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●第11号メニュー(2006/11/19発行)
史上初 湖東三山の秘仏ご開帳

天台宗について


 今年、天台宗開宗千二百年慶讃大法要が行なわれ、その記念に湖東三山の秘仏がご開帳されました。公開は9月18日〜10月27日の短期間でありました。
 ご開帳の宣伝には、住職一代に一回の秘仏開帳、行基菩薩ゆかりの「生身の観音」、聖徳太子自作の「植木観音」など、まさに瞠目のご開帳でありました。今年の9月22日、かつて京都史跡散策会の会員であった数名に声をかけて、湖東三山を巡拝しました。
 この参拝に際して、あらためて湖東三山について記してみました。

【史上初 湖東三山の秘仏ご開帳】


<<はじめに>>

 西明寺・金剛輪寺・百済寺は、近江の山辺の道といわれる道によって、しっかりと結ばれた三山であります。三山を巡拝するには、ほぼ一日の行程となります。湖東にまでおよんだ天台信仰の大きさを実感することが出来ます。
金剛綸寺 内陣
 
 湖東三山は共通して天台信仰に由来して、神性というよりも天台密教の雰囲気に支えられ、それぞれの仏国浄土を創り出しています。また、共通した寺観と文化財に恵まれ、それらは眼を見張らせる質と量を擁しています。そのことは近江全体の文化の高さにもありますが、湖東という琵琶湖との関係において考えると、古く今様に「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」(梁塵秘抄)と詠われた湖辺独特の文物が残されています。
京都新聞の紹介記事 (拡大)
 
 湖東の地域的優秀性を最も早く発見したのは、古代の渡来人たちでありました。湖東地域とくに愛知郡には、中国から朝鮮とくに百済に移住し、ついで日本に渡来した秦氏が、多数定住して依知秦公と呼ばれていました。その時期は5世紀ごろとみなされています。
 この土地の選択は、必ずしも渡来人の自由であったわけではありません。当時大和に存在した倭国の政府が、この地に彼等を配置したもので、近江という土地の開発に力を入れていたことがわかります。そして依知秦公はこの土地の農業生産力の高さ、東西交通の要衝の重要性を発見し、ここに氏族の根拠を置くことを定めました。
 湖東三山を歴史的にみると創建はそれぞれ違いがありますが、百済寺が最も古く、次に金剛輪寺、百済寺より200年ほど遅れて西明寺という順になります。
 平安京に都がさだめられて、比叡山に天台宗が開かれると、天台の寺院として隆盛期を迎え、荘厳な寺院の威容を誇っていました。寺領も多く、水利権を有して近隣を支配していました。各寺とも、本堂まで石積みの階段がつづき、石垣を重ねているさまはまるで城郭のような構えであります。そのため、三山は戦国時代には、織田信長の兵火にあって大きな被害をうけ衰微しました。
 三山のうちで信長の焼き討ちの被害を最も被って、全山焼き払われたのが百済寺であります。推古14年(606)に聖徳太子の発願により創建されたといわれる、百済国竜雲寺の伽藍を模して造立されたと伝えられています。山麓には百済からの渡来人が多数居住し、この人々のために建てられたとも云われています。
 焼討ち後、本堂・仁王門など復興しましたが、隆盛期の寺観を取り戻すに至りません。本坊喜見院の庭園(昭和15年移転改造)は.東の山を借景に山腹を利用し、大きな池と変化に富んだ巨岩を配した豪華な池泉回遊式の庭園であります。この池泉をめぐって、高台に立つと湖東平野が眼下に展開し、遠く比叡、湖西の山並みまで眺望することが出来ます。

