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●第48号メニュー(2009/12/20発行)

【巷の小社の神々】京洛編《その5》

〔新日吉神社〕 〔豊国神社〕 〔新熊野神社〕
〔滝尾神社〕 〔城南宮〕 〔羽束師神社〕
〔久我神社〕 〔菱妻神社〕 〔与杼(よど)神社〕

〔新日吉神社〕 京都市東山区東大路七条上ル
 
 智積院の東、豊国廟参道の途中の南側にあります。祭神は、大山咋神・大己貴神・賀茂玉依姫神・田心姫神・菊理姫神・素盞鳴尊・後白河法皇の7柱であります。
 永暦元年(1160)、後白河法皇が法住寺殿を造営の際、今熊野瓦坂に近江の日吉神社を勧請して新日吉(いまひえ)神社を創建したと伝えられています。創建当初から妙法院の管轄下にあって皇室や将軍らも参詣されています。応仁の乱で衰退し、江戸初期智積院の北に移し、明治31年豊国廟参道改修で現在地に移りました。
 一説には、豊国廟への参詣を妨げるため、徳川氏によって現在地に建てられたといわれています。境内社の樹下社は、江戸時代、豊臣秀吉の霊をひそかに祀った豊国神社と伝えられています。
 現在の社殿は、天保6年(1835)の修造であります。祭神により、酒造の神・医薬の神・縁結びの神としての信仰を集めています。
新日吉神社 (左)樹下社(拡大) (中)本殿(拡大) (右)楼門(拡大)
 
〔豊国神社〕 京都市東山区大和大路通正面東入ル
 
 慶長3年(1598)8月13日、伏見城で63歳の生涯を閉じた豊臣秀吉(祭神)を祀り、一般に豊国(ほうこく)さん≠フ名で親しまれています。秀吉は遺言により、洛東阿弥陀ヶ峰に葬られ、翌4年朝廷より豊国大明神の神号を受け、その西麓に社殿が営まれました。当時社地は約100万uおよび、社殿造営には豊臣恩顧の大名が競って参加したので、壮大華麗を極めた大建築でありました。
 元和元年(1615)、大阪夏の陣で豊臣氏が滅びると、社殿は徳川氏によって取り壊され、長い間荒廃したままでありました。現在の社殿は、旧社地の西、方広寺境内に明治13年に再建されました。
 本殿の正面にある唐門(国宝)は旧伏見城から南禅寺金地院に移したものをさらに移したとものであります。社宝にも秀吉・秀頼の文書など、桃山時代の貴重な遺物が、境内の宝物館に保存されています。
豊国神社 (左)唐門扁額(拡大) (中)本殿(拡大) (右)鳥居(拡大)
   
〔今熊野神社〕 京都市東山区今熊野椥の森町
 
 今熊野(いまぐまの)神社の祭神は、伊弉冉(いざなぎ)命であります。紀州熊野権現を深く信仰した後白河法皇が、永暦元年(1160)法住寺殿内に、熊野権現を勧請し、平清盛に命じて社殿を造営させたのが、当社の起こりであります。応仁の乱後荒廃し、のち後西天皇の御代(1654〜63)に再建されています。
 高倉天皇が中宮徳子のため、当社に安産を祈願されてから、安産の神として女人の信仰を集めるようになりました。境内にそびえる樟の巨樹は創建当時のものといわれ、不老長寿や厄除けの信仰もあります。
 神社そのものの社殿は、寛文年間(1661〜72)に再建されたもので、昭和のはじめに修復をしています。拝殿の桟格子には沢山のカラスの絵馬が掛けられています。左右に対に植えられている椥(なぎ)が青葉を茂らせています。カラスは熊野の神鳥、また古来熊野詣でには椥の葉をかざしていくのを慣わしとしていました。
 現在の本殿の裏へまわると、古びた祠3殿が並んでいます。かつて熊野の神は十二柱であったので、広大な境内に鎮座していたと思われますが、祭儀がすたれた室町時代に応仁の乱の兵火によって衰退したと思われます。
今熊野神社 (左)本殿 (右)神木・樟
 
〔滝尾神社〕 京都市東山区本町十一丁目
 
 大国主命を祭神としています。旧村社で、現在は深草の藤森神社の境外末社であります。社伝によれば、当社ははじめ東山の聾谷(つんぼだに)にありましたが、応仁の乱後、日吉坂に移され多景社(たけのやしろ)と称しました。天正14年(1586)大仏殿建立に際してさらに現在の地に移されました。これにより一に聾の社と呼ばれていました。一説
に三ノ橋の西北詰め(本町十七丁目)にあった武鵜社(たけうのやしろ)を移したともいわれ、当社の創祀については諸説があって不詳であります。例祭は6月22日でありますが、5月5日の藤森祭には深草よりここまで神輿の渡御があります。
 俗に大丸稲荷と言われるのは、大丸百貨店の始祖下村氏が当社をいたく崇敬し、歴代にわたって、寄進や社殿の造営、修復などを行ったからであります。今の本殿は天保10年(1839)の建立で、切妻造り、こけら葺、前面に1間の向背を付し、桃山風の豪華な欄間彫刻をほどこしています。また、絵馬舎には江戸時代の大丸店を描いた扁額が架けられていて、京都の古い町屋をしのばせるものであります。
滝尾神社 (左)江戸時代の大丸店絵馬(拡大) (右)本殿
 
