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●第20号メニュー(2007/8/19発行)
【神・神社とその祭神】《そのT》

【神は大自然への畏敬と祈りから成立した】 〔森・林〕

〔鏡・影見・形見〕 〔大和の神〕 〔伊勢神宮の成立〕

 京都史跡散策会では、第114回から第130回までの期間にお宮まいり≠集中的に組みこんで、参拝しながら祭神の由来や神社の成り立ちを勉強しました。
 今月号より数回にわたって、われわれに見えない「神」について、その霊力や霊験について、また、神社やご祭神などを考えて見たいと思います。
 「広辞苑」には、「神」の項目で下記のように記されています。
かみ【神】

@ 人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以ってははかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。万葉集(巻15)「天地あめつちの神を祈こひつつ吾あれ待たむ早来ませ君待たば苦しむも」
A 日本の神話に登場する人格神。古事記(上巻)「天地初めて発(ひら)けし時、高天(たかま)の原に成れる神の名は」
B 最高の支配者。天皇。万葉集(巻3)「大君は神にし座ませば天雲の雷いかずちの上に廬いおらせるかも」
C 神社などに奉祀される霊。
D 人間に危害を及ぼし、怖れられているもの。
雷。なるかみ。万葉集(巻14)「伊香保嶺ねに雷な鳴りそね」
     神ならぬ身。神は敬するに威を増す。神は正直の頭こうべに宿る。神も仏もない。

 と、このような解説がつけられています。
しばらくは神様の本質と神社にまつわるご祭神について連載をします。過去の例会で参拝した神社の風景や社殿などを思い出してください。
【神・神社とその祭神】
 
【神は大自然への畏敬と祈りから成立した】

 
〔プロローグ〕
 
 わが国には八百万の神々が存在すると云われています。それは、古よりわれわれを取り巻く山川草木に宿る「神」であり、その親しみに畏れを感じ、敬うのが本来の姿であります。
 また、この「神」は「目で見ることが出来ない」ということが重要な特徴であります。目に見えない大自然の霊力であるがため、人は神を畏れ、神に祈りを捧げてきました。
そして特定の山や川や石や樹木は、神の坐います場所・神が宿るもの(依代)とされ、御神体とされてきました。

三輪山遠望
 
 神様の姿としてわれわれの誰もが共通して抱くイメージといえるものは持ってはいません。お寺にお参りに行けば、本尊の仏像と対面して礼拝しますが、神社にお参りにいっても、せいぜい鏡や御幣が見えるだけで、身体を持った神様の姿はどこにも見えません。それでも我々は、神様を拝んでいます。
 一般の人にとって、神とは、目でみることができ、モノとして触れられる存在ではありません。むしろ逆に、目にみえず、なんとなく雰囲気を感じることでしか触れることのできない存在なのであります。
 鎌倉時代に西行法師が、「何事のおはしますをばしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」(『西行法師家集』)と詠んでいます。また、江戸時代の国学者本居宣長が『古事記伝』で、「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏かしこき物(日常の経験とは異質な、人間を超えた感覚を与えてくれるもの)」と云ったのは、まぎれもなく古来日本人が親しんできた、目に見えない力やエネルギーとしての神の存在なのでありました。
(左) 大峯本山天川弁財天社 拝殿 (右) 本殿脇 神籬
 
 神の姿だけでなく、常設の建物に常時神様が祀られる神社という形も、本来存在していません。神社には、ミヤ(宮)とヤシロ(社)と2種類の呼び方があります。
 ミヤが「御屋」、すなわち神を祀る建物を意味するのに対して、ヤシロは「屋代」で、神祭りに際して建物を建てる場所そのものを意味しています。すなわち、ヤシロという呼び方には、祭のたびごとに臨時に仮屋を建てて神を迎え、終わればお帰りいただくという、神祭りの原初的な姿が見えるのであります。また、仮屋を建てることさえしないで神を迎える形も各地に散在しています。
 『日本書紀』に、天孫降臨に際して、神祭りのために「天津神籬」「天津磐境」が造られたと記されていますが、神籬ひもろぎと磐境いわさかはその代表的な施設であります。
 神籬は、『万葉集』巻11にも「かむなびにひもろぎたてていはへども…」という歌があり、「神籬立てて」神を迎え祀ることが広く行なわれていたことがわかります。現在も、四隅に笹竹や榊、柱などを立てて注連縄しめなわを巡らせ、その中央に榊を立てたものを神籬と称しています。
 一方、磐境は、遺跡として残存しているにすぎませんが、多くは、複数の石で区画したり敷き詰められたりして、方形や円形に造られた空間で、神籬が置かれる場合もあります。また、単独の岩石が「磐座いわくら」として神迎えの場とされるケースも多く、自然の洞窟や樹木が神迎えの場として用いられたケースもあります。
 具体的な姿形もない、常設の建物もなく、そこにあるのは、祭りの時にのみ神が依りつく榊であり、区画された空間であり、岩石など自然物と、それらに降り立つ神の雰囲気のみです。
(左) 神籬イラスト (右) 神籬 (拡大)
 
