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●第22号メニュー(2007/10/21発行)
【神・神社とその祭神】 《そのV》

【神の宿るところ。神々が常在する場】

〔天津神〕 〔天孫系の神と出雲系の神〕
〔大和系の天津神〕 〔国津神〕 〔天照大御神〕

【神の宿るところ。神々が常在する場】
 
 神はいたるところに存在していました。ときには山が神であり、海そのものが、あるいは岬、あるいは谷、あるいは森、あるいは石そのものが神でありました。
 日本固有の信仰である神道は、こうした神の存在の中から生まれました。古代の人々が神に、穀物の豊饒を祈り、生活の安全を祈願するためには、神を依り憑かせる場から、神を招き入れる場が必要となり、それが祭場へと発展していきました。
 神々を祭りのあいだ依り憑かせておく形象物が、依り代であります。この依り代には榊などの常緑樹を用いる神籬や、形の特異な岩石に神を招き寄せる磐座がありました。
 祭りが終わると神は神籬や磐座を離れ、天や山などに帰るものと考えられています。次第に生活の規模が大きくなると、祭りの規模も大きくなり、祭りを執り行う建築物が仮設のものから常設のものへと変化してゆくなかで、祭りのたびに来臨していた神が、ついには祭りの場に常在するようになりました。
山々に囲まれた高千穂の里
 
 神々が人々の生活の場近くに常在するものと考えられてくると、神霊を斎いこめたご神体を常設の神殿内に安置し、これを礼拝するようになりました。ご神体には鏡が一般的ですが、ほかには、玉、石、弓矢、剣、木像、画像などか祀られています。今では御霊代と呼ばれていますが、かつては霊御形・御正体・御体などと呼んでいました。
 神体山とは、神霊が鎮座するものとして、これを礼拝の対象とした山のことで、山そのものをご神体と見なしています。『記紀』では「ミモロ山」「ミムロ山」と呼び、『万葉集』『出雲国風土記』では「カンナビ山」と呼んでいます。カンナビの語義については「神並び」「神森」「神隠」の説がありますが、いずれにしても神々の鎮まる神聖な森や山を指す言葉であります。
高千穂神社 高千穂町三田井鎮座
 
 神奈備山の代表として有名なのは、奈良県桜井市の三輪山(標高467m)で、その山麓にある
大神神社は大物主命を主神としていますが、本殿はなく、拝殿裏にある三ツ鳥居を通して直接山を拝するようになっています。山そのものがご神体であることを如実に示しています。神奈備山とか御諸山に対して、現在、神体山といわれているのは新しい呼称で、明治4年ごろから使われ始めました。
 大神神社のように、ご神体を安置する本殿をもたず、その背後にそびえる山を神体山として信仰する神社は、長野県の諏訪大社本宮や埼玉県の金鑽さな神社などがあります。
 諏訪大社本宮では、拝殿後方にそびえる守屋山を神体山としています。また、同じ諏訪大社下社の春宮と秋宮にも本殿はなく、拝殿の後ろに神座とよばれる神木(春宮は杉、秋宮は櫟)があり、神籬形式の古い神祭りの姿を今に伝えています。金鑽神社にも本殿がなく、拝殿後方の御室ケ嶽を神体山としています。
 奈良県天理市にある石上神宮に本殿が建立されたのは大正2年のことで、それ以前は、祭神は拝殿奥の禁足地に祀られていました。
天岩戸神社 本殿内部
 
 神体山として信仰されている山は、いずれも円錐形や笠状の秀麗な山容を示し、いかにも神々が鎮まるというような神秘的な雰囲気をもっています。
 三輪山のようにあまり高くなく、集落近くにある丘陵状のものを神奈備型の神体山とするのに対し、富士山や赤城山・筑波山などのように高くそびえ、孤立した山頂を持つ山を浅間型の神体山として分類することができます。いずれにしてもこうした神体山は神社神道以前の古い神祭りを伝えるものでありました。
 古代人は、人は「神の子」、生命は神の「ワケミタマ(分霊)」と考えていました。彼らの暮らす土地の神「ウブスナガミ(産土神)」のおかげをもって誕生し、産土神や、その他のもろもろの神々と付き合っていくことで、四季の恵みを享受し、そして最後には、産土神に導かれて祖霊の世界に帰っていきました。
 その祖霊には、個性というものはありません。それは一種の神霊であり、大いなる自然の一部と考えられていました。古代人の神々の世界とは、特別な意味づけを必要としないこの世に存在するものでありました。まさに自然そのものであります。
(左)天安河原の仰慕窟 (右) 高千穂の周辺地図 (拡大)
 
