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●第55号メニュー(2010/7/18発行)

【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのT)

〔夢窓疎石(国師)〕(1) 〔天竜寺庭園〕

【夢窓疎石(国師)】 〔建治元年(1275〜1351)観応2年〕
 
 天竜寺は、洛西大堰川(おおいがわ)の北に位置し、広大な寺域をもつ臨済宗天竜寺派の大本山で、京都五山の第一位に列せられた大禅刹であります。暦応2年(1339)に吉野で崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏によって天皇の幼少期を過ごした亀山殿の地に創建して、夢窓疎石(国師)を開山としました。開山に迎えられた国師が、庭園の築造も任されています。
 かつて後嵯峨上皇の離宮・亀山殿だったこの地に、国師は禅の精神世界を造営しました。
天竜寺は5年の歳月を費やして、貞和元年(1345)に光巌上皇の臨幸を仰いで、盛大な落慶供養が行なわれました。
(左)天竜寺庫裏 (右)夢窓国師像 臨川寺蔵(拡大)
 
 寺地は嵐山、渡月橋をも包含し、東は有栖川までにおよび、百数十の塔頭寺院を擁していましたが、草創以来8回の火災にあって、創建時の堂宇の全てを失いました。
 国師は天竜寺十境(後出)を選んで、詩偈を残していますが、そのなかで現在に残っているのは曹源池(そうげんち)(庭園)を残すのみであります。
 池泉(庭園)は回遊式でありますが、方丈からの観賞を第一としています。当寺は近年回遊式に改修したため、観賞者は方丈前から書院(小方丈)の前を過ぎ、さらに多宝殿を経て、亀山の麓を右廻りに一周します。これは池畔のどこからでも眺められる便宜を考慮したものであります。
 「都林泉名勝図会」によると、池の中央に飛瀑(ひばく)(滝)が描かれていますが、現在では滝水は枯れています。明治時代まではこの滝口からは豊かな滝水が落ちていたといわれています。滝水の水源は築山の背後亀山の山裾の湧泉を掛樋で引水していました。この滝口を主眼においている以上、滝水の落下は大きな問題であります。この池泉(曹源池)対岸に組まれた峻厳な枯滝石組は禅の象徴で、国師のめざした理想郷が凝縮されています。国師の数ある庭園で、最後の作庭であるこの庭園は、国師の芸術的感覚の素晴らしさをしめしています。この時代は、日本の庭園史上、芸術的にも技術的にも発展の著しい時代でありました。それからいっても、この滝口の形態、石組の手法とその造形的感覚を大いに昇華し、また、きびしく観察する必要があります。
《註》「都林泉名勝図会」は、江戸後期の京都名園案内。秋里籬島著。寛政11年(1799)刊。
 京都の庭園や茶亭などを142の写生図によって紹介し、それに説明文を付す。木版画の画工は、佐久間草堰・西村梅渓・奥文鳴である。奥付には「寛政十一己羊歳」の発行年と、六角通御幸町西入の地名、版元小川多左衛門の名がある。本書は当時のベストセラーで、現在も残っている京都の庭園などの比較研究などに、貴重な書である。
天竜寺 「都林泉名勝図会」より
 
 平安時代後期、浄土への信仰が盛んとなり、摂関家をはじめ有力貴族は阿弥陀堂を建立し、その前面に荘厳のための園池を整え、極楽の往生を祈願しました。このような庭園を「浄土式庭園」と呼ばれています。平等院庭園に代表される浄土式庭園は、平泉の奥州藤原氏による毛越寺庭園や無量光院庭園などで、京都から全国に発信されました。
 国師の作庭時期には、歴史的社会背景に大きな変革がありました。正式に禅が渡来したのは鎌倉初期で、のちに建仁寺をたてた栄西の臨済禅であり、道元の曹洞禅が起りました。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、奥州藤原氏を攻め滅ぼしましたが、その際、藤原氏の仏教文化の高さに触れて感じ入り、奥州合戦での戦没者の鎮魂と菩提のため鎌倉に永福寺を建立し庭園を築いています。
しかし、政権は貴族から武家へと移りますが、文化のイニシアチブは依然として京の貴族にありました。それゆえ初期の庭園は浄土式を模したものが多く作られました。武士の進出とともに興隆した禅宗寺院にしても、庭園は浄土式でありました。
 貴族にかわって支配階級になった武家は、質実剛健を信条とし、簡素を旨としたので、禅の思想に共鳴し禅に帰依しました。さらに禅は宮廷に入り、京都と鎌倉に五山が相ついで創建され、あらゆる文化、生活様式に浸透し、生活環境も当然その影響が現われてきました。こうした趨勢の中に出現したのが夢窓疎石(国師)であります。
 夢窓疎石は建治元年(1275)伊勢に生まれ、9歳のとき甲州(山梨県)で得度し、鎌倉、美濃を経て京都に來住します。その後、四国、中部、東海、関東、東北の各地を巡歴します。その間の宗教活動の本拠はやはり京都でありました。
 そして後醍醐天皇より夢窓正覚国師の号をたまわり、一般に夢窓国師と呼ばれています。上は天皇から上皇、北条氏、足利氏らの覇者や大名、武家の帰依を受け、庶民もまたその高徳を讃迎しました。
 時代は兵乱に明け暮れ、国師はその渦中に身を処し、心は自然の風光を求めることにありましたが、時勢は国師を必要としていました。仏道のみならず政治経済にも関与する結果となり、天皇、足利氏にも多くの示唆を与えています。
(左)天竜寺 大方丈を望む (右)天竜寺 航空写真(拡大)
 
