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●第52号メニュー(2010/4/18発行)

【巷の小社の神々】南山城編

〔棚倉孫神社〕 〔高神社〕 〔玉津岡神社〕 〔佐牙神社〕

〔和伎神社〕 〔祝園神社〕 〔相楽神社〕


〔棚倉孫神社〕 京田辺市田辺棚倉
 
 棚倉孫(たなくらひこ)神社は、田辺町の中心街より北、府道西側の高所にあります。祭神は饒速日(にぎはやひ)命の子天香古山(あめのかごやま)命で、天照大御神の曾孫で、天つ神の直系であります。『古事記』や『日本書紀』によると天孫降臨に父命(饒速日命)とともに降臨し、紀州熊野に住み神武天皇の東征のとき、布都御魂(ふつのみたま)の神剣を奉り大功をたてられたとあります。
旧天神ノ森村の産土神で、もとは天神社または天満宮とも称していました、明治に棚倉孫神社と改称しました。
 棚倉とは、穀物を収蔵するにあたって湿気をさけるため、床を設けた倉庫で、養蚕にも用いられていました。綴喜郡は古くから渡来人による養蚕の盛んなところであったので、その倉庫を神格化したのが当社の起こりといわれています。一説に祭神天香古山命は一に高倉下(たかくらじ)命または手栗彦命(たなくりひこのみこと)ともいい、手栗彦がなまって棚倉孫になったといわれますが、明らかではありません。
 創祀は不明ですが、貞観元年(859)に従五位上を与えられ、『延喜式』の大社であります。
 本殿(府登・桃山)は一間社、流造り、桧皮葺ですが、南山城ではもっとも古い桃山時代の建築です。拝殿は3間2面入母屋造り、前後に唐破風の向拝をつけ、桧皮葺の立派な建物であります。社務所は元神宮寺で明治初期に廃された松寿院を改めた社家住宅の貴重な遺構であります。
(左)棚倉孫神社の神輿 (右)棚倉孫神社正面(拡大)
 
〔高神社〕 綴喜郡井手町多賀天王山
 
 高(たか)神社は、多賀集落の東方、南谷川をへだてて天王山の中腹に鎮座する旧郷社で、祭神は伊弉諾(いざなき)命・伊弉冊(いざなみ)命・菊理姫(きくりひめ)命の三神であります。
 社伝によれば、当社は欽明天皇元年(540)に、兎手(いで)の玉津岡の東岳に神霊が降臨し、そこに社祠を建てて祀っていましたが、天平3年(731)、左大臣橘諸兄(もろえ)によって現在地の高村の下津(しもつ)磐(いわ)根(ね)に移したと伝えています。祭神は高御産日(たかみむすび)神、伊弉諾尊、素盞鳴(すさのお)尊を祀ったと伝えています。なお玉津岡神社の創建譚と酷似、玉津岡神社の場合の神霊は下照比売命でありますが、一つの山塊の北側に鎮座する高神社と、南側に鎮座する玉津岡神社ともに同じような創建譚ができたと推察されます。
一説に和銅4年(711)高句麗系渡来人高氏が多賀明神之社として、祖神を祀ったといわれています。中世には大梵天社(だいぼんてんしゃ)と称し、多賀村の産土神として崇敬されていました。明治維新に際し、『延喜式神名帳』にみえる「綴喜郡高神社」に比定され、今の社名に改めました。
社伝によると、多賀集落の発展に伴い、和銅4年(711)に東村宮として多賀明神社が字川辺に建立され、次いで神亀2年(725)に字西畑に久保村宮が、翌年に字綾の木に谷村宮がそれぞれ建立されました。
 聖武天皇の天平3年(731)、勅願によって高御産日神の名より「高」の字をとって「多賀神社」を「高神社」に、「多賀村」を「高村」と改称しました。元慶2年(878)8月、谷村宮龍神祭のとき死者の出る喧嘩騒動が起りますが、その後3村合議の上、現在地の天王山に統合されて祭礼を行うようになりました。宇多天皇から「大梵天王社」の勅額を賜わり、永く「高村大梵天王社」と呼ばれていました。醍醐天皇の御代には神輿か3基あったと記されています。仲恭天皇の承久3年(1221)の大乱の後、「高村」を「多賀村」に、「高神社」を「多賀神社」に改称しました。寛元3年(1245)には霊験顕著(れいけんけんちょ)な神として、正一位勲一等の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制度の改正により、多賀神社は現在の高神社に改正されました。
 本殿は、慶長9年(1604)の再建で、三間社、流造り、桧皮葺で、建築細部にわたって華やかな桃山風の装飾がほどこされています。
 境内末社の祈雨社は、もと当社東方の山中、竜王の滝のほとりにありましたが、明治の中ごろに移したものといわれ、古来雨乞い祈願の信仰があります。
 所蔵品に「高神社文書」四巻(鎌倉〜江戸)付「高神社流記写」一巻(江戸)があり、当社の来歴の一端がわかります。流記写の原本は鎌倉時代のもので、遷宮式の際、紀州の石王座、宇治の若石座が散楽を行っている記事があり、中世猿楽座の初見史料として注目されています。ちなみに近年同社床下から木造獅子頭(鎌倉)が発見され、当社の獅子田楽の伝統を証拠づける貴重な資料であります。
 この地と玉水との間にはかつて大和街道沿いに贄(にえ)野(の)(新野(にいの))の池があり、『枕草子』にも「池はにへの池」と書かれている景勝地でありました。
 治承4年(1180)、宇治で敗れた高倉宮以仁王(もちひとおう)はこの池を過ぎるころ討たれたと『愚管抄』が記しています。この池は中世には消滅しています。
(左)高神社の絵馬(拡大) (右)高神社の拝殿(拡大)
 
