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●第34号メニュー(2008/10/19発行)
【神・神社とその祭神】《そのXIV》 日吉大社
〔日吉神社と山王神信仰の広がり〕
〔山王七社〕 〔山王祭〕
〔日吉大社の祭神〕 〔日吉大社の諸堂〕 〔山王曼荼羅〕

 
〔日吉神社と山王神信仰の広がり〕
 
 比叡の山ふところに鎮座している日吉大社の起こりは東本宮からはじまります。『古事記』には、「大山咋神(おおやまぐいのかみ)、またの名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、この神は近淡海(ちかつおうみ)国の日枝(ひえ)の山に坐(ま)す」とありますこれは日本上代における民俗信仰の時期に、東本宮の濫觴(らんしょう)をなす原始的な祭祀が神体山たる日枝山(のちに牛尾山、八王子山、小比叡峰、山王山と呼ばれる)を中心において発生をみたことを述べたものであります。
 その実際の時期は、一般的にみて古墳時代の半ばころであったと考えられます。神体山日枝山は、遠望すると美しく整った山容をもち、その山麓一帯には横穴式の後期古墳が群在しています。
 山頂近くには祭祀遺跡と思える磐座(いわくら)(金大厳(くがねのおおいわ))があり、これを取り巻いて牛尾宮と三宮の社殿が建っています。むかしはおそらく全山が一定の祭祀期間以外は入山を禁ずる神の山(禁足地)となっていたものと思われます。
(左)山王宮曼荼羅(奈良国立博物館蔵) (拡大)
(右)特別展 天台を護る神々 チラシ
 
 また、『日吉社禰宜口伝抄(ひよししゃねぎくでんしょう)』には、「上代の日吉神社は今の八王子社なり。この峰は比叡山の東尾にあり、一に牛尾といい、また並天塚(あまなみのつか)という。その五百津石村(いほついわむら)は山末之大主神の御陵なり。その妻玉依比売(たまよりひめ)の御陵は、奥の御蔭(みかげ)の大岩なり」と伝えています。これははっきりと日枝山が神体山であると述べています。
 また、『禰宜口伝抄』によると「天智天皇七年三月三日、鴨賀島(かもがしま)八世孫宇志麻呂(うしまろ)が詔(みことのり)して、大和国三輪山に坐す大己貴神(おおなむちのかみ)を比叡の山口において祭る」とあります。
 つまり、天智天皇が近江朝を定めた翌年に、古都の守護神であった三輪明神を勧請して、新都を守護してほしいとの思惑があったと思われます。のちに地主神の大山咋神が東本宮の祭神となり、勧請神の大己貴神は、西本宮
の祭神となります。
 そして神社が創建されたのは和銅5年(712)のことで、天智天皇の片腕として近江朝を支えた藤原鎌足の孫にあたる藤原武智麻呂(むちまろ)が近江守に任ぜられたとき、比叡山の東麓、つまり現在の大津市坂本の地に社殿を造営して神々を祀ったといわれています。
 そのときに、日枝山(牛尾山)の山頂に牛尾神社(八王子山)と三宮神社を建て、前者に大山咋神の荒魂(あらみたま)が、後者に鴨玉依比売神の荒魂が祀られました。これを山宮といいます。その日枝山麓に里宮を移し、東本宮に大山咋神の和魂(にぎみたま)を祀り、樹下(このもと)神社に鴨玉依比売神の和魂を祀りました。こうして、東本宮系の4社が成立しました。
 一方、大己貴神を祀る西本宮の地に、貞観6年(859)に、八幡神の聖真子権現(しょうしんじごんげん)を祀る宇佐宮と、客人(まろうど)宮と呼ばれる白山姫神社もそのころの建立で、ここに西本宮系の3社が成立しました。この東西両宮の7社を合わせて「日吉七社」とか「山王上七社」とか呼び、信仰の中心となりました。
 日吉(ひよし)大社は、山王神(さんのうしん)信仰の大本であります。山王という呼称は、天台宗の本山である中国の天台山国清寺(こくせいじ)が、天台宗の護法神として地主神の「山王元弼真君(げんひつしんくん)」を祀っているのに倣(なら)ったものであり、延暦7年(788)、最澄(さいちょう)(伝教大師)が、日枝(ひえ)山寺(延暦寺の前身)を創建したとき、日吉神社を守護神として祀ったのが、山王神信仰のはじまりです。
 山王の文字を分解すれば、山は「縦三本に横一本」、王は「横三本に縦一本」であります。これを天台の教義では「三諦即一(さんたいそくいち)」だということで「山王一実神道(いちじつしんとう)」が成立しました。
 では、最澄が天台宗の護法神とした日吉神社の祭神はいかなる神々かと言えば、上代から比叡山の東尾根にある日枝山(のちに牛尾山、八王子山、小比叡峰、山王山と呼ばれる)をご神体として崇(あが)めていたものであります。
(左)日吉山王本地仏曼荼羅(延暦寺蔵)
(右)日吉山王宮曼荼羅(個人蔵) (拡大)
 
