玉石など自然石を組合せたリズミカルな「行の延段」で、玄関前で直角に曲がるところには長切石の内側を円弧状に切りとって撥形とし、歩みを進める人に進行方向を示す工夫がなされています。

(左)礼の間から望む庭(拡大) (右)忘筌席への軒露地(拡大)
 

 弧蓬庵庭園は、方丈前庭、忘筌露地、忘筌席と直入軒に囲まれた枯山水庭園、そして飛石つたいにたどる山雲床の露地であります。
 方丈南庭は長方形の平庭で、赤土を叩きこんだような庭が広がっています。ここから前方の刈込み?の向こうに、かつて船岡山が望むことができました。赤い土による庭は、古式を受け継ぐ様式であります。「弧蓬」の名にふさわしく、ここから望む船岡山は蓬莱島に見立てられていたと思われます。二重の刈込み?は波濤を現わしています。
南庭の東端には、こんもりとした檜の刈込があります。「牡丹刈り」とよばれる手法で、冬、この木々に雪の積もった姿がまるで牡丹が咲いたように見えるところから名づけられたといわれています。
方丈「礼の間」を寄付きとして北側奥が茶の湯の空間になります。軒露地の飛石が「露結」の手水鉢へと一直線に続きます。浜辺とも漣ともみられる蒔砂利は織部好みで、師への想いがかいまみえます。軒露地には切石が分ける白と黒の対比、「露結」の手水鉢へと向かう飛石のリズム。八角の下地窓。蒔砂利の下には丹精こめた霰敷き。などなど遠州の確かな仕事が見られます。
「礼の間」から望む庭園には、水辺から蛇行する飛石伝いの先に雪見燈籠が配されています。わずかの苑地に奥行きを表現しています。雪見の由来は近江八景の浮御堂であります。浮御が転じて雪見となりました。弧蓬庵の雪見燈籠は、最古のものといわれています。
 方丈西側の書院式茶席が有名な忘筌の間であります。西からの強い入り日を避けて、縁に上半分だけに明かり障子を入れてあります。光は縁先に置いた「露結」の手水鉢の水面に反射し、砂摺という手法を凝らした天井にゆらめきます。まるで孤舟にいるような風雅の席であります。上半分の明かり障子によって切り取られた景は、舟窓からの風景であります。全体が孤舟の窓に見立てられています。自然の光、水さえも意匠として巧みに取り入られています。また、露地にある寄燈籠は、もともとは奈良の京終町にあったもので、遠州は竿の部分に朱塗りされた仏像が気に入り、作者は不明ですが、弧蓬庵に据えられました。その燈籠の背後に、小さな石が組まれています。それは富士山の形に似て、遠州ゆかりの通称近江富士の三上山とおもわれます。手前に火上げ石が配されています。
(左)忘筌席の露地の寄燈籠(拡大) (右)忘筌席から望む景(拡大)
 
 西奥の書院が直入軒であります。忘筌の間からは植栽で見えなかった庭中央の空間が広がります。書院南庭は平坦な土表面を水面に見立て、低木と庭石を巧みに組み合わせながら入江と見えるところに石橋をかけています。遠州が故郷の近江を追慕して琵琶湖を表現しました。叩き締めた赤土の部分が琵琶湖で温かく、どうだん躑躅の根元の岬状の伏石、石塔などを各所に配して、地をはうような景石や石橋もやさしく、さらに温かさをましています。手前の赤松の向こうに石橋を渡して瀬田の唐橋に見立てるなど、近江八景の名所が配された独創的なデザインであります。遠州の出身地である故郷にゆかりのある琵琶湖畔の近江八景を連想させます。
 さて直入軒の北に続く草庵風の茶室「山雲床」があります。「山雲床」は、大徳寺塔頭龍光院に遠州が設計した茶室・密庵を、松平不昧が模してつくったといわれています。        
 露地全体の景は、簡潔で明るく端正なたたずまいとなっています。「山雲床」の前に大きくゆったりと広く海を表現しています。その中央に臼形の石で、「布泉」と陽刻された噴泉式の有名な手水鉢があります。その前方に織部燈籠が据えられています。気分的にゆったりした味わい深い露地であります。
 小堀家の隠居所であり、菩提寺でもある弧蓬庵は私生活の場所で、簡素でありながら一方には他者の追随を許さぬ構成を工夫し、それを見事に成功させています。
(左)布泉の手水鉢(拡大) (右)書院南庭の近江八景(拡大)
 
【遠州をめぐる人々】
 
 遠州の大きな業績には、彼の多忙を極めて完成した多くの作品のかげには、友人や弟子などのすぐれた技術者の協力によるものがありました。
 
【村瀬左介】 生没年不詳
 小堀家の家臣。南禅寺金地院庭園の造営では現場を監督し、おもに植栽を担当しています。
金地院数寄屋の植栽を行ったり、方丈南庭についても遠州の片腕となって、泉水の大石三個を入れるなどと活躍しています。その働きが認められ、金地院住持の以心崇伝から礼状を受けています。
 村瀬は伏見奉行であった遠州の屋敷構内に居住していました。茶の楽しみもあり、茶会に出かける遠州に相伴しています。また、遠州が大事にしていた茶道具を保管管理する道具方でもありました。
 伏見奉行屋敷の遠州宅を訪れた客が、村瀬と雑談を交わし、遠州と会見するまでの時間を過ごしたという記録もあります。こうした様子から、遠州が村瀬に万全の信頼をおいたことがわかります。村瀬は遠州の死後、主家に暇を乞い浪人になったと伝えられています。
 