〔森・林〕
 

「木綿ゆうかけて斎いわふこの神社もり越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに」 (巻7)

この歌は万葉集に載せられているもので「木綿」は楮の皮をさらした白い繊維のことで、木綿をかけるのはその樹木が神の依代(神霊の寄りつくもの)であったからであります。「泣沢の神社もりに神酒据えいのれども…」、「山科の石田の社もりに幣置かば…」の例にもあるように、万葉の〈森〉には神の寄り付く特定の樹木をさす場合が多くあります。
 以上から〈森〉は〈盛り〉と相通じる語源説があります。樹木の多少にかかわらず、樹齢長く枝葉よく〈盛る〉姿ゆえに〈モリ〉なのだというわけで、またそのようないつの代からとも知れぬ齢を重ねた大樹こそ、神の依代にふさわしいものであります。
 万葉集の〈モリ〉には「社・杜・神社・森」の4種で書かれています。また同じ「社」を「ヤシロ」と訓む場合も別にあります。

(左) 金銀平脱背八角鏡 (右) 根古志形鏡台
 
 「社」という漢字は本来その土地の神をさす言葉なので,日本語の〈モリ〉〈ヤシロ〉いずれにもあてられていたものであります。この万葉集の表記には、神の来臨する自然の〈モリ〉から神の鎮座する人為の〈ヤシロ〉へという過渡期の姿をうかがうことができます。
〈ヤシロ〉はつまり「屋代」で、神の依代が樹木岩石に代わり人間の住居〈屋〉の形をとることを意味しています。こうした転換がなぜ起こってくるのかは、その消息を語るものが『古事記』の国譲り物語であります。
 葦原中国の棟梁たる大国主命が高天原に国土を譲るに至る経緯を語ったその中に、「唯僕あが住所すみかをば、天つ国の御子の天津日継あまつひつぎの知ろしめさむとだる天の御巣みすなして、底津石根に宮柱みやばしらふとしり高天原に氷木ひぎ高知りて治め賜はば、僕は百足らず八十?手やそくまでに隠りて侍らむ」とあります。柱太く千木(氷木)のそびえたつ壮大な宮に祭ってくれるならば国を譲って引退するという出雲大社の起源譚であります。この社の社殿が他に抜きん出た規模を示すのはこの記述によるものであります。
 そしてここに在地土着の神々が国家の神に屈従し、社を与えられて宮廷の守り神に組織されてゆくことになります。神のよりつく〈モリ〉がひとりでに〈ヤシロ〉の体裁になるとは考えられません。そこに働いた政治的な動機付けがうかがえます。出雲大社にかぎらず、全国各地の大小さまざまな神が同様の形で宮廷の支配下に組み込まれました。
(左) キ鳳鏡(舶載) 宗像神社蔵 (右) 人物画像鏡(?製)  宗像神社蔵
 
 万葉集にてらしてみると成立の時期は、7・8世紀と目され、さらに10世紀の『延喜式神名帳』には全国3132座の神が4階級に格付け記載されています。この頃には〈モリ〉が〈ヤシロ〉への転換がほぼ完了していたとみられます。
 