 この「山王上七社」の呼称も、天台宗の教義にもとづくもので、天の北斗七星と対比させて、地の七社にしたといわれています。この「山王上七社」についで、「山王中七社」と「山王下七社」があいついで神領内に建てられ、「山王二十一社」が
出来上がりました。
 さらには仏教の説く、「煩悩」の数と同じ一〇八の「社内の百八社」と延暦寺境内や坂本付近にある山王社を統合して「社外の百八社」という膨大な信仰組織が出来上がりました。また、全国には約3800に及ぶ末社が出来るに至りました。
 このように、日吉大社の末社が全国に建てられ、山王神信仰が広がった大きな要因は、最澄はじめ、円仁(えんにん)(慈覚(じかく)大師)、円珍(えんちん)(智証(ちしょう)大師)、そして江戸初期の南光坊天海(なんこうぼうてんかい)(慈眼(じがん)大師)らの布教や宗教活動の功績によってのことであります。
 最澄、円仁らが天台宗を布教するころは、民衆は、古代から伝わる神のみしか信じていません。仏教が伝来しても、仏の存在を認めるものが少なく、最澄らは、「日本の神々は、もともと仏陀や、菩薩であるが、世の中を救うため神の姿をしたり、または神の姿を借りて世に現れているのだ」という「本地垂迹」(「ほんじすいじゃく」)の理想、つまり神仏習合の理論で説教して民衆を納得させてきました。事実、最澄らは、西本宮に釈迦、東本宮に薬師、宇佐宮に阿弥陀、牛尾神社に千手、白山姫に十一面、樹下神社に地蔵、三宮社に普賢といったぐあいに本地仏を配置させ、山王神そのものが仏であることを説いています。
 最澄は天台宗布教のため全国におもむいています。もちろん、天台宗と山王神は表裏一体のものであるので、当然、山王神信仰も同時に広まっていったのであります。この山王神信仰の教線がのびた最大の理由は、最澄や円仁が東国教化に向かったことや、北陸進出のために、加賀白山から白山姫神を西本宮に勧請したことであります。いま一つは、元亀元年(1570)9月、織田信長の比叡山焼打ちで焼失した日吉神社を、天正年間(1573〜91)に、豊臣秀吉の援助を受けて再興した神社の祝部行丸(ほうりべのゆきまる)と、延暦寺の南光坊天海が、山王一実神道を復興させ、とくに天海が徳川家康と結びつき、山王神信仰を、江戸を中心として東国地方に広めたのが、もっとも大きな理由であります。
 天海は、豊臣家滅亡の原因ともなった方広寺大仏鐘銘事件に、林羅山、金地院崇伝とともに働いた立役者でありますが、のちには家康に天台宗の教学を講じて、幕府内では天台宗最優先の政策をとらせ、ついには武州仙波喜多院を延暦寺より高い地位において天台宗関東総本山にした人物であります。
 天海は、家康についで秀忠、家光の三代将軍に仕え、日光山の支配権を持つとともに、幕府の権力を背景に、天台宗と山王神信仰を強引に、関東地方へ広めていきました。
 この宗教政策には、たぶんに朝廷に対抗する意識が見えています。将軍家が異常なまでに日吉神社を崇敬した裏には、天皇家が崇敬している天照大神が、国家神(伊勢神宮)としての政治色が強かったので、これに負けじと、天海と家康は日吉山王神を天下神(日枝神社)として関東地方に広めました。
 現在、東京の赤坂に鎮座する日枝(ひえ)神社は、日吉神社の末社のうちでは最大級の権威を持つ神社であります。この神社の起源は文明年間(1469〜87)に江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)が、城の鬼門除けのために日吉神社の分霊を勧請したのが最初で、ついで天正18年(1590)江戸城に入城した家康が、社地を半蔵門外に定めて神殿を造営、別当を置いて祭祀しました。これが明暦3年(1657)の大火で焼失したので、ただちに赤坂溜池の地に新造し、現在に至っています。
 また、全国の有名な日吉神社の末社のうち、諸大名が、城郭の鬼門を守護するために勧請しています。たとえば肥後の日吉神社は、細川氏の肥後領三大社の一つとして崇敬されています。金沢に鎮座する日吉神社も、前田家の守護神となっています。このように、諸大名は、むかしから日吉神社の荘園の守護神として祀られていた社(やしろ)を、将軍家に迎合して領地の守護神にしたり、または城郭の鬼門除けに祀りました。
 一方、日吉神社は、応徳3年(1086)に関白藤原師実(もろざね)が参詣して以来、寛治5年(1091)に白河上皇、永暦元年(1160)に後白河法皇が行幸、または参篭するようになり、朝廷の崇敬もたかまり、後白河法皇は、わざわざ京都東山に新日吉(いまひよし)神社を建立し、分霊を勧請するほどの熱の入れようでありました。京都御所の鬼門に当たる猿ヶ辻の日吉神社も、代表的な末社の一つであります。
(左)牛尾神社内部 (右)三宮神社側面
 
