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●第6号メニュー(2006/6/18発行)
伏見築城とその前後の状況
禅寺の年中行事から

 京都史跡散策会では、平成9年3月23日、第103回の例会で、大亀谷・八科峠方面に出かけています。JR桃山駅前に集合して、かつての伊達政宗の屋敷跡である海宝寺を経て、桃山城の天守閣の真北側にある清涼院、古御香宮を参拝して、現在も残る築城当時の内堀・紅雪堀などを散策しました。このときは築城の話より城の規模を見極めたのですが、今日はその築城の前後の様子などを交えて経緯を記してみました。
また、現在行なわれている、禅寺の仏教行事の中で、一般庶民の参加ができる年中行事を簡単に紹介してみました。

≪京の秀吉歳時記≫[その参]
 
【伏見築城とその前後の状況】
 
洛中洛外図屏風 堺市博物館蔵

 秀吉の大陸への関心は早くから示されていました。というのは、織田信長が、毛利を征服して、日本66ヶ国の領主になったのち、一大艦隊を編成してシナを征服する計画を持っていたと『耶蘇会士日本年報』(1582年)に記載されていることから、全国統一の仕事を、信長から受けついだ秀吉の、もう一つの仕事でありました。
 信長の後継者となった秀吉は、朝鮮出兵の構想を何時ごろからもっていたかと云うと、天正13年(1585)9月、秀吉の直臣の1人として大垣の城を預かっていた加藤作内(光泰)が、秀吉蔵入分に食いこむ過分の給人を抱えたかどで追放された時に、秀吉は、作内のためなら日本国はおろか唐国まで征服して知行を与えてやろうと思っていたのに裏切られたと怒っています。これは、秀吉の大陸征服の意図を示す早い話であり、しかも、この意図は加藤作内の処分について同意を求めると同時に、重臣たちの間に大陸征服の意図を徹底させていたことと思われます。
 ついで翌14年3月、大阪城で秀吉に面会したキリスト教宣教師ガスパルニコエリュは、秀吉が、日本国内は異父弟の秀長に譲って、自分は朝鮮・中国の征服に専念したいと語ったと伝えられています。さらに、同年4月10日付と8月5日付の毛利輝元宛ての朱印状で、朝鮮および明国に対する征服戦争の準備を命じています。秀吉の大陸征服の野望は天下に公然のものとなりました。
 天正19年になると3月・6月と二度にわたって対馬の宗義智を介して、和睦の実現をはからせましたが、ともに失敗に帰しました。同年9月16日、出兵の意を決した秀吉は、諸将に対して正式に戦闘準備の命令を下しました。10月10日には、造営なかばであった大仏殿の工事を中止して、加藤清正を奉行として肥前の勝雄ヶ岳の地に名護屋城の普請が始められました。同時に次々と兵が集められました。3月に入るといよいよ15万8千余の渡海の兵が発進しました。秀吉の渡海は実現しなかったが、彼も同月26日には京都をたって名護屋城に向っています。
 日本の軍は緒戦において快勝がつづき、5月の初めには京城を陥落しました。これに気をよくした秀吉は5月16日関白秀次に書を送って、大唐に都を移し、明後年には後陽成天皇の行幸を北京に迎え、大唐関白は秀次、日本の関白は豊臣秀保か八条殿(宇喜多秀家)をあて、日本の帝位も若宮(良仁親王)にしようなどと怪気炎を上げていました。そして、6月に入ると秀吉渡海計画が再燃しますが、これは徳川家康・前田利家の諌止に加えて、後陽成天皇の制止もあって中止となりました。その上、母大政所の病状が思わしくないとの知らせが入り、いったん秀吉は帰京することになりました。
 秀吉は7月22日に名護屋をたって、母大政所を見舞うべく京都に向いました。しかし、秀吉が名護屋をたったその日、大政所は他界し、その臨終に間に合いません.8月4日、母の追善のため高野山に青厳寺の創建を命じ、6日に大徳寺において秀次を喪主として大政所の葬儀を行なっています。
