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●第5号メニュー(2006/5/21発行)
北野の大茶の湯
黄金の茶室
華厳宗祖師絵伝

 京都史跡散策会では、平成9年1月に北野天満宮にお祀りしています。旧馬場にある「大茶の湯跡」と「太閤井戸」の石碑の前で簡単な説明でおわっています。先月号より≪京の秀吉歳時記≫の連載に当り、標記の2題を取り上げてみました。
 また、現在、京都国立博物館で≪大絵巻物≫展が開催されています。国宝や重要文化財の絵巻が52点も展示されていますが、これらの絵物語(絵巻)で、ものによっては内容(筋書き)がよく解らない作品がありますので、その筋書と特徴などを説明したいと思います。連載ではありませんが、数回に分けて取り上げてみたいと考えています。

≪京の秀吉歳時記≫[その弐]
 
【秀吉の北野大茶の湯】
 
 豊臣秀吉が数多く行なったイベントの中でも、最も名高いものの一つに、天正15年(1587)10月1日に行なわれた有名な北野の大茶会があります。 
 この茶の湯は開かれる2ヶ月ほど前の7月の末になって、堺・奈良・京都・大阪などの主要な場所に立てられた高札に、開催の趣旨が示されました。
 「定 御茶湯之事」と題されて、全体で7ヶ条からなっています。
北野大茶の湯高札
 

「京都北野の森において、10月1日から10日の間、天気のつごう次第で大茶の湯を開くにあたって、(秀吉が所持している)御名物を残らず取り揃え、茶の湯に執心の者に拝見せしめるために開催なされる事。」

北野参詣曼荼羅
 
 と書きだして、茶の湯に執心の者へ、秀吉の集めた道具を全て展示公開すると。そして、第2条では「茶の湯執心の者以外にも、茶の関心のうすい若党・町人・百姓までにも声をかけ、釜・吊瓶・呑物・茶こがしなど、持ち合わせのもので構わないから持参して仕れ」とひろい層の参加を呼びかけています。その3条では、「この茶の湯の会場は松原なので、畳二畳敷の席をもととする。ただし、手元不如意の侘び者は、つぎのあたった畳や、また稲掃きの時につかう筵を敷くだけのごく粗末な席でも許されよう」としるし、第4条になると、日本人ばかりか、中国人であろうと、茶に数奇の心あれば出席されたいと誘い、第5条では、遠国の人たちにまで呼びかけているので、10月10日まで日限を延長させることを述べています。そして、いよいよ、第6条に至って、秀吉は本心を語っています。それによると、「このように秀吉名物の御展示とそれらをつかった茶の湯を挙行する意図は、手元不如意・道具不如意の侘び者を不憫に思っての特別の計らいなので、この茶会に出席しない者は、今後とも、米を煎って焼塩を加えたようなこがし湯をたてることも許さない」と意見しています。「以後、不参加者のところへ参って、茶にあずかる者も許されまい」と、まことに手きびしい命令を出しています。最後の第7条では、「侘び者については、秀吉様のお点前にて自ら茶を振舞われるとの旨も、仰せいだされている事」と結んでいます。
 かくして、北野大茶の湯は、天正10年10月1日、京都北野天満宮の松原にて、大々的に開かれました。公家の吉田兼見の日記には、北野の森は経堂から松梅院に至る迄、立錐の余地もないほど800余軒の茶席が急増されていたと記しています。
 このたびの茶会は、侘数奇者救済が正面きって打ち出されています。秀吉ならではのヒューマニズムの精神がうかがえます。身分制度の中での一座平等、一座大団円の演出は、貴賎を超えて茶の湯は存在するという超俗の精神を、秀吉が自ら実践してみせたところに大きな意義がありました。その破格の行為が、文化人としての彼の視野の広さと政治家としての演技力の豊かさを合わせ示しています。
豊臣秀吉像
 秀吉の視線は、侘び者にのみ注がれていたのではありません。宮中の公家たちにも、腹心の施薬院全宗を通して公家の参集を呼びかけました。しかし、参加するにも経費が必要で、公家の余裕の少ない生活を圧迫するので、茶室建設を大工の吉左衛門に命じたと記されています。
 吉田兼見や公家衆は、9月28日までにはおおむね茶席を建て終っています。兼見は、9月30日になって代銀200疋で京都三条の釜座に求めた利休好みの釜や道具一式を長櫃に入れて大工に運ばせています。この日、秀吉は公家衆の茶室をわざわざ下検分するほどの気のつかい方でありました。
 天正10年10月1日、その日は快晴でありました。
 唐織の小袖に銀糸の縫いとりをつけた小袴、金襴の袖なし羽織をつけた秀吉は、小姓や同朋衆を引きつれ、早朝から北野天満宮の森に姿を現しました。例によって、付け髭をし、歯を鉄奨で染めていました。
 昨夜、組み立てられた三畳の黄金の茶室は、天満宮の拝殿に置かれ、その左右の2つの茶席は自慢の名物名器が、茶室一ぱいに飾りつけられていました。
 拝殿に組まれた黄金の茶室を背に、秀吉が中央の円座に坐ると左側に利休、同安、小庵、 万代屋宗安、円乗坊、前田玄以、施薬院全宗、豊臣秀長、古渓和尚ら15人が坐り、右側には今井宗久、津田宗及、細川幽斎、前田利家、牧村利貞ら同じく15名が着座しました。
北野大茶の湯図
 
