号数索引 | 創刊号 | 第2号 | 第3号 | 第4号 | 第5号 | 第6号 |
第7号 | 第8号 | 第9号 | 第10号 | 第11号 | 第12号 | |
平成19年 | 第13号 | 第14号 | 第15号 | 第16号 | 第17号 | 第18号 |
第19号 | 第20号 | 第21号 | 第22号 | 第23号 | 第24号 | |
平成20年 | 第25号 | 第26号 | 第27号 | 第28号 | 第29号 | 第30号 |
第31号 | 第32号 | 第34号 | 第35号 | 第36号 | ||
平成21年 | 第37号 | 第38号 | 第39号 | 第40号 | 第41号 | 第42号 |
第43号 | 第44号 | 第45号 | 第46号 | 第47号 | 第48号 | |
平成22年 | 第49号 | 第50号 | 第51号 | 第52号 | 第53号 | 第54号 |
第55号 | 第56号 | 第57号 | 第58号 | 第59号 | 第60号 | |
平成23年 | 第61号 | |||||
平成24年 | 第62号 | 第63号 | 第64号 | 第65号 |
●第17号メニュー(2007/5/20発行) |
【聖徳太子信仰のながれ(その3)《法隆寺中編》】 |
法隆寺 西院伽藍 俯瞰 |
しかし、この草創ころの法隆寺は、今日の法隆寺ではなく、今日、若草伽藍跡とよばれている地に、四天王寺式の伽藍配置をもつ寺でありました。 法隆寺にはその縁起や宝物について記された記録類が多数残っています。そのうち最も早いものは、創建後、百数十年ほどのちの天平19年(747)に書かれた『法隆寺縁起并流記資材帳』で、ここには法隆寺が焼けたということは見当たりません。その後の藤原・鎌倉時代の多くの文書にも、法隆寺は聖徳太子が建立した寺で、一度も火災にあってない寺であると記されたものがあります。 ことに、鎌倉時代に書かれた『古今目録抄』には、平安時代に講堂が焼けたとき、その再建にあたって、太子のような聖人の建てた講堂でも焼けるのだから、凡人の建てた堂はいつ焼けるかわからないと揶揄しています。その際に太子建立の金堂や塔にまで火が移ることを憂慮して再建の講堂は、昔の位置よりも離して建てたと述べられています。 このように、明治時代まで、寺僧はもちろん、一般の参拝者も、法隆寺の金堂・五重塔・中門などは、飛鳥時代に聖徳太子建立のままの建物であるとかたく信じられていました。ところが明治になってから、次第に盛んになってきた実証的歴史学は、従来の伝説や寺伝に、きびしい批判が加えられるようになりました。法隆寺についても同様でありました。 明治20年に、今日の法隆寺の建築は、聖徳太子の建立のままではなく、いちど焼け、その後の再建であると主張したのは、近代的歴史学の先駆者黒川真頼氏や小杉榲邨氏などでありました。その根拠は『日本書紀』に天智9年(670)4月30日の夜半、法隆寺は炎焼し、一屋余すところ無く焼けてしまったと書かれていることにありました。また、『色葉字類抄』や『七大寺年表』というような書物には、和銅年間(708〜14) 法隆寺を造るという記事さえあります。だから太子建立の法隆寺は、天智9年にいちと焼け、和銅年間に再建されたのが、今日の法隆寺であると主張しました。 |
聖徳太子絵伝 部分(拡大) |
また、時を同じくして、美樹史学者平子鐸嶺氏により、文献的にも天智9年法隆寺火災の記事は『日本書紀』の編者が、推古18年火災のことをあやまって、天智9年の条にさしこんだものであると主張しました。この説は干支一運錯簡説とよばれています。 7世紀には、まだ日本では、年号の無いときが多く、年代は、十干十二支で数えていました。この干支(えと)というのは、都合の悪いことに60年に一回りして同じ干支にもどってきます。ところが『太子伝補闕記』をみると、庚午年(推古18年)に法隆寺に火災があったと記されています。『日本書紀』の編者は、この庚午の年を誤って、あとの60年(天智9年)のところへ入れてしまったのであるという説であります。 また、喜田貞吉氏は、平子氏の干支一運錯簡説に対しては、『太子伝補闕記』は、根拠の無いことをたくさんのせているもので、これをもって『日本書紀』の記事を訂正することはできないと。むしろ『日本書紀』をもって、補闕記の記事が干支一運があやまっていることを訂正すべきであると主張しました。 |
西院 聖霊院 内部 |