 秀吉はこの帰京を機会に伏見に新しい屋敷の建設を考えていました。『兼見卿記』文禄元年(1592)8月20日の条に「今日、太閤大阪より伏見に至り御上洛と云々。伏見御屋敷普請縄打仰付らる」とあって工事の開始を知ることが出来ます。場所が伏見に定められたのが8月17日というから早速に縄打ちが行なわれていました。10月下旬には二方の石垣が完成しています。
 この間、10月1日に秀吉はふたたび名護屋におもむき、ここに越年して文禄2年(1593)の春を迎えますが、その前年12月付の前田玄以宛の書状には、秀吉のこの城(伏見城)の造作について制作意図を伝えています。この手紙は、自分が高麗へ渡海する以前にも申し付けておきたいことがあるからと、指図大工1人を伴って名護屋に来ることを命じたものであります。そのなかで伏見屋敷の普請に関して、「なまつ(地震)」に注意するとともに、「りきう(利休)にこの(好)ませ候て、ねんごろに申つけたく候」と書いています。利休は秀吉によって自害させられてすでにこの世にはいません。要は屋敷を利休好みの作りにしろというわけであります。
 また、この工事について当時、「御屋敷」とか「隠居城」という呼称が使われているところからみても、これは本格的な城郭というよりは、むしろ秀吉の私的な生活の場としての意味が強いものと思われます。
 さて、名護屋にあって、苦戦に転じた朝鮮の戦況を案じ、講和交渉の手配などをしていた秀吉は、文禄2年(1593)の8月、大阪城で淀殿が男子(のちの秀頼)を生んだとの知らせを聞くと、8月15日名護屋をたって25日大阪に戻ってきました。そうして、この帰還を利用して閏9月20日には伏見の新屋敷に移徒が行なわれました。前年の8月に着工しているので、およそ1ヵ年かかって伏見の「御屋敷」は完成しました。
 新しい屋敷に移った秀吉は、小西行長の家臣内藤如安を通して明に講和の交渉を行なわせていましたが、それは順調にいきません。この話し合いは文禄3年(1594)12月までかかるのであります。この交渉がまとまるとすれば、当然の手続きとして明使が日本に派遣されてくることになります。
 そこで、講和の交渉を進める一方で、使節を引見する準備を進める必要がありました。交渉を有利に導くためにも、秀吉の権威を最大に誇示しうる舞台が用意されなければならなかったのです。その狙いもあって、完成して間もない伏見の「御屋敷」はただちに本格的な城郭に作りかえられることになりました。『当代記』などの記録によると、新しい伏見城は文禄2年の末に計画され、翌年正月を期して着工されました。
 工事の開始に先立って正月3日には伏見城造営奉行が6名任命されています。同時に朝鮮に出兵していない大名から軍役として人夫が徴発されることになりました。1万石につき24人の割合が定められたので、数万人の人夫ということになります。また『甫庵太閤記』は25万人の人夫が動員され、2月1日までに伏見城に参着するように命じられています。数字に大きな隔たりがありますがともかく大規模な工事であったことがわかります。
 用材集めも正月22日には石材の調査が行なわれ、26日になると各地から石が集まります。醍瑚・山科・比叡山をはじめ、遠くは小豆島・讃岐から運ばれたのであります。木材も伊賀・甲賀・丹波・木曾・土佐・秋田などの各地から徴発されました。
 文禄3年中の普請は、諸門・湯殿・台所・広間といったものでありました。正月24日に普請割りが行なわれたことが知られるように、これらはすべて諸大名がそれぞれ持ち場を分担して工事にあたっています。たとえば藤堂高虎が屋敷の広間を、秀次の臣牧主馬が湯殿の作事を割り当てられています。
 3月16日には、人夫が増員されたこともあって工事は順調に進んでいます。3月18日には、いよいよ天守の工事も始められました。『駒井日記』によると、4月16日には淀城の天守と矢倉が壊されて伏見城に移されました。6月3日に秀吉は現場を視察しています。この時、特に工事の進んでいた徳川家康の家臣松平家忠に対しては衣服を与えて賞するなど、秀吉は伏見城工事の進捗に満足しています。
 文禄3年(1594)8月1日、八朔の祝儀を期に秀吉は新しい城に移りました。このころに工事は一区切りついたものと思われます。

