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●第15号メニュー(2007/3/18発行)
【聖徳太子信仰のながれ】 (その1) 《叡福寺》

〔太子信仰の拠点 叡福寺〕 〔磯長叡福寺の概要〕
〔本堂・聖霊院〕 〔上の御堂〕 〔聖徳太子磯長墓〕
〔結界石〕 〔二十句の霊碑〕

【科長神社】

 いよいよ広大無辺の聖者と仰がれる聖徳太子や、仏教文化が花開くと同時に、それは太子を聖化し崇拝の対象とする太子信仰の始まりでもありました。太子が開創にかかわった古伝や仏祖と仰ぐ太子講、拠点となっている各地の寺院での、太子信仰を取り上げて、また、伝説を解きほぐしながら、併せて、伝世する数々の美術品をも探査していきます。しばらくは連載となります。 
 

【聖徳太子信仰のながれ】(その1)《叡福寺》
 
 蘇我馬子と連繋して数多くの事蹟を残した厩戸皇太子は、推古30年(622)の旧暦2月22日(太陽暦4月11日)、斑鳩の斑鳩宮で病で薨去されました。御年49歳であります。
 厩戸皇子の生涯には、超人的な能力の持ち主であったことを伝えるエピソードが、きら星のようにちりばめられています。たとえば2歳のときに合掌して「南無仏」と唱えたことや、百済から来朝した日羅が「東方の小国の王に転生した救世観音」と太子を拝しています。夢殿で瞑想して前世に中国に行き、経典を持ちかえったことや太子が手厚く葬った行き倒れの人が、じつは聖人であったとか、自ら死の予知をした等々。実際の厩戸皇子がどのような人物であったのかは、もはや伝説のかなたに埋もれてしまっています。
(左)南無仏太子(2歳像)・(右)聖徳太子摂政像(35歳)
 
 釈迦やキリストの誕生説話と類似する出世譚や神仙思想の聖と同一視され、天台宗第二の祖南岳彗思の生まれ変わりなどの説も広く流布しています。
 このように太子像の形成には、天平時代以降の最澄、空海、親鸞、日蓮などの太子への崇敬が大きくかかわっています。
「南無仏」と唱える2歳像、父の病気平癒を祈る孝養像、推古天皇の御前で勝鬘経・法華経を講義する講讃像、政治家としての摂政像や、生涯を描いた絵伝など、おびただしい太子像が造られました。また、数多くの寺院を建立したことから建築に携わる工人の祖と仰がれ、伎樂を奨励したことから能楽の始祖ともいわれるようになりました。
 このような信仰の広がりを考えて見ると、いかに後世に理想化したとはいえ、厩戸皇子という人物に強烈なカリスマ性があったことは否めません。また、蘇我入鹿によって山背大兄王ら一族が滅亡したという悲劇性も、人々の心を強くとらえています。
 太子の愛民治国の姿勢は、生前から人々の間に太子信仰≠ェ芽生えていました。太子の死をめぐって、『日本書紀』推古天皇29年2月5日条は、悲しみにくれた人びとの姿を劇的に描いています。

半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王、諸臣及び天下の百姓、悉に長老や愛き児を失へるが如くして、塩酸の味、口に在れども嘗めず。小幼は慈の父母を亡へるが如くして、哭き泣つる声、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜を止み、春く女は杵せず。皆曰く、日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今より以後、誰をか恃まむと。

 この話は、いかにも大げさであります。太子信仰に根ざす作り話であります。ところで『日本書紀』は、太子の死を推古天皇29年2月5日としていますが、「天寿国繍帳銘」などによって、没年は翌30年(622)2月22日が正しいとされています。「法隆寺金堂釈迦像銘」によると、太子の死の前日、すなわち2月21日に、妃の膳大郎女が世を去っています。この夫婦がともに病気になったのは、その正月からであると言われています。
(左)聖徳太子孝養(16歳)像・(右)救世観音立像 法隆寺蔵
 
