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●第56号メニュー(2010/8/15発行)

【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのU)

〔夢窓疎石(国師)〕(2) 〔永保寺庭園〕 〔永保寺観音堂〕

【夢窓疎石(国師)】(2)
 
 嘉元3年(1305)、臼庭(うすば)(茨城県北茨城市)で悟りを確信した夢窓疎石(国師)は鎌倉に戻り、浄智寺に移っていた仏国国師(高峰顕日(こうほうけんにち))に参禅しています。その後、仏国国師に悟りの心境を呈示し、ついに印可(いんか)を受けることが出来ました。夢窓疎石はその日のうちに甲斐へ発ち、10年来の修行の経過と印可を得たことを父に報告し、いよいよ悟りを不動のものにするための聖胎長養(しょうたいちょうよう)(悟った後の修行)に入りました。
 甲斐国牧荘の領主二階堂貞藤の篤い帰依を受け、夢窓は眺望のすぐれた場所に浄居寺(山梨県牧丘町)を開いて在住します。しばらくすると、夢窓の評判を聞いて多くの信者や修行僧が集まってきたため、応長元年(1311)、夢窓はさらに人里離れた幽僻の山中に龍山庵を建てて移り住みます。しかし、龍山庵に移ってからも、夢窓の所在が知れると雲水たちが次々に参集し、谷間には競うように庵が建ち並び、小さな集落が出来てしまいます。これでは修行にならないと、翌年には山を下りて浄居寺に帰りました。
 正和2年(1313)、師の仏国国師が上野(こうずけ)国(群馬県)の長楽寺の住持に夢窓を招こうとしているという知らせが入ってきました。師の招請であれば断ることはできません。しかし、修行はまだ続けなければならない。そこで正式の使が来る前に夢窓は逃避行を決行しました。
 夢窓はわずかな弟子を連れて甲斐を出立し、まず遠州に向かいました。富士五湖のあたりを通って浜名湖を抜け、閑居の地を求めて、諸所に立ち寄りながら美濃の長瀬山(岐阜県多治見市)に入りました。
(左)夢窓国師像 等持院蔵 (右)蘭渓道隆
   
その境致を「夢窓国師年譜」は次のように記しています。
四隣に人無く、三五里許り山水の景物、天、図画
を開く幽致なり。
 長瀬山は土岐川に臨む渓谷にあり、当時はまったく人家はありません。自然が描いた絵のように美しい幽邃の地であり、夢窓は大いに気に入ったので、ここを修行の地として庵を建て、長瀬山の断崖が迫った風景が、中国江西省にあって禅宗の名刹が集まることで名高い廬山の虎渓に似ているとして、扁額に「古谿」(のちに虎渓と改称)と記しました。意味は「古を慕う」ところにありました。
 二か月を経過しても来訪者はなく、夢窓の素心がここに成就したと喜ばれました。古谿はのちの虎渓山永保寺の基となりました。
 翌正和3年、観音堂を建立し、池泉庭を作ります。観音は夢窓の念持仏であり、那須の雲巌寺(栃木県那須郡黒羽町)で不動心を得たときも、内草(茨城県高萩市上君田小字草の内)で悟りを得たときも、仮の道場をつくり、みずから描いた水墨画の観音像を掛けて殲法(せんほう)を修しています。ここで初めて観音像を観音堂に安置し、池泉庭を作庭しました。
 今日、禅宗寺院の庭は観賞のためといわれていますが、本来は禅の教えを伝えたり、修行のための場として営まれたものであります。
この地も夢窓の入山が知れ渡ると、再び多くの雲水らが押し寄せるようになり、夢窓は隠れ住む場所を再び捜さねばならなくなりました。
 夢窓は正和5年(1316)10月、師の仏国国師の訃に接し、虎渓にて法要を行なったのち、虎渓を出ることを決心しました。
 文保元年(1317)秋9月。虎渓山を出て京洛北に寓居しています。あくる文保2年(夢窓49歳)、執権北条高時の母・覚海夫人が、仏国国師の遺言により夢窓を関東に迎えようとしています。このことを知った夢窓は正月京都を出て土佐の吸江山に庵居しました。ここは土佐湾にのぞむ景勝の地であり西江に臨むとして吸江庵(きゅうこうあん)と名付けられました。
永保寺庭園(拡大) 夢窓が訪れとき、ここは「四隣数里人なき幽境」で、夢窓はその自然の素材を自在に組み合わせ、巧みに人工をもちこんで、実景の美に重ねて禅の象徴の精神性を表現しました。
 