【 賢 庭 】 生没年不詳
 はじめ豊臣秀吉に仕えた庭師でありました。秀吉の側近であった醍醐寺三宝院座主、義演准后の日記(慶長7年1602 2月11日)に、三宝院庭園に関して彼の名が出てきます。はじめは与四郎と呼ばれていましたが、その13年後の慶長20年に、後陽成天皇から「賢庭ト云天下一ノ上手也」として賢庭の名を賜わり、石を立てることにおいて秀でていたことがわかります。「賢庭」という名はこれにちなむもので、本名は不明です。
 賢庭は秀吉没後、遠州の配下となり、内裏や仙洞御所、南禅寺金地院庭園の造営で庭石の据付けを担当しています。また、遠州の代行として加賀藩へ赴き、金沢城下の前田家の庭をつくっています。その期間に、遠州は以心崇伝に、賢庭が不在のため金地院の作庭が中断していること、帰京次第、賢庭に仕事を申しつけると書き送っています。このことから、賢庭は遠州の作庭において重要な存在であり、石組を安心して任せられる技術の持ち主であったことを示しています。
 
【山本道勺】 生没年不詳
 遠州の晩年は足腰も不自由であったので、だんだんと代わりの人が台頭し活躍をはじめます。幕府の作庭奉行になった山本道勺は、徳川将軍秀忠、家光の2代にわたり、江戸城内の庭師をつとめました。寛永6年(1629)、江戸城西の丸山里の茶室露地の作庭の際には、遠州の指示に従い、道勺が現場で働く数百人をまとめ完成しました。江戸に子飼いの庭師を持たない遠州をおおいに助けました。
 また、万治4年(1661)には、紀州頼宜公の江戸上屋敷庭園の改造を行なっています。その後に、増上寺寮学問所の庭など、江戸城下の庭師の第一人者として活躍し、数多くの作庭をしています。
 道勺は徳川将軍家の茶道指南役であった古田織部や小堀遠州について茶を学んでいます。道勺の茶の心得が相当なものであったことは、増上寺に参拝に出かけた家光に同道し、茶を献じていることでもわかります。た、庭師の職分を超えて、将軍のそば近くで奉仕していたこともわかります。道勺は作庭と茶の湯、ふたつの面で遠州と親しく交流した人物でありました。
 
【終りに、遠州伝説の謎】
 
 小堀遠州は天承7年(1579)、いまの滋賀県長浜市に生まれました。遠州は現代風に云えば、中央省庁の高級な役人でありました。しかし彼は単なる役人ではありません。むしろ美に対して高い感性を備えた数寄者でありました。茶は古田織部に習い、今の遠州流の祖となります。また、多くの庭や建築の造営を行いましたが、それは書や茶にも優れており、美を総合的に捉えることが出来る彼の感性にあります。
 遠州が手掛けた、二条城、名古屋城、江戸城などの大規模な普請はすべて徳川幕府の命によるものでありました。
日本の各地に遠州伝説が生まれた背景には、まず彼の名声か高かったことにあります。次には大阪と江戸の間や、近江、近畿一円を頻繁に往来していたことにあります。一、二泊滞在が、やがて遠州がこの地に赴任したときの作庭という話に膨らんでいきます。
そしてこれらが遠州作庭の伝説のもととなりますが、彼の生前や死後には、遠州の部下であった庭師や石工が各地で庭をつくり、それがいつしか遠州作となっていきます。
小堀遠州はいわばデザイナー兼現場監督であり、その配下に有能な技術者が多くいました。その中のひとりに賢庭という庭師がいます。豊臣秀吉にその力量を認められ、伏見城の作庭や醍醐寺三宝院の作庭にたずさわり、後陽成帝から「天下一の庭師」賢庭と名を貰っています。秀吉の死後、遠州に仕え、彼の部下として大いに活躍しています。
現存する遠州作庭のうち、記録や技法から判断して、遠州作と断定される庭は、頼久寺、二条城二の丸、金地院、南禅寺本坊、弧蓬庵などであります。仙洞御所は確かに遠州が作庭を命じられていますが、後世に大幅に改修されていて、遠州作とはいいがたいものであります。
いまでも地方の古い庭を拝見すると、「この庭の作者は小堀遠州です」という説明を受けることがしばしばです。弘法伝説というものと同様で、古い井戸や湧き水を弘法大師が掘った水だといわれていますが、全国にいたるところにこの伝説が分布しています。
 庭に関しても同じように伝説があります。もし伝説のかなりのものが事実だとすると、弘法さんも遠州も、一年中全国を歩き回ったことになります。

《月刊京都史跡散策会》【小堀遠州の庭園】(そのV) 完 おわり
次号からは【日本の名庭を訪ねて】を連載します。


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