〔山王七社〕
 
 牛尾山の山頂にある磐境(いわさか)の地は、祭神の奥津城(おくつき)(陵墓)からはじまるもので、その荒魂をまつる奥宮がまず生まれますが、やがてその神霊を山麓に移して、和魂と称し、神道的な祭祀を行うようになりました。これが東本宮や樹下(じゅげ)宮の起源であります。
 東本宮の歴史事実は、「午の日の神事」と「酉の日の神事」として伝わっています。つまり神社の鎮座した姿を宗教的に復原象徴する行事であって、東本宮の場合は山上に鎮座する神々の荒魂を山麓に移して、和魂としてまつる、山宮から里宮への勧請をかたちどる「みあれの神事」であると考えられます。
 現在の日吉大社の中心的存在は西本宮の鎮座であります。既に述べてきたように、東本宮の地縁と血縁につながる本質的な神社発生の事情とはその趣を異にしています。それは宗教的にみても第二義的な勧請神であります。
 社伝の『日吉社記』によると、天智天皇7年(668)に、大津京を営んで大化改新の理想にそった新しい国づくりに専念しようとしていた天智天皇の発意にもとづいて、大和国の三輪山の神を移したのだと伝えています。三輪明神は大三輪山を神体山とする原始信仰の形態をそのまま持続している神社で、三輪にはいまでも神殿はありません。山に対する自然な信仰形態において共通する日枝の山口の地にこの神を迎えて、新都造営の地主神、守護神としたのは、大和は天智天皇にとって故郷であるという理由からでも十分にうなづかれます。この勧請と鎮座の形を再現しているのが、今も行われている山王祭の「申の日の神事」であります。
(左)午の神事 (右)神輿(牛尾宮)
 
