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●第53号メニュー(2010/5/16発行)

【巷の小社の神々】京都山科編

〔日向大神宮〕 〔山科神社〕 〔大石神社〕 〔花山神社〕

〔折上神社〕 〔岩屋神社〕 〔若宮八幡宮〕 〔諸羽神社〕


〔日向大神宮〕 山科区日ノ岡夷谷町
 
 日向大神宮は、平安遷都以来、山科を過ぎ逢坂の関を経て近江から東海、北陸を結ぶ街道の要衝(粟田口)に位置しています。かつては日向宮・日向神社・粟田口神明宮・日岡神明宮・恵比須谷神明宮とも称していました。また、伊勢神宮の代参所として尊崇されていました。日ノ岡峠に面しているところから、旅の安全を祈願する信仰が生まれています。
 社伝によると、当神宮は、筑紫の高千穂の峰の神蹟を、清和天皇の勅願により天照大神を粟田山に勧請して、「日向宮」の勅額を賜い、延喜の制では官幣小社に列せられました。
清和天皇の貞観年間(859〜77)に疫病が流行した際、当神宮の宮地に湧き出る清泉(朝日泉)の水を汲んで万民に与えよとの神託があり、そのお告げに従って霊泉の水を民に与えると疫病が治まりました。
 応仁の乱の兵火で社殿や古記録が焼失しました。永い衰退の時期があり、寛永年間(1624〜44)に、伊勢松坂の松井藤左衛門によって仮宮がつくられ、朝廷より修理料が下賜されて社殿が復興されました。後陽成天皇は内宮、外宮の勅額を授けています。
 文化6年(1809)に外宮、同7年に内宮の遷宮があり、その際、光格天皇は御神宝を下賜されています。
 社殿は伊勢神宮を模したもので、「京の伊勢」として信仰を集めました。祭神は内宮(上ノ本宮)に天照大神と宗像三女神。外宮(下ノ宮)には天津彦火瓊々杵尊と天之御中主神を配祀しています。境内社には、猿田彦神社と花祭神社(祭神 木花佐久夜比売)相殿。恵比須神社と天鈿女神社相殿。福土神社(大国主命と鵜萱葺不合命合祀)。戸隠神社などがあります。
(左)日向大神宮 外宮(拡大) (中)朝日泉(拡大) (右)大神宮参道社標
 
〔山科神社〕 山科区西野山岩ヶ谷町
 
 社伝によれば、寛平9年(897)、宇多天皇の勅命によって創祀されたと伝えています。たびたびの兵火によって旧記を失い、由緒沿革については明らかではありません。当地の豪族宮道氏の祖神であり、山科一宮、総氏神として崇敬されました。
 祭神は日本武尊とその御子稚武王(わかたけのみこと)で、旧西野山村の産土神であります。昔は社領も山城・丹波にあり、社殿の規模も大きく名神大社に相応しいものでありましたが、その後衰微して現在に至っています。
 むかしは山科一の宮といわれ、また西岩屋大明神とも呼ばれていましたが、明治維新後、現在の社名に改めました。延喜式内の山科神社にあてる説がありますが、未だ公認されていません。
 現在は三間社、流造りの本殿以下権殿・拝殿・神庫があり、境内には末社があります。
現本殿の建立年代は明らかではありませんが、本殿の前に立つ石灯籠に寛永20年(1643)、鳥居に万治3年(1660)の刻銘があります。一方、本殿の細部の彫刻などに古風なところがあり、また部材の風蝕が激しいところから室町時代後期造営の可能性をうかがわせるものでありますが、一部に後補が認められて、江戸時代前期に現在の状態になったものと考えられています。
 元禄14(1701)、15年、赤穂浪士の大石内蔵助良雄が山科の里に隠棲していましたが、当社奥の院岩屋神社に参籠して大願成就を祈願したといわれています。
 例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われます。
山科神社本殿(拡大)
 