 国師は「夢中問答」を著し、詩歌にもすぐれた才能を示しましたが、それ以上に国師の名を不朽とし、最も輝かしいものとしたのは、京都に現存する西芳寺、天竜寺の作庭であり、岐阜の永保寺、山梨の恵林寺などの庭園であります。
 国師はいかにして作庭の技を身につけたのか想像することはできませんが、おそらく天与の神技であり、禅僧としての自然愛と、人格の反映に帰するものと思われます。
 国師は観応2年(1351)大堰川のほとり臨川寺で77歳の生涯を閉じました。当寺は嵐山をもっとも美しく見えるところで、そこに塔所をさだめたことは、国師がいかに自然の風光に心を寄せていたかを物語ものであります。
 禅宗はこの時代にますます盛んになります。それはあらゆる文化に影響し、新しい学問、芸術、芸能が誕生しました。中国との交流は貿易船によって活発になり、多くの名器、名画が輸入されました。中でも北宋水墨山水画の影響は多くの庭園に見られるようになりました。
 国師は晩年に天竜寺庭園を完成しました。この庭園は国師畢生の名庭であります。それは大方丈の西面に、亀山を取り入れ、嵐山を借景とした大池泉で、池の手前には、波の打ち寄せる白砂青松の汀は優雅な州浜形とし、正面対岸に滝石組をつくり、その前に自然石の橋、池中に大小の岩島を配しています。そのどれもが傑出し、天下無双の景趣であります。池泉は美しい大和絵風であり、石組は禅院式宋元山水風といわれていますが、それらの画風をも超越した国師の多面的な神技の発露を見ることが出来ます。
曹源池の出島(拡大)
 
【天竜寺庭園】 《特別名勝》
 
 亀山殿の庭を国師が改修した曹源池庭園は、大堰川の対岸の嵐山を主山(本山)として借景し、亀尾山(亀山、今の小倉山の南部)を仮山(築山)に見立て、主山すなわち須弥山から間断なく滴り落ちる仏の慈悲の流れ(曹源の一滴)が仮山に組まれた滝をつたって、やがて池にたたえられる、その池を曹源池と呼んでいます。
《註》曹源池は、『天龍紀年考略』によれば、池中から発見した霊石に、国師が「曹源の一滴」と彫ったことから、曹源池と命名されたと伝えられています。
 天竜寺の伽藍は東から西へと諸堂舎を一直線上に配置する典型的な禅宗の伽藍配置であります。伽藍中軸線の最奥部(最西部)に造営された曹源池は、奥の西岸を中心におおむね造営当初の姿を保持していると思われます。背後に亀山・嵐山を背負うかたちでうがたれた曹源池は東西約35m、南北約55mの規模であります。庭の景致の中心をなすのは現在の方丈対岸正面の龍門瀑(滝組)とその前に架けられている石橋と中段の鯉魚石、その手前右寄りの三尊影向石、左寄りに並ぶ夜泊石などの配置はみごとであります。用いた庭石も渋く鋭い石の持
つ線を巧みに利用して、立体感を表現しています。
 細部については、滝口の水落石(鏡石)を主体にして大石を上に積み上げるように組立て、築山頂上になるに従って小さ目の石を組んでいるのは、石組みに遠近を持たせるための技法であります。滝口の下に架けられた自然石の石橋と池中立石一帯の石組には、自然石を有効に使っています。石橋は滝水の落下する水飛沫をあびながら通う深山渓谷にかかる石橋の様を表現しています。方丈より眺めるとこの石橋が高く組立てられた滝口の石組の垂直の線を下部で一直線に切るように横線を引いていて、造形上の安定感を保持しています。
(左)龍門瀑(拡大) (右)龍門瀑の下の石橋(拡大)
 