 平安時代のはじめに八幡神を迎えて摂社宇佐(うさ)宮とし、山岳信仰に深い関係をもち、天台宗とも関連の深い白山姫神を迎えて摂社白山宮とし、ここに西本宮系の3社が成立します。これと前述の東本宮系の4社とあわせて「山王七社」と呼ばれました。
 平安時代に入ってからは、主要な社殿にそれぞれ竃殿(へついどの)社が祀られているのは日吉社の特色であります。唐崎社、気比社、早尾社などが、日吉社の組織の中に加えられました。
 日吉社の神輿(みこし)は延暦10年(791)に桓武天皇の命令で、先ず大宮(西本宮)と二宮(東本宮)の2基が新造され、はじめて唐崎へ神幸が行われ、またつづいて貞観7年(865)の春には客人(まろうど)社、十禅師(じゅうぜんじ)社、三宮社、聖真子社、八王子社などにも神輿が増進されました。
 
〔山王祭〕
 
 山王祭は、3月の第一日曜から一ヵ月半にわたる20余りの神事からなる祭りであります。東本宮系の神々が主体であります。山宮から里宮への遷御(せんぎよ)、男女神の結婚・出産の流れと、西本宮の神がこの地に鎮座する過程をあらわす、二つの祭礼の流れを含んでいます。現在も古式にのっとり行われます。
 鎌倉時代の史料『耀天記(ようてんき)』によれば、延暦10年(791)に桓武天皇の勅願で大比叡(西本宮)と小比叡(東本宮)の神輿が造られ、唐崎へ渡御(とぎょ)したことに始まります。
 中心となる神事は4月12日から14日。神輿が急坂を駆け下りる勇壮な「午(うま)の神事」(八王子山から担ぎ下ろされる。急な坂道をたいまつに照らされながら、神輿は東本宮の拝殿へ。2基の神輿は、それぞれ前と後ろの轅(ながえ)がつながれ、神々の結婚を象徴する。東本宮系の祭礼の中でもっとも重要な儀式である)や稚児の「花渡り式」(武者姿の稚児たちが、造花で華々しく彩られた大指物を引いて参道を練り歩く。若宮の出生を祝う儀式)と激しい「宵宮落とし」(13日の夜、宵宮場(よみやば)で4基の神輿は数時間も激しく揺さぶられた後、地上に落とされる。陣痛の苦しみと若宮誕生を象徴する)があります。そして絵巻のような7基の神輿が、比叡の山と琵琶湖を舞台に繰り広げられる「申(さる)の神事」(下坂本七本柳の浜から乗船。琵琶湖上で「粟津の御供」を奉納したのち、日吉大社に戻る)があります。15日の山王7社と摂社・末社への巡拝「酉(とり)の神事」をもって、長い祭りは幕を閉じます。

宵宮落とし

 
〔日吉大社の祭神〕
 
 日吉大社は、東本宮(二宮)と西本宮(大宮)とを中心にして、東本宮系と西本宮系のふたつの神座からなっています。東本宮はもともとこの地に祀られていた地主神であり、西本宮はあとから祀られた国家神的な神であります。
東本宮系  

東本宮(二宮)

大山咋神(おおやまくいのかみ)和魂

樹下(じゅげ)宮(十禅師)

鴨玉依姫(かもたまよりひめ)神和魂

牛尾(うしお)宮(八王子)

大山咋神荒魂

三宮(さんのみや)宮(三宮)

鴨玉依姫神荒魂
西本宮系  

西本宮(大宮)

大己貴神(おおなむちのかみ)

宇佐宮(聖真子(しょうしんし))

田心姫神(たごりひめのかみ)

白山(しらやま)宮(客人(まろうど))

菊理姫神(くくりひめのかみ)
 
