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●第62号メニュー(2012/1/15発行)

【小堀遠州の庭園】(そのU)

〔仙洞御所庭園〕 〔南禅寺大方丈庭園〕 〔南禅寺金地院方丈庭園〕

【仙洞御所庭園】
 
 現在の仙洞御所は、永禄12年(1585)、織田信長か正親町天皇のために造営したのを始まりとします。当初はまだ規模が小さく、つづいて豊臣秀吉が天正13年(1585)に建築を主にした御所を造営しました。翌年、正親町天皇は譲位して仙洞御所としました。
 仙洞御所はまだまだ手狭だったため、拡張工事をはかり、後水尾天皇の譲位を契機に、寛永5年(1628)、徳川家光が小堀遠州に泉石奉行を命じて完成しました。
 現在の庭園は南北に細長く、北と南に大きな池があり、池の周囲を廻遊するようになっています。本来は舟に乗って遊ぶ庭でありました。また、池の景観は北と南でずいぶんと異なっています。
 仙洞御所には大宮御所正門から入ります。大宮御所の庭を抜け、御庭口を出ると、北池が眼前に広がります。池の背後には東山の峰々が遠望でき、庭園にいっそうの雄大さを加えています。池を右手に見ながら進むと、6枚の切り石を並べた六枚橋につきます。橋の左手にある小さな池は阿古瀬淵といいます。かつてこの地に紀貫之の邸宅があり、貫之の幼名阿古久曾にちなんでこの名があります。
 橋を渡ると園路は小高い丘にさしかかり、鎮守社に至ります。進むと鷺島(藤島)という中島が見えてきます。束橋という土橋を過ぎ、島を抜けると、切石橋があり東岸へ渡ります。ここまでの池の汀の曲線は美しい弧を描いています。
 園路を南下して右に折れると、雌滝があり、さらに進むと、北池と南池の境をなす紅葉橋を渡ります。この辺りは深山幽谷の雰囲気があります。橋から南池を望み左手の出島を見ると、護岸の石組みが目に入ります。北庭の優しい汀の曲線とは対照的な、豪快で力強い石組みです。池中に岩島が一つあり、軽快さを演出しています。「草紙洗い」の石と伝えられる岩島であります。
 南庭には3つの中島があります。そのうち2島には橋が架かり、池を南北に分断しているように見えます。西岸から中島に架かる橋が石造の八つ橋であります。中島の北岸には滝殿跡があり、そこから前述の出島の護岸石組と岩島が遠望できます。
 中島を過ぎて東岸に渡ると、舟着があります。ここからもう一度北に上ると、土佐橋という石橋があります。このあたりは、小堀遠州が泉石奉行として築庭したころの面影が残っています。出島に架かる土佐橋東岸の直線状の切石護岸と荒々しい石組の配置に姿をとどめています。
 舟着から南へ進み池の南端から小高い築山を登ると、仙洞御所で最も高い悠然台にでます。ここはかっては都の景色を四方に望むことが出来ました。ふたたび池にもどると、見事な大きさの揃った玉石の州浜が広がっています。粒ぞろいのやや楕円形の平たい石で、仙洞御所を象徴する最も端正な景観であります。
 現在、宮内庁に残る「寛永度仙洞女院御所指図」によると、南北の池は塀ではっきりと二分されおり、南池には大きな中島があり、そこに小高い山が築かれています。池泉庭は東西40m、南北90mの長方形の庭は、東、南、西の三方が直線的な石組積の構成で、それまでの日本庭園に類のない形式であります。
 しかし遠州のこの斬新な構成は、その後の改造によりほとんど失われ、いまわずかに土佐橋の周辺にその面影を残すのみであります。
 仙洞御所は後水尾上皇以後、5代の上皇の御所として使用されましたが、何度も火災に遭い、庭園は大幅に改変されました。現在、遠州作庭時の姿が残るのは、南池の北東に位置する土佐橋の南側部分のみであります。
(左)南池出島の護岸石組(拡大) (中)仙洞御所庭園配置図(拡大) (右)阿古瀬淵の六枚橋(拡大)
 