 こうした古代人の神々の世界に、天上界の別格の神々の世界―高天原―が出現したのは、律令制による天皇の国家統一の支配以降であります。
 天に固有の住居をもつ神々は、高天原で育てた稲―これを「ユニワのイナホ」という―をその苗裔に授けるという神話によって、この地上の国の神々の世界に踏み込んできました。地上の王権は、高天原の神々の苗裔である天皇の支配するところとなり、地上にしか住居をもたない「クニツカミ(国津神)」は、高天原に住居をもつ「アマツカミ(天津神)」の支配下に置かれました。神祗―「神」は天津神を指し、「祗」は国津神を指す―の世界が誕生したのでありました。
日本書紀 神代上 天理図書館蔵
 
 天皇支配以前の古代人の世界観では、自然とともにある神は、どこまで行っても水平に広がる世界の中の存在でありました。太陽の昇る東の方位には命の源の世界≠ェあり、日の沈む西の果てには死の世界≠ェありましたが、この水平に広がる生と死の世界に、高天原という垂直の軸が導入されることによって、世界は、その頭上に「高天原」、高天原の下には水平に広がる「中つ国」と大海の世界「ワタツミの世界、そしてその下に「黄泉国(根の国、底の国)」という3層構造が出来上がりました。この垂直軸は、神が高い木などに降臨するという信仰をもつ、北方シャーマニズムの系譜に連なる天孫族がもたらしたものと考えられています。
 『古事記』や『日本書紀』は、これらの世界が、すべて高天原の支配下に入るように神話を創り上げました。高天原はアマテラスオオミカミが支配し、中つ国はその苗裔であるスメラミコトの支配領と定められました。海はスサノオ、ツキヨミノミコト、黄泉国は、天津神であるイザナミとその息子であるスサノオの世界となりました。
 この高天原の登場によって、日本の神道はシャーマニズムの段階から次の段階へ移行し、固有の神々の世界と信仰が生まれました。
 
〔天 津 神〕
 
 平安時代の延長5年(927)に完成した『延喜式』巻8に載る、古代の祝詞(神事で唱える祭文)のなかで最も古いとされる「大祓詞(おおはらえのことば)」には、

天津神ハ天ノ磐門いわとヲ押披ひらキテ、天ノ八重雲ヲ伊頭いずノ千別ちわきニ千別キテ聞食きこしめサム、
  国津神ハ高山たかやまノ末短山すえひきやまノ末ニ上のぼリマシテ、高山ノイホリ短山ノイホリヲ揆別かきわキテ聞食サム。

 とあって、天津神は天上はるかの雲の上におり、国津神は高い山低い山の重なる地上の山中にあって、イオリ、すなわち雲や霧のなかに鎮まるとしています。
 和銅5年(712)に成った日本最古の『古事記』や養老4年(720)完成の最初の国史『日本書紀』などの創世神話にも、その冒頭に「天地初発」(天地初めて発ひらけし)とか「古天地未剖」(古いにしえに天地未だ剖わかれず)とあります。
古代人の世界を見る場合には、「天」と「地」、それはアメとツチとかクニとに大きく二分されていました。
 さて、大化の改新(645)以降の律令国家になって、神祗官の下に整備されていった「神祗祭祀」とは、「天神地祗」の祭りを言いますが、この天神地祗もまた、アマツカミ・クニツカミと訓読みした神の総称であります。
(左)古道大元顕幽分属図 個人蔵 (拡大) (右)雨宝童子立像 天照大御神の16歳のお姿 金剛證寺蔵
 
中国で「天神」といえば、昊天上帝という天空の神や、太陽・月・星の神々、また司中・司命といった宇宙の中心や生命をつかさどる神々、風や雨の神など、文字どおり天上の自然神であり、また、「地祗」といえば、后土・社稷という大地の神、五祀という季節ごとに春は戸口、夏はかまど、秋は門、冬は道、土用は土地と、それぞれに祭る5ヶ所の守り神、それに五岳といって泰山など東西南北と中央にそびえる五つの名山の神々、というふうに、地上の季節や方角にきちんと分けて神々を配置しています。
 ところが、日本でいう「天神地祗」の場合はまったく見当はずれであります。『令義解』という解説書によれば、「天神」には「伊勢、山代鴨、住吉、出雲国造神」、「地祗」には「大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神」とあって、これらはいずれも各地に古くから鎮座している有力な神社の祭神であります。
 「天神」といってもべつに天上の神々ではなく、「地祗」といってもとりたてて地上をつかさどる神々ではありません。地域や方角の面でも決まった区別もなく、むしろ出雲では天地の神が同居しています。
 中国からの「天神地祗」という言葉を借りていますが、神々の使命の分類には日本独自のものがあります。
 