〔大山咋神(おおやまぐいのかみ)〕
 東本宮の大山咋神は、大己貴神以前から祀られていた神で、『古事記』によれば、大年(おおとし)神と天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間に生まれた神であります。近江国の「日枝の山」に祀られ、別名を山末之大主(やますえのおおぬし)神というと記されています。
 大山咋神は山を支配する神であり、小比叡(こびえ)とも呼ばれる神体山、八王子山(牛尾山)に宿るこの神の祭場が、東本宮でありました。山王祭が、八王子山に祀られる牛尾宮と三宮宮の神輿(しんよ)を東本宮に迎えることから始まるのは、山の神霊を祀る場としての東本宮の原点を示しています。
(左)新日吉神宮(京都市東山区)
(右)秘密山王曼荼羅(日吉大社蔵) (拡大)
 
〔大己貴神(おおなむちのかみ)〕
 西本宮に祀られている神で、天智天皇が大津京を開いたときに、都の鎮守として大和国の大神(おおみわ)神社から勧請された神であります。大神神社の祭神は大物主(おおものぬし)大神ですが、大己貴神はその別名であります。
 鎌倉時代の縁起『耀天記(ようてんき)』によれば、大己貴神は、まず琵琶湖上の漁船にあらわれて「粟の御供」をうけ、唐崎の琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)のもとに至り、神殿を建てて自分を祀るようにとの神勅を下して、現在の鎮座地にしずまったと伝えられています。
 日吉大社の例祭、「山王祭」は、この鎮座の過程を再現する祭が「申の神事」であります。
船渡御
 
〔日吉大社の諸堂〕
 
 大宮橋を渡り、山王鳥居をくぐって西へ進めば、右手に西本宮の楼門が見えてきます。左手には大きな石橋がありますが、かつてここには橋殿と呼ばれる館の橋が架けられていて、比叡山への登り口になっていました。
 西本宮の東側には宇佐宮、白山宮の社殿が建ち並び、さらに老杉(ろうさん)がそそりたつ参道を東へ行けば、東本宮に至ります。西本宮・東本宮・宇佐宮の3社はとくに「山王三聖(さんしょう)」とよばれて、最も社格の高い神社であります。
 大山咋神が坐す神体山、八王子山(牛尾山)へは、東本宮の西側の登り口から、八丁坂と呼ばれる九十九折の山道を上がったところに、山王信仰発祥のもとといわれる大岩、金の大巌(くがねのおおいわ)の両側に、懸崖(けんがい)造り(舞台造り)の牛尾宮・三宮宮が向かい合って建てられています。
東本宮本殿

[日吉三橋](すべて重文)
 境内を流れる大宮川に架けられた石橋で、上流から本宮橋、走井橋、二宮橋と称しています。天正年間(1578〜92)、豊臣秀吉が築造させたもので、わが国最古の石橋であります。
 大宮橋は、西本宮へ通じる参道にあって、3橋の中でも最も複雑な構造になっています。構築には木造橋の架橋の手法がとられ、貫や桁を使用し、橋上には高欄が付けられています。走井橋・二宮橋はともに簡単な構造で、走井橋は板石を並べてだけのものですが、架橋の曲線が優美であります。二宮橋は東本宮(二宮)の参道にあるため名付けられたもので、走井橋の名は、傍らに湧く泉走井≠ノ由来します。
西本宮下殿
 
[西本宮本殿(国宝)・拝殿(重文)]
 境内の西方にあります。朱塗りの楼門と玉垣の奥に、拝殿・本殿が並んでいます。いずれも天正14年(1585)豊臣秀吉が造立、寄進したものです。
 楼門(重文)は入母屋造り、桧皮葺の3間1戸で、豪快な木組みを見せ、拝殿(重文)は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、桧皮葺です。
 本殿(国宝)は桁行5間、梁間3間、切妻造り、桧皮葺平入りの屋根の前と左右側面の三方に庇を付けた日吉造り≠ニ呼ぶ独特の様式です。大宮・大比叡とよばれるに西本宮は、平安時代の初め、延暦寺の相応和尚によって建立されましたが、焼失後の再建にも、創建当初の形式を踏襲して造立されました。
 山王七社の本殿の床下には、下殿とよばれる祭祀施設が造られています。内陣の真下は土間で、それ以外は板間とし、明治初年の神仏分離までは仏像を安置して、ここで仏事が行われていました。
 山王鳥居は西本宮の参道の途中に建っています。別名破風鳥居≠ニか合掌鳥居≠ネどといわれ、神明鳥居の上に、三角形の屋根の破風をのせたような形をしています。神道と仏教が結びついて生まれた、山王神道の教義を形にしたとも、山王の山の字を形象したものとも云われています。
 
