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●第53号メニュー(2010/5/16発行) |
【巷の小社の神々】京都山科編 |
〔日向大神宮〕 〔山科神社〕 〔大石神社〕 〔花山神社〕 |
〔山科神社〕 山科区西野山岩ヶ谷町 |
社伝によれば、寛平9年(897)、宇多天皇の勅命によって創祀されたと伝えています。たびたびの兵火によって旧記を失い、由緒沿革については明らかではありません。当地の豪族宮道氏の祖神であり、山科一宮、総氏神として崇敬されました。 祭神は日本武尊とその御子稚武王(わかたけのみこと)で、旧西野山村の産土神であります。昔は社領も山城・丹波にあり、社殿の規模も大きく名神大社に相応しいものでありましたが、その後衰微して現在に至っています。 むかしは山科一の宮といわれ、また西岩屋大明神とも呼ばれていましたが、明治維新後、現在の社名に改めました。延喜式内の山科神社にあてる説がありますが、未だ公認されていません。 現在は三間社、流造りの本殿以下権殿・拝殿・神庫があり、境内には末社があります。 現本殿の建立年代は明らかではありませんが、本殿の前に立つ石灯籠に寛永20年(1643)、鳥居に万治3年(1660)の刻銘があります。一方、本殿の細部の彫刻などに古風なところがあり、また部材の風蝕が激しいところから室町時代後期造営の可能性をうかがわせるものでありますが、一部に後補が認められて、江戸時代前期に現在の状態になったものと考えられています。 元禄14(1701)、15年、赤穂浪士の大石内蔵助良雄が山科の里に隠棲していましたが、当社奥の院岩屋神社に参籠して大願成就を祈願したといわれています。 例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年10月10日に行われます。 |
山科神社本殿(拡大) |
〔註 義挙略記〕 |
元禄14年(1701)3月、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下において、吉良上野介義央に対し刃傷におよび、内匠頭は即日切腹、御家断絶、領地没収となり、赤穂藩の城代家老大石内蔵助良雄は城明け渡しの後、同年6月28日、以前からこの付近に田畑と屋敷を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移りました。閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で、事件の善後策を講じるのに何かと便利であり、この地でしばしば同志たちと会合を開いていました。また、敵の目を欺くため、伏見撞木町、祇園一力亭などで遊興にふけっています。 はじめは、はやる同志をおさえて、亡主内匠頭の弟大学長広をたてて主家の再興をはかります。しかし、翌、元禄15年夏、結局再興は許されず、吉良邸討入りに方針を固め、同志は密かに江戸へ集まりました。 元禄15年12月14日(正しくは15日午前4時ごろ)、大石内蔵助良雄以下四十七士は吉良邸へ向かいました。表門には大石内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは大石主税を頭として堀部安兵衛ら二十三名、両門より襲撃を開始し、6時頃本懐を遂げ、その後四十七士は、泉岳寺の長矩の墓前に、吉良上野介の首を捧げ復讐の報告をしました。翌、16年2月4日、細川、松平、毛利、水野の4家にて全員切腹して果てました。 |
〔中臣神社〕は、折上神社と同じ町内にあります。稲荷神と中臣氏(藤原氏)の祖神天児屋根命を祭神とする無格社で、今は山科神社のお旅所となっています。もと付近にあった「鎌足塚」と呼ばれる古墳群の遥拝所を神社化としたものであります。現在は古墳の全てが消滅し、神社だけが残っているのみです |
《註》付近には鎌足塚をはじめとする約12個の小円墳が群集し、祭器土器などを出土しています。これを世に十三塚と称しています。 昭和46年発掘調査の際、周濠と横穴式石室の基底部を残す小円墳を検出し、石室内から7世紀前半の須恵器が出土しました。 |
《月刊京都史跡散策会》【巷の小社の神々】京都山科編 完 |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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