〔大石神社〕 山科区西野山桜ノ馬場町
 
 大石神社は、祭神は大石内蔵助良雄であります。稲荷山の東麓に位置し、元禄14年(1701)7月より翌年9月まで大石内蔵助良雄が居宅を構えて、義挙をめぐらした縁故の地であります。昭和の初期、浪曲界の重鎮であり、赤穂義士の熱心な崇拝者であった吉田大和之丞(奈良丸)は、当地に大石神社建設を計画し、京都府や市、関係方面に活動を開始し、京都府知事を会長とする大石神社建設会、山科義士会などの組織が結成され、全国の崇敬者により、募金活動の結果、昭和10年(1935)に社殿が完成しました。
 境内社に、大阪の侠客・商人で討入りに際し、必要な武具を調達したといわれる、大阪本町橋に店をかまえ北組総年寄の大阪の豪商天野屋利兵衛を祀る義人社があります。「商売の神様」といわれ、現在も商売繁盛の厚い信仰があります。
例祭は4月14日(春季大祭)と12月14日(義挙大祭)。宝物に良雄の書状、六曲二双屏風(四十七士画像)などがあります。
(左)大石神社 義人社(拡大) (右)大石神社本殿(拡大)
 
〔註 義挙略記〕
 元禄14年(1701)3月、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下において、吉良上野介義央に対し刃傷におよび、内匠頭は即日切腹、御家断絶、領地没収となり、赤穂藩の城代家老大石内蔵助良雄は城明け渡しの後、同年6月28日、以前からこの付近に田畑と屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移りました。閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で、事件の善後策を講じるのに何かと便利であり、この地でしばしば同志たちと会合を開いていました。また、敵の目を欺くため、伏見撞木町、祇園一力亭などで遊興にふけっています。
 はじめは、はやる同志をおさえて、亡主内匠頭の弟大学長広をたてて主家の再興をはかります。しかし、翌、元禄15年夏、結局再興は許されず、吉良邸討入りに方針を固め、同志は密かに江戸へ集まりました。
 元禄15年12月14日(正しくは15日午前4時ごろ)、大石内蔵助良雄以下四十七士は吉良邸へ向かいました。表門には大石内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは大石主税を頭として堀部安兵衛ら二十三名、両門より襲撃を開始し、6時頃本懐を遂げ、その後四十七士は、泉岳寺の長矩の墓前に、吉良上野介の首を捧げ復讐の報告をしました。翌、16年2月4日、細川、松平、毛利、水野の4家にて全員切腹して果てました。
(左)大石良雄遺髪塚(拡大)  (右)山科閑居旧跡(拡大)
 
〔花山神社〕 山科区西野山欠ノ上町
 
社伝によれば、延喜3年(903)醍醐天皇の勅命により創建されたとあります。祭神は、宇迦之御魂大神、神大市比売神(宇迦之御魂大神の母神)、大土之御祖の三柱であります。祭神に稲荷神を祀るところから、一に「花山稲荷」ともよばれています。
社伝によれば、永延2年(988)一条天皇の勅によって社殿を再建したと伝えていますが、明らかではありません。
 本殿背後の「稲荷塚」は、三条小鍜治宗近が稲荷神の神徳により、名刀「小狐丸」を鍛えたところとつたえ、金物の神として信仰されています。
 近くの西野山に隠棲中の大石良雄も当社を崇敬し、所願成就を祈願して鳥居を寄進したと伝えられています。鞘宮に収められている本殿は最近の調査で、元禄14年2月に良雄の義兄に当たる進藤源四郎か寄進したことがわかりました。「血判石」、「断食石」とよばれる石があって、これに因んで当社は一に「大石稲荷」ともよばれています。
 毎年11月13日に行われる火焚祭は、火焚串を「ふいご」の形に組むので一に「ふいご祭」の名があります。このとき、蜜柑を火中に投げ入れ、これを拾って服用すれば、風邪に特効があるといわれています。
〔折上神社〕 山科区西野山中臣町
 