[宇佐宮本殿(重文)・拝殿(重文)] 
 西本宮の東隣に建っています。田心姫神を祀っています。別名を聖真子宮ともいいます。拝殿は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、桧皮葺です。
 本殿は日吉造りで、桁行5間、梁間3間、桧皮葺、正面浜床に吹寄格子をはめています。両殿とも、慶長3年(1598)の造立になります。
(左)大宮橋 (右)山王鳥居
 
[白山神社本殿(重文)・拝殿(重文)]
 宇佐宮の東に建っています。加賀国白山からの勧請神である菊理姫神を祭神としています。古来「開かずの御殿」として祭礼のときでも開扉されず、下殿で献饌の御供が行われます。客人社ともいい西本宮、東本宮、宇佐宮の「山王三聖」に次いで格の高い社であります。
 拝殿は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、桧皮葺です。
 本殿は三間社流造り、桧皮葺きで、両殿とも、慶長3年(1598)の造立です。
 
[神輿] (重文)
 南の宇佐宮参道脇にたつ神輿庫には、神輿振(みこしぶり)≠ナ知られた神輿7基(山王七社)が納められています。当初のものは焼打ちで焼失しましたが、現在のものは、桃山から江戸時代にかけて新造したものです。いずれも桃山時代の金工技術を駆使した豪華絢爛の飾付で、山王祭には7基すべてが出御します。
 
[東本宮楼門] (重文)
 東本宮の入り口にあります。楼門は入母屋造り、桧皮葺の3間1戸で、文禄2年(1593)の再建であります。この奥に樹下神社、東本宮の社殿があります。
 
[樹下神社社殿] (重文)
 祭神は鴨玉依姫神で、十禅師宮とも呼ばれています。楼門を入ると右手に拝殿、左手に本殿が東に向かって建てられています。
 拝殿は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、桧皮葺です。華麗な飾り金具がひときわはえて印象的です。
 本殿は3間社流れ造り、桧皮葺の建物で、華やかな飾り金具が豪壮な桃山時代の気風をよく現しています。本殿の御神座の真下に霊泉があり、今も豊かに水が湧いています。ともに文禄4年(1595)の造立であります。
(左)樹下神社下殿 (右)樹下神社本殿側面
 
[東本宮本殿(国宝)・拝殿(重文)]
 樹下神社の拝殿、本殿を入った奥に、拝殿・本殿が南向きに一直線上に建っています。拝殿は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造り、妻入り、桧皮葺です。
本殿は日吉造りで、桁行5間、梁間3間、桧皮葺です。東本宮は、二宮、小比叡ともいわれています。成立は西本宮より早く、社殿の背後の縁の中央が一段高く造られている点が、西本宮と異なっています。両殿ともに文禄4年(1595)の造立であります。
 
[牛尾・三宮神社社殿] (重文)
 東本宮西側の牛尾・三宮神社遥拝所から北西へ急坂を登った牛尾山頂上にあります。比叡の神々が最初に祀られた場所であります。牛尾宮は八王子宮ともいい、大山咋神の荒魂を祀り、三宮宮は鴨玉依姫神の荒魂を祀
っています。大岩を背に、崖に面して両社の拝殿・本殿が並んで建っています。
 構造は、いずれの本殿も2間社流造り、桧皮葺であります。本殿の前部に、舞台造りの拝殿が各々接続しています。
 牛尾神社の拝殿は桁行3間、梁間5間、一重、入母屋造り、桧皮葺です。三宮神社の拝殿は桁行4間、梁間5間、一重、入母屋造り、桧皮葺です。牛尾神社が文禄4年(1595)、三宮神社が慶長4年(1599)の再建であります。
 