【南禅寺大方丈庭園】
 

 京都洛東にある禅宗寺院の南禅寺は、瑞龍山と号する臨済宗南禅寺派の大本山であります。亀山上皇がこの地に営んでいた離宮禅林寺殿を禅林禅寺に改め、正応4年(1291)大明国師に帰依して禅寺としたのが起こりであります。翌年から二世規庵祖円が七堂伽藍を整備し、正安年間(1299〜1302)に大平興国南禅禅寺と改称しました。
 室町時代、足利義満のとき、京都五山の首位から一時は禅宗の最高位を誇り、伽藍は壮大を極め約10万坪の境内に塔頭寺院数十を擁する寺院でありましたが、応仁の乱で全山焼失しました。17世紀初め、徳川家康の外護をうけ、塔頭金地院の住持以心崇伝により、慶長10年(1605)に南禅寺の復興をはかり法堂を新設しました。慶長16年(1611)には、女院御所御対面所を朝廷から拝領して、現在の方丈(本坊)が移築されました。
 崇伝は禅僧としてよりも政僧として、その名が知られています。慶長13年(1608)に駿府へ招かれ外交文書に関係するようになったことをきっかけとして、家康の信任を得て幕政の枢機に参画するようになりました。
また、大阪の陣の発端となった方広寺の銘文に難癖をつけたのも崇伝であり、紫衣事件の際に沢庵和尚らを厳罰に処すべきと強硬に主張したのも崇伝でありました。
「禁中並公家諸法度」「武家諸法度」「寺院法度」など、徳川幕府が草創期に制定した重要な法度は、崇伝の起草にかかります。黒衣の宰相ともいわれた崇伝は、近世における南禅寺の復興に貢献するとともに、塔頭金地院を彼の権威にふさわしい結構に仕上げました。その作事には遠州が深く関わっています。
以心崇伝(永禄12年1569〜1633寛永10年)は南禅寺第二百七十世の住持であります。室町幕府の名族一色氏の出身で、幼少のころ南禅寺に入寺しています。塔頭の金地院で居住したので金地院崇伝と呼ばれていました。寛永3年(1622)に朝廷より円照本光国師の諡号を賜わりました。
崇伝と遠州の最初の出会いは不詳ですが、慶長12年(1607)、徳川家康の居城駿府城の大改修に遠州が関わったころだと思われます。崇伝は10歳下の遠州を高く評価し、茶の湯の面でも一目置いていました。
大方丈(国宝)は、慶長16年(1611)に、女院御所御対面所を朝廷から拝領して、現在の方丈に移築されました。この方丈庭園も移築後まもなく小堀遠州の作庭といわれています。
入母屋造り、?葺き屋根のゆるやかな勾配、高欄をめぐらした広縁、正面に並んだ腰高障子などに住宅風の趣があります。内部には狩野派による中国の孝子説話の「二十四孝図」(重文)の襖絵が描かれています。
 大方丈庭園は、借景の東山と築地塀を背景に大中小の石が3個ずつ、2列に並んでいます。庭の7割がたは白砂が敷かれ、美しい砂紋が描かれています。2列6個の石は、虎が子を連れて川を渡る様子に見立てられ「虎の子渡し」と呼ばれています。石組みというよりは、配石の妙が際立っています。
 それが実感出来るのは、庭園の東に接する書院からみた景色であります。手前から奥へと石が小さく低くなり、また石の周囲に広がる苔の面積も狭くなっています。
 こうした配置により、遠近が強調され、対面する西側の築地塀を実際より遠くに感じ、庭園全体が広く感じられます。遠州が計算に基づいてつくり出した意匠であります。
 庭園形態とすれば、大徳寺方丈南庭(次号に掲載)と共通の手法であり、これを遠州好みの平庭的枯山水の代表作に選ばれます。
大方丈庭園(拡大)
 
【南禅寺金地院方丈庭園】
 
 金地院は、応永年間(1394〜1428) 洛北の鷹峯に創建されました。その後荒廃していましたが、徳川家康の信任を得て南禅寺の住持となった以心崇伝によって、寛永3年(1626)、崇伝が自坊として現在地に移しました。
国師号を賜った崇伝は、金地院を国師の自坊として相応しいものとするため、また3代将軍家光を迎えることもあり、建築と庭園を整備することにしました。
 崇伝は金地院の数奇屋(現存の茶室八窓石)や東照宮、および庭園の造営を遠州に依頼しました。幕府の役人であった遠州は、時の権力者である崇伝の依頼であるので、特に念入りに作庭にあたりました
 自ら設計指導を行い、配下の村瀬左介を主任とし、庭園の石組みなどは名人である賢庭ら当時の優秀な庭師を総動員して作庭にあたりました。
 金地院東照宮(重文)は、寛永5年(1626)の家康十三回忌を期して建立され、それは金地院の復興の最中でありました。崇伝は家康を崇敬し、東照宮を江戸の方向の東向きに建てられました。拝殿・本殿の擬宝珠に「東照大権現御宝前 寛永五戌辰年九月十七日 円照本光国師立于金地院」の刻銘があり、同年秋には工事が完了しています。
 また、「本光国師日記」寛永4年二月十四日条に「御宮事始二月二七日、三月二日三日書付上ス」とあります。当時江戸に居た国師が京都の留守居役に連絡しています。四月二十二日の条には「久右衛門より、御宮之さしつ(指図)見せ来……御宮のさしつ、くさり(鎖の間)・すきや(数奇屋)さしつ、遠州このミ一たんとよく候、其通りに申付候へと申遺ス」とあり、東照宮社殿は茶室と共に遠州の指図になるものであります。
(左)以心崇伝像(拡大) (中)東照宮正面(拡大) (右)茶室「八窓席」内部(拡大)
 