〔天孫系の神と出雲系の神〕
 
 「高天原」を想定した人たちは、自分たちが生活する地上を「中つ国」とし、地下や他界を「根ノ国・底ノ国」としました。なぜ、「中つ国」かというと、現に生活する世界として、それが空間的にも時間的にもその真ん中であることが、なによりも、安心のもとだからでありました。
 それでは、この「中つ国」という地上の世界で誕生する神々が、「地祗」すなわち国津神かというと、必ずしもそうではありません。
 伊邪那岐・伊邪那美という男女の天津神が生み出した地上の世界で、さらにこの両神のはたらきで誕生する神々は、すべて天津神に属しています。たとえば、大綿津見神という海の神や大山津見神という山の神でさえ、天津神のはたらきで生まれた神々ということで天津神に属しています。しかし、山の霊・海の霊の神格である2神は系譜的には天津神に連なっていますが、天上世界よりみた場合は、地上に先住する国津神の性格をすでに帯びていると思われています。
 日本の神話では、ひとくちに「天神地祗」といっても、天と地という普遍的な領域に属する神々というわけではありません。たとえ地上の神であっても、「高天原」という具体的な世界の神々がさまざまの働きで生み出したという出生の系譜が理由となって、その神は「天津神」に包含されることもありました。
 それでは、他方の「国津神」はどうか。それは須佐之男命の系譜からはじまります。この神は、天照大御神と月読命とともに伊邪那岐命が生んだ神として、天津神に属するのですが、その親神に反抗したうえに、姉の天照大御神に反逆した罪で高天原から地上に追放された結果として、国津神の系譜をたどることになります。
 しかし、日本神話では、この須佐之男命が天降る地上の国が出雲国という特定の地方であることから、国津神の系譜は「出雲系」の神々ということになり、それに対応して天津神には、あらためて「天孫系」あるいは「大和系」の神々という性格が加わることになります。つまり、天津神と国津神という分類には、神話と歴史とがないまぜになった古代の二大勢力が反映することになります。
 
〔大和系の天津神〕
 
 「天孫系」とは、いうまでもなく高天原を治める天照大御神が、中つ国を治めている「出雲系」の大国主神に国譲りさせて、その孫神にあたる日子番能邇邇芸ひこほのににぎの命を地上に派遣するという国譲り神話にもとずくものであります。そして、この天孫を、天児屋あめのこやねの命や布刀玉ふとだまの命など5柱の神たちや三種の神器(鏡・玉・剣)、それに思金おも
いかねの神と手力男たちからおの神などを供にして、九州の日向にある高千穂の山に降臨させますが、やがてその子孫が神武天皇以来の大和王朝を築くことになるところから、「大和系」という天津神のもう一つの系列が出来ました。
 そこで、おのずから古代天皇家が、高天原にも地上の伊勢神宮にも鎮まる天照大御神を祖神とし、しかもその前後に連なる高天原の神々にもさかのぼることから、これらを「天孫系」とも「大和系」とも言い慣わしてきました。
 ところが、こうして天皇家を中心に大和朝廷を築き上げた大和地方や河内・山城・摂津などに住む土着の豪族たちが、祖先神としてもともと祀っていた多くの土地神たちは、天津神ではありません。
岩戸神楽の起顕 歌川国貞の錦絵 浅井ゴレション蔵 (拡大)
 