〔山王曼荼羅〕
 
 山王曼荼羅は比叡山延暦寺を守護する日吉社の神々の姿を描いたものであります。
 日吉社は、比叡(日枝)山への信仰からはじまり、天台宗の発展とともに平安時代後期には山王七社と呼ばれる体制が整えられました。その後、中七社・下七社を加え、山王二十一社と呼ばれる神々の体系が形成されました。ちなみに日吉社を山王と呼ぶのは、最澄が中国の天台山国清寺の地主神山王元弼(げんひつ)真君にならったものです。
 中世の日本仏教は、神仏習合という考えの中で、仏菩薩が衆生済度のため、仮に神の姿になって現れたとする本地垂迹説を生み出します。この考え方に基づいて作成されたのが山王曼荼羅であります。
 山王曼荼羅の図像は、本来の姿である仏菩薩(本地仏)で描いた作品や、神の姿(垂迹形)で描いた作品などが作られました。
(左)山王本地曼荼羅(厨子・根津美術館蔵) (拡大)
(右)山王宮曼荼羅(大和文華館蔵) (拡大)
 
[山王宮曼荼羅]  (奈良国立博物館蔵)
 日吉山王社の神域は広大です。大比叡の峰々を背景に、秀麗な神体山(小比叡)をめぐって、山王二十一社の社殿の朱が老杉のよく繁った緑と調和して優美であります。
 境内は日吉神信仰の起源の古さを物語る古墳群に取り巻かれ、境内をよぎる宮川の清流、湧泉や霊木などいかにも歴史とゆかりの深さを思わせます。山王七社の神殿・拝殿・楼門などは宮川にかかる神橋とともに描かれています。東西両宮の神殿いわゆる山王造り(聖帝(しょうたい)造り)と呼ばれる構造を持ち、神体山頂上の両宮も磐境(いわくら)をさしはさんで、原始的な祭祀の時代を思わせる神秘な社殿構造をもって遠くからも望見できます。
 神体山八王子山を画面の中心に大きく象徴的に描き、山麓をめぐって山王七社とその摂社・末社群を描いています。日吉根本塔(宝塔)や新御塔もみえて、中世期における社殿や付属建築群を見る上では古絵図的な面白さを示しています。
 
[山王本地曼荼羅] (厨子・根津美術館蔵)
 画面全体を社殿の正面観にみたて、いずれも礼盤(らいばん)上に三曲屏風を背にする仏菩薩の群像であります。中央は大宮の釈迦、そして二宮の薬師と聖真子の阿弥陀、格式の高い山王三聖を3如来の像で表現しています。上部中央の千手は八王子、それに十一面(客人)、普賢(三宮)を左右に配し、正面下方には十禅師の地蔵尊を美しく配列しています。上方の三つの円相中には山王二十一社の本地仏梵字(種字)を配し、下陣には山王中七社に属する早尾社(不動明王)と大行事社(毘沙門天)を置いて守護させています。
 
[山王宮曼荼羅] (大和文華館蔵)
 画面いっぱいに大小いくつかの社殿を配置し、各社殿の中央にはその祭神の本地仏を円相の中に1尊づつ描いています。また、楼門や回廊の一郭も見えます。社殿の背景をなす神苑の景観も美しいし、階(きざはし)のあたりにあそぶ神猿の姿もみえます。
 礼拝を目的とする宮曼荼羅として制作されたものですが、中世における日吉山王社の社殿建築を知る貴重な曼荼羅であります。

【神・神社とその祭神】《XIV》日吉大社完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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