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●第4号メニュー(2006/4/23発行)
秀吉の大仏殿造営
百椿図に寄せて

 京都史跡散策会では、平成3年ごろ《京都の秀吉》をテーマにして史跡探訪をしました。先月号でご案内した《京の秀吉歳時記》を数回に分けて連載することを申し上げましたが、京都には秀吉の事蹟が沢山ありますので、どれから取り掛かろうかと考えてみました。その結果、散策会と重複しますが、おさらいをかねて、例会資料の増補をしてみました。
 4月といえば椿?です。全国各地につばき展≠ェ催されます。3月の31日から4月の1日と2日にわたり、八幡市の松花堂庭園でつばき展があり、資料室に『百椿図巻』が展示されていました。この百椿図にまつわることなどを述べてみました。
 
≪京の秀吉歳時記≫[その壱]
 
【秀吉の大仏殿造営】
 
 天正10年(1582)6月2日未明、織田信長は明智光秀の謀叛により、京都本能寺において49歳の生涯を閉じました。「天下布武」の望みは中途で挫折しましたが、その意志は豊臣秀吉が継承しました。光秀が討たれた後に開かれた清洲会議で、京都は秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興らの支配に任されることになりましたが、翌11年4月の賎ヶ谷の合戦で秀吉が勝家を破ってから、京都は専ら秀吉の支配するところになりました。その象徴的な人事が前田玄以の京都奉行(京都所司代)への就任であり、彼は秀吉とその力を背景に京都を支配しました。
方広寺大仏 昭和48年焼失
 

豊臣秀吉像 干菜寺蔵


洛中洛外図 部分(舟木本)

 天正13年7月、秀吉は関白に就任します。翌14年2月、内野の地に豪壮華麗な居館の建設をはじめ、15年2月に竣工しました。同年9月に秀吉はこの聚楽第に移り、さらに翌16年4月、御陽成天皇の行幸が実現しました。ここにおいて秀吉は信長の継承者としての地位を確立したのであります。
 さきには、30余ヶ国の大名に分担を命じて、1日実に3万人の人夫を動員して築城した大阪城は、天正11年1月〜2年7ヶ月をかけて完成しています。
 これら秀吉の構築物は、覇権を具現した記念碑であり、あとあとまで残るモニュメントであります。さらに「天下人」に適した巨大な寺院を新たに建造する計画をしました。洛中を見渡せる眺望の良い地である阿弥陀ヶ峰山麓に、同年4月に、奈良の東大寺大仏の1,5倍という巨大な大仏殿の工事が開始されました。もちろん、その大仏殿造営を担ったのは前田玄以であります。
 まず、大仏造顕の方法については、中国明の工匠古道の提言により、銅造では時間がかかりすぎるので、木造にすれば約半分の年月で完成することができ、また、木造でも漆膠を塗れば百年は持つと云われ、木像で漆喰・漆箔に決定し、造顕に着手しました。つぎに用材の調達については、徳川家康に大仏殿の建立で最も重要かつ難題とされていた棟木を、富士山麓や屋久島などから良質の木材が調達されました。また、大仏殿の基礎となる石組みは、小石を排して巨石を使い、これを細川氏に調達・普請を宰領させています。

洛中洛外図 堺市博物館蔵
 秀吉は、大仏殿建築の形態、仏像の様式、開眼供養などについて、その性質上高野山の木食応其を招いてその衝に当らせました。応其は諸国の寺院の再建・修理を多数手がけて経験も豊富であったことから、この方広寺建立の奉行に抜擢され、自ら「大仏上人木食応其」と称し、大仏殿建立に奔走しました。
 しかし、秀吉は完成の功を急ぐあまり、奈良大仏の工期20年に対して、方広寺大仏は工期5年に縮めるため、中国の工人の献策をいれて、金銅仏でなく、木造の漆喰造りにしました。この突貫工事によって後の大地震により仏体が大破を受ける結果となりました。
 本尊廬舎那仏(大仏)坐像の規模は、高さ63尺、面長18尺、眼横5尺5寸、同竪2尺、鼻高5尺5寸、同横4尺、鼻穴2尺、耳10尺、掌12尺、足裏14尺、同横7尺、両膝51尺、膝厚8尺、裸髪2尺5寸、同350個、白毫2尺、光背高さ108尺、同横54尺、連弁各8尺と伝えられています。
 寺号の方広寺は、大仏が「釈迦華厳説法方広之体相」であるところから名付けられました。天正16年(1588)基礎の式が行なわれ、大徳寺の古渓和尚を開山としましたが、大仏の完成を待たずに遷化されたので、文禄2年(1593)大仏殿の上棟式に、聖護院道澄を方広寺大仏殿住持としました。秀吉はその時、寺領1万石を寄進しています。
 文禄4年(1595)9月25日、秀吉は亡き父母の法要をこの方広寺大仏殿で行ない、真言(東寺・醍醐寺・高野山)、天台(延暦寺・園城寺)、律、禅(五山)、日蓮、浄土、遊行、一向の諸宗の僧1千人による千僧供養を行ないました。
洛中洛外図 萬野美術館蔵  