 「大神」という三輪山の神や「大倭」という大和の国魂の神、あるいは「葛木鴨」という御歳おとし神などは、いずれも出雲系の国津神であります。これには当然のように、神話と歴史とが混然となった古代伝承があって、前述の出雲の国譲りなどの神話と、それに神武東征の物語などがその故事来歴を説き伝えています。
 出雲の神々が天孫に譲り渡した国とは、出雲地方だけでなく「中つ国」、つまり大和をはじめ近畿地方の各地に及ぶ先住豪族たちの広大な土地であり、それぞれの土地には天孫系の天津神とは無関係の神々で、のちに日本神話のなかで出雲系に組み込まれた国津神たちが先在していたのであります。
 そして神武東征が物語るように、むしろ九州から瀬戸内海周辺へと勢力を伸ばしてきた豪族が、おそらくは3世紀のころに大和に進出して、その先住豪族たちをつぎつぎに服属せしめていくなかで、自分たちが奉持してきた神々を天津神、先住民の神々を国津神として系列化しました。
 最近の発掘でしだいに明らかとなった奈良県桜井市と天理市にまたがる纏向遺跡は、石塚古墳や箸墓などの巨大前方後円墳とともに3世紀前後に栄えた大集落の存在を示していますが、この一帯は邪馬台国大和説の有力候補地であり、また古代史上も実在性の濃い第10代崇神天皇から始まる三輪王朝の発祥地であります。
 そして、女王卑弥呼に比定されている天皇の大叔母、倭迹迹日百襲姫命が、三輪山の神、大物主神の妻となると『日本書紀』は記しています。つまり、「大神」という国津神と婚姻し、女性シャーマンとして先住民の神の祭祀権を天皇家に獲得させています。
 しかしこの天皇は、いわゆる共殿同床、つまり従来の天皇が宮殿内に天照大御神と倭大国魂神をあわせ祭ってきた風習を恐れて、2神をそれぞれ別のところに移し祭ったと記録していますが、この記事によって天皇が自分の皇祖、天津神とともに「大倭」なる在地の国津神をも祭っていることがわかります。
 
〔国 津 神〕
 
 国津神とは、律令時代にいう「天神地祗」のうち、「地祗」に当たり、古代以来の祝詞のりとではおおよそ地上の山中に鎮まる神々を指すことであります。
 しかし、古代中国でいう「地祗」に比べると、季節や方角ごとに整然と配置されて地上をつかさどるというのでなく、日本のそれは天津神とともに国内各地に散在する古来の有力神社の祭神にほかならぬものでありました。
 むしろ古典神話による国津神たちは、高天原にゆかりの天津神のなかでも有力の神でありながら、その秩序を乱して高天原から地上に追放されてしまう須佐之男命の系譜に連なる神々なのであります。神話上、たがいに姉と弟の関係にありながら、いわば天津神を代表する天照大御神に対して、国津神を代表するのがこの須佐之男命であります。しかも高天原を追われて地上の中つ国に降り立った場所が出雲であり、この地で大蛇退治などの英雄的な働きをして開拓祖神となるにおよんで、のちの天孫降臨に先立つ中つ国全域の先住豪族たちが各地にそれぞれに祀る土着の神々、すなわち国津神たちを率いる出雲大神となったと考えられます。
 だが、名実ともに国津神を代表し統率する地位を獲得する大神は、須佐之男命の子孫で八十神という兄弟神たちに勝ち抜き、しかも須佐之男命が試す数々の試練に耐えて大成する大国主神なのであります。
 その理由は、『令義解』が「天神地祗」を注釈するなかで、同じ出雲に祀る2神でありながら、一方で天津神とする「出雲国造斎神いずものくにのみやつこいつくかみ」とは須佐之男命を祀る出雲の熊野坐神社、すなわち熊野大社の祭神であり、他方で国津神とする「出雲大汝神おおなむしかみ」こそが大国主神を祀る出雲の杵築大社きつきのおおやしろ、すなわち出雲大社の祭神であるとしています。
 『記紀』や『出雲国風土記』によれば、大国主神は、ほかに大汝神(大己貴神大穴無知のかみ)、葦原醜男神あしはらのしこおのかみ、八千矛(戈)やちほこ神、顕国玉神うつしくにたまかみ、大国玉神、大物主神など多くの神名を持っています。葦原醜男とは、中つ国の英雄をいい、八千矛とはこの神の武力をたたえた名、顕国玉神と大国玉神とは高天原の天津国玉神に対する中つ国の地主神のことで、『令義解』にいう国津神の「大倭」すなわち大和坐大国魂神社(大和神社)の祭神にあたり、さらに大物主神とは『令義解』が国津神に挙げる「大神」すなわち大和大神神社の祭神であります。
 しかも、残る同書の国津神「葛木鴨」とは、やはり大和の葛木御歳神社の祭神であり、大歳神の御子であり、須佐之男命の孫神に当たる神であります。ようするに『令義解』の列挙する「地祗」は、すべて須佐之男命の神孫で、とくに大国主神のさまざまな神格を祀る神社の神々にほかならないのであります。
 したがって、日本の神々を大別する天津神・国津神の分別は、神話伝承のなかでは、むしろ大国主神による「国譲り」の段と「天孫降臨」の段あたりから明瞭になってきました。
(左)長谷観音のアマテラス像 長谷寺蔵 (右)大黒天立像 延暦寺蔵
 
