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●第29号メニュー(2008/5/18発行) |
【神・神社とその祭神】《その\》 宇佐神宮・石清水八幡宮 |
【八幡大菩薩】 【宇佐神宮】 【八幡神と神仏習合】 |
【宇佐神宮の祭神】 【託宣の神】 【古式の神祭・放生会】 |
【宮寺の石清水八幡宮】 |
また、仏教の菩薩号をもって八幡大菩薩と称され、その姿は剃髪、袈裟姿に錫杖を持つ、いわゆる僧形八幡神像としてあらわされています。これは神が仏を守護するという神仏習合の最も早い例の一つであり、東大寺大仏殿建立の際、その事業を守護し自ら鎮守(手向山八幡)となっています。 八幡神にまつわる歴史上の事件として、道鏡事件があります。神護景雲3年(769)、道鏡は皇位につこうとの野望を抱きますが、和気清麻呂は八幡神の託宣によりそれを阻止しました。 中世期には、源氏の氏神とされ、石清水八幡宮で元服した源義家は八幡太郎と名乗りました。また、源頼義は石清水の分霊を鎌倉由比郷に勧請しました。これが元八幡宮(由比八幡宮・鎌倉市材木座)であり、鎌倉幕府を開いた頼朝がそこから大臣山の麓に遷座したものが、鎌倉市雪ノ下鎮座の鶴岡八幡宮であります。源氏の八幡信仰は武家の間で爆発的に広まり、やがて弓矢の神として、武神的性格を色濃くしながら各地に勧請され、全国的に普及しました。 |
社伝によれば、八幡神は御許(みもと)山を神体山とする宇佐地方の原始信仰に発し、欽明天皇32年(571)、大神比義(おおがのひぎ)のもとに3歳の童子の姿で菱形池のほとりにあらわれて、「われは誉田天皇(応神天皇)広幡八幡麻呂(ひろはたのやわたまろ)なり」と告げたのが起こりで、童子は黄金の鷹になり、とまった地に和銅元年(708)に鷹居社が祀られ、小山田社を経て、神亀2年に現在地に遷座されたのが神宮創建年としています。 八幡神が歴史に登場するのは、養老4年(720)隼人の乱の鎮圧に神験をあらわしたときであります。以後、八幡神は仏教と融合しつつ神威を高め、神仏習合発祥の宮として、大和朝廷との結びつきが強まります。国家的事業であった東大寺の大仏造営に協力します。これより仏法や寺院を守護する鎮守神の役割を担うようになります。 平安時代に京都を鎮護する石清水八幡宮が、鎌倉時代には幕府の鎮守として鶴岡八幡宮が勧請・創建されました。 |
宇佐神宮の由緒では、法蓮は宇佐神宮が現在地に建立されたときの中心人物であったと記しています。また、天平10年(738)、聖武天皇の勅願により、宇佐神宮の神宮寺として創建された弥勒寺の別当にも任じられています。 3年後に、藤原広嗣の乱平定祈願の御礼として、朝廷から宇佐神宮に経典や社僧、三重塔が寄進されており、ここにすでに僧が神社を統率する宮寺制の原点を見ることができます。 宇佐の地方神であった八幡神が中央に大きく躍進したきっかけは、天平15年(743)に詔が発せられた東大寺大仏建立への協力宣言でありました。 大仏建立は聖武天皇により国家の総力を集めた巨大事業として始められますが、当初から多くの困難と不安を伴っていました。 その時、宇佐神宮は、八幡神が八百万(やおよろず)の神を率いて大仏建立を必ず成功させるとの神託をもたらし、聖武天皇を感激させました。さらに豊前産出の豊富な銅と大陸渡来の鋳造技術により、実質的な協力をしていました。 天平勝宝元年(749)に大仏鋳造が完成すると、八幡神は神輿に乗って宇佐よりはるばる上京し、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后と5千人の僧が参会するなか、大仏を礼拝しました。また、八幡神は東大寺の鎮守として勧請され、手向山八幡宮が建立されました。 こうして八幡神は仏法に帰依し、仏教を守護する日本最初の神として広く尊崇されるようになりました。また、仏教の菩薩号をもって八幡大菩薩と称されるようになりました。 |
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八幡三神坐像 大分 奈多宮蔵 |
神仏習合は当初、苦悩する神が仏法の力で救いを得て、仏になるという神身離脱からはじまりました。やがて神が仏教(国家)を守るとする鎮守神となります。八幡神の東大寺臨幸は、これを象徴する出来事でありました。 平安時代になると、神は仏が姿を変えてこの世に出現し、本来の姿は仏とする本地垂迹(ほんじすいじゃく)の考えが広まってきます。 もともと仏像のような偶像崇拝のなかった日本では、仏像渡来の影響をうけて神像が造られるようになりました。また、仏教の接近で、八幡神像は、僧形を中心とする束帯姿、童形など、さまざまな姿で作られるようになりました。 神仏習合の歴史とその造形も、大陸文化との交わりがふかかった豊前(大分県・福岡県)の地をベースにして全国に広がっていきました。 |
