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●第27号メニュー(2008/3/16発行) |
【神・神社とその祭神】《そのZ》 【神武東征】 <白盾津(河内)の戦い> <熊野路の戦> <八咫烏> <金色の鵄> 【神武天皇陵】 【饒速日命】(爾芸速日命) 【饒速日命を祀る神社】 |
神武東征の物語は、伊波礼比古命が大和に入るまでの事跡を伝えています。『古事記』『日本書紀』では、大筋は共通しているので、『古事記』を中心に物語を見ていきます。 伊波礼比古命は、『日本書紀』によれば、15歳で皇太子となり、吾平津媛(あひらつひめ)を娶って二人の子をもうけています。そして、45歳のときに大和への東征を決意しました。 兄の五瀬命その他の兄弟に相謀られて、「昔わが天津神なる高御産巣日神(たかみむすびのかみ)(高木神)、大日霊命(おおひるめのみこと)(天照大神)が、この豊葦原瑞穂(とよあしわらみずほ)の国をあげて、われ等の御親(みおや)邇邇芸命に授けられた。邇邇芸命は天関(あまのと)を開きて、雲路を押し分け御蹕(みあし)をこの西偏の日向国に止(とど)められた。 皇祖皇考神聖にましまして、慶(さいわい)を積み、光輝を重ねて幾多の年を経給うた。しかるに東方の遼遠(りょうえん)の地なおいまだ王澤(おうたく)に霑(うるお)わず。或は邑に君あり、村に長あり、彊界(きようかい)を立てて互いに軋轢(あつれき)する。われかつて塩土爺(しおつちおぢ)に聞いたことがある。東方に青山をめぐらした美しい国があるという。そしてそこにはすでに天磐船に乗って降った饒速日命(にぎはやひのみこと)という神が国を拓き始めているという。この地こそわが天業(てんぎょう)を恢弘(かいこう)すべきところとおもう……」と云われました。兄弟たちはこの旨に賛助して、祖父3代の日向を去って、東行の準備にかかりました。 |
神武天皇の東征経路略図 |
伊波礼比古命は、その年の10月、皇子と多くの臣たちを帥(ひき)いて日向を発船して海路を東行し、豊の国の海岸速吸(かいがんはやと)の門(と)にかかりました。その時一人の漁師が舟をあやつって近かずいてきました。命は「汝は誰ぞ」と、問われると、「臣は国津神、名を珍彦(うずひこ)ともうしこの浦に釣をするものであります」と答えました。 この者に海路の饗導(きょうどう)を命じられ、椎根津彦(つちねつびこ)の名を賜りました。 さらに船を進めて筑紫の宇佐に至ったとき、宇佐の国造の祖、宇佐津彦、宇佐津比売というものが、宇佐川の川上に一柱騰(あしひとつあがりの)の宮を造って、御饗(みあえ)を奉りました。さらに東進して、筑紫の岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋町付近)に一年、それより安芸の多祁理宮(たけりのみや)(埃宮(えのみや)、広島県安芸郡府中町付近)に7年、さらに、吉備の高島宮(岡山市付近)に8年、ようやくにして難波の渡りを経て、河内の国草香(くさか)の邑の青雲の白盾津(しろたてつ)に着きました。 |
<白盾津(しろたてつ)(河内)の戦い> |
伊波礼比古命の軍は難波に着いて、河内の白盾津に入りました。ここから大和に入ろうとしました。だが、大和を拠点とする首領長脛彦(ながすねひこ)(登美彦(とみひこ))の強い抵抗に出会い、戦いは利あらずその上、兄五瀬命が流れ矢に当たって負傷するという有様でした。 伊波礼比古命は、「日神の子である自分が、日の出の方角に向かって戦ったのがよくなかった」といって、南から回り込んで再度攻めようと、いったん軍を退却して、海路紀伊熊野に向かわれました。紀伊国の雄港(おのみなと)まで来たところで五瀬命は亡くなり、紀伊国の竈山(かまやま)(和歌山市の竈山神社)に葬られました。 |
(左)神武天皇降誕の聖跡 皇子原神社 (右)九州略図(拡大) |
宇陀には、兄宇迦斯(えうかし)と弟宇迦斯(おとうかし)という兄弟がいました。命は八咫烏を遣わして、その二人に、「ただいま、天津神の御子がお着きになりましたが、あなた方は御子にお仕えになりませんか」と尋ねました。 兄宇迦斯は、八咫烏の鳴く声を聞いて、「悪い鳥」であるといって、矢を放ちましたが、八咫烏は逃れて、弟宇迦斯のもとに行って、命の言葉を伝えると、弟宇迦斯はその言葉に従います。だが、兄宇迦斯は、軍勢をそろえて対抗しようとしますが、軍勢がそろわないとみるや、命に服従すると見せかけて、罠を仕掛けた屋敷に命を誘い入れ、だまし討ちをしようとしました。その企みを知った弟宇迦斯が命に知らせたため、命は、兄宇迦斯を呼び出して「あなたがお造りになった屋敷の内へ、先に入ってお証(あかし)を見せよ」と追い入れました。兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にはまって自死しました。 |