慶長元年(1596)閏7月13日、天下をゆるがす京都の大地震が起こりました。被害は上京より下京がひどく、方広寺では、大仏殿そのものは無事でありましたが、基礎が数ヵ所下がった程度です。本尊の大仏は大破し、左手は崩れ落ち、胸は裂けてみるも無惨な姿になり、前田玄以と木食応其の努力は落慶法要を目前にして水泡に帰し、秀吉の希望もあえなくついえ去り、落胆は立腹に変わりました。
 またこの地震は、明国の使節を迎えるべく、諸大名に大動員をかけて伏見指月の地に建造中の壮麗な館も、一瞬にして瓦礫と化してしまいました。
 その後、伏見城の修築とともに大仏の修復も急がれ、地震の翌年の5月、秀吉は大仏修理の検分をしましたが、思うような修復が出来ていなかったので、やり直しを命じました。そして、待ち切れなくなって、翌6月、甲斐の善光寺の本尊阿弥陀如来像を大仏殿の主尊として迎えました。古来、人々の崇敬を集めてきたこの如来は、武田信玄の手によって信濃の善光寺から甲斐へと移されていましたが、それを今度は京へ遷座させようと考えました。それも前年から善光寺如来が秀吉の夢枕に現われて、都に行きたいと仰せられていると宣伝しています。
 大仏造顕を取り仕切っていた木食応其は、出身地である高野山に、僧侶は皆出席して善光寺如来を出迎えるよう指示しました。実際、7月18日の行列は大津から大仏殿まで途切れることなく続く盛大さで、延々8時間に及ぶ美々しい大パレードに見物人が殺到したと、醍醐寺の義演准后が日記に記しています。
 9年がかりで造り上げた大仏殿に納まるはずの63尺の廬舎那仏が地震で壊れたため、修復作業を続けながら完成までの間、わずか1尺5寸の如来像を招致して、大仏にかわる本尊に安置しました。
 

 この如来像招致から2ヶ月後の9月28日、この方広寺において鼻供養≠ニいう奇妙な法会が営まれました。新来の1尺5寸の如来像の霊験を飾るため、寺の門前に朝鮮から届けられた大量(15桶)の鼻を埋めて鼻塚を築き、それの供養会を行ないました。これは如来像の存在感を高めるためのイベントと考えられています。この生なましさで容易に人の関心を惹くことが出来ると、また戦果を誇示することで、唐入りが順調に進捗している宣伝にもなると考えたのであります。
 しかし、大明・朝鮮の戦没者のための、大施餓鬼を行なうと触れを出して法会が行なわれましたが、法会は盛り上がりに欠けました。来春には塚をもっと大きくして行なうことが言い渡されました。また、この日は前年に4歳で元服した秀頼の公の場でのデビューを示す洛中での華やかな大パレードも同時に行なわれました。
 善光寺如来を安置して以来、京都には天変地変が起こるようになります。慶長3年(1598)、残暑に入りながら酷暑がつづき、熱射病の発生、悪疫の流行、農作物の旱魃などの被害が続きました。暑さも峠を越したころ急に寒くなり、紅葉より先に寒波が襲来して病人が続出しました。また、肝心の秀吉も大病にかかり命も危うくなりかけました。これは善光寺如来の崇りであろうというので、行列を組んで信濃に送り返しました。如来像が京都を離れたのが慶長3年(1598)8月17日で、その翌日秀吉は亡くなりました。享年63歳。
 慶長7年(1602)12月4日、大仏修復中に炉より鞴の火が、仏の胴体の木材にうつり、辰の刻(午前8時)より午の刻(正午)にかけ、大仏光背から堂内全体に広がり火の海となり大仏は灰燼に帰したと記録が示しています。
 徳川家康は秀頼に大仏殿の再建を勧めました。今度は木造を廃して、金銅仏による再建が始まります。慶長14年(1609)1月より同18年にかけて、周囲の石垣ともども整然とした大仏殿が都人の前に現れました。
そしてこの大仏開眼にあわせて大梵鐘が鋳造されましたが、この梵鐘の銘文がいわゆる「鐘銘事件」を惹きおこし、元和元年(1615)の大阪冬・夏の陣となり、豊臣家滅亡の原因となりました。
 