《註》蘭渓道隆(らんけいどうりゅう) (建保元年1213〜78弘安元年)
 蘭渓道隆が来朝したのは寛元4年(1246)であります。博多から知友を頼り京都の泉涌寺に入りますが、旧仏教で固められていた京都を嫌い、鎌倉に転じます。
 この年は、北条時頼が鎌倉幕府の5代執権に就任した年であります。鎌倉で寿福寺、ついで常楽寺に入寺します。道隆のもとに参禅し求道する者は数多く、その中には5代執権の顔もあり、専門の禅寺を創建しようとする機運が高まりました。
 来朝から7年後の建長5年(1253)、時頼は道隆に建長寺の開堂説法を懇願し、ここにわが国初の禅を専一とする道場(建長寺)が生まれました。道隆は宋朝形式の修行方法をもって修行僧を指導しました。
 禅林としての厳しい規式を設け、作法を厳重に規定したのであります。それを著したのが『法語規則』であります。
 13年間鎌倉にて指導を行った後、京都建仁寺に転任しました。しかし、他宗の反抗にあい、甲斐(山梨県)などへたびたび逃避行をしています。
弘安元年(1278)、死期を悟り建長寺に戻ります。同年7月24日遷化します。諡号は大覚禅師と称します。臨済禅をわが国にもたらした道隆が開いた道は、その後、来朝した多くの僧によって引き継がれました。
寺院庭園においても、道隆は新たな様式を日本にもらしました。特色は滝と鯉を石組みで表現した龍門瀑であります。龍門瀑は、鯉が滝を登りきれば龍と化し、天に昇るという中国の登龍門の故事による滝石組の一形式であります。
京都から逃避行の際、立ち寄って再興した東光寺(山梨県甲府市)に龍門瀑を造った説もあり、現に東光寺の方丈北側の庭園には龍門瀑が組まれています。その後、龍門瀑は夢窓国師によって京都の西芳寺や天竜寺の庭園に組まれ、禅の庭の重要な主題になりました。
《註》高峰顕日(こうほうけんにち)・仏国国師 (仁治2年1241〜1316正和5年)
 鎌倉時代後期の高僧。諱(いみな)は顕日、字は高峰、密道と号しました。後嵯峨天皇の第二皇子であります。
康元元年(1256)、16歳のとき東福寺の円爾弁円(えんにべんえん)に従って出家しました。その後、 弘安2年(1279)、世良長楽寺の一翁院豪の仲介により、長楽寺において来朝早々の
無学祖元(むがくそげん)に謁し、以後無学に参じ、同4年9月、建長寺において無学より無準師範所伝の法衣を受け、その法嗣となります。
 正安2年(1300)には鎌倉浄妙寺に住し、嘉元元年(1303) には万寿寺に住しています。このとき大燈国師・宗峰妙超(そうほうみょうちょう)も国師のもとで参禅しています。
嘉元3年(1305)には浄智寺に住して後、徳治2年(1307)にふたたび万寿寺に戻り
ますが、この再住のおり、「無準師範―無学祖元」と伝わる法衣を仏国国師は相伝
されています。そののちさらに雲厳寺、浄智寺、建長寺を経て、正和4年(1315)正
7月、雲厳寺に帰住し、翌5年10月20日に76歳をもって遷化しました。
 夢窓は嘉元元年(1303)、京の万寿寺に住した高峰顕日に初めて参じました。高峰も夢窓の大器なるを見抜き、大いに弁策を加えられました。そしてついに同3年、鎌倉浄智寺において、仏光国師相伝の法衣を夢窓に付し印可されました。
 嗣法の弟子には、夢窓疎石をはじめ、大平妙準、元翁本元、天岸慧光らが輩出し、蘭渓道隆の大覚派とならぶ仏光派は高峰によって関東禅林の拡大の基礎をつくりました。
 示寂後、仏国国師と諡号され、のちに広共広済と追諡されました。
《註》春屋妙葩(しゅんおくみょうは) (応長元年1311〜88嘉慶元年)
 春屋妙葩は夢窓国師の甥にあたります。7歳のころ、美濃国虎渓山に夢窓が開創した永保寺を訪ね、隠棲中の夢窓に仕えました。また、夢窓が開山となった甲斐の恵林寺(えりんじ)にも従っています。深く山水を愛して旅を好む習癖のあった夢窓に仕えるのは、なみの禅寺の修行よりも一段と苦労が多かったと思われます。
 17歳で剃髪し、長い修行を経て興国6年(1345)35歳のとき、坐禅中にようやく大悟します。その感懐を2編の偈(げ)にして師に呈したところ、すみやかに悟道を印可され、天竜寺塔頭雲居庵の主に任じられました。翌年には夢窓から「春屋」の道号と法衣が授けられ、夢窓の法嗣と認められました。
 夢窓は6年後に示寂しますが、多くの弟子の中で、もっとも師の身近に仕えた高弟のひとりとして『夢窓国師年譜』、法語集『西山夜話』を著しています。
『夢窓国師年譜』には、夢窓誕生の経緯が、「師(夢窓)、族は勢州源氏。宇多天皇九         世の孫なり。母は平氏。男子の生を願って嘗て観音に祷る。一夕、金色の光一筋、西より来たって口に入るを夢み、覚めて身むことあり。十三月を経て方に誕まる。母悩むところ無し」と、神秘的に書かれています。これはこの時期、夢窓がすでに伝説的な高僧として崇められていたことを物語っています。
梵音巌遠望
 