 太子と妃が同時に病気になったというのは、ありえないことではありませんが、どうしても不自然であります。たとへば、太子が重病にかかって死を免れないと知った妃が、太子に殉ずるため絶食をはじめましたが、体力がつづかずして、太子より1日さきに命を落とされたなど、太子と妃の死をめぐって幾多の謎が語られています。  
 さて、その後、奈良時代に入ると、本地垂迹説(神仏習合思想の発達したもの)の広がりとともに、本格的な太子信仰が始まりました。太子は、中国天台宗第二祖で般若思想の実践者である彗思禅師の生まれ変わりであるともいわれ、最澄はこれを固く信じ、永く比叡山は太子信仰の伝統を守ってきました。平安時代中期には、『聖徳太子伝暦』が書かれ、太子が超人的資質をそなえていたという伝説や、太子を救世観音の生まれ変わりであるとする観音信仰が定着しました。
 聖徳太子は、死後早くから聖者として伝説化されました。聖徳太子という尊称じたい  死後に生まれたものでありますが、時代が下がるにつれてますます神格化(仏格化)が進み、平安時代には、浄土宗のひろまりとともに、太子を救世観音の化身とみなし、西方極楽浄土への導き手として崇敬する信仰が定着してきました。鎌倉時代には仏教各派の共通の祖として尊崇されるようになりましたが、さらに室町時代末期のころから、華道・建築・美術など諸芸の祖とも仰がれ、とくに職人層を中心に、太子を供養する太子講が盛んに行なわれました。
 では、これからは太子信仰の中心拠点となった寺院を訪れます。
【太子信仰の拠点(1)叡福寺】
 
 聖徳太子自らが廟地として選ばれた磯長廟は、奈良県から二上山をこえて河内に入った叡福寺境内の北側に位置しています。叡福寺は推古30年(622)、太子の母、間人大后の眠る御廟に、太子と妃の膳大郎女が合葬された折、推古天皇より方6町の地を賜り、霊廟守護のために僧坊10軒が置かれたのが始まりです。
(中央)聖如意輪観世音菩薩坐像・(左)不動明王・(右)愛染明王
 
 太子の御廟がある叡福寺は、太子建立の四天王寺や、下の太子の大聖勝軍寺、中の太子の野中寺とともに、太子信仰の霊場として栄えました。
 なかでも叡福寺が脚光を浴びたのは、平安時代中期の天喜2年(1054)に、『太子御記文』が太子廟付近から出土し、続いて『太子廟窟偈』が発見されたことによります。『太子御記文』には「此の記文出現するや、その時、国王、大臣寺塔を発起して仏法を願求せん」と書かれており、『太子廟窟偈』には三骨一廟の思想が書かれています。
 この偈文は後世の宗教家に大きな影響を与え、とりわけ親鸞聖人は「迷える風愚範宴に、求通のみちを教えたまえ」とこの廟窟に祈願したといわれています。
叡福寺案内図
 
 また、時宗の開祖である一遍上人も、弟子の絵師でもある法眼円伊を伴って37日間参篭し、日中の礼讃を勤行し、円伊に「太子廟参篭の図」(一遍上人絵伝、歓喜光寺蔵・国宝)を描かせています。
 日蓮上人にとっては、聖徳太子と伝教大師が『法華経』弘通の先達でありました。上人は太子廟に参篭して7日7晩、満願の日の深更、太子の示現にあずかり、深い感謝とともに「聖徳太子と申せし人、漢土へ使いをつかわして法華経を取寄せ参らせ、日本国に弘通し給いき」と書いています。
 弘法大師も弘仁元年(810)の叡福寺参篭の折、太子より夢告を受けられたと言っています。
金堂に祀られている不動明王、愛染明王とともに、大師が御廟の周囲に一夜で築こうとして失敗に終わった結界石があり、また、境内に弘法大師堂があります。
 そのほかに法然聖人の高弟や、代々の天皇など、聖徳太子を聖者と仰ぐ人々の参篭は営々と続き現在に至っています。
【磯長山叡福寺の概要】
 