 この慶長末年に秀頼によって再建された大仏と大仏殿は、さらに寛文2年(1662)5月の大地震で倒壊し、同4年この大仏の銅を江戸に運んで一文銭(寛永通宝)を造りました。大仏の仏身であるからと魔除け、厄除けのお守りとして、銭として使う人は少なかったと伝えられています。
 それから5年後の寛文7年(1667)には再度再建されますが、これも寛政10年(1798)7月、落雷によって炎上しました。当時の大仏殿は、高さ15丈、東西37間、南北45間の大建築で、落雷は大仏殿の東北隅を打ち抜きました。消火の竜吐水は大仏殿の屋根にとどかず、火は棟木に延焼し、暁7つ(午前4時)頃には堂内に火が回り、手のつけようが無く一面火の海となり、廻廊・南門・楼門と類焼して、日本一の大仁王も焼失しました。幸いにも風が無く、この大建築が、境内の外に倒れないで内部へ焼け落ちたので、付近の鐘楼、三十三間堂、養源院などが焼け残りました。
 この寛政焼失後、45年たって秀吉の生まれ故郷尾張の有志が、天保14年(1843)に木造の半身像(頭部)を造りました。顔の長さ34尺、肩幅回り59尺、目の長さ7尺、目の巾2尺、耳の長さ15尺、鼻の長さ8尺5寸、巾7尺、口は8尺7寸、巾2尺4寸、肩幅47尺で、南向けに安置されていました。
 昭和48年(1973)、この半身像も失火により炎上して灰燼に帰しました。よくよくこの大仏は、再三再四災難にあい、世の人はこれを「地震雷火事親爺」との譬えとしました。

【耳塚】
 
慶長2年(1601)9月28日、方広寺大仏の前で、文禄・慶長の役で戦死した朝鮮の無名戦士を弔うため、持ち帰った耳や鼻を埋葬して、大施餓鬼「鼻供養」が行なわれました。この鼻を埋めた所を小高くして五輪塔を建てました。現在は高さ6mもある長大な塚であります。鼻供養のとき秀吉は塚が小さいと不満をもらしています。
 慶長15年、秀頼は家康のすすめで金銅大仏を再建しました。この大仏鋳造の鋳型を埋めたので御影塚(みえいつか)と呼ばれたとか、鋳物で作るため鋳滓の耳ができるので、それを埋めたので耳塚と呼んだとか、これが混同して「耳塚」の呼称になりました。

《この項 完》

≪次号につづく≫



≪椿のあれこれ噺≫[その壱]
 
【安楽庵策伝の百椿図など】
 
 ツバキは日本の特産樹で地理的に各地に分布しているのと、生活に必要ある有用樹として、われわれの祖先が生活の中で愛しんできたという歴史があります。そしてこの花木に対する長寿・迎春・吉兆・結縁・破邪・尚武のシンボルとしての心情と信仰から、宮廷、公卿、将軍、藩主などの上層階級に止まらず、野山での庶民の生活の中に温存されて、あらゆる階層に浸透していきました。
 ツバキという言葉はもちろん日本語で、ツヤバ(艶葉)キからとも、ツ(強い)ハ(葉)キ(木)の意味だとか云われています。「光沢のある葉をもつ木」がやはり、常緑広葉樹林のなかのツバキをもっとも特徴的にとらえています。