 いわゆる稲荷社で、祭神に倉稲魂神・保食神・稚産霊神を祭祀しています。中臣町の旧村社で、一に「栗栖野稲荷」または「山科稲荷」と呼ばれていました。往古、稲荷神の降臨地とされ、伏見稲荷大社の奥宮として崇敬されています。とくに社名の「折上」は「織上げ」に通じるとして、近年は西陣の織物業者の厚い信仰を集めています。
 社伝によれば、和銅4年(711)の創祀と伝えていますが明らかではありません。延喜8年(906)左大臣藤原時平が社殿を修造したと伝えていますが、これには、山を隔てて接している伏見稲荷大社の混同ととれます。
 境内には「稲荷塚」と称する高さ約5m、周囲72mにおよぶ古墳があり、一叢の森になっています。しかし境内の稲荷塚は古墳でありますが、山に対する信仰と生産の信仰が一体となって稲荷信仰が生まれ、その信仰のシンボルとも考えられ、きわめて古いわが国の民間信仰の姿をとどめています。当社はこの古墳を信仰形態化したのが起こりとおもわれます。この塚のもとに「中臣群集墳跡」としるした石碑が立っていますが、栗栖野にある「中臣十三塚古墳群」の中の一つであります。
 幕末、孝明天皇は大嘗祭にさいし長橋局をつかわして長命の箸を奉納され、以後、毎年12月13日に長命祭が行われており、家内安全、厄除開運の長命箸が授与されます。
(左)折上神社 稲荷塚(拡大) (右)折上神社拝殿と本殿(拡大)
 
〔中臣神社〕は、折上神社と同じ町内にあります。稲荷神と中臣氏(藤原氏)の祖神天児屋根命を祭神とする無格社で、今は山科神社のお旅所となっています。もと付近にあった「鎌足塚」と呼ばれる古墳群の遥拝所を神社化としたものであります。現在は古墳の全てが消滅し、神社だけが残っているのみです
《註》付近には鎌足塚をはじめとする約12個の小円墳が群集し、祭器土器などを出土しています。これを世に十三塚と称しています。
 昭和46年発掘調査の際、周濠と横穴式石室の基底部を残す小円墳を検出し、石室内から7世紀前半の須恵器が出土しました。
〔岩屋神社〕 山科区大宅中小路町
 
 岩屋神社は、音羽山の西麓に鎮座する旧郷社であります。当社は、天忍穂耳(あめのおしほみみ)命、栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)命の夫婦二柱と、その皇子饒速日(にぎはやひ)命の親子三柱を祭神としています。
社伝によれば、仁徳天皇31年の創祀といわれていますが明らかではありません。本殿背後の山中に陰岩、陽岩と称する一対の磐座があって、寛平年間(889〜98)、陰岩に栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)命、陽岩に天忍穂耳(あめのおしほみみ)命を祀り、岩前の小社に饒速日(にぎはやひ)命(物部氏系の大宅氏、山科を開拓するに当たり祖神を祀った)を祀ったと伝えられています。これは今の社殿様式のように、定まった参拝施設の無かった時代の磐座信仰の名残を今にとどめています。また、この陰岩の上に小さな窪みがあって、その中の水は旱天の時といえども涸れることがないといわれています。これを「竜闕水」とよび、岩屋明神の霊水とあがめられています。
 その後社殿は、治承年間(1177〜80)に園城寺僧徒の災禍にあい、そのとき当社の旧記も火中しました。弘長2年(1262)にいたって社殿は再建され今日に至っています。
 当社は延喜の式内社ではありませんが、山科東部においてはもっとも古く、その氏子区域は遠く日ノ岡より御陵・厨子奥・大塚・大宅・椥辻の広い地域にわたっています。10月10日に行われる例祭は世に「山階祭」といい、3基の神輿が巡行します。
(左)岩屋神社陽岩への参道(拡大) (中)陽岩(拡大) (右)岩屋神社鳥居(拡大)
 