畝傍山全景(拡大) |
長脛彦は、天羽羽矢(あめのはばや)1隻と歩靭(うつぼ)を持ち出しましたが、命も持っていた天羽羽矢1隻と歩靭を長脛彦に見せました。 長脛彦はこれを見て、ほんとうに貴い神であることを知りましたが、なお疑わしいものがあると思って、なかなか命に従おうとしません。 爾芸速日命は、長脛彦の悪い心を怒って、ついに殺して、軍勢を率いて伊波礼比古命に従いました。長脛彦の妹と結ばれて勢力を張っていた爾芸速日命が恭順の意を示したことで、長くかかった東征は完結を見ました。 |
(註)『古事記』にはみられない大和平定にまつわる記述が、『日本書紀』には記されています。 |
伊波礼比古命がいよいよ大和に入ろうとした時、「天香具山の社の土を持ち帰って、それで天平瓮(あまのひらか)を80枚と厳瓮(いつへ)(お神酒を入れる瓶)を造って天神地祗を祀れば、きっと平定することができる」と、天津神のお告げがありました。そこで命は、敵に怪しまれないようにみすぼらしい老夫婦の姿をさせた使者を、天香具山に向かわせました。首尾よく土を手に入れた命は、お告げ通りに天平瓮と厳瓮を造り、丹生の川上で天神地祗を祀りました。命が無事に大和を平定できたのは、このお告げのおかげであると、『日本書紀』には記されています。 到るところの荒振神(土蜘蛛)たち滅ぼし、磐余(いわれ)の地をことごとく平定して、大和橿原に都を造営しました。天照大神が八咫烏、金色の鵄をお遣わしになったために皇軍が勝つことを得たので、霊畤(まつりのにわ)を鳥見山に建てて、天照大神を祭祀しました。 かくして日向を出発して6年(古事記では16年)にして、神倭伊波礼比古命は大和を平定し、辛酉(かのととり)(西暦紀元前660)の年の春正月、橿原宮で即位し、ここに神武天皇が誕生しました。この年をもって天皇の元年とし、天皇は始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称し、日本を最初に統治した天皇に擬せられています。天皇は日向にあってすでに吾平津媛(あひらつひめ)との間に2子をもうけていますが、大和において新たに三輪の大物主神の娘、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を娶って正妃としました。先住民の娘を妻に迎えることによって、同地に対する支配権が確立されたことになります。皇后は3柱の御子をもうけています。 |
(左)伊波礼比古命宮居跡「皇宮居」 (右)伊波礼比古命を祭る宮崎神宮 |
艱難辛苦を乗り越えて大和に即位したとする所伝は、天皇を建国の祖とする物語としては、興味深いものがありますが、この天皇の実在については、いかにも実在性に乏しいものであります。 神武76年3月11日、橿原宮に崩御。享年は、『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳で崩御したと記されています。 神武天皇陵については、『日本書紀』が畝傍山の東北(うしとら)陵、『古事記』が畝傍山の北、白檮尾(しろかしのお)とするなど、記述にはある程度の差異があります。 |
【神武天皇陵】 |
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(左)「大倭国帝陵図」にある神武陵 (右)『廟陵記』の「神武陵」(拡大) |
ちなみに、『古事記』によればイザナギ・イザナミの子の中に鳥之岩楠船神という神がいて、またの名を天鳥船といい、国譲りの段に登場しています。天と鳥の字が交代しているのは、崩御後に鳥が霊魂を運ぶ乗り物と考えられたからであり、さらに、鳥が天と海との境目あたりから飛来すると考えられていたのであります。また、?樟や楠の字が当てられているのは、樟脳の原料となるクスノキ自体に防虫防腐効果があり、しかも堅固ということで楠を 船底に使用すると岩礁地帯をも乗り切ることが出来たからです。 『旧事本紀』の「天神本紀」によれば、ニギハヤヒが初めて天降った場所は河内国の河上の哮峯(いかるがのみね)ですが、生駒山かその山系の一峰だったと想定されます。そして、神武が皇子・舟師を率いて上陸した地点も河内国の草香邑(くさかむら)(現在の枚方市日下町)でありました。古代の河内地方は瀬戸内海が大阪湾(難波之海)の奥深くまで入り込んで、しかも東淀川の江口から生駒山地の西の麓まで血沼(ちぬ)の海(池)と呼ばれた潟湖(せきこ)が西から東へ細長く川のように延びていました。そのいちばん東寄りの山の麓の最奥部に草香邑の津は位置していました。 |
(左)石切剣箭神社楼門 (右)矢田坐久志玉比古神社 |
【神・神社とその祭神】《そのZ》完 つづく |