左・西明寺庭園 右・金剛輪寺茶室・水雲閣
 

 百済寺の門前から名神高速道路を約10キロ、秦荘町大字松尾寺に行基菩薩開基、慈覚大師円仁の中興という金剛輪寺があります。本堂・三重塔・二天門などが信長の兵火の難を逃れて、天台伽藍のさまをとどめています。寺域は広く、老杉がうっそうとおい茂っています。山門を少し進むと本坊の明寿院があり、書院を囲んで東・南・北の三方に庭園があり、心字池がこの3庭園を結んでいます。本坊から伽藍までの距離は三山中でいちばん長く、参道沿いに1650余の地蔵が二天門まで並んでいます。金剛輪寺から国道を北に3キロで、西明寺に至ります。西明寺も平安時代以降、天台僧の修行道場、祈願道場として栄えました。本堂・三重塔・二天門と並ぶ天台系伽藍配置は信長の兵火の難を幸いにも免れました。周囲の樹木との景観と相まって長い歴史の風格を感じさせます。湖東三山の特徴というべき長い参道が本堂まで続きます。
 今年は、天台宗開宗1200年奉賛記念大法要に、湖東三山では、貴重な秘仏の御開帳が、9月18日から10月27日まで行なわれました。
 これら3ヵ寺の本尊は、いずれもが厳重な秘仏でありますが、それぞれの仏像は化現仏としての、霊異表現を考える上でも、大変興味深いものがあります。
 
<<西明寺>> 天台宗 竜応山 三修
 西明寺は湖東三山≠フ一つに数えられる天台宗の名刹であります。三山のうち一番北に位置しています。寺の西側に大池があるところから池寺≠ニも呼ばれています。山号は龍応山といい、水利に深くかかわった寺院であったと考えられます。本尊は薬師如来であります。寺の名はこの池の西に光明が輝いたことから寺号となりました。
 寺伝によれば、飛行の術にたけ息吹山寺を開いたと伝えられる三修阿闍梨(慈勝上人)が、琵琶湖西岸を巡錫していると、東方の彼方に紫雲があらわれて光がさしていました。三修がその地を訪ねあて、閼伽池に向って一心に祈願をこめると、日光・月光菩薩、十二神将を従えた薬師如来が浮かび上がってきました。この奇瑞はやがて仁明天皇の叡聞に達し、その勅命により、平安時代初期の承和元年(834)に創建したと伝えられています。天皇は落慶法要に親しく臨幸し、「西明寺」の勅額を贈っています。朝廷の外護を受けて栄え、寺領2000石、17の堂塔を構えていました。眼下に広がる湖東平野の水利権を掌握して力を強め、室町時代には多くの僧兵をかかえ、300余の坊舎を数えたと伝えられています。
左・西明寺三重塔内部 右・同四本柱の板絵
 
 元亀2年(1571)、織田信長に抗したため丹羽長秀の攻撃をうけ、本堂・三重塔・二天門を残して、兵火により伽藍の大半が焼失しました。
慶長7年(1602)、徳川家康が寺領30石を寄進して再興をはかりますが、旧観を取り戻すにはいたりません。
 総門前の山際に、元応2年(1320)の町石笠塔婆がたち、門を入ると、名神高速道路をまたいで参道が続いています。旧山坊跡の苔むした石垣が散在し、300mほど登ると土塀の美しい本坊があり、さらに100m上には二天門(重文)があります。門をくぐると正面に本堂(国宝)、右手に三重塔(国宝)が建っています。
左・金剛輪寺 (秘仏)聖観音立像 右・西明寺 (秘仏)薬師如来立像 
 