 そして、その石橋の正面やや右に寄って、池中に鋭い立石を中心に一群の組石、浮石を置いているのは、石橋と滝口を方丈から眺めて遠近を出すための手法であります。またその浮石が突立つように鋭いのは、高い滝口の石組みをこの浮石がうけて、景趣の均衡を保たしめるための技巧であり、この庭園の特徴であります。
《註》鯉魚石とは、池泉の正面にある龍門瀑と呼ばれる3段の滝組があり、その中段にある石は、鯉が滝を登
る姿を写したものといわれます。中国・山西省にある龍門の滝の故事「鯉が滝を登ると竜になる」を再現したもので、「登竜門」という言葉の日本における語源であります。
 天竜寺庭園は観賞本位の庭であり、建物から庭の正面を中心に、パノラマ式に眼を左右に移して眺めるように造られた庭であります。背後の山の豊かな緑と広い水面の中で求心的な庭景が点となっています。庭石は嵐山保津川の石を用いています。格調も高く、鋭い線を持った渋い色調の石は、時代的な好みをよく表わしていますが、作庭には禅的思想が基調となっていることを示しています。
 国師は、貞和2年(1346)に、境致たる「天竜寺十境」を撰している。普明閣(ふみょうかく)(山門)、絶唱渓(ぜっしょうけい)(大堰川)、霊庇廟(れいひびょう)(鎮守八幡宮)、曹源池、粘華嶺(ねんかれい)(嵐山の峰々)、渡月橋(大堰川を渡る橋)、三級巌(さんきゅうがん)(戸無瀬の滝)、萬松洞(ばんしょうとう)(門前の松並木)、龍門亭(りゅうもんてい)(嵐山を望む茶亭)、亀頂塔(きちょうてい)(亀山の頂の塔)であります。この十境は、伽藍を構成する建物や庭園のみならず周辺景観も含まれており、禅宗寺院における境致の思想がよくわかります。言いかえれば、国師の構想はいわば寺院を中心とした地域一帯を禅の理想郷と見るもので、新造した庭園の曹源池もその中の一景であります。

(左)龍門瀑の石組(拡大) (右)石橋前の岩島(拡大)
 

 また、山水画にいう「残山剰水(ざんざんじょうすい)」の技法になぞらえられる国師の作庭技法は、狭小な空間にさまざまな要素を石組で象徴させて組み込むことによって大自然を彷彿とさせます。この技法は後に「枯山水」様式へと発展し、日本庭園の歴史に大きな影響を与えました。
《註》残山剰水とは、禅の思想と深く関わった一つの技法で、自然の景色のなかの一部、小さな眺めをいくつも組み合わせ、全体としてまとまりある構図に表現する技法で、室町時代の枯山水など縮景法につながってゆく。
 池泉は大海をあらわしています。池の手前には、波の打ち寄せる白砂青松の汀や北側に突き出たように見える出島は半島に見立てられ、岬を長く延ばしています。その出島が中景となり、奥の滝組・石組との距離感を巧みにつくりだしています。また後方の遠くにある愛宕山を借景にしてさらに奥行きを感じさせます。出島の護岸石組みや植栽などに、変化をつけ意匠にも配慮のさまがうかがわれます。その奥に中島があり岸より橋が架けられています。いわゆる亀島であります。
 方丈対岸正面の深山幽谷を模した深遠な光景は絶景であります。その中心にある龍門瀑(滝組)は荒々しく組まれた石組で、「登龍門」の故事をあらわしています。中国黄河の急流にある3段の滝を登りきった鯉が龍になるという「登龍門」の故事にもとづいてつくられた滝石組であります。これは悟りの境地へ至る禅の修行を造形化したものであります。その石組の中段には龍に化す鯉をあらわした「鯉魚石」をあらわし、上段に深山をあらわす立石の「遠山石」を、下段には「水落石」が配されています。
夢窓国師が眠る臨川寺
 

《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのT) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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