〔城南宮〕 京都市伏見区市下鳥羽中島宮ノ前町
 
 祭神は息長帯日売(おきながたらしひめ)命・八千戈(やちほこ)神・国常立命の三柱であります。創祀には諸説がありますが、平安遷都の際王城の南の鎮護社としたとか、城南寺の鎮守社として創始されたとも伝えられています。
 社伝によると、神功皇后の新羅侵攻のさいに、その勝利を八千矛(やちほこ)神≠ノ祈り、その霊を船の御纛(みはたたぎ)に奉請したものを、のち宮中におさめられていましたが、これを改めて御神体として神社
を建て、八千矛神と神功皇后の2柱が祀られたということです。
 今の城南宮の日月星三光の神紋こそは、その御纛に付せられた旗印といわれています。そして、平安遷都に際して、改めて国常立尊を合祀して都の南方鎮護の神としたと記されています。
 歴史上の初見は、延長3年(925)に城南寺の鎮守社と記されています。応徳3年(1086)には、鳥羽離宮造営の際に城南寺とともに離宮内にその鎮守として祀られたとあります。往時は城南寺が有名で、その祭礼は城南寺明神御霊会とよばれ、競馬(くらべうま)・流鏑馬(やぶさめ)が盛大に行われました。この祭礼は城南祭として今も残っています。
 承久の乱の際、後鳥羽上皇はこの行事に名を借りて諸国から兵を集めました。応仁の乱で城南寺は荒廃しましたが、鎮守社は残って産土神となり、明治3年(1870)城南離宮皇神と称し、いつしか城南宮と呼ばれるようになりました。境内末社には真幡伎(まはたき)神社と芹川神社があります。
 例祭は10月中旬の日曜日に行われる城南祭(まつり)で、3基の神輿が町内を巡行します。往時は地域の水争いが爆発して「血祭」とも呼ばれ、また餅を供するので「餅祭」ともいわています。方除けの神として信仰されています。
 昔、街道で茶屋女の今村せきが、傘の裏にあんこ餅を並べて売ったのにちなんだ「おせき餅」が名物であります。
城南宮 (左)摂社真幡寸神社(拡大) (右)本殿 
 
〔羽束師神社〕 京都市伏見区羽束師志水
 
 羽束師(はづかし)は、かつて土器を製作した泥部(はつかしべ)一族の羽束首(はつかのおびと)の居住地と考えられ、その一族を祀ったと考えられているのが羽束師神社であります。祭神は高御産日(たかみむすび)神・神御産日神であります。社伝では雄略天皇21年の創始と記し、『続日本記』の大宝元年(701)の条に記事がみえ、式内社のなかでも有数の大社であり、羽束師坐高御産日神社であります。
 祭神の高御産日神は、『古事記』によれば神格が極めて高く、天照大御神をたすけて活躍した神であります。ムスビというのは結ぶ∞産ぶ≠ニ同意語で、生成する神、すなわち万物を産み、その成長をたすける神という意味であります。したがってムスコ”ムスメ≠フ語も、産(むす)んだ男、産んだ女というわけであります。
 『続日本紀』巻3には、文武天皇の「大宝元年(701)四月丙午(ひのえうま) 山背国葛野郡 月読神、樺井神、木島神、波都賀志(はつかし)神等 稲神 自今以後給中臣氏」とあり、また『三代実録』には、貞観元年(859)9月8日庚申(かのえさる) 山城国月読神、木島神 羽束志神 水主神 樺井神 和岐神等遣使奉幣ス為ニ風雨ノ祈ト」と記されています。ここで神稲とか風雨を祈るというのは、この羽束師の土地が宮中の菜園であったので、農作物の成長を祈るところから高御産日神を祀ったと考えられます。
 社殿のあるところは赤土でありますが、このあたりの田は黒い粘土質で、米と蔬菜の生育に最適の条件が備わっています。
 現在、氏子は古川・志水・菱川の3集落でありますが、この地域の土は壁土や土器・瓦などにも適していました。ハツカシはハニカスで、ハニ≠ニは埴土(はに)≠ナ粘土のこと、カス≠ヘ水に浸して練るという意味があります。 
 今は三間社神明造りの本殿と割拝殿があるだけです。このあたりが桂川と鴨川の合流点で、たびたびの水害になやまされて凋落したと思われます。
 慶長元年(1596)ごろ、桂川に太閤堤ができて、このあたりの水田が湿地になるのを見るに見かねて、江戸時代に羽束師神社の神官であった古川為猛は、苦心の末17年をかけて羽束師川の改修をしています。境内の森は羽束師の杜(もり)として歌枕となっています。例祭は10月18日に行われます。
 当社の表参道を南に下って東側に北向見返天満宮があります。延喜元年(901)、菅原道真が大宰府への左遷がきまり、草津から京都を出発するとき、羽束師神社に参拝しています。そして道真を摂州の海港まで送ったのが古川船でありました。そのとき菅原道真が京都と最後の別れを惜しんだところに社殿が建てられています。
羽束師神社 (左)由緒(拡大) (右)鳥居扁額(拡大)
 