伏見桃山城
 

 この伏見城の位置ですが、『慶長年中ト斉記』は、最初に計画された秀吉の「御屋敷」の場所を「伏見指月」と伝えています。その「御屋敷」の規模を拡大する形で計画された新しい城も、場所としては大差がないと思われます。
 こうしたなかで、突然に聚楽第にいた関白秀次が、秀吉に対する謀反の疑いで石田三成、増田長盛など奉行の詰問を受けました。文禄4年(1595)7月3日のことであります。8日には前田玄以らを聚楽第に遣わして秀次を伏見に召致し、関白・右大臣職を奪って高野山に追放しました。15日には福島正則・福原直高・池田秀氏が検使として派遣され、自刃させられてしまいました。秀次の自害についで、8月2日には子女・妻妾が捕らえられて三条河原で斬られました。
 秀次の子女・妻妾や与党に対する処断に先立って、文禄4年7月28日には早くも聚楽第の破却を命じています。豊臣政権の内包する一つの矛盾が現われたのを機会に、その因となった秀次にまつわるすべてを抹消するためでありました。秀吉の愛着がこもっているはずの聚楽第をかくも簡単に取壊させた理由はここにあります。
 なお、秀吉は文禄3年(1594)8月にはこの伏見指月の城に移っています。といっても、工事が完了したわけではなく、文禄4年の4月には、再び普請割が行なわれています。9月に入っても用材の徴発が行なわれています。聚楽第の遺構もこの頃始められた第2次工事の用材として使用されています。
 ところが、このときに指月の城とは別にもう一つ城が造営中でありました。それは向島の城であり伏見城の支城とも呼ばれています。向島というのは、指月から宇治川を挟んで対岸に位置する島でありました。この地に、文禄3年から築城が行なわれていました。指月から川に橋をかけて連絡をとって、往来の便宜をはかる計画がありました。
 この城の性格は、『武功雑記』によれば「向島の御下屋敷とそばなる太閤の御遊所」と書かれています。おそらく「隠居城」としての指月の伏見屋敷が、明との戦況の変化に伴って大規模な城郭に改造されるとともに、秀吉の「遊所」を別に考える必要ができたためであります。
しかし文禄4年8月、洪水のために建築中であったこの城は破壊されてしまいます。翌文禄5年の2月を期して再度工事が始められました。
 さて、明使謁見の場として工事を急がせてきた指月城の方は、文禄3年8月には、すでに秀吉は入城していました。その後の整備も、日を追って順調に進捗していました。
 しかし、明使との交渉の方はまだまだ曲折を経なければなりません。両者ともに勝ったつもりでいるものだから、その衝にあたっていた小西行長と明側の沈惟敬が、さんざん苦労するのであります。とうとう秀吉の国書を、秀吉が和を乞い封貢を求めるという内容にひそかにすりかえてしまいます。明側はそれをうけて秀吉を日本国王に封ずるとの態度を決定し、慶長元年(文禄5年、1596)、いよいよ正式の明使が日本を訪問することとなります。6月16日に釜山をたって堺につき、27日伏見城に秀吉を訪れたのであります。もっとも、これは正式の謁見ではありません。
 ところが、正式の謁見準備が進められている最中、閏7月13日に大地震が畿内を襲いました。このため、指月城は甚大な被害を蒙りました。
 『義演准后日記』はその様子を、
 

伏見の事、御城・御門殿以下大破、或は顛倒、大殿守(天守)悉く崩れて倒れ了ぬ、男女御番衆数多死す、いまだその数をしらず、其外諸大名の屋形、或は顛倒、或は相残るといえども形ばかりなり、其外在家のていたらく前代未聞、大山も崩れ大路も破裂す、ただごとに非ず

と伝えています。また、『増補家忠日記』では、伏見城の倒壊による殿中の死者について「上臈女房七三人、仲居下女五百余人横死す」と書かれています。
 有名な「地震加藤」の話は、この時のことであります。石田三成との確執によって秀吉の勘気をこうむり三栖に謹慎していた加藤清正は、地震に気づくや、とるものもとりあえず伏見城にかけつけて秀吉を見舞い、謹慎を許され、さらに遅れてくる三成に対しては通行改めを行なって三成を怒らせたと伝えられています。
 この時の洛中の地震の被害は、上・下両京、内裏・本願寺などが軽重の差こそあれ、みな被害を受けたことを『言経卿記』が伝えています。言経はまた東寺は塔が崩れ、三十三間堂はゆがんだとも書いています。方広寺の大仏殿も仏像も、全壊したと記録は伝えています。このとき伏見の徳川家康の屋敷が崩れたこと、また、秀吉がその日、家康を同道して御所へ見舞いにいったことなどが記されています。
 この地震のため、秀吉の明使との会見は延期され、9月1日に大阪城で行われることになりました。いっぽう、伏見城は地震の翌日から再建が開始されました。
 大阪城における明使との会見は、「爾を封じて日本国王と為す」という明の国書が、秀吉を激怒させる結果となり、和睦は完全に決裂しました。翌慶長2年1597)から慶長の役が始まりました。
 しかし、さすが強気の秀吉も、今度は、文録の役をはじめた時の、唐・天竺の全部を征服してしまうという大構想は失せ、せめて朝鮮半島の南半分だけでも確保して、失われかけている面目を保ちたいと考えていたのでありました。
 だが、その願いもむなしいものでした。日本軍は緒戦こそ優勢でありましたが、慶長2年末には早くも戦況が悪化し、じりじりと後退することを余儀なくされました。動員されている諸大名の中からも、伏見城をはじめとする大普請と並行しての再度の海外出兵で、「際限なき軍役」に対する不満がたかまり、秀吉政権の足元を脅かしました。慶長3年3月に兵員の大幅召還を命じなければならなかったのも、その現われであります。
伏見桃山付近
 