【永保寺庭園】(名勝) 
 
 夢窓は作庭以外に建築にも造詣があったと思われます。応長2年(1312)に甲州に竜山庵を建て、2年後にその建物を浄居寺の僧堂として再築しています。
正和3年(1314)、遠州を経て美濃国長瀬山に至り、その地形を賞して「山水天開図画幽境」と評し、ここに草庵を建て、扁額して「古渓」と称しました。
 わが国初の本格的な禅宗寺院は、宋からの渡来僧蘭渓道隆(らんけいどうりう)が開山となった鎌倉の建長寺であります。蘭渓はここの方丈に禅の庭を造営しました。
 夢窓は永保寺で弟子(元翁本元ら)とともに修行するにあたって、蘭渓の修行方法を踏襲して池泉の庭をつくったのであります。
 永保寺には約3年の滞在でしたが、寺観が整えられ、観音殿(水月場)を完成し、岩盤や河床地形を利用して、池庭(臥竜池)を、堂前に橋殿をあげた反橋(無際橋)をかけました。
 永保寺の庭には、懸崖のきわに観音堂(水月場)が建ち、その前を広く池泉とし、無際橋(むさいきょう)と称する反橋(そりはし)と観音堂の組み合わせは、夢窓が修行した建長寺の?碧池(さんぺきち)と同様であります。
 こうして禅の庭は、夢窓が晩年に造営した京都の西方寺や天竜寺の庭園を経て発展し、日本の禅宗寺院の庭に大きな影響を与えました。
 永保寺の池泉庭は観賞用の庭園でなく、夢窓が理想とする禅の修行の場として構成されたもので、これが夢窓庭園の基本となりました。
 禅寺の庭園の創始者でもある夢窓が作った初めての永保寺の庭園は浄土風庭園で、池の中に造られた橋の雰囲気はまさに極楽浄土への架け橋であります。
 庭の中心は水月場(すいげつじょう)とよばれる観音堂であります。大きな臥龍池が一筋の滝の流れ落ちる梵音巌(ぼんのんがん)を抱くようにして広がります。
 観音堂は池の東側出島に建ち、そこから南岸の出島にかけて、橋殿を設けた長い反橋の無際橋が架かります。
 屈曲する土岐川の右岸に位置する永保寺は、西から南にかけて懸崖が連なり、坐禅にふさわしい岩場がいたるところにあります。池泉の西側に五老峰(ごろうほう)と名付けられた懸崖がそびえ、その山腹に夢窓が座った坐禅石かあります。ここに座れば、眼下には臥龍池が広がり、無際橋(むさいきょう)・観音堂(水月場(すいげつじょう))などが建ち並ぶ境内から、遠く長瀬の山並みまでが一望されます。
 夢窓の禅の境致の雄大さが理解されます。永保寺に坐禅石を庭に置いたのは、坐禅石のはじめであります。坐禅石はこうした自然の岩場を利用して置かれています。 
 虎渓の地も夢窓の入山が知れ渡ると、龍山庵のときのように多くの雲水らが押し寄せるようになり、夢窓はふたたび方々に隠れ住むところを捜さねばならなくなりました。
永保寺庭園(拡大) 夢窓が理想とする禅の修行の場として構成されたもので、のちの夢窓庭園の基本であります。観音堂の前に反橋(無際橋)が架かり、後方の梵音巖と呼ばれる懸崖がそびえ、滝が落ちています。 
 