都名所図会

今年のやすらい祭の花笠
 かつて平安京では周期的に疫病が猛威をふるいました。疫病神が活動して崇りをするのを鎮撫し、川に流したり野辺に送ったりする行事が行なわれますが、その一つに旧暦3月、紫野今宮神社で催されるやすらい祭≠ェあります。
 やすらい祭の出し物はやすらい花と呼ぶ花傘で、短い幕を垂れた傘の上にマツを中心にツバキ、サクラ、ヤマブキ、ヤナギを挿した花篭を据えます。それは厄病神の霊が花に憑くための依り代で、花に乗り移った厄病神は花の朽ちる時、ともに朽ち果てるという信仰に基づいています。もともとツバキの花が咲いたり散ったりするのもツバキの精霊が活発になったり衰弱したりするためで、その盛衰が他の精霊の消長にも影響を与えていると信じられていました。
 その信仰のゆえか、落下しやすいことから、首が落ち不吉な花木とか値が下がると武家や商家にタブー視され、このもの云わぬ花に忌まわしい不吉の花木の汚名が帰せられました。こうして江戸末期から明治にかけてこの花の文化史に暗い影が投げられ、今に至る迄、一部の商家と職人らの間にあらぬ誤解を残しています。それに拍車をかけたのが文明開花で、人々は欧化一辺倒による洋花趣向へと傾いていきましたが、根強いツバキの愛好家たちの愛護によって、戦後、再びブームを現出させました。
 ツバキが日本人の生活に溶け込んで、ついには不動の地位を占めるようになるには、一つの重要な契機がありました。それはツバキと茶の湯、とりわけ侘び茶との出会いでした。書院の格式ばった茶の湯に対して、草庵の心を支えるための侘び茶の道を説いたのは、奈良に住む称明寺の僧村田珠光で、これを完成させたのが千利休であります。珠光が唱えた茶会の在り方は、その根底において現世を肯定しながら隠遁の世界に遊ぶ韜晦趣味でありました。そこには心の安らぎを求めてツバキなどの花木を活けました。花の種類はほとんど白、薄色、赤に限られていましたが、ツバキが代表的な茶花となったことから、「ひかえめな侘びた」花として茶人仲間で認められ、江戸時代初期に一つの流行にまで発展しました。ツバキの美は侘び茶によって発見され、侘び茶はツバキを得て最高の伴侶を見出しました。侘び茶はその対極の世界を目指しながら時流と妥協し、富裕な町衆や大名の社交手段に用いられましたが、やがてその茶道の達人で社交界の名士の中から、日本のツバキの歴史に大きい足跡を残す一人の熱愛者が現われました。
 寛永(17世紀前半)のころ、京都誓願寺にあった安楽庵策伝は、落語の祖といわれるほど話術、文才に長け、茶道を極めた文化人でありました。老後は塔頭竹林院を創建して隠居し、数奇三昧のなかでも、とくにツバキを友として暮らしていました。彼が著わした『百椿集』(寛永7年1630)は、彼が長年力を入れた100種にも達したツバキの収集の記念碑と云ってもよい記録で、そのなかで彼自身がツバキに対してどのような情感を寄せていたかを詩情ゆたかに語りかけるとともに、天子から庶民にいたるまで、当時の幅広いツバキの愛好熱をよく物語っています。その序章にこう記しています。