〔若宮八幡宮〕 山科区音羽森廻り町
 
 古来、仁徳天皇・応神天皇・神功皇后を主神とし、素戔鳴命と天武天皇を配祀する旧音羽村の産土神として崇敬されています。元禄の火災に社記を失い、その創祀は明らかではありません。社伝によれば、当社の創建は、天智天皇が志賀の都より、山科へ巡幸の途次、この音羽の里に八幡神を勧請されたのが起こりであります。その後、音羽の里に粟津氏が居住するに至り、その祖に当たる天武天皇を合祀しました。
 この山科の地は山城盆地と非常に似通った地形で、ともに盆地の中心を川が流れ、南に向かって開かれた所であります。山科の北東部に位置する芝町には、弥生後期(3世紀)の芝町遺跡が発掘されています。この芝町に当社のお旅所があります。このお旅所の祭祀が、古代信仰の原初的形態といわれる磐境を中心としたものであります。
 この山科の地が本格的に開けてくるのが6世紀以降であり、この時期が天智天皇の近江遷都と重なります。当社の創建がこの時代と期を一にしていると思われます。
また、当社は往古から年々5斗の神供米を朝廷より受けていましたが、明治3年より廃止となっています。
本殿の造営は、堀川天皇寛治元年(1087)、後小松天皇応永年間(13941413)、霊元天皇寛文7年(1667)、桃園天皇宝暦2年(1752)、明治15年(1882)以後に三度行われたことが記録されています。
 境内は一叢の森を負うて本殿以下拝殿・神輿庫・参集所・社務所などがあり、小社ながらもよく整った社であります。昭和42年、当社の神宮寺であった観音堂(旧観音寺)が復興され、神仏習合時代をしのばせているのが注目されます。
(左)諸羽神社本殿細部(拡大) (右)諸羽神社琵琶石(拡大)
 
〔諸羽神社〕 山科区四ノ宮中在寺町
 
 諸羽神社は、背後に柳山(諸羽山)を負い、四ノ宮・安朱・竹鼻地区の産土神として崇敬されています。一に「四ノ宮」といわれるのは、山科郷内の第四番目の神社にあたるところからといわれています。
(註) 「四ノ宮」という呼び名については、「山科第四の宮」を指し、第一は大宅岩屋神社、第二は西野山山科神社、第三は東野三宮神社、第四は四ノ宮諸羽神社から来たという説があります。
 社伝によると、当社祭神は天児屋根命、天太玉命で、上古この二柱の神は柳山に降臨しました。この二柱の神は天孫降臨の際、両翼(左右)に従った神であるところから、両羽(もろば)大明神と称していました。創祀は貞観4年(862)と伝えていますが明らかではありません。
後柏原天皇の御代、永正年間(1504〜21)に中央に八幡神、左に伊弉諾尊を右に素戔鳴命と若宮八幡宮を配祀し、以上六柱を合祀して、「諸羽(もろは)」と改称しました。
〔琵琶石〕は、本殿の西北隅にあって注連縄を張って神体化されています。この石はもと人康(さねやす)親王の山荘跡にあったのを移したものと伝えています。山荘の規模についは明らかではありませんが、『伊勢物語』第七十八段に右大将藤原常行が藤原多可幾子の四十九日の法会に安祥寺へ詣うでた帰路、親王を山荘に訪ねたところ、邸内は山より滝水をおとし、遣り水を流すなどして、面白くつくらせていたさまが述べられています。
 またもてなしを受けた常行は、庭造りの好きな親王への返礼として、紀伊国の千里の浜にあった石を献上しました。ときに在原業平は石の表面の苔にきざむように・
   あかねども 岩にぞかふる色見えぬ 心を見せむ よしのなければ
と常行の気持ちになって一首の歌をかきしるしたとこの石は語っています。
(註) 人康親王は、仁明天皇の第4皇子でありますが、若くして失明し出家しました。親王は盲人を中心に琵琶や詩歌を教え、琵琶法師の祖神として位置付けられています。
(左)三之宮神社本殿(拡大) (右)三之宮神社石標(拡大)
 

《月刊京都史跡散策会》【巷の小社の神々】京都山科編 完


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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