〔天照大御神〕
 
 『古事記』では天照大御神『日本書紀』では天照大神と記しています。伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰り、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原において禊をしたときに生まれた神であると記しています。
『古事記』では、「左目を洗ったときに成り出でた神の名は、天照大御神、次に、右目を洗ったときに成り出でた神の名は、月読命。次に、鼻を洗ったときに成り出でた神の名は、建速須佐之男命。……」
このときに、伊邪那岐命はたいそう喜んで、「私は子を次々と生んだが、最後に3柱の貴い子を得たと仰せになり、ただちに、自分の首飾りの玉の緒をゆらゆらと揺らし、天照大御神にこれをお授けになって、『あなたは高天原を治めなさい』とご委任なさった」とあります。
さて、このようにして高天原の統治を託された天照大御神は、須佐之男命の天上訪問をいぶかり誓約を行って、多紀理毘売命など3神と天之忍穂耳命など5神を生みますが、勝者然とした須佐之男命の乱行に怒って天岩屋に籠ると、高天原と葦原中つ国は暗闇となり、大混乱に陥ります。そこで神々が一致協力して丁重に祭祀を行ったところ、ついにはそれに応えて天岩屋から出ると、高天原と葦原中つ国は明るくなり、秩序も回復しました。
そして御子の天之忍穂耳命を降臨させるべく葦原中つ国の平定を命じ、平定後あらためて天孫邇邇芸命に豊葦原の水穂の国の統治を委ね、自身の御魂代として八呎鏡を祀るよう命じて降臨させています。
その後、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)の東征にあたり、熊野において霊剣を下して危機を救い、白檮原(橿原)の宮での即位にいたらしめました。天照大御神の導きのもと倭建命は西国と東国の平定に向かい、さらに神功皇后の新羅親征の折には、天照大御神と筒之男三神が男子(のちの応神天皇)の出産を予言して守護し、勝利に導きました。
以上のように、天照大御神は秩序の根幹であり、皇祖神として、天皇による天下の統治の正当性と、その版図の拡大を保証する神であります。
一方、『日本書紀』には異伝も多く、「古事記」と同様に左眼を洗ったときに生まれたと記しています。さらに本文では、
 「伊邪那岐命と伊邪那美命が相談して、『私たちはすでに大八洲国と山川草木を生んでいますが、天下の主宰者を生まないということがあろうか』と話されました。そして日の神をお生みになった。……」一書には大日メ貴おおひるめのむちと申し上げ、一書に天照大神、また別の一書には天照大日メ命という。この御子は光麗しく、天地四方に輝きわたっている。2神は喜んで、『私たちの子は多いけれど、これほど霊妙な御子はない。長くこの国に留めることなく、早く天に送って天上のまつりごとを授けよう』と仰せられました。このときはまだ天地の間は今ほど遠く隔たっていなかったので、2神は天柱を用いて日神をを天上にお上げになりました。そして次に月神をお生みになりました。
(左)天照皇大神・諸大神絵図 個人蔵 (拡大) (右)武装するアマテラス像 東逸子画
 
 『日本書紀』には、天照大御神が稲や粟などを人々の食べ物と教え、養蚕を始めたとされ、人間の衣食の根幹に関わる神として描かれています。そして天皇と同じ御殿において祀られていましたが、崇神天皇の6年に大和の笠縫邑に遷し、さらに垂仁天皇のときに伊勢に遷座したことが記されています。
また、アマテラスについては、アマ(天)+テラ(照)+ス(尊称)と「天にましまして照り賜う」意とする通説に対し、アマ+テラス(照)と「天に照り輝く」意にとる説も出されています。これは、神名の中心は「大御神」にあり、天照大御神の多様な事跡と性格を表すべく、「天照らす」すなわち「天にあって照り輝くばかりに立派な」という称賛が冠されています。
【神・神社とその祭神】 《そのV》完 つづく


≪第22号完≫
 


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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