 寺宝類にも見るべきものが多く、鎌倉時代の絹本着色十二天画像(重文)をはじめ、鍍金孔雀文説相筥(平安時代)や、絹本着色文殊菩薩画像(鎌倉時代)などが所蔵されています。
 また、本坊書院の庭園は、江戸時代初期の築庭になるものです。山際の枯滝の下に薬師如来を表わす石組みを配し、周囲に植えこまれたサツキを雲とし、各所においた石組みを日光・月光・十二神将などに見たてて、薬師浄土を表現しています。前に掘られた池には白蓮を浮かべ、サツキが花をつける5月と池面に紅葉が映る秋が見事であります。
 塔から少し後の山腹を登ると、石造宝塔(重文)が、石柵に囲まれて立っています。高さは約2m、塔身に、鎌倉時代後期の嘉元2年(1304)に、大工平景吉が如法塔として造立したと陰刻されています。
[二天門](重文)
 三間一戸の八脚門で、屋根は入母屋造り、柿葺き、墨書銘が残っていて室町時代の応永14年(1407)に建立されたことがわかります。両脇に「正長2年(1429)」の胎内銘札をもつ増長・持国の二天を祀っています。和様建築であります。
[本堂](国宝)
 鎌倉時代前期の造立で、桁行7間、梁間7間、一重、入母屋造り、向拝3間、屋根は桧皮葺き。蟇股に特徴があり、屋根のゆるい勾配や正面の蔀戸に、宮殿建築のような典雅さを残しています。この本堂は滋賀県の国宝のうち第1号に指定されました。その理由の一つに、鎌倉時代の特徴を持つ建物であるとともに蟇股にあります。つまり本堂内部には創建当初の鎌倉初期のものがあり、外部正面は増築された鎌倉中期のもの、向背には室町時代初期紀の特徴を示す蟇股があり、建物が増築されていく過程が解ることにあります。創建当初の5間四方堂から、のちに7間四方になっていることであります。
 内部は、外陣と内陣にわかれ、外陣に並ぶ巨大な列柱が印象的です。外陣の蔀戸・側面の板扉・折上格天井・外陣と内陣の境の吹寄格子などは、和様建築の典型であり、蔀戸に典雅な宮殿建築の趣きがあります。また、内部には落城前の佐和山城を描いた障壁画もあり、その威容をしのぶことが出来ます。
 内陣には鎌倉時代作で大きな黒塗りの厨子が置かれ、本尊の薬師如来(秘仏、平安時代、重文)を安置しています。厨子の両脇には、平安時代の二天立像(平安時代、重文)を配し、裏堂にも不動明王・二童子像(いずれも平安時代、重文)などが置かれています。
秘仏[本尊 薬師如来立像] (重文、一木造・像高約161cm)
 寺伝によると、当寺を開いた三修上人の祈念により薬師如来が化現し、かたわらの朽木に光明がさし、その木で彫刻したと伝えています。
 12世紀から13世紀のはじめごろにかけての制作と見られますが、茶杓形の衣文や、大波に小波をまじえる衣文の彫法には、典拠となる古像があったと推定されています。注目されるのは、彩色を加えずに素木のまま仕上げられ、しかも細かなノミ痕を残していることです。表面を美しく仕上げないことにかえって大きな意味があると考えられます縁起が伝えるように、霊性の宿った神聖な木から、まさに今、仏が生まれつつあることを表わす化現仏と考えられています。
[三重塔](国宝) 総高約20m
 日本を代表する鎌倉時代後期の建築で、3間三重塔婆で、屋根は桧皮葺き。規模はこじんまりとしていますが、よく均整のとれた優美な姿で均整のとれた純和様建築であります。
 初層の内部の須弥壇中央には、大日如来坐像を安置し、四天柱に大日如来の脇侍である金剛界三十二菩薩像が美しく彩画されています。大日如来の上の天蓋の部分は折上げ小組格天井になり、そこには菊花・宝相華が、鴨居に極楽鳥、菩薩像の下に迦陵頻伽、四方の壁に法華経絵、8枚の板扉には天部像などが、それぞれ極彩色で描かれています。
 
<<金剛輪寺>> 天台宗 松峰山 行基
 松尾町の東部、秦川山(標高463m)の西麓にある天台宗の寺で、湖東三山≠フ中央に位置する名刹で、一般に松尾寺の呼び名で親しまれています。惣門からの左右には、かつて山内数百坊と称された寺屋敷の石垣のみがつづいているのが、この寺の歴史の変転を感じさせてくれます。
 天平9年(737),聖武天皇の勅願により、行基の創建と伝えています。本堂の外陣の正面に掲げる額、「金剛輪寺」は聖武天皇の宸筆で、本堂脇壇には行基の木像が安置されています。       平安時代初期嘉祥年間(848〜50)に延暦寺の慈覚大師円仁が入山して、天台宗の道場として中興しました。以後、朝野の帰依を集めて寺運は隆盛しました。鎌倉時代中期、近江国守護佐々木氏の厚い崇敬をうけ、諸堂の修理改修が行なわれて、もっとも盛況を呈し、多数の坊舎が甍を並べていました。
金剛輪寺 阿弥陀如来
 