 茶事は初花の肩衝をつかって秀吉が点前をしました。それは濃茶でありました。一同が謹んで頂戴すると、秀吉と利休、宗及、宗久の3人の茶頭、拝殿の両側につくられた四畳半の四つの茶屋にそれぞれ入いりました。四つの茶室はともに網代で囲い、4尺2寸の床付きでありました。
 さて、10月1日の当日、参会者たちは、高札のお触れどおり、秀吉の茶にあずかっています。吉田兼見の日記によると、公家衆は肩衣に半袴のいでたちで出席しています。
 8人は二人1組で籤を引き、一の籤の人は秀吉席、二の籤の人は利休席、三の籤の人は宗及席、四の籤の人は宗久席へとあがります。兼見は烏丸光宣と同じ組みとなり、四の籤を当て、今井宗久の席でお点前を戴いています。
 参会者たちはそれぞれ籤で決められた席に入って茶をいただくと、入口とは別の出口から退出しました。ここでの茶事は朝から正午まで続きました。それまでに秀吉と3人の茶頭がさばいた客は、803人で、一人あたり200人以上となりました。
 秀吉は満面笑みを湛えていますが、その顔には疲労の色がありありと浮かんでいました。秀吉らの点前は正午で打ち切られますが、参会者たちは拝殿に飾られた黄金の茶室や、両側の茶室に飾られた天下の名物名器をみようとどっと押しかけ、長い列がいつまでも続きました。
 秀吉はその群集を見て上機嫌でありました。彼の本当の狙いは、茶の湯の同好者を集めての野点の会そのものではありません。黄金の茶室をはじめ、世に二つとない名物名器をずらりと飾り立て、自らの富と権勢と教養とを天下に誇示し、天下一の権力者はまた天下一の数奇者であることを宣伝したかったのであります。
北野天満宮拝殿
 
 昼食を済ませると、秀吉は利休や宗久、宗及らを引きつれて、800に及ぶ茶席を巡回しています。それぞれが趣向を凝らした茶席だけに、数奇と風流と侘びが、個性豊かに演出されていました。
黄金の茶室
 
黄金の台子飾
 
 北野天満宮の大茶の湯は、はじめ10日間の興行との触れが出されていましたが、結局1日だけで取り止めになってしまいました。これは秀吉の気紛れとも思えますが、たまたま肥後に一揆が起きたこともその原因の一つでありました。
 顕示欲の塊のような男であった秀吉の茶会の目的は1日で充分に効果を上げました。