〔鏡・影見・形見〕
 
 根古志ねこじ形鏡台という鏡台があります。鎌倉時代まで使われていたといわれています。台座の上に高さ三尺五寸ほどの竿が立ち、竿の上には人間が両腕を持ち上げたような形の支えが2段ついています。台座はちょうど蛸の足を2匹分重ねたような構造で、下側に5枚の鷺足、上側に10枚の小足が重なって竿を支えています。これに鏡をセットするには、まず上の腕に羅紐らひもと入帷いりかたびらという絹の布をかけ、その上に鏡枕をかけて、この上に鏡をのせます。鏡枕は、鏡面に傾斜をつけるものであります。
 根古志形とは、木を根っこごと引きぬいた形に擬したもので、上の腕の形は枝を、下の蛸足は根っこを表わしています。これは上古に、榊の木を地面から抜きとって枝に鏡や玉などをかけて幣帛したことからきています。
 「真坂樹まつかきを掘ねこじにこじて上枝かみつえには八坂瓊やさかにの五百個いほつの御統みすまるを懸け、中枝なかつえには八咫鏡やたのかがみを懸け、下枝しつえには青和幣あおにきて、白和幣しろにきてを懸とりしでて、相興あいともに致其祈祷のみいのりまうす」
 「賢木さかきを抜こじとりて、上枝には八握剣やつかのつるぎを挂とりかけ、中枝には八咫鏡を挂とりつけ、下枝には八坂瓊を挂け……」
 いずれも『日本書紀』に記載されています。前者は天照大神の籠った天の岩屋戸の前に設けたもので、後者は景行天皇紀の、周防国佐波のあたりの一地方を支配していた女酋が、天皇の使いを迎えるときであります。これは祭祀権を天皇に献上するための、服属儀礼だといわれています。同じようなことが仲哀天皇紀にもあります。
 鏡は周知のとおり、1世紀から、中国鏡が日本に入ってきました。3.4世紀以降になると、輸入鏡を真似た?製鏡もできてきて、この中には、狩猟文鏡や家屋文鏡のように。すでに日本的デザインのものも出来ています。しかしこの頃の鏡は化粧道具として人間が使う道具ではありません。
(左) 大神神社 拝殿 (右) 大神神社 三ッ鳥居
 
 古代人にとって鏡は、神秘的で、おそろしく、犯しがたい力をもつ存在でありました。物がそっくりそのまま映るということが、大変な驚異だったし、光を反射してまばゆく輝くことも不思議な現象でありました。
 中国では、戦国時代(紀元前5世紀頃)以前にはすでに鏡が存在していましたが、最初はやはり実用品としてより、政治権力の象徴、あるいは特殊な人たちが使う呪術用具でありました。とくに魏晋南北朝時代(220〜589)になると神仙、道教思想が結び付き、鏡が破邪の力を持つものとみなされ、呪術的実修具としてさかんに使われるようになりました。
 日本に鏡が入ってきたのは、ちょうどこの時期でありました。日本でも神話に出てくる鏡は擬神化されたり、呪力を持つものとされ、その内蔵する呪力によって破邪降魔を行なったりする呪術具として使われていますし、また、玉、剣とともに三種の神器とされているように権力の象徴ともなっています。
 アマテラスのアマは、天の香具山などと同じく、高天原における常套詞であって、実態はテラスの方にあり、鏡が照り輝くことで、つまり天照大神とは「鏡」のことだといわれています。
 また、そのアマテラスの隠れた岩屋戸へも、石凝姥いしごりどめが作った鏡を差入れ、その呪力によってアマテラスを引き出そうとしましたし、岩屋戸の前には先述のように、榊の枝に鏡をかけた呪術具が立てられています。
 イザナギは白銅鏡ますみのかがみを持ってオオヒルメ、ツクユミ、スサノオの3神を生み、アマテラスがニニキを大八洲国につかわす時も鏡をわたして、この鏡をわが魂としてわがごとく斎きまつれといっています。これが今でも伊勢神宮の御神体となっている八咫鏡であります。
 鏡のこうした力はその後も残り、寝室の中に置いたり、船にかけて魔除けとしたり、死者とともに墓に埋めたりしています。とくに鏡は女の魂や護身具とされ、妊娠中は鏡を身につけていれば、葬式や火事の時の悪気を避けられるとされています。
 鏡がこうした超越的神性から開放されるのは、奈良時代になって正倉院に残っているような華やかな貴族調度としての唐鏡が入ってきてからであります。これがさらに平安時代になると、日本化されて和鏡となりますが、この頃からようやく鏡は人間の道具になってきました。
(左) 石清水八幡宮 外殿正面結界 (右) 石上神宮 拝殿内陣
 