 元亀4年(1573)、織田信長の湖東進出の際、その兵火によって、建物の半数が失われますが、江戸時代初期の寛永年間(1624)、徳川幕府の援助を受けて、天海僧正が復興しました。
 寺域は約6000坪、うっそうと茂る老杉におおわれています。南参道入口に鎮守の大行社があり、山門右手に塔頭の常照庵があります。山門を入って、左右の寺屋敷を見ながら進むと、左側に本坊の明寿院があります。ツツジの植え込みの参道をさらに約300mを登ると二天門(重文)があります。
二天門をくぐると本堂(国宝)・三重塔(重文)が見えます。これらの建物は、織田信長の兵火から免れたものです。織田勢が寺を攻めた時、当寺の僧が機転を利かして、寺はすでに全山焼失と報告したので、ここだけが火にかからなかったと云われています。
 寺宝類にも見るべきものが多く、乾元2年(1303)在銘の梵鐘や鎌倉時代の金銅透彫りの華鬘をはじめ、十一面観音立像(重文)・阿弥陀如来像2体(重文)・不動明王立像(重文)・毘沙門天立像(重文)・四天王立像(重文)・慈恵大師坐像(重文)などが所蔵されています。
[二天門](重文)
 室町時代末期の造立になるもので、桁行3間、梁2間、一重、屋根は入母屋造り、桧皮葺きの簡素なつくりで、室町時代の特色を残しています。
[本堂](国宝)
 桁行7間、梁間7間、一重、入母屋造り、屋根は桧皮葺であります。堂内は外陣と内陣にわかれています。前方部の外陣が礼堂の役割もはたし、後方部の正殿に、剣巴の金具も鮮やかな須弥壇をおき、秘仏の聖観音立像を1間四方の入母屋造り桧皮葺きの厨子に安置しています。この須弥壇正面の束金具に、鎌倉時代中期の弘安11年(1288)、元弘の戦勝祈願がなって、近江守護職の佐々木頼綱が寄進した旨の銘が残っています。堂もこのころの建立と推定されています。典型的な鎌倉建築で、正面の蔀戸が、素朴な中にも優雅さを添えています。
 厨子内に、本尊の聖観音像が安置されていますが、この像は住職一代に1度開帳される秘仏であります。厨子の両脇に、建暦元年(1211)の造立銘をもつ不動明王立像と毘沙門天立像が立っています。このほか須弥壇上には、定印を結んだ平安時代の阿弥陀如来坐像や、来迎印の貞応元年(1222)在銘の阿弥陀如来坐像、建暦2年(1212)の造立銘をもつ四天王立像かおかれています。裏堂に安置する平安時代の十一面観音立像、慈恵大師坐像2躯はともに、本堂落成直後の弘安9年(1286)と正応元年(1288)に造られたものであります。
秘仏[本尊 聖観音立像](県指定、像高約103cm)
 桧材一木造りであります。雄大荘厳な厨子の中に安置されています。尊像の全身にザクザクとしたノミ痕をのこし、化現仏であることを主張しています。いわゆるナタ彫り像であります。寺伝では行基菩薩の作で、彫刻を進めるうちに木肌から血が流れだし生身のようであったので、そこでノミをなげうち安置したと伝えています。その所伝から「生身の御本尊」と尊称されています。そのおだやかな面貌から見ると、12世紀の制作とみられます。
[慈恵大師坐像](重文)
 慈恵大師は、延暦寺第18代座主良源で、比叡山中興の祖であります。この像の膝裏に「慈恵大師六十六躯内、毎躯法華経奉六十六部勧進、右志者為父母法界衆生往生極楽也、正応元年九月十八日造立之 連妙自作 (花押)」とあって、銘文のように連妙が父母をはじめ衆生の往生極楽を願うために66躯を自作したその1躯であります。
[阿弥陀如来坐像/広目天・多聞天立像](重文)
 本堂には重文指定の阿弥陀如来が2体あります。須弥壇上の本尊を納めた厨子の左右に安置されていますが、図は向って左側の像であります。ゆったりと腹前で定印を結び、結跏趺座のお姿であります。現在は本堂で客仏となっていますが、本来は山内末寺の本尊であると推定されています。肉身や着衣には漆箔がほどこされ、舟形の板光背は外縁部に唐草文様と10個の円相を描く古態を示しています。広目天と多聞天とともに厨子の左右、阿弥陀如来の前方に安置されています。多聞天の足柄の墨書銘から建暦2年(1212)の造立とわかります。
左・慈覚大師坐像 右・慈恵大師坐像
 