〔玉津岡神社〕 綴喜郡井手町井手東垣内
 
 玉津岡(たまつおか)神社は、井出山(大山)の中腹に鎮座する井手町の産土神であります。井出山は神社の背後にそびえる高さ348mの山で、一に玉岡山とも大山とも呼ばれます。井手玉川をはさんで南の山吹山と相対する優婉な山で、古来、その山麓に多くの清泉があることから井出山と呼ばれていました。
 嘉吉元年(1441)奈良興福寺の文書には、椋本天神の名で記され、欽明天皇元年(540)8月に下照比売命が兎手玉津岡の南峰に降臨し、天平3年(731)左大臣橘諸兄によって下津磐根に遷座、文応元年(1260)に現在地に移したと記されています。
 社伝によれば、祭神下照比売命は、欽明天皇元年(540)8月に玉津岡の南峰に降臨されました。ここに宮居を建ててお祀りしたのが「玉津岡の社」であり、玉津岡神社の起こりであり、その後、聖武天皇天平3年(731)9月に、井堤(いで)左大臣橘諸兄は、橘一族の氏神として椋本天神社を創祀したと記されています。
 もとは椋本天神・玉岡社・八王子社とも呼ばれていましたが、明治11年に付近の五社を合祀して祭神六柱とし、名称を玉津岡神社と改称しました。
《註》付近の五社は、天神社(祭神 下照比売命・味耜高彦根命)。田中社(祭神 少彦名命)。春日社(祭神 天児屋根命)。八坂社(素戔鳴命)。天満宮(祭神 菅原道真)。
 延喜の式外社でありますが、当地方一帯の産土神として古くから崇敬されていました。境内には一間社、春日造り、桧皮葺の本殿(貞享4年11687造営)は、南山城地方における数少ない江戸中期の貴重な遺構であります。このほかに境内には、拝殿・絵馬社・大神宮社(一間社・流造り・銅板葺)などがあり、このうちの橘社は橘諸兄を主神として、その後裔と称する楠正成を配祀したもので、もと美努(みぬ)王(諸兄父)邸にあったのを移したと伝えています。
(左)玉津岡神社参道入口 (右)玉津岡神社の社殿(拡大)
 