【永保寺観音堂】(国宝)
 
 永保寺は夢窓疎石が庵居を結んだところで、夢窓が京都に移ってから、法弟の元翁本元(げんのうほんげん)が住し、その後、元翁本元の弟子が住する寺となりました。観音堂は寺の仏殿で、前に池を設け、廊橋を架けています。禅宗寺院では十境(じゅうきょう)とか境致(きょうち)とかいって、自然とのつながりや景観を大事にしています。この観音堂と前の池、その池にそそり立つ岩壁などの景観は、中世禅宗寺院を知る意味で重要な意味を持ちます。しかし、観音堂は通常の禅宗様仏殿とはかなり異なった趣があります。禅宗寺院の一般的手法である乱石積基壇も、ここではかなり大きな石を用いて、周囲の風景や庭園にマッチさせています。
『夢窓国師年譜』によると、正和3年(1314)に観音閣を建つと記しているので、このときの建立とされています。
 しかし、この建物の最も特徴的な外観は、前面1間が板敷きの吹放ちとなっていることであります。これが当時の貴族の邸宅の広縁に似て、庭園との出会いを形成しています。
 平面は方3間の中心部をなす母屋に、1間の裳階が付いた形式であります。全体としては方5間の正方形でありますが、前面裳階部分は前述した吹放ちで建具はなく、波形連子の弓欄間が付くのみであります。内側の3間には、花狭間(はなざま)の付いた桟唐戸(さんからと)が立てられていますが、禅宗様仏殿の特徴である花頭窓(かとうまど)はありません。
 内部では方3間の母屋の中には柱を立てず、禅様式の須弥壇の後ろに立ついわゆる来迎柱も、母屋の柱と兼用された形となっています。本来は土間であるべき堂内も、板敷の床が張られています。天井も全面が平らな鏡天井となっています。
 屋根は入母屋造、桧皮葺で、二重になっていて、とくに上層では禅宗様特有の強い軒反りが見られますが、下層の裳階の屋根は軽やかに延びていて、高さへの志向よりも、むしろ外部空間との一体化をはかっています。
 柱上の組物も普通の禅宗様仏殿のように三手先(みてさき)でなく、上層は簡単な出三斗(でみつど)で、詰組にもなっていません。さらに軒裏は、垂木(たるき)を見せない板張りとされています。したがって軒下は、禅宗様としてはきわめて簡素であります。
 この観音堂には、仏堂建築と庭園建築とを融合しようとする意図が感じられます。建物の全体的な印象はまぎれもなく禅宗様仏殿のものですが、その空間的性格や細部の扱いは、むしろ庭園と結びついた住宅風のものであります。
永保寺観音堂 2重の屋根や強い軒反りの線などは禅宗様仏殿の典型であります。しかし、前面を広縁のように板床を張った吹放ちとし、外部空間との連続性が造り出されています。これが夢窓の作とされる美しい庭園とよく融合し、住宅風の雰囲気をもっています。軒下も簡素で、全体的にのびやかであります。

《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのU) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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