 この慶長の役と全く並行して、秀吉は伏見城の再建にかかりました。震災で指月城が倒れた翌日にあたる慶長元年(1596)閏7月14日、秀吉は場所を「木幡山」に変えて縄打ちを行ないました。翌15日にはもう工事が始められているのですから、いかに手早く準備が進められていたかがわかります。
 工事の方も『伊達秘鑑』によると
 

大小名組々ヲ分ケラレ、普請ノ場所ヲ分定メテ、当年極月二十日限リ、惣成就、御移徒アルヘキ旨仰出サレケレハ、夜ヲ昼ニ転シ、松明灯シ連レ石ヲ転シエヲ荷ヒ、行通フ人歩万身ヲ労シ

といった状況を伝えており、慶長元年(1596)12月の下旬をめどに昼夜兼行の工事が行なわれました。かなり誇張された表現でありますが、工事が急がれていた様子が充分に汲み取れます。そのかいあって、同年10月10日には本丸の普請が完成の運びとなり、翌2年正月には新たな普請も始められ、5月に天守と殿舎が完成して、秀吉・秀頼が移徒するまでになりました。つづいて同年10月舟入学問所の茶亭が完成しました。しかし慶長3年
2月にいたっても工事はなおも続いていました。『当代記』によれば、「伏見御普請、近国衆は二月朔日、関東の衆三月旦より始也」とあって、依然、新たな工事が始められていたことがわかります。おそらく、秀吉の没する同年8月にいたっても、この城は完全な姿を整えていなかったものと思われます。
 ところで、『義演准后日記』のいう城は一体どのあたりかというと、木幡山と記されています。古い木幡村(宇治市木幡)の範囲が伏見山の東面に接していたところから、のちに伏見山全体に及んだもので、現在の明治天皇陵をめぐっている城跡こそが、この慶長大地震後の伏見城であります。もちろん文禄の指月城築城に際してこの伏見山にも相当な城郭施設がつくられていたと思われます。慶長の築城では、そこへまず本丸と天守を移し、時間を掛けて次第に大城郭に構築していきました普請狂といわれた太閤秀吉の最後の大掛かりな工事でありました。
 秀吉はすでに文録4年、伏見城の普請を監督して、様子を見て廻っていたころから咳気を患っていました。その健康状態は、名護屋の本営にも行くことが出来ない程でありました。本格的な病となったのは、醍醐の花見(慶長3年)からしばらくたった5月5日でありました。はじめは一種の痢病ということで、まわりの人々も軽く考えていましたが、5月下旬ごろから病は重くなり、6月16日には、高野山金剛峯寺の金堂を伏見に移す工事が行なわれ際、普請場を見に行っていますが、この時の無理が病状を悪化させました。
 7月13日には、死後の体制を考えて五奉行を定めています。さらに8月5日、秀吉は新たに五大老宛ての遺言状を書き、秀頼のことを依頼しています。有名な「秀頼事、成り立ち候やうに、此の書付の衆として、たのみ申し候、何事も、此のほかにおもひのこす事なく候、かしく」という文面でありました。
 ついで6日にも秀吉は五大老を枕頭に招き、明の置目などを依頼しています。11日、五奉行から重ねて誓書が家康らに提出され、ついに18日、秀吉は、息を引き取りました。
 早速、秀吉遺言の趣旨に従って、秀吉の喪を秘して特使を朝鮮に派遣し、停戦の交渉を始めています。停戦・撤退の命令は秀吉の死後10日たった8月28日に出され、その使いが釜山に到着したのが10月1日、12月までに全部隊とも帰還することができました。
 秀吉の没後、伏見城は新しい主として徳川家康が入城しました。そして元和5年(1619)には二代将軍秀忠によって伏見廃城が決定され、同9年には家光が三代将軍の宣下をこの城で受けた後、一木一石余すことなく破壊されました。しかし建築物は二条城・福山城・高台寺などに移築されています。
 伏見城の遺構として確実なものに、比叡山の坂本の西教寺客殿と、高台寺の時雨亭と傘亭があります。さらに西本願寺の書院(対面所)・唐門・能舞台・豊国神社唐門・、伏見の御香宮表門、養源院本堂、正伝寺方丈、宇治の浄土院客殿、琵琶湖竹生島の都久布須麻神社本殿が信憑性が高いものとされています。
 廃城となった古城山には、伏見の人々によって桃の木が植えられ、元禄時代には桃の名所として有名になりました。桃山≠フ名称はこれ以後につけられたものであります。
 