【黄金の茶室】

 秀吉の「黄金の茶室」の制作の創案はどのようにして生まれたのか、その謎は今もってなぞであります。秀吉は黄金の茶室を造る前に、黄金の茶道具を造らせています。秀吉自らが、天正13年10月7日に開く正親町天皇臨席の茶会(この年に秀吉が従一位に叙せられ、さらに関白に任ぜられて、このお礼言上の意味がこめられている)いわゆる禁中茶の湯の段取りを相談するため、内裏の小御所を訪れたのは4日のことでありました。
  この時のことが吉田兼見の日記にしるされています。「今度御興行の水コボシ、柄杓立など金を以て新調の由」の一文があります。
 この禁中茶の湯の主役をつとめる道具は、唐物の名物の掛物、茶壷、茶入の三作をつかい、あとの道具は「何モ、アタラシキ御道具共」としるしています。
 この禁中茶の湯で、なぜに主役以外の道具をすべて新調し(台子・棗・釜・竹の蓋置も含まれる)、その一部を金箔押しや金造りにしています。これは天皇に茶を奉るのであるから、汚れが着きやすい道具に金を用いたと思われます。
 茶道具における金箔や金造りの効果と金の茶室づくりは結び付き、ここに秀吉は金の茶室づくりを思い立ったと考えられます。
 10月の禁中茶会には間に合わなかった黄金の茶室は、天正13年の末までには、大阪城内においてそれが完成しています。完成の暁には、京都に運んで天正14年正月16日には内裏の小御所において組み立て、再び正親町天皇以下、公家の方々に自ら茶を献じ、そのあと御局衆にも、この黄金の茶室を見せて、ご満悦であったと記録が語っています。
 天正13年の12月に造られたと推測される黄金の茶室は、その絢爛たる構えが、見る人誰をも驚かしたことが、日記や手紙などにあることから、秀吉の目論見は図星であり、効果万点でありました。公家の吉田兼見、石見吉川家の吉川盛林、大分の大友宗麟などが、一様に驚きぶりを文字に記しています。なかでも神谷宗湛の日記は、感嘆の文字は見えませんが、冷静にその構えを記しています。詳細に記録された宗湛の日記は、天正20年(1592)5月28日の項に、名護屋城に設置・使用されていた茶室について記しています。
 その黄金の茶室とは、
@ 三畳敷きで、床も付いている(吉川盛林書状)
A 畳は猩々緋、縁は黒地の金襴をつかい、三畳の間取りで床が付いている(兼見卿日記)
B 三畳敷きで、天井・壁そのほか皆金で包まれ、明かり障子の骨まで金を貼り、障子は赤の紗で張ってある(大友宗麟書状)
C 平三畳の席で、柱は金を延べてつつみ、敷居、鴨居も同様であり、壁は金箔を長さ六尺ほど広さ五寸ほどづつに延ばして、雁木(雁の飛行列)の蔀作りとする。縁の口には四枚の腰のある障子を仕立て、障子の骨と腰の板に金箔を押し、骨には赤き紋紗にて張りつめ、畳の表は猩々緋、畳の縁には萌黄の金襴を用い、中込(床の畳)には越前産の真綿を敷く。席の前には三尺の縁側をつけ、竹の葛篭織りにて仕組んである。同じく框(床框か、上がり框かは不詳)は皮を剥いだ木(おそらく磨き丸太)を組み込んでいる(宗湛日記)
D 平三畳で、五尺床が付き、畳は猩々緋で縁は金襴をつかい、床は真綿を敷く(大茶湯之記)
 このような具体的に描かれた史料をもとにして、建築家堀口捨巳が設計したのが、静岡のMOA美術館にある黄金の茶席≠ナあります。
 侘人が構える三畳敷を基本に、金箔、猩々緋(深紅色の毛織物、ラシャ)、赤紗、金襴と、金と赤の組み合わせでつつんで、すっかり侘びの印象を殺し、目にもまばゆい官能的幻惑の境に客を誘いこみ、この席に取り合わせるものは、黄金の台子と金の皆具(茶道具一式)であり、その陶酔境こそ、秀吉の目指す美境でありました。
善妙神像
 
 名護屋城での使用を最後に、この黄金の茶室に関する記録は途絶えます。作家桑田忠親の推測によると、再び大阪城に持ちかえられ、大阪の冬の陣で、大阪城と運命を共にしたと述べています。