八幡神は、一般に武神としても知られていますが、同時に安産の神としての信仰を集めています。その背景には、このような身籠もりながらも進軍して軍功をあげ、無事に出産を迎えることができたとする、記紀にみられる神功皇后の神話的事績によります。だが、記紀には宇佐神宮の記載はなく、応神天皇母子が宇佐に祀られたのは、記紀成立(古事記712・日本書紀720)以降のことと考えられます。 宇佐と応神天皇との関係は各種の縁起にみられ、欽明天皇の御代馬城峰(まきのみね)(御許山(おもとさん))にはじめてあらわれ、欽明天皇32年(571)に、菱形池付近で大神比義(おおがのひぎ)のもとに3歳の小児となってあらわれて、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と名乗り、これを祀ったのが宇佐神宮の始源とされています。 比売大神の三神は、天照大神の御子神であります。『日本書紀』神代紀の一書(あるふみ)に、天照大神の命により高天原から宇佐嶋に降臨したと記されています。宇佐の土着の神でありましたが、外来の八幡神(応神天皇)が祀られたときに、妃神として組み込まれたものとも考えられます。この三神は、福岡県宗像大社の祭神であり、一般には「宗像三女神」として知られています。 |
この八幡神が、国政に大きく関与するのが弓削道鏡にかかわる神託事件でありました。天平宝字8年(764)10月、孝謙上皇は淳仁天皇の後を襲い、重祚して称徳天皇として即位しました。僧籍にしては最高位の太政大臣禅師に昇った道鏡は、天皇に密着して政治を壟断したことはよく知られている事実です。天平慶雲3年(769)、道鏡に媚び入る太宰習神官阿曽麻呂は、道鏡を皇位につけたならば「天下太平なるべし」との神託をもたらし、道鏡はこの口実をもとに、ついに皇位を狙うことになりました。道鏡の権勢に、藤原百川らは強い反感や危惧を抱いていました。道鏡のあまりの増長ぶりに困惑した天皇は、和気清麻呂をその姉法均に代わって派遣して、八幡神の神託を聴かしめました。 ところが、八幡神は、 「わが国は、国初以来、君臣の分が定まり、臣をもって君とする例は、未だかって聞かず。天下日嗣には、皇統を立てよ。無道の人(道鏡)は、すみやかに除くべし」 と託宣し、この結果、道鏡の野望は見事にくじかれました。清麻呂は、道鏡の怒りによって、因幡国の員外の次官に左遷され、さらに官を解かれて、大隅国に流されました。 道鏡の「天位」への野望は、八幡神の託宣によって見事に退けられましたが、これと前後する時期には、八幡神は少し饒舌に走りすぎた感が少なくありません。天平勝宝6年(754)の大神(おおが)田麻呂の配流の原因となった薬師寺の僧行信との「厭魅(えんみ)」(妖術で人を呪うこと)事件、また、宝亀4年(773)の宇佐社検察の原因となる「妖言」事件も、八幡神の「筆禍」ならぬ「舌禍」事件と見ることができます。たしかに、八幡神は言辞の多い神でありました。 「託宣」は「神託」とも称され、神が「人語」を通じて神意を告示する現象をいいます。多くの場合、女性・童に憑依(ひょうい)するものであり、人側からは「神がかり」の状態になります。宝亀4年の宇佐社検察事件で、「偽託宣」と指摘された辛島勝與曹女(からしまかよそめ)も、おそらく、それに該当する人物であると思われます。 宇佐八幡神は、その始源、鎮降の折にまず自己の意思を表示して、鎮座の希望地を指定して以来、実によく自意を告げられる神でありました。それによって饒舌が過ぎて「舌禍」を招くことすらありました。 神意を人界に伝える大役を務めたのは、宇佐社では、二之御殿に鎮座する女神でありますが、おそらくは、当初は完全な神ではなく、「生身」の女性の役割であったと考えられます。 神亀2年の一之御殿に次いで、天平5年の二之御殿に「比盗_」を奉祀したという事実は、神社制度の整備にともなう、巫女の神への昇華を意味していると思われます。本来、神託は、神―巫女―人というきわめて直結的・単純な機構の下に行われていたものが、神−巫女神−巫女−人という間接的な機構に変わった時期が、宇佐社における二之御殿の設営の時期であると思われます。 |
しかし、本来、仏教儀式としての放生の儀礼が、神社としての宇佐社において執行されるという意味には注目されます。当社における放生会の存在は、宇佐社が神仏習合の拠点としての性格を明確にするものであります。 この祭礼は、豊前国田川郡香春(かわら)の採銅所古宮八幡宮で旧8月初旬、三体の宝鏡を鋳造し、これを豊前国仲津郡草葉村の豊日別宮が宇佐の隼人凶士墓に奉送、宇佐社の神幸行事と併行して8月14日を期して放生会会場である和間の浮殿に至ります。15日の「蜷(にな)」放生の最重要儀式を中心に、奏楽・相撲などが奉納されます。 |