〔佐牙神社〕 京田辺市宮津佐牙垣内
 
佐牙(さが)神社は、旧奈良街道に沿った江津集落の丘陵先端に一叢の森を負って鎮座する旧村社であります。
社伝によれば、敏達天皇2年(573)に酒造りの神佐牙弥豆男(さがみつお)・佐牙弥豆女の2神を勧請したのが起りといい、造酒司(さけつくりのつかさ)の奉幣があったと伝えています。また東朱智社とも呼ばれていました。『延喜式神名帳』にみえる綴喜郡十四座のうちの「佐牙乃神社」に比定されました。
当社はもと付近の旧山本村(遠藤川の北側府道より東)にありましたが、桓武天皇延暦13年(794)にこの地に移したといわれ、平城天皇大同元年(806)神領の寄進があり、延喜の制には小社に列せられました。旧地は御旅所とし、毎年10月17・18日の例祭には神輿の渡御があります。この付近は往古佐牙野と呼ばれ、筒城野の東、南は裾野川(現煤谷川)、北は朱智川あたりまでの地域の名称でありました。また佐牙垣内の名が江津に残っており、社名と地名が同一であります。『古事記』には開化天皇の条に、山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ)の名がありますが、この荏名津は旧名江の津(現江津)であろうと推察されます。
本殿(重文・桃山)は、左右2殿からなっています。右に佐牙弥豆男神、左に佐牙弥豆女神を祀っています。建物はともに一間社、春日造り、桧皮葺て、向拝は天明6年(1786)の後補であります。永正6年(1509)12月、菱田監物と森村信濃守の土地争いで兵火にかかり、永正11年8月、山本主馬介義古一族によって再建されましたが、ふたたび、天正4年(1576) 10月に火災で焼失しました。同13年(1585)9月に再建されました。
身舎三方にとりつけた6個の蟇股は、その輪郭は鎌倉風のものであり、内部の彫刻もまた左右相称的の図案からなり、とくに右殿正面の「柏の葉」と「ふくろう」の彫刻は秀逸であります。
武埴安彦破斬旧跡の碑と各社標碑
  拡大@ 拡大A 拡大B 拡大C
〔和伎神社〕 木津川市山城町平尾里屋敷
 
 和伎(わき)神社は、正しくは和伎坐天乃夫支売(わきにいますあめのふきめ)神社といいます。また一夜にして湧出した森の中にあるとの伝承から「涌出(わきいで)ノ宮」と称するようになりました。
 社伝によれば、天平神護2年(766)、伊勢国度会郡五十鈴川の舟ヶ原より天乃夫支売神を勧請し、ついで田凝比(たごりひめ)・市杵島比(いちきしまひめ)を遷し、地名により社名にしたと伝えています。「夫支」は「吹き」で風雨を指すといわれ、雨をもたらす農耕の守護神とし崇められています。延喜の制には大社に列せられ、4度の官幣ならび祈雨祭の幣にあずかっています。古くから朝廷や武門の崇敬を集めていました。
 昭和44年、境内地の発掘調査で、多数の弥生式土器片や石器類が出土し、弥生時代の集落跡であることが判明しました。今もなお綺田(かばた)・平尾(旧棚倉村)の産土神として崇敬されています。
 本殿(府登・江戸時代)は三間社、流造り、向拝に竜や牡丹の彫物のある蟇股を配し、彩色と装飾による華麗な意匠となっています。また本殿の前左右に四角形石灯籠があります。境内は多くの樹木によって覆われ、よく「鎮守の森」としての景観を保っているので、文化財環境保全地区となっています。
居籠(いごもり)祭(国無民)
 毎年2月15日より3日間に行われる当社の祭礼であります。南山城地方最古の祭りであります。祭日の間、氏子は物音を立てずに斎(い)み籠(こも)もることからの呼称であります。
伝えによると、祭りの起こりは崇神天皇に謀反した武埴安彦(たけはにやすひこ)(長髄彦(ながすねひこ))の乱に際し、その敗死後、この地で戦死した豪族の霊を慰め、また悪疫の流行に悩んだ村人が病気平癒のため忌みつつしんだのに始まります。一説に鳴子川東方山中から大蛇(水神)があらわれ、水害をもたらせるので、これを退治して、その霊をなぐさめるためといわれ、期間中はいっさい外出をやめ、物音を立てることを禁じる風習が残っています。
 祭りは神社での神事と氏子の3日間の居籠(いごもり)からなり、神社ではお田植え・お神酒だし・お膳だし・大松明などの行事が古式豊かに行なわれます。
(左)和伎神社の鳥居と拝殿(拡大) (右)和伎神社本殿(拡大)
 