〔久我神社〕 京都市伏見区久我森の宮町
 
 桓武天皇の長岡遷都にあたり、王城の艮(うしとら)の守護神として祀られ、延喜式内社久何(くが)神社として創建されました。立地条件が下賀茂神社と同様に、桂川と鴨川の合流点付近にあるためか、賀茂神社のつながりが深く、祭神も下賀茂神社と同様に建角身神・別雷神・玉依姫神の3柱を祀っています。
 この神々は、山城国久我造(くがのみやつこ)として北山城に勢力をもっていた久我氏の祖神とするもので、久我氏は、古くは大和の鴨族の流れをくむものといわれています。鴨族の本拠は大和国葛城山麓でありますが、山城国相楽郡の岡田加茂に進出し、木津川をさかのぼり、さらに鴨川をさかのぼって久我の国の山麓にたどり着いたと『山城風土記』は伝えています。その氏神として、この地方の久我氏が祀ったのが久我神社で、清和天皇の貞観元年(859)、従五位下を授けられ、延喜式内社に列しました。
 現在の本殿は、三間社流造桧皮葺であります。天明4年(1784)の建造であります。このあたりは鳥羽作り道が南にのびて久我畷(こがなわて)といい、元弘3年(1333)、六波羅攻めの際、関東から六波羅増援のため入洛した北條方の名越高家が赤松円心・千種忠顕の軍と戦って戦死した久我畷の戦の地であります。
久我神社 (左)鳥居(拡大) (右)境内
 
〔菱妻神社〕 京都市伏見区久我石原町
 
 永久元年(1113)に久我家を称した太政大臣源雅実(まさざね)が奈良の春日大明神を勧請したのに始まります。久寿元年(1154)、はじめは火止津目(ひしづめ)大明神と呼ばれていました。それが転じて「菱妻(ひしづま)」となったといわれています。祭神は天児屋根命で上久我の産土神として崇められています。
 久我氏の勢力が旺盛なときは、神領が多く、社殿も壮大をきわめ、村上源氏や藤原氏らの公卿の牛車が列をなして参詣したといわれています。摂社には、村上源氏の祖、村上天皇の皇子具平(ともひら)親王を祀っている具平の宮、住吉社、粟島社、虫(む)八幡社などがあります。
 この地は石原といいますが、もとの社地のあった桂川の州原が転じたもので、ここが洪水にあうので現在地に移りました。当社は、かつての式内社、簀原(すはら)神社の後身といわれています。
(左)久我神社駒札(拡大) (右)与杼神社本殿
 
〔与杼(よど)神社〕 京都市伏見区淀本町
 
 『三代実録』貞観元年(859)の条に社名がみえる古社で、初めは水垂村の大荒木杜(もり)に鎮座し、大荒木社とも水垂社と称していました。水上運輸の守護神でありました。古くは大与等(おおよど)氏の祖先神を祀ったと考えられています。明治初年に水度神社と称し、明治10年に与杼神社と改名しています。明治33年に淀川改修工事にあたり現在地に移りました。
 旧社地のあった水垂村は、桂川と鴨川・宇治川の合流点に位置し、昔、淀の津≠ニ呼ばれました。したがってこの重要な地点に式内社が設けられる理由があります。
 社伝によると、応和年中(961〜63)、僧千観内供が肥前国佐賀郡の川神を勧請し、このとき村上天皇がとくに正一位淀姫大明神の神号を賜わりました。祭神には淀姫大明神、高皇産霊神(たかみむすびのみ)・速秋津姫を祀っています。この淀姫大明神というのは、航海の神である神功皇后の妹にあたる豊姫(とよひめ)(トヨヒメが訛ってヨドヒメとなる)であります。そして相殿に自在天神菅丞相之霊(菅原道真)と千観内供を祀っています。
 古代において淀津(水垂)から淀川を渡り対岸の美豆(みず)に出て、綴喜郡奈良村から奈良坂を越えて奈良に向かう古代山陰街道の重要な交通の要衝でありました。
 拝殿は明治33年に神宮寺から移築しました。重文であった旧本殿は、昭和50年に花火の落下で焼失し、現在の本殿は5年後に再建されました。10月23日に行われる祭礼淀祭には神輿3基が町内を巡行します。

≪月刊京都史跡散策会48号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その5) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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