また、『日本書紀』の編纂されたのは天智9年よりわずかに50年後の養老4年(720)であって、このころには、まだ法隆寺の火災を見た人もたくさん生き残っていたはずであります。こんな近くでの出来事を、書紀が誤るはずが無いと信じ、法隆寺が再建されたものであると強調しました。これより、関野・喜田両氏を中心に、数十人の学者により再建・非再建の論争が繰り広げられました。 大正時代の終わり頃になり、この論争を刺激するような二つの事件がおきました。その一つは防火設備の必要から法隆寺内に水道工事をすることになり、寺内の各所が掘り起こされましたが、金堂や五重塔のあたりから焼け土が出てきません。もう一つは、当時奈良県の建築技師をしていた岸熊吉氏により、五重塔の心礎のところに大きな空洞があることが発見されました。彼は、その中には入り、その下に舎利容器と海獣葡萄鏡があるのを見つけました。 西院伽藍の中心部から焼け土が出ないことは、非再建論に有利でありますが、海獣葡萄鏡は中国の隋・唐時代になって流行した文様であるので再建論に有利であります。 ところが、昭和時代に入ると、法隆寺は二つあったという説が出てきます。関野氏は、五重塔の心礎を調査した際、かつて法隆寺普門院の裏手にあった若草伽藍の心礎と呼ばれている礎石が、まったく同形でありました。また、今日法隆寺の金堂には、二つの本尊(中の間の釈迦三尊像と東の間の薬師如来像)が安置してあるのが不思議であると考えました。こうした疑問から案出されたのが、関野氏の2寺説でありました。 |
東院 伝法堂 内部 |
|
昭和10年には、関野氏が死去し、同14年に関野氏の弟子にあたる足立康氏が新非再建論が登場します。 |
|
長い間つづいた法隆寺論争は、発掘調査によって、現西院寺域の東南隅に残っていた塔心礎を中心とする若草伽藍跡の存在が明らかにされ、一応の決着がつくことになりました。 若草伽藍は塔と金堂が南北に並ぶ飛鳥時代初期の配置をもち、出土瓦も金堂のものは飛鳥寺の范型を彫りなおして造っています。ここが創建法隆寺であることは疑いもなく、その寺域も現聖霊院南方の鏡池中央付近を西北隅として、東は聖徳會舘のすぐ西側、南は寺外の民家密集地にわたる広大なものであることがわかってきました。 では、西院伽藍は天智9年以後、いつ、誰が造ったのであろうか?『法隆寺縁起并流記資材帳』には持統7年(693)仁王会が行なわれた際に天皇が施入した天蓋が記録され、また翌年には金光明経が施入されています。この頃には金堂が完成されています。五重塔も天武14年(685)に計画されて慶雲3年(706)に竣工した法起寺三重塔に比べて古様で、天武朝の末年頃には着手したものであると考えられています。 五重塔の初重に安置する塑像群と中門の仁王像は和銅4年(711)に造ったことを『資財帳』に記すので、この時には回廊に囲まれた西院伽藍の中枢部が完成したことがわかります。 |
しかし、西院の創建には謎が残っています。焼失後の再建であれば当然旧寺地で行なうはずなのに、尾根を削り両脇を埋め立てる大規模な造成工事をして新しい寺地をひらいたのはなぜか?金堂の中央本尊が聖徳太子と妃の追善のため造られた釈迦三尊像なのはなぜか。 皇極2年(643)蘇我入鹿の襲撃によって山背大兄王をはじめ太子一族が亡んだあと、誰が西院を造営したのか?など多くの問題が残されています。 建築を見ても金堂と五重塔には造営年次にかなりのへだたりがあります。そこで元来は、入鹿に焼かれた斑鳩宮にあった釈迦像を祀るために金堂だけは早くから造られ、火災後はこの堂を中心に新しい伽藍が営まれたのではないか、とする説も生まれています。 西院伽藍の造営は和銅以後も継続しています。経蔵、鐘楼、政屋(現食堂)、東大門などは異なる天平様式で建築されています。『資財帳』には僧房4棟のほか多くの付属建物や倉が記載され、天平年間(729〜749)には伽藍が完備したことがうかがうことかできます。 延長2年(925)に講堂と鐘楼、北室が焼失しました。これが法隆寺としての最初の災害であります。講堂の再建は65年後の正暦元年(990)に完成しています。 平安時代後期には、建物の破損が進み、永承5年(1050)に西円堂、康和〜天承年間(1099〜1113)に上御堂、綱封蔵、東室が倒壊しています。しかしその中でも太子信仰が大きく発展したのを受けて、東院絵殿内の太子絵伝(1069)や聖霊院の太子および侍者像などが造られ、東室は保安2年(1121)の再興に当って南端2房分を聖霊院としました。また、弘安7年(1284)には聖霊院を造りなおして現在の建物とし、上御堂を文保2年(1318)に再建しました。現在の西院伽藍中心部の建物は、ほぼこの時以来変わっていません。伽藍の整備に伴って貞永元年(1232)金堂西の間の阿弥陀如来像が造顕され、翌天福元年(1233)、東の間の天蓋も造られています。 |
(左)聖徳太子絵伝 部分 (右)天寿国繍帳 部分 |