〔大和の神〕
 
 古代王権発祥の地、奈良盆地に原初の神は自然神でありました。大王家のもっとも古い守護神であった大神神社が三輪山を御神体としており、その山頂から麓にかけて磐座が多数存在していることが知られています。
 また、軍事氏族の物部氏が管理し、朝廷の武器庫であった石上神宮にも、ほんらい神殿はなく、禁足地と呼ばれる広場が祭祀の対象で、その地中から鉄剣などが発見されています。これら確実に4〜5世紀にさかのぼる古代の王権にかかわる神々も、山や特定の地に存在する自然神でありました。
 このような神の性格は、律令国家が形成されてからも原則として変わっていません。平城京の中には寺院が整然と配置されていますが、神社は殆ど確認することはできません。
 奈良盆地のまんなかに、藤原京や平城京のように、唐にならった世界の最先端をいく計画都市が形成されているのに、その都市を経営する天皇や貴族たちは、昔ながらに大和・河内の各地に氏族の神をまつっていたのであります。
 ところが、天皇家と豪族層の祭りには、二つの点で大きな相違がありました。外交にまつわる祭りと、伊勢神宮の祭りがそれでありました。
 日本と大陸の交渉は、国家というものができるはるか以前から、各地で幅広く行なわれていました。これが国と国との公的なつきあいとなっていくことで、その権利、つまり外交権は大王が一手におさめるようになり、それにかかわる祭祀は、大王が独占するようになりました。
(左) 沖ノ島巨岩祭祀遺跡模型 (右) 鵜戸神宮の亀石(磐座)
 
 福岡県にある宗像神社の辺津宮として現在も禁足地となっている沖ノ島の祭祀遺跡は、この間の事情を物語っています。沖ノ島は玄海灘に浮かぶ絶海の孤島で、大陸への航海の安全を祈願する場でありました。その祭祀は4世紀末ごろからはじまり、時期によって祭りの行事の内容は大きく変化しましたが、当初より大王からの豪華な奉り物が確認されています。祭りの場所は、巨岩の上から岩陰、そして平地と変化していきますが、手捏ね土器が一貫してみられることから、天白磐座遺跡などにみられる共通点があります。少なくとも4世紀の民衆の祭りと大王の祭りは、質的には大きな変化は認められません。
 しかし、海外渡航時の祭りの独占は、外交権の掌握と一体となって、大王家の権力が強化されていきました。外交の祭りは、主権者のパフォーマンスとして、対国内的にも重要な意味をもっていたのであります。
 同様の例は、現在の大阪市にある住吉神社にみることができます。この神社も律令国家形成以前から外交航海の神として大王家のまつるところで、8世紀の段階でも国家的な支配を受けています。外交にかかわる祭りの独占は、大王家と諸豪族との大きな質的な差となっていきました。
 
〔伊勢神宮の成立〕
 
 大王家と諸豪族の祭りのもう一つの大きな違いを示すものが、伊勢神宮であります。伊勢神宮の成立には諸説がありますが、その背景に大和の勢力の東国進出があったことが疑いなく、大神神社や石上神宮より一時代のちの神社であります。その性格についても、律令国家成立まではより地域に密着した性格がうかがえるものの、大王家との強い強い結び付きがあったことは否定することはできません。
 逆にいえば、大王家は、伊勢神宮をまつることで、奈良盆地の神にだけ守護されるのでなく、東国をふくめた、全支配圏を意識した神に守られる存在となり、そのことが大和にしがみつく豪族層との大きな質的変化になっていたことも充分に考えられます。その意味で伊勢神宮は、成立当初から政治的性格の強い神社でありました。
(左) 伊勢神宮 内宮正殿 (右) 宇佐神宮 上宮本殿
 
 忘れてならないのは、伊勢神宮が神明造というもっとも古い建築様式の社殿をもつ神社だと云うことであります。20年ごとの改築すなわち遷宮は、7世紀後半の持統天皇の時代に成立しましたが、この建築様式の骨格も、そのころできたと考えられています。
 つまり伊勢の神は、社殿すなわち住居を必要とする神、自然神から人格神へ一歩ちかづいた神と意識されていたのであります。この様式が、つづいて古い様式とされる住吉神社の住吉造とともに、住居でなく倉の形をとっていることも、過渡期のありかたにふさわしいものであります。
 このように、伊勢神宮は、それ以前の神にくらべて政治的性格の強い「進歩した神」ということができます。そのような神だからこそ、大王家のまつっていた複数の中から、律令国家の国家神として選ばれ、天皇だけがまつる神となったと考えられます。
(左) 丹生川上神社下社神木 (右) 玉置神社神木
 
【神・神社とその祭神】《その1》完 つづく


≪第20号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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