【華厳宗祖師絵伝】 国宝 鎌倉時代 

 栂尾の高山寺は、明恵上人高弁(1173〜1232)が、長い勉学と思索の生活ののち、建永元年(1206)に華厳宗の寺院として復興しました。この絵巻6巻は華厳宗を中国から新羅に伝えた二人の祖師義湘(634〜702)と元暁(618〜85)の行状を描く高僧絵伝であります。現在は3巻ずつに分けてありますが、本来は「義湘大師絵四巻、元暁大師絵二巻」からなっていました。出典は「宋高僧伝」所収の「唐新羅国義湘伝」と「同国黄龍寺元暁伝」であります。
 義湘絵では、義湘の入唐留学と、唐にあって義湘を慕い、帰国する船を龍に化身して守護した善妙の献身の物語を描いています。元暁絵では、その飄逸な生活と、王妃の病気の際に龍神から授けられた『金剛三昧経』を講説するまでの経緯が描かれています。
 義湘絵の中心をなすのは、美女善妙の義湘への崇高な愛と献身であります。出発後元暁と別れ、一人入唐した義湘は、唐の港町で托鉢していたとき、長者の娘善妙に愛を打ち明けられます。花の咲く庭前で、恥じらいながら「自らの執心を説く」少女の姿にはそれまでの唐絵にはないみずみずしさが感じられます。
 法を求める義湘の固い決意を聞いた善妙は、生涯これを助けようと誓い、義湘のためにととのえた法具を用意して出発の時を待ちます。至相大師のもとで華厳の教学を窮めた義湘は、帰国の時を迎えます。しかし、善妙に会うことなく、帰国の船は港を出ます。知らせをうけ港にかけつけた善妙は、船のすでに遠ざかるのを見て悲しみ、まず、用意してきた法具の箱を海に投げると、箱は海上を走って、義湘の船に届きました。善妙も自ら海に身を投じます。さかまく波間に身を投ずると、その身はたちまち龍に変じて義湘の船を負い無事に新羅に送り届けました。
義湘絵 第3巻
 

元暁絵 第1巻
 

 このあたりは陸上の善妙と海上の船とをかわるがわるあらわして奇跡の経過を示し、画中に描きこまれた短い詞か簡潔に場景を説明しています。
明恵上人像 (部分)
 
 さらに善妙は、新羅に着いてからも、新羅で修行の場を求めていた義湘のために、善妙は大盤石に身を変え、雑僧の住む山寺の上に浮かび、僧たちは岩の落下を恐れ、みな寺を出ていき、そこを義湘のために寺としました。
 絵巻はこの物語りを4巻5段に描いていますが、冒頭の詞と絵の一部、そして第5段前半にあたる浮遊する大盤石の部分を失っています。このような義湘の物語は『宋高僧伝』によったものですが、明恵は善妙の献身に深い共感を覚え、承久3年(1221)5月にはこれに関する不思議な夢を記録しています。同年の承久の乱後、敗将の未亡人らが尼となったのを保護して貞応2年(1223)平岡に善妙寺を創建、今日も残る美しい善妙神像を安置しました。
 一方、元暁は義湘と共に新羅に出発しますが、塚穴に宿って鬼を見たことから、法は自分の心にあることを悟って立ち帰り、山中や市井に自適して修行し、「大安・大安」と唱えていたことから大安行者と呼ばれていました。龍神から授けられた『金剛三昧経』の疏をつくって、王妃の病平癒のため王宮に招聘されました。明恵はその晩年、元暁の行状とその説いた光明真言土砂加持の法に傾倒しています。明恵は、義湘絵につづいてこの元暁絵の詞をつくり、やはり寺内の画家に描かせています。その画風は宋画の影響をうけた高山寺独自のものでありますが、義湘絵よりも線描がいっそうのびのびとしており、構図もおおまかで、異なった性格を感じさせます。瞑想する元暁を囲む自然景の描写には、日本の伝統的な詩情がにじんでおり、明恵の樹下坐禅図を描いた画僧成忍の筆を思わせます。
≪第5号完≫
 
次号へつづく

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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