【禅寺の年中行事から】
 
建仁寺 開山忌
 
東福寺 涅槃会
 
即成院 お練り供養
 
 臨済宗の総本山妙心寺についての主な仏教行事には、元旦の祝聖、諸堂諷経、二月七日の開山大師降誕会、十五日の涅槃会、四月八日の降誕会、十日の臨済忌、十五日の入制上堂、七月十五日の解制上堂、山門施餓鬼、八月九・十日の精霊迎え、十月五日の達磨忌、十一月十一日の花園法王忌、十二月八日の成道会、十二日の開山忌、晦日の除夜巡塔諷経があげられます。このうち開山忌がもっとも重要な行事とされていますが、その遠忌に檀信徒が参集して賑わうぐらいで、一般庶民とは縁遠い存在であります。
 成道会とは釈迦に関する法会の一つで、臘八接心ともいわれます。臘八とは十二月八日のことであり、釈迦が悟りを開いた日とされています。月の初めからこの日朝まで昼夜不断の座禅をします。やはり僧侶中心の行事であり、一般には馴染は薄いものであります。これに対して、釈迦の誕生を祝う降誕会と入滅を追慕する涅槃会は、年中行事的な色合いが濃厚であります。
 降誕会はまた潅仏会(花祭り)とも云われ、宗派を問わずに行なわれますが、厳粛な法会というより普遍的なお祝いの行事となっています。また、釈迦入滅の姿を描いた涅槃図を掛けて営む涅槃会には庶民も参加して行なわれます。
 それを代表するのが東福寺涅槃会であります。その名が高いのは、明兆が応永15年(1608)に描いたもので、縦8間、横4間もある大涅槃図が掛けられます。この涅槃図は3月14日から16日の3日間に一般参拝者に公開され、花供御(涅槃図を縮小した刷物)が授けられ、甘酒が振舞われます。この形態はどの宗派でも基本的に同じでありますが、今ではすっかり民間の行事となっています。
 こうした涅槃会のなかで、嵯峨釈迦堂・清涼寺のそれはほとんど民俗化しています。この3月15日夕の本堂での法要と、その後の3基の大松明を境内で燃やす行事とからなります。釈尊を荼毘にふしたさまを偲ぶものとされますが、その松明はともに高さ6mほどもあって、それぞれ早稲、中稲、晩稲に凝らされており、その燃え方で今年の豊凶を占います。この日にはまた京の三大念仏狂言の一つ嵯峨狂言も演じられ、終日大変な人出で賑わいます。
 また、東山の泉涌寺も3日間にわたり涅槃会が行なわれ、一般にも参拝させるので沢山の人のお参りがあります。泉涌寺は御陵が多く皇室とゆかりの深い寺であります。庶民とは、普段はとくに縁がありませんが、この涅槃会と塔頭の即成院の二十五菩薩練供養とで知られています。そこには庶民との接点が見出されます。その練供養は、阿弥陀如来と25菩薩、観音・勢至・普賢等の菩薩が極楽浄土から現世に来迎し、衆生を引導する姿を表
現するものであります。ここでは本堂を浄土に見立て、地蔵堂を現世になぞらえてその間に橋を渡し、そこを菩薩に扮した稚児たちが来迎和讃とともに練り渡るというものであります。毎年10月第2日曜日に行なわれています。来迎思想に基づく行事であり、本尊阿弥陀如来および二十五菩薩に因んで始まったものであります。
 このほか、建仁寺で行なわれる開山栄西の降誕会(四月二十日)では古態をとどめた茶礼がみられます。会衆は妙齢の女性が中心という華やかな行事であります。
 これらは禅寺にも一般に開かれた行事があり、神社や町の祭りともども京都の景物を構成するものであります。
≪第6号完≫

 次号へつづく

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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