 
<<百済寺>> 天台宗 釈迦山 聖徳太子
 湖東三山≠フなかでもっとも古い寺であります。本尊は十一面観音であります。天台宗の名刹で、久多良寺とも書かれています。推古天皇の14年(615)、聖徳太子の御願に基づいて創建されました。
聖徳太子が、百済博士の恵滋に案内されて、山中の不思議な光明をたよりに光の元である巨杉の霊木を見つけ、その木で十一面観音を彫って安置したのが寺の起こりであります。
百済の竜雲寺を模して、高麗僧恵滋と百済僧道欽のために寺を建立したと伝えられています。同じ渡来僧の観勒・恵聡らもここに学んだといわれています。湖東平野は渡来人の秦氏一族が繁栄したところであり、「渡来人の里」とも称されています。

《註》観勒はわが国に暦をもたらした僧として有名で、舒明天皇11年(639)に、大和百済川のほとりに百済大寺を開創しました。

左・金銅 弥勒半跏像 部分 右・(秘仏)十一面観音立像 部分
 
その後、時代は移り、平安京に都が定められ、比叡山に天台宗が開創されると、やがて
百済寺も天台の寺院になり、その規模は拡大され、「湖東の小比叡」と称されたほど壮大な寺院でありました。
 ちゅうせいには多くの僧兵を擁し、300余坊の坊舎を構えて勢威を誇っていました。が、天正元年(1573)、近江源氏佐々木六角氏らとともに織田信長の湖東進出に反抗して、六角氏の拠る鯰江城を支援したため、信長に攻略され、全ての建物が焼き払われました。奥の院に隠されていた本尊などわずかの仏像・仏具を除いて、ほとんどが失われました。
 のち、豊臣秀吉や徳川幕府、彦根藩主井伊氏などによって寺の復興がはかられましたが、旧観を取り戻すまでには至りません。
 寺域は約1万坪と広く、赤門をくぐり、境内に入り、かつては両側に塔頭が並んでいた木立の道に,天文5年(1536)延暦寺衆徒らが京都の日蓮宗徒を襲った天文法華の乱で討死した堂衆6名の追善石塔があります。さらに登ると、城郭構えの石垣をめぐらした本坊の喜見院があります。
 喜見院の庭は、池をうがち、樹木の中に石塔や石組を配しています。閑雅な池泉回遊式の庭園で、東側の山を借景にとり入れています。この前庭からの湖東平野の眺望は見事であります。
 喜見院からさらに曲折する石畳の参道を奥へ進んだところ、二天門をくぐった高台に本堂が建っています。慶安3年(1650)、彦根藩主井伊直孝が、日光東照宮を建てた甲良大工たちを使って造立し寄進したものです。
 寺宝には、建長8年(1256)在銘の銅鐘とバツ子をはじめ、鎌倉時代の日吉山王神画像、平安時代の金銅唐草文磬などが所蔵されています。(いずれも重文)
秘仏[本尊 十一面観音立像](像高約260cm)
 寺伝によると、この本尊は、聖徳太子が霊木を立てたまま刻んだと伝えています。全面にわたる修理のため、詳細についてはこれからの精査をまたなければなりません。この像のような立木仏もまた、ノミ痕をのこす像と同じく霊木から仏があらわれるさまをそのままに伝えようとするものであります。
 
【天台宗について】
 天台宗の教えは、釈尊の教えの精髄を、中国の天台大師が探り出して、衆生に示したことに、その源を発するものであります。
 天台大師あるいは智者大師とも呼ばれる智(538〜597)は、慧文・慧思に次いで中国天台の第3祖ともいわれますが、実質的な開祖として尊崇されています。
 天台大師の生地は、湖南省華容県であります。父は、中国南朝梁国に高官として仕えていましたが、天台大師17歳の時、梁国は北朝西魏の大軍の前に、あえなく滅亡の憂き目にあいました。したがって大師の一族は離散流浪の旅に身を置くことになりました。
 大師は世の栄枯盛衰を痛感して、出家の念やみがたく、仏門に入り、以後60歳で亡くなるまでの40数年間に、大乗小乗に関するあらゆる仏教の学説、教説を習得し、それらを一大綜合体系に整然と整理整頓して、釈尊の真意を発揚し、故に釈尊の再現とうたわれ、「中国の釈迦」と敬われました。
左・天台大師像 右・五台山遠望
 