 金地院東照宮は、本殿は単層入母屋造桧皮葺で、本殿は本瓦葺で、両者を連結する石の間から成る権現造りで、遠州の指図をもとに造営されました。
 拝殿は天井を除いて内部、外部共に黒漆塗りであります。内法長押上の各柱間には、獅子、霊鳥、孔雀、松竹梅の桃山彫刻の余影を残す円形欄間がはめ込まれています。天井の絵は拝殿完成後やや遅れて、狩野采女(探幽)の制作であります。
 本殿も軸部や長押、斗?に花紋・雲紋などが極彩色で描かれ、華やかな荘厳を見せています。参道の切石敷きは、裂地の好みにも相通う遠州好みのデザインであります。
 茶室八窓席(重文)は、前述の「本光国師日記」寛永4年の条に遠州に造営を依頼していますが、当時遠州は、仙洞・女院御所作事の最中であって、現場には深く関わることができず、数奇屋、鎖の間などの指図をつくり崇伝におくっています。
 遠州から崇伝宛の書状に、数奇屋が組みあがったら早く参上して、窓以下細部の指示をおこなうこと、また工事の遅れを侘び、急ぐように申し付けますと申し述べています。
 茶席は縁からにじり入る形式で、壁面に大きく連子窓をあけた開放的な構成や、客殿や書院に通じる二本襖の口を開くなど、遠州得意の手法が見られます。また中柱(椿)の袖壁に下地窓を開けたり、床の相手柱を壁から床柱を二本柱に見立てるなど、珍しい手法が施されています。
方丈庭園全景(拡大)
 
 金地院方丈庭園は、崇伝が寛永7年3月に書状をもって、当時伏見奉行であった小堀遠州に設計を依頼し、その実現を切望しています。遠州の種々の事情で着工はやや遅れますが、既に「惣指図」が出来上がっていました。その間、作庭に必要な庭石は遠州の求めに応じて崇伝が収集、また、各地の大名が寄贈した名石も到着していました。
 用意万端整いますが、この時期の遠州は二条城二の丸や江戸城西の丸の作庭など、本来の業務である幕府直轄の仕事に追われ、金地院まで足を運ぶことが出来ません。
 寛永8年秋から江戸に行っていた遠州が翌年3月に帰洛するのを待って、着工されたようであります。「国師日記」には「庭立石木之事遠州次第仕由申遣」とあります。
7月には海石と橋石の寸法を指定して注文し、9月になると、長さ2間、幅4尺、厚さ2尺、反り5寸のものを注文し、露地の長石も1間半から2間のものが欲しいと注文しています。12月にはそれら注文のものが伏見に着き、金地院へは牛17頭で引いたと語られています。この時に海石を使って方丈前の鶴亀の石庭が造られました。
 庭園は、中央に蓬莱山、向かって右に鶴島、左に亀島を配した実に堂々とした神仙蓬莱の庭であります。
徳川家の永遠の繁栄を願った造作と、植栽の背後、右方のやや高くなった一郭に建てられた東照宮を遥拝する庭となっています。中央に据えられている大きな平石がそのための礼拝石であります。
方丈前に敷き詰めた白砂を海原に見立て、右に松樹を植えた鶴島、左に柏槇を植えた亀島の石組みを向かい合う姿を表現しています。禅寺の庭としては珍しく豪快で華やかさに満ちた庭であります。
(左)中央部にある礼拝石と蓬莱山石組(拡大) (中)金地院境内指図(拡大) (右)開山堂前より方丈と鶴亀の庭を望む(拡大)
 
 鶴島は、鶴の頭を象徴とする鶴首石と羽根を象徴とする羽石を中心として組まれ、背には松樹を植えています。
亀島は、亀の頭を象徴とする亀頭石と甲羅を象徴とする亀甲石を中心に、亀手石、亀足石、亀尾石で構成され、甲羅上には柏槇の老木が植えられています。
鶴と亀は古来よりめでたいものの象徴とされ、未来永劫の繁栄を祈願してつくられた庭園形態であります。
鶴島と亀島の間には畳三枚分ほどの大きな平石がおかれています。これは方丈庭園の背後の東照宮を礼拝するために乗る石であります。さらに礼拝石の奥には、仙人が住むという蓬莱山を象徴した石組が施されています。
 東照宮、蓬莱山、そして鶴亀、この庭園は禅の庭であるとともに、徳川家の繁栄を祈願したもので、崇伝の徳川家康に対する崇敬の厚い思いが偲ばれます。
手前には海を表現する白砂か一面に敷かれ、方丈西寄り(右側)の雨落ちから、飛石が大きく弧を描いて開山堂前の石橋へと続いています。
 遠州は村瀬左介を主任とし、賢庭ら50余名の職人達によって仕事が捗り、寛永9年(1632)7月に完成しています。崇伝は完成に際し満足した旨の手紙を遠州に送っていますが、遠州の傑作を見ることなく同年12月江戸で遷化されました。

《月刊京都史跡散策会》【小堀遠州の庭園】(そのU) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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