神功皇后とその皇子応神天皇という祭神の組み合わせは、八幡神が元来は母神とその所生の幼い王子とを祀ったもので、父神が祀られないところから、処女懐胎の聖母神伝承を根幹とする巫女神人集団であったと考えられます。それ故に巫女が神がかりして託宣することが多く、それをうまく朝廷に結び付けて、中央進出をはかったものと思われます。 この男山に八幡宮が祀られるようになったのは、都が平安京に移って数10年後、紀氏の一族である大安寺の僧行教によるものです。貞観元年(859)、行教は念願だった宇佐八幡宮に参拝し、神前での読経や真言の誦念などでひと夏(夏安居)を過ごしました。この時、八幡神の神託を受けて、分霊を京都の近くに勧請することになり、鎮座の地に男山が選ばれました。 石清水八幡宮は、八幡神の勧請以前に石清水寺(石清水という地名は男山の東側の中腹から湧き出る泉に因むもので、現在摂社の石清水社があり、いまも絶えず清水が湧いています)が存在し、貞観5年(863)に行教の申請によって護国寺と改称しています。宇佐の本宮に准じて6宇の神殿を造営し、鎮護国家の祈祷所となって、宮寺の性格を強くしていきます。 石清水八幡護国寺は、最初は僧侶だけで祭祀を行い、神職のいない社でしたが、この宮寺に神主職が置かれるのは、建立から18年後の貞観18年(876)のことで、しかも僧侶の下位に置かれていました。 石清水の宮寺という形態は、平安朝の正史である『三代実録』にも、「石清水大菩薩宮」とか「石清水八幡護国寺」とあるように、神仏が完全に融合した神社でも寺院でもない、特殊な宗教組織でありました。神と仏が渾然と一体化した信仰で、そこに奉仕するのは僧侶を中心に神職も加わっていた形態でありました。ここでは、神前での読経、奏楽など、仏教的な儀礼が挙行されていました。 |
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石清水八幡宮摂社 石清水社 |
『延喜式』の神名帳には、宮寺の性格から「神社」として扱われていなかったので記載されていません。しかし、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟として朝廷の尊崇は篤く、また賀茂社を加えて三社奉幣に与かり、その社領は三社領と称され、あるいは春日社を加えて三社託宣と呼ばれる神徳が喧伝されました 石清水八幡宮には、早くから神像の彫刻が祀られていました。それは三つ並んだ本殿のうち、中央の御殿に僧形の八幡神、左右の本殿には俗形の女神二体が祀られていました。これら祭神は、それぞれその本地仏をまつり、主神の男神は釈迦如来、左右の母神と比売神は文殊菩薩と普賢菩薩に当てられていましたが、鎌倉時代に入ると、三座の神々に阿弥陀三尊を当てるようになります。三座の神像は、明治維新の廃仏毀釈のときに撤去されましたが、主神の僧形八幡像(八幡大菩薩)は、現在、山麓にある善法律寺に安置されています。 八幡宮の「宮寺」が神仏分離令によって完全な「神社」の組織に転換するのは、明治元年4月のことで、仏教色が一掃され、八幡大菩薩は八幡大神と改められて純神道式の祭祀をするようになりました。 かつての男山の山上には、祭神の八幡大菩薩を祀る八幡造の本殿を中心に、多くの堂塔が建ち並び、さらに山上には護国寺、麓には極楽寺と二つの中心的な寺院があり、その僧侶たちが神仏習合形式の祭祀を支えていました。中世以降は、僧侶たちが山内の数十の寺坊に分かれて住みながら、山頂の八幡宮の神仏に奉仕していました。護国寺も極楽寺も、神仏分離令によって廃寺となり、今は跡地を残すだけとなっています。 現在、石清水祭の名で行われている祭典は、昔の放生会と青山祭を合わせて仏教色を除去したような行事になっています。現在、9月15日の朝に頓宮脇の池で魚類の放生が行われます。なお石清水祭は、京都の賀茂祭と奈良の春日祭を合わせて「三勅祭」とよばれ、古くからの勅使参向が続く祭典としても有名です。 |
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古神像群 石清水八幡宮蔵 |
青山祭は正月18日、頓宮前庭に青柴垣をかこい、斎場を設け、神籬(ひもろぎ)を立て、日没 とともに八衢比古(やちまたひこ)・八衢比売(やちまたひめ)・久那斗神(くなどのかみ)を迎え、おごそかに祭儀が行われます。むかし、わが国に来朝する異国人は往々にして悪疫をもたらすことがあり、王城の境界にあたるこの地において悪魔を追い払ったのが起こりといわれ、一に道饗祭とも疫神祭ともいわれています。 |
【神・神社とその祭神】《その\》完 つづく |