 出家後、23歳の時、当時名声高き慧思禅師(第2祖)を慕い、戦乱の巷をくぐって大蘇山に登り、慧思禅師に会い、法華経を詳しく教導されました。
 大師は教えの通りに練行に精励しました。ある日、法華経読誦修行の最中に「薬王菩薩が、師の日月浄明徳如来への報恩の布施として、自身の体を燃やして供養した。その時、大千世界の諸仏が異口同音に、これこそ精進中の真の精進である。これこそ如来に供養する真実の法である、と讃嘆した」とのくだりにきた時に、豁然として大悟徹底されました。直ちに慧思禅師に、その心境を披瀝したところ、禅師の「汝でなければ、できない悟りであり、私でなければ、汝の悟りの心境を理解することができないであろう」との称嘆のもとに、師の印可(免許状)を得ました。
 大蘇山で7年間の修行による、法華の大悟と、『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』の三大部を掲げて、30歳の時、陳の都、金陵(現在の南京)にでて、瓦官寺に住して衆人の教化につとめました。
 陳の大都にひしめく多数の学者の間に、大師を賞める声がたかまり、学匠、大徳、次々と膝を屈して教えを請うに至ります。宣帝皇帝も、1日朝廷の政をとどめて、顕臣、群官に大師説法の法益に触れさせました。
左・天台高僧像 最澄 右・天台高僧像 慧思
 
 大師は、法華経経題を講じ、または坐禅止観を教えるなど、その学徳の誉れはいよいよ高く、大師の周辺には年ごとに教えを求めて集まる人が多くなりました。
しかし、38歳の時、期するところがあり、意を決して、一切の帰依者を断り、一切の弟子どもに別れを告げて、浙江省台州にある霊山天台山に登り、採果汲水の困苦欠乏の生活をつづけ、思索瞑想と実践の練行に励みました。
深山に身を隠して修行を重ねること10年、徳望はおのずと遠く都に伝わり、陳の皇帝の招請はげしく、48歳の時、再び都、金陵に出て、大極殿、霊ヨウ寺、光宅寺などで、法華経講義、坐禅止観の教導に力を注ぎました。しかし陳は4年後に隋に攻められ、金陵の都も陥落しました。時に大師52歳、かくなる上は、故郷江陵に身を寄せんとして、西の方へ旅立ち、途次、廬山、南岳などに寄宿しては、自行化他を1日も怠ることなく、その間、隋の煬帝(当時は晋王広と称す)の招きに応じて、楊州に引き返して金城殿にて教化を施しつつ、56歳の時、漸く故郷に帰りつきました。直ちに玉泉寺を建立して、自己の長年にわたる思索、実践を法華玄義、摩訶止観などを、思想的に体系化し、弟子の養成に励むこと2年。再度、晋王広(煬帝)の懇請に応じて楊州に行き.そのまま再び天台の深山に入って、昼講夜禅に精励すること更に2年。またもや煬帝3度の招請あり、辞わりきれず楊州に向わんとして、天台山下山の途中、西麓にて寂滅を迎えられました。年60歳でありました。
天台大師開宗の天台宗の教えは、大師滅後も台州天台山を中心にして伝わり、永く中国仏教に大きな影響を与えてきました。日本の比叡山開創者の伝教大師最澄は、入唐(804)して天台山へ登り、天台大師より七世の嫡流、道邃和上と行満和尚から、天台の法を受けて帰国し、比叡山に天台の法流を伝えました。
平安時代から鎌倉時代へかけて、中国求法の諸僧の大部分は、伝教大師のたどった足跡を慕って、第一の天台山を目指して、海を渡ったのであります。慈覚大師、智証大師、成尋阿闍梨、栄西禅師、道元禅師などがそうでありました。
比叡山開創の伝教大師は、一切のものが成仏でき、一切のものは菩薩である、という天台大師の教示による法華一乗の教えこそ、日本という場所と、今という時代に最も適合した最も新しい教えであると主張しましたが、当時の仏教界では、一切が菩薩であり、一切が成仏できるということは、単なる理想主義であるとして、最後まで理解者を得ることができないまま、弘仁13年(822)6月4日56歳で亡くなられました。しかし、この伝教大師の法華一乗の主張は、入寂後7日目(6月11日)、朝廷の理解と決断によって、一向大乗戒は認可され、戒壇の設立か勅許されて、ここに新しい叡山仏教が生まれました。


≪第11号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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