〔祝園神社〕 相楽郡精華町祝園柞の森
 
 祝園(ほうぞの)神社は精華町の東部、木津川左岸に近い柞(ははそ)ノ森に鎮座する祝園集落の産土神で、祭神は天児屋根命他二神(健御雷命・経津主命)を祀っています。江戸時代には春日社と称していました。
 『日本書紀』巻五によれば、崇神天皇の御代に武埴安彦(たけはにやすひこ)は天皇にそむいて戦い、敗れて反乱軍の多くの兵士の屍骨(しこつ)があふれたところが羽振苑(はふりその)といわれるようになったとあり、この羽振苑が転訛して祝園という地名になったといわれています。
 また、孝元天皇の皇子、武埴安彦が朝廷に反逆を企て遂にこの地で討伐されますが、亡魂は柞ノ森にとどまり、人々を悩ませました。聖武天皇はこれを撲滅しようとしましたが、鬼神の仕業なれば如何ともしがたく、称徳天皇の御代に、神力をもってこれを鎮めよとの勅命によって、大中臣池田六良広綱、宮城七良朝藤が、祝部(はふりべ)となり、神護景雲4年(770)正月、春日の大神を勧請して創祀されました。かくして斎戒沐浴精進祈願(居籠祭の起り)により悪霊を撲滅したとあります。
神社としては貞観元年(859)に従五位下の神位を賜わり、延喜の制には大社に列し、祈雨祭の幣にあずかっているので、農耕守護神として崇敬されました。現在の祭神は後世の勧
請によるもので、真の祭神ではありません。
 毎年正月の初申の日より3日間にわたる特別祭祀を居籠祭といいます。和伎神社の居籠祭と同じく、武埴安彦らの霊をなだめ、また戦場となって荒らされた田畑の復興と五穀豊穣とを祈る目的で行われます。祭りの期間中の氏子は一切の物音をたてることを禁じ、謹慎して神事の終了を待つといわれ、音を立てると悪鬼が来ると信じられています。祭りの期間中は、子供たちはもとより、牛・馬・鶏にいたるまで隣村に預けたといわれています。
(左)祝園神社 (右)祝園神社の参道(拡大)
 
〔相楽神社〕 相楽郡木津町相楽清水
 
 相楽(さがらか)神社は、相楽集落にある旧相楽村の産土神で、もとは八幡宮と称し、現在の祭神は足仲彦(たらしなかつひこ)命(仲哀天皇)・気長足姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)・誉田別(ほむだわけ)命(応神天皇)であります。明治10年(1877)式内相楽神社と改称しました。一に「さがなか」とも称しました。
 『古事記』によれば、垂仁天皇に召された円野(まどの)比売は美しくなかったとの理由で送り返されたのを恥じて、「山代国の相楽(さからか)」に到ったとき、木の枝に取りさがって縊死(いし)しようとしました。その木を懸木(さがりき)といったのを、今は相楽というと記しています。この地は相楽郡発生のもととなったところであります。
当社の創祀年代は明らかでありませんが、おそらくこの地方の先住民が農耕の守護神として奉祀したのが起こりであります。毎年正月15日に行われる当社の御田(おんだ)は、年頭の宮座の行事で、月々の降水量を占う「豆焼」、早稲・中稲・晩稲の作柄を占う「粥占」、稲作の過程を模して豊作を祈る「御田」、竹串に多くの餅を刺して花に見立てたものを奉納する「餅花」、年間の降水量を占う「水(みず)試(ためし)」などが行われます。いずれも稲作や水の状況を占うものです。御田は稲作の過程を模擬する予祝儀礼であります。これらの正月行事には中世的な宮座祭祀のあり方を伝えるものとして、京都府無形民俗文化財に指定されています。
本殿(重文・室町)は三間社、流造り、屋根は桧皮葺のととのった社殿であります。身舎正面三間には吹寄格子戸をはめ、鴨居と長押の間には繊細優美な唐草模様の透彫欄間を用いています。とくに欄間上の??や向拝頭貫の上にみられる三つの蟇股は桃山風の華麗なものであり、また欄間の妻飾にも室町時代の特色をよくあらわしています。
(左)相楽神社本殿細部(拡大) (右)相楽神社本殿と春日社(拡大)
 

《月刊京都史跡散策会》【巷の小社の神々】南山城編 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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