 叡福寺は聖徳太子の御廟の前にあります。磯長山と号し真言宗に属し、別名として石川寺、磯長寺、御廟寺とも呼ばれ、俗に上の太子と云われています。
 推古6年(598)9月甲斐国司秦川勝の献上した黒駒に跨り、調子丸を従えて諸国を巡視されています。その一つは、国々の境の見極めと、二つは寺院建立の勝地を選ぶためで、その三は自分の墓所の地を選ぶためでありました。
 不二の峯に登りて四方を観望し畿内河内の所に五色の瑞光が天に輝く地があり、この「五字ケ峯」を墓所と定められました。
(左)叡福寺聖徳太子廟・(右)2歳の聖徳太子像
 
 推古26年(618)のとき、太子自ら役夫を監督して墓所を築かれました。同29年12月21日、太子の母穴穂部間人皇后が崩じられたのでこの墓所に葬られ、同30年2月21日、太子の妃の膳手大郎女が亡くなられ、翌日の22日、太子が薨ぜられてここに葬られました。推古天皇はこの御廟を守護し、追福を祈るために、勅して御廟所の守護として坊舎10軒が置かれました。
 神亀元年(724)、聖武天皇は勅願して七堂伽藍を建造しています。御廟を中心として6町四方に、東西に堂舎を置いて法隆寺を模したような、東の伽藍を「転法輪寺」西の伽藍を「叡福寺」と称しました。西の伽藍は墓所中心で、聖光明院、南林寺、西方院などは塔頭であります。
 嵯峨天皇は承和2年(835)7月、当寺に行幸されて金員を下賜されています。以後、宇多天皇に至るまで代々行幸され、中御門天皇より孝明天皇に至るまでは勅使の御代参がつづき金品を下賜されています。
 『延喜諸陵式』の「磯長墓」の条に、兆域東西3町、南北2町、守戸3烟と記されています。崇徳天皇の大治元年(1126)水田20町を下賜し、亀山天皇は高安荘を下賜されています。その他、飛鳥の荘や羽咋の荘を下賜されていますが、その年代は明らかではありません。
 高倉天皇の承安年中(1171〜75)には平清盛、勅を奉じ、その子重盛を大壇越として、堂塔の修繕、伽藍の整備をしています。建久2年(1191)9月、浄土真宗の祖、親鸞19歳のとき参篭し夢告の瑞相を得ています。
 『百練抄』に、鎌倉時代に東大寺の僧浄戒と顕光の2人が太子廟を破って、遺骸から歯を盗んで流罪となる事件がありました。
(左)聖徳太子馬上太子像・(右)廟窟偈碑
 
 天正2年(1574)10月22日、叡福寺は織田信長の兵火で全焼します。慶長8年(1603)豊臣秀頼が、勅を奉じて本堂聖霊院を再興しました。これが現在の本堂です。その他、浄土堂、多宝塔、金堂などは大名や富豪の寄進により建立されました。
 元禄元年(1688)10月29日付の、大阪奉行所に提出した境内惣絵図によると、

廟の正面に4間四面の礼堂、左右に6間4間の浄土堂と6間2間の太子堂があり、礼堂の前に二天門、浄土堂の前に透廊、太子堂の前に護摩堂が建ち、透廊の横に鐘楼2棟がおかれていました。また、正面石壇を下りて低くなったところに多宝塔・弘法大師堂・南大門がありました。また、鎮守には八王子社・九所権現社・弁財天社・牛頭天王社などがありました。

 中世には塔頭として多聞院・東福院・薬師院・花蔵院・中之坊・文殊坊・長蔵坊・阿伽井坊の8寺がありました。
 大正6年、昭和天皇が皇太子であった時、当寺に参拝されています。境内は昭和13年5月11日に大阪府史跡に指定されています。
〔本堂・聖霊院〕
 
