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●第48号メニュー(2009/12/20発行) |
【巷の小社の神々】京洛編《その5》 |
〔新日吉神社〕 〔豊国神社〕 〔新熊野神社〕 |
〔滝尾神社〕 〔城南宮〕 〔羽束師神社〕 |
〔久我神社〕 〔菱妻神社〕 〔与杼(よど)神社〕 |
〔滝尾神社〕 京都市東山区本町十一丁目 |
大国主命を祭神としています。旧村社で、現在は深草の藤森神社の境外末社であります。社伝によれば、当社ははじめ東山の聾谷(つんぼだに)にありましたが、応仁の乱後、日吉坂に移され多景社(たけのやしろ)と称しました。天正14年(1586)大仏殿建立に際してさらに現在の地に移されました。これにより一に聾の社と呼ばれていました。一説 に三ノ橋の西北詰め(本町十七丁目)にあった武鵜社(たけうのやしろ)を移したともいわれ、当社の創祀については諸説があって不詳であります。例祭は6月22日でありますが、5月5日の藤森祭には深草よりここまで神輿の渡御があります。 俗に大丸稲荷と言われるのは、大丸百貨店の始祖下村氏が当社をいたく崇敬し、歴代にわたって、寄進や社殿の造営、修復などを行ったからであります。今の本殿は天保10年(1839)の建立で、切妻造り、こけら葺、前面に1間の向背を付し、桃山風の豪華な欄間彫刻をほどこしています。また、絵馬舎には江戸時代の大丸店を描いた扁額が架けられていて、京都の古い町屋をしのばせるものであります。 |
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滝尾神社 (左)江戸時代の大丸店絵馬(拡大) (右)本殿 |
〔城南宮〕 京都市伏見区市下鳥羽中島宮ノ前町 |
祭神は息長帯日売(おきながたらしひめ)命・八千戈(やちほこ)神・国常立命の三柱であります。創祀には諸説がありますが、平安遷都の際王城の南の鎮護社としたとか、城南寺の鎮守社として創始されたとも伝えられています。 社伝によると、神功皇后の新羅侵攻のさいに、その勝利を八千矛(やちほこ)神≠ノ祈り、その霊を船の御纛(みはたたぎ)に奉請したものを、のち宮中におさめられていましたが、これを改めて御神体として神社 を建て、八千矛神と神功皇后の2柱が祀られたということです。 今の城南宮の日月星三光の神紋こそは、その御纛に付せられた旗印といわれています。そして、平安遷都に際して、改めて国常立尊を合祀して都の南方鎮護の神としたと記されています。 歴史上の初見は、延長3年(925)に城南寺の鎮守社と記されています。応徳3年(1086)には、鳥羽離宮造営の際に城南寺とともに離宮内にその鎮守として祀られたとあります。往時は城南寺が有名で、その祭礼は城南寺明神御霊会とよばれ、競馬(くらべうま)・流鏑馬(やぶさめ)が盛大に行われました。この祭礼は城南祭として今も残っています。 承久の乱の際、後鳥羽上皇はこの行事に名を借りて諸国から兵を集めました。応仁の乱で城南寺は荒廃しましたが、鎮守社は残って産土神となり、明治3年(1870)城南離宮皇神と称し、いつしか城南宮と呼ばれるようになりました。境内末社には真幡伎(まはたき)神社と芹川神社があります。 例祭は10月中旬の日曜日に行われる城南祭(まつり)で、3基の神輿が町内を巡行します。往時は地域の水争いが爆発して「血祭」とも呼ばれ、また餅を供するので「餅祭」ともいわています。方除けの神として信仰されています。 昔、街道で茶屋女の今村せきが、傘の裏にあんこ餅を並べて売ったのにちなんだ「おせき餅」が名物であります。 |
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城南宮 (左)摂社真幡寸神社(拡大) (右)本殿 |
〔久我神社〕 京都市伏見区久我森の宮町 |
桓武天皇の長岡遷都にあたり、王城の艮(うしとら)の守護神として祀られ、延喜式内社久何(くが)神社として創建されました。立地条件が下賀茂神社と同様に、桂川と鴨川の合流点付近にあるためか、賀茂神社のつながりが深く、祭神も下賀茂神社と同様に建角身神・別雷神・玉依姫神の3柱を祀っています。 この神々は、山城国久我造(くがのみやつこ)として北山城に勢力をもっていた久我氏の祖神とするもので、久我氏は、古くは大和の鴨族の流れをくむものといわれています。鴨族の本拠は大和国葛城山麓でありますが、山城国相楽郡の岡田加茂に進出し、木津川をさかのぼり、さらに鴨川をさかのぼって久我の国の山麓にたどり着いたと『山城風土記』は伝えています。その氏神として、この地方の久我氏が祀ったのが久我神社で、清和天皇の貞観元年(859)、従五位下を授けられ、延喜式内社に列しました。 現在の本殿は、三間社流造桧皮葺であります。天明4年(1784)の建造であります。このあたりは鳥羽作り道が南にのびて久我畷(こがなわて)といい、元弘3年(1333)、六波羅攻めの際、関東から六波羅増援のため入洛した北條方の名越高家が赤松円心・千種忠顕の軍と戦って戦死した久我畷の戦の地であります。 |
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久我神社 (左)鳥居(拡大) (右)境内 |
〔菱妻神社〕 京都市伏見区久我石原町 |
永久元年(1113)に久我家を称した太政大臣源雅実(まさざね)が奈良の春日大明神を勧請したのに始まります。久寿元年(1154)、はじめは火止津目(ひしづめ)大明神と呼ばれていました。それが転じて「菱妻(ひしづま)」となったといわれています。祭神は天児屋根命で上久我の産土神として崇められています。 久我氏の勢力が旺盛なときは、神領が多く、社殿も壮大をきわめ、村上源氏や藤原氏らの公卿の牛車が列をなして参詣したといわれています。摂社には、村上源氏の祖、村上天皇の皇子具平(ともひら)親王を祀っている具平の宮、住吉社、粟島社、虫(む)八幡社などがあります。 この地は石原といいますが、もとの社地のあった桂川の州原が転じたもので、ここが洪水にあうので現在地に移りました。当社は、かつての式内社、簀原(すはら)神社の後身といわれています。 |
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(左)久我神社駒札(拡大) (右)与杼神社本殿 |
≪月刊京都史跡散策会48号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その5) 完 つづく |