百椿図 部分
 

 「改元ありて元和と号す。その年の暮れより椿日月に増益す」。また、「後陽成院のおんときにあらかじめ芽ざし、今上皇帝(後水尾天皇)の御代に甚だもってつかんなり」。
 そしてツバキがもし実から成育し、種子によって色相が変わるならば、なぜ昔から百梅や百菊あったように品種が多く生まれていないのか、と疑問を投げかけ、ツバキがこのころ一時に品種の数を増したことを裏書しています。
 彼は百種のツバキを花色によって次のように分類しましたが、これだけからも内容の充実ぶりが想像されます。
  白玉 二十、赤椿 二五、咲き分け・咲き交ぜ・飛入 三八、
  薄色 四、紫椿 ニ、変わりもの 十一。
 彼はその一つ一つに好みの名をつけて楽しみ、文芸味ゆたかに命名の由来を記しています。ときには機智に富んだ名をつけたのは策伝が最初の人だと云われています。それはツバキ観賞に奥行を与えました。収集の中には貴顕から拝領したもの、庶民の庭にあったもの、むりに所望してやっと手に入れたものなど入手経路を記しています。また、ツバキ気ちがいに見せられないという秘蔵の品種があることも記しています。
 このように近世初頭にツバキの品種が画期的に増えたことについて、策伝も記しているように、かなり遠国から都に運ばれてきたことが考えられます。道路網が発達した室町時代の後を受け、信長、秀吉によって畿内の関所が廃止されたことが物資の交流を促し、それにつれて各地のツバキの伝播が活発になったためと思われます。
百椿図 部分
  足利直義の天竜寺船派遣以来250年の間に、新興大名や豪商の飽くことのない異国趣味の探求心によって、中国原産のツバキ属植物の原種や雑種が輸入され、それが日本のツバキの品種の内容を豊富にする潜在力になっていました。
 策伝は茶人でありながら1輪の侘しい茶花に沈潜することなく、虚心に美しいツバキに感動する人でありました。老境にあっては、華やいだ大輪のツバキを大らかに賛美し、珍しい新花の発見に心を躍らせているのは、彼が融通無碍の人であり、ほんとうに植物を愛する人であることを物語っています。
 ときのみかど後水尾天皇は、ことのほかツバキを愛好され、その中宮東福門院の父徳川二代将軍秀忠は、大の花癖がある花好きの持ち主で、吹上御殿にツバキのコレクションを持っていました。秀忠の茶の湯の師匠織田有楽斎もツバキを愛しています。また、公卿の「日野殿」で知られた日野資勝のようなツバキマニアもいました。
 こういうツバキ愛好の背景がツバキ熱を煽りましたが、ツバキ趣味も文化の中心が京から江戸へ移るにつれ、江戸で栄えて園芸植物としての完成を見ました。江戸300年の間には、元禄時代に大流行があり、その後の享保にも、文化文政にも、奢侈の風潮とともにツバキのリバイバルブームがおこり、その都度公儀の抑圧を受ける有様でした。
 江戸時代におけるツバキの多彩な内容は、宮内庁所蔵の「椿花図譜」(0000)に見られる617品種のツバキ、T品種のトウツバキ、12品種のサザンカの着色写生図に記載された品種解説などによって彷彿することが出来ます。そのあるものは現在の品種と一致しますが、近代の黎明このかた、たびたびの壊滅的な荒廃にさらされた結果、消滅したものも多く、あるいは名を失い、あるいは誤った名のもとで現在に受け継がれているものも少なくありません。これらの古い遺産は早くから地方に分散し、その封建的閉鎖社会の中で固定して、それぞれの伝統を生み出しました。大別すると京ツバキ、江戸ツバキ、尾張ツバキ、肥後ツバキそれにユキツバキを加えた五つの地方色がそれです。
 京都が今日の世界的なツバキブームの中で、ツバキのメッカとして、国内ばかりでなく、欧米からも年々ツバキの愛好家を迎え、観光都市としての面目を保っているのは、古都千年の歴史の厚さと戦火をまぬがれた、2つの恩恵によるものです。
 京都のツバキの雅致のある特性は、その恵まれた環境によって、さらにその効果をあげています。山紫水明の風土、それに数多く残された名刹の庭園や名勝庭園、ことに苔庭との対照、名物の竹林や北山杉の背景、さらに礎石や石塔、蹲、燈篭などが、ツバキ樹とツバキ花の美しさを引き立たせています。
 今日の京都観光案内は、名花名椿に焦点を合わせたものも出ています。東山三十六峰の第15峰は椿ヶ峰と呼ばれ、ここを中心にして銀閣寺、法然院、霊鑑寺、若王寺、南禅寺、清水寺、泉涌寺、東福寺、西山には嵯峨から桂、向日町、長岡にかけて大覚寺、曇華院、二尊院、祇王寺、苔寺、地蔵院、長福寺、さらに洛南の伏見、宇治、男山八幡宮にかけて、ツバキの名花は随所にあり、目を愉しませてくれます。山紫水明の風光を象徴するものもツバキであり、またそれを育成してきたものもツバキ樹でありました。
 京ツバキの今一つの特質は、洗練された優品が非常に多いことであります。京ツバキには欺雪、紅筆、小式部、明月、石橋、緋竜、村娘、玉兎、白牡丹、舞鶴……など、天皇や高貴な人々によって命名された名椿も沢山あります。その上に鑑識眼の高い教養人によって発見され、多年の淘汰によって作り出された名花が揃っています。同じ名称のツバキ花……侘介、白玉、ト伴、日光、月光、百合椿……などでも、氏素性の正しい名花中の名品が残されています。
(註) この記述は、豊中史跡会の例会(100回記念)の【京都の南部・山科・宇治】の中で、宇治植物公園で行なった南山城つばきの会の椿展でおしゃべりしたものと重複します。
≪第4号完≫
 
【お詫び】第4号の発刊が遅れました。パソコンの故障があって執筆が中断しましたので、1週間ずれました。申し訳ありません。次号は予定通り、第3日曜日に発刊します。

編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

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