 天正2年(1574)、織田信長の石山本願寺攻めの兵火によって叡福寺は全焼しました。慶長8年(1603)11月、後陽成天皇の勅願によって豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再興したものであります。入母屋造・廻縁付・本瓦葺であり、桃山時代の特徴を示すものとして当寺伽藍中最も荘重な建物であります。本山の本堂であり、太子堂と呼ばれています。
 その高欄の擬宝珠に下記の刻銘があります。

御太子堂御再興 内大臣豊臣朝臣秀頼卿奉 鈞命 御奉行伊藤左馬頭則長 
慶長八歴癸卯十一月吉日 河内国石川郡叡福寺

 本尊は、聖徳太子16歳の植髪像で、父用明天皇の病気平癒を祈った時、赤衣の上に袈裟をかけ柄香炉を携えて、神明仏陀に御不豫平安をご祈祷された尊像で、これを「孝養の御影」と称されています。この袈裟は、文治3年(1187)12月8日に後鳥羽天皇が御臨幸の時、宮中にあったものを下賜されたと伝えられています。
叡福寺聖霊殿(重要文化財)
 
〔上の御堂〕
 
 「上の御堂」は、影福寺境内の上段「御廟」の西側にあります。石段を上ると二天門があり、門と左右の透廊・鐘楼があり、いずれも享保年間(1716〜35)に、丹南藩主高木主水正の寄進したものであります。本尊は聖徳太子42歳の尊像であります。
 推古21年(613)12月1日の条に

皇太子、片岡に遊行された時、道の垂に飢者臥せり。仍りて姓名を問ひたまふ。而るに言さず。皇太子、視して飲食與へたまふ。即ち衣裳を脱ぎたまひて、飢者に覆ひて言はく、「安に臥せり」とのたまふ。

 この時、太子は42歳でありました。片岡とは、現在の北葛城郡香芝町付近であります。
〔聖徳太子磯長墓〕
 
 現在は、太子の墓に入ることは出来ませんが、江戸時代には太子の信奉者は御廟の中に入って霊棺に参拝することができました。その実見の記録が残されています。
 影福寺に伝える『聖徳太子御廟窟絵記文』や細井知慎らの『諸陵修周垣成就記』などがあります。より確かなものとして明治12年の廟墓修理に当り、時の堺県令税所篤史とともに墓に入った富岡鉄斎が書いた見取り図や宮内省から出張した大澤清臣氏の実検記が残っています。これらをもとにして梅原末治の『聖徳太子磯長御廟』が出版されました。
 太子の墓は叡福寺の奥にあり「御墓山」とも言われています。自然の地形を利用して築造された東西径52メートル、南北径42メートル、高さ19メートルの楕円形の墳墓で、二重の結界石によって保護されています。切石をもって築かれた横穴式石室があり、この石室は古老の話によると、御廟正面の扉を入ると石段があり、そこから10メートルあまり坂を登ると再び扉があり、ここが石室の入口に当り、石で完全に塞がれています。
 玄室には一番奥には太子の母穴穂部間人皇后、前面向って左に妃の膳手夫人、右に聖徳太子の棺が安置されています。そこで「三骨一廟」といわれる所以であります。間人皇后の棺は、一つの石を彫り込んで作った石棺で直接地上に安置してあります。太子と妃の棺は乾漆(麻布を漆で貼り合せて作ったもの)の棺で、これを石の棺台の上に安置しています。その棺台には、仏具の装飾に用いられている格狭間が彫ってあります。この棺のある玄室は、長さ約5.5メートル、幅・高さとも約3メートルで、出口に当る羨道は、長さ約7.3メートル。幅約1.9メートル、高さ1.92メートルの規模です。
〔結界石〕
 