近世には慶長5年(1600)から同11年にかけて諸堂の大修理があり、元禄5年(1692)から保永4年(1707)にも修理が行なわれました。前者は豊臣秀頼、後者は徳川将軍家で、なかでも桂昌院の帰依によるもので、これらによって伽藍が保持された功績は大なるものがあります。西院、東院とも大垣の大半は元禄修理で再築されています。 明治11年(1878)宝物を皇室に献納し、下賜金を受けて廃仏毀釈の混乱をしのぎましたが、明治17年(1884)フェノロサによって夢殿本尊の秘仏が開扉されてからは、政府による文化財の保護が進み、指定建造物については今日までにすべて修理が終わっています。この間昭和24年(1949)に金堂は火災で下層軸部と壁画を焼損しましたが、修理中で他は既に解体してあったため、焼損部を新材に取替えて復旧しました。 上宮王院の名をもつ東院は、僧行信が斑鳩宮の跡地に、聖徳太子の徳を偲んで天平10年(728)頃建立した寺で、いわば法隆寺の別院であります。夢殿を中心に南の中門から発する回廊でこれを囲い、その後方に太子所持の経典・宝物を納める宝造殿(七丈屋)と講堂に当る伝法堂を配置しています。八角円堂はもともと故人追善のための建築形式で、屋根の「宝形」が舎利瓶を象った方瓶と天蓋の上に、宝珠・光明を飾る特異な形式であることは、この堂の性格をよく表わしています。 |
仏殿(夢殿)と講堂の間に宝蔵殿を置くのも異例で、救世観音を太子等身とする伝えのとおり、この伽藍が太子を祀る目的で建てられたことがわかります。天平創建当初は夢殿と伝法堂か瓦葺であったほかは、南門・中門・回廊・宝蔵殿などがすべて掘立柱、桧皮葺の建物でありました。これはおそらく太子の住まわれた宮殿への連想を意図したものであらうと思われています。 創建の伽藍は、貞観元年(859)に僧道詮により大修理が行なわれました。掘立柱は腐りやすいため、この頃には建物が大きく傾いていたらしいと。そこで、掘立柱ではなく礎石に改めました。夢殿内部に行信とともに道詮の像を祀るのはその功績を称えたものであります。この時7間の中門を5間に縮小しました。以後には礼堂と呼ばれたらしく、承安2年(1172)に南庇を付けたしています。また、延久元年(1069)には絵殿に太子絵殿が秦致貞によって描かれ、同時に童子形太子像が祀られました。この太子像は今絵殿背後の相殿に安置されています。平安後期の七丈屋は東端2間の宝蔵(舎利・宝物を納める)、西端2間絵殿、中央1間馬道、1間拝殿となっています。 鎌倉時代に東院は、大修理というよりはほぼ全面的に建てかえられました。承久元年(1219)に一部に旧材を用いて舎利殿や絵殿を再建したほか、寛喜2年(1230)夢殿大改造、同2年礼堂再建、嘉禎2年(1236)に回廊が再建されています。東院の現状は、鎌倉時代に行なわれた大改修の姿であります。 |
(左)聖徳太子七歳像 (右)聖徳太子勝鬘経講讃図 |
やがてそのような太子追慕の気運を背景として、太子は7世紀の後半から、さらに多くの人々から尊崇されるようになり、斑鳩宮の旧跡が、太子の聖蹟として復興されることになりました。 天平年間に行信という高僧によって太子を供養する寺院として建立されたのが「上宮王院」(夢殿)で、その本尊には太子と等身の救世観音像を安置しました。そこには太子の遺品をはじめとし、命日を意識して奉納された多くの宝物類も納められるようになりました。その中心の建物である八角円堂夢殿の前では、太子を供養する法要である「聖霊会」が執り行われるようになりました。 この上宮王院を中心として太子信仰が盛んになりました。太子の五百回忌に相当する保安2年(1121)に法隆寺における太子の供養堂としての聖霊院が建立され、その本尊として「勝鬘経講讃像(摂政像)」が安置されました。それに先立って延久元年(1069)には太子の一代の絵伝を描くとともに、それを奉安する絵殿が建立されました。 大治元年(1126)には、太子が講讃された「勝鬘」「維摩」「法華」の三経の研鑚道場である三経院、承久2年(1220)には、太子の掌中から出現したと伝えられる舎利を奉安する舎利殿などの造立が相次ぎ、それらの殿堂では太子を供養する法要が行われました。これらの殿堂の建立とともに、その本尊となる太子像も多く造顕されました。 聖徳太子には実に多様な肖像があります。2歳の春、合掌して「南無仏」と称えた姿を現した「南無仏太子像」。父、用明天皇の病気平癒を祈る姿の「孝養像」。冕冠をいただき、経机の前に坐して勝鬘経を講じる「勝鬘経講讃像」。巾子冠をいただき、緋袍を着し、執笏、 佩刀する「摂政像」。さらに、座り方、服装や持ち物、脇侍像や背景の違いなどによるバリエーションを加えると、その種類は多岐にわたります。 |
(左)聖徳太子 水鏡の御影 (右)聖皇曼荼羅(拡大) |
|
鎌倉時代になると、西大寺の叡尊や法隆寺の顕真、浄土真宗の開祖である親鸞らの鼓吹によって、太子信仰は大きな広がりをみせ、それに伴って太子伝の伝説化が進み、太子像の造立も爆発的に増加しました。また、太子像は太子伝の特定の記述と結びつき、さまざまの姿を異にしたものが造顕されてきました。 |
(左)聖徳太子八童子像 (右)五尊像曼荼羅(拡大) |