 御墓山を二重にめぐらしている立て石を結界石といいます。その内部の方は弘仁元年(810)に弘法大師が参篭の折、築造されたと伝えられています。490の石面に観音の梵字を陰刻しています。外側の方は、先の結界石が年月を経て欠損したので享保19年(1734)に大阪の樋口正陳が願主となり、広く喜捨を募って梵字と浄土三部経を刻した結界石を造り寄進しました。
 梵字は太子の御本地である観世音菩薩の種子であります。三部経は日本の浄土教の経典であるところから、三骨一廟・三尊の因縁でここに採用されました。
 なおこの結界石は、弘法大師一夜の作であって未完成であります。時ならず鶏が鳴いたので完成することが出来ず、その伝説から古来、太子の集落では鶏を飼わなかったと云われています。さらに叡福寺の七不思議の一つとして、いくら数えても結界石の数が合わないという伝承があります。
 『河内名所図会』には、この御墓山に三つの不思議があると記され、一つは、昔から大雨が降っても土が少しも崩れないということ、二つに、松・杉・竹の類が生えないこと、三つには、鳥がこの林に棲まないことを挙げて、「是権者の験ならんか」と記しています。
〔二十句の霊碑〕(廟窟偈碑)
 
 御廟窟内の西に、皇太子自ら彫刻した霊碑の二十句を埋納したと云われている石碑を、享保年間(1716〜36)に、願主が廟前の東にその模刻をしたものを建立しました。霊碑の文は下記の通りであります。

大慈大悲本誓願 愍念衆生如一子 是故方便従西方 誕生片州興正法
我身救世観世音 定恵契女大勢至 生育我身大慈母 西方教主弥陀尊
真如真実本一体 一体現三同一身 片域化縁亦巳悉 還帰西方我浄土
為度末世諸衆生 父母所生血肉身 遺留勝地此廟窟 三骨一廟三尊位
過去七仏法輪所 大乗相応功徳地 一度参詣離悪趣 決定往生極楽界


【太子信仰の拠点(1)叡福寺】完

【科長神社】
 
 科長神社は、太子町山田字東条にある延喜式内社であります。現在は「八社大明神」とも呼ばれ、字山田、葉室、畑、磯長の産土神であります。
 ご祭神は、

中 殿 級長津彦命 級長津姫命 (ニ神を級長戸部大神と云う)
左相殿 速須佐之男命 品陀別尊 健御名方命
右相殿 武甕槌命 経津主命 天照皇太尊 天児屋根命

 『日本書紀』神代上 第五段第六

一書に曰はく、伊奘諾尊と伊奘冉尊とともに大八州国を生みたまふ。然かして後に、伊奘諾尊の曰く、「我が生める国、唯朝霧のみ有りて、薫り満てるかな」とのたまひて、乃ち吹き撥ふ気、神と化為る。号を級長戸部命と曰す。亦は級長津彦命と曰す。是、風神なり。

 朝廷においても、風水の難を除き五穀豊饒を祈りますが、これを「風土祭」といいます。人類はいうまでもなく、一切の動植物も皆このご神恩を蒙らないものはありません。
 本社に向って右に土祖神社、左に恵比須神社があります。祭神は息長宿禰命・高額姫命であって、神功皇后の両親であります。科長の里の祖神として今の社地に祀られていましたが、慶安元年(1648)科長神社をここに遷座したとき、末社となりました。したがってこの地こそ、神功皇后の誕生地として伝えられています。
 『古事記』開化天皇の条に

「息長宿禰王、此の王、葛城の高額比売を娶して、生める子、息長帯比売命(神功皇后)」

とあります。また、「息長」の訓は「シナが」であって、当地磯長より出たものであります。
したがって、息長王は磯長の地に住み、葛城の高額姫を娶り、息長帯比売を生みました。これは、神功皇后の誕生をこの地と定めると同時に、名を「シナがタラシビメ」と訓じなければならないという説もあります。
 

(註)平成5年5月9日、京都史跡散策会の第59回の例会「聖徳太子廟・叡福寺参拝」でお参りしています。この太子町には「王陵の谷」と称し、敏建天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵墓があります。


≪第15号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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