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●第33号メニュー(2008/9/20発行) |
【神・神社とその祭神】《そのXIII》 北野天満宮 |
〔はじめに〕 |
〔初公開の木造鬼神像十三躰〕 「京都新聞記事中より」 「開催にあたりて」「木造鬼神像について」 |
〔菅原道真と天満宮の成立〕 〔怨霊と雷神と天神様〕 〔北野天満宮境内の諸堂〕 |
[木造鬼神像について] 京都大学教授 藤井譲治 |
十三体いずれの像も、口を堅く結び、大きく見開いた目には怒りが満ちている。上半身はほとんどが裸形。手に握られていたはずの持ち物の多くは現在失われている。 天慶元年(938)あるいは翌年、平安京の大路小路に置かれていたという岐神・御霊は、異形の風体をし、遠方から入り込む邪気あるいは死者の邪気を防ぐ役割を持つ神像として作られたと古記録に記されている。「岐神」とは「ちまたのかみ」また「ふなどのかみ」のことで、集落のはずれや街道の分岐点で遠くからやってくる邪気を払う神のことである。近世には道祖神となる神である。 本神像群はまさに、その像といってよい。この時期、死霊を怖れた民衆がこうした素朴な神像をつくり、祀った。こうした神像が現在に伝わることは希有なことであり、当時の庶民信仰の姿を伝えるものとして注目される。 |
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そこで、左大臣時平は、大納言源光をさそい、藤原氏と源氏の連合勢力の圧力で、時平は宇多天皇譲位後の醍醐天皇に、「菅原道真は醍醐天皇を廃し、彼の娘婿である斉世(なりよ)親王(のち、出家して真寂(しんじゃく)と称した)を天皇に立てようと企んでいる。」などと、醍醐天皇に讒訴(ざんそ)しました。延喜元年(901)1月25日。道真は左大臣の藤原時平の讒言によって、突如、大宰権帥に左遷され、四人の息子もそれぞれに配流され、一家はちりぢりになってしまいました。 |
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配所での道真の失意の生活は、『菅家後集』に生々しくうつし出されています。彼も配所では、胃病を病み、皮膚病になり、だんだんおとろえて、延喜3年(903)2月25日。道真は大宰府の配所で59歳の生涯を閉じました。遺骸は、大宰府の近くに埋葬され、2年後には、近臣の味酒安行(みさけやすゆき)によってそこに祠廟が建立されました。これが今日の大宰府天満宮のはじまりであります。 延喜3年、道真が亡くなったこの年は旱魃に見舞われています。翌年は疫病が流行しました。さらに延喜8年には藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡します。つづいて9年には道真を陥れた張本人、左大臣藤原時平が39歳の若さで病死します。さらに4年後には右大臣源光が急死しています。このように道長の政敵は次々と消えていきました。 異変はなおも続きます。延喜23年(923)には時平の妹穏子(おんし)が生んだ皇太子保明(やすあきら)親王が31歳で亡くなりました。朝廷ではさっそく元号を延長と改め、道真を本官に復し正二位右大臣としました。だが道真の怨霊は鎮まらず、3年後にはわずか3歳の皇太子慶頼(よしより)親王が死去します。母は時平の娘であります。 |
北野天神縁起 津田天満神社蔵 |
そして延長7年(929)は大豪雨に襲われ、翌八年にはついに恐るべき清涼殿の落雷事件が起きたのです。この年は6月に入っても雨が降らず、公卿たちが清涼殿で対策を協議の最中、にわかに愛宕山に黒雲が湧き起こり雷鳴がとどろいて、清涼殿の西南の第一柱上に落雷しました。殿上に出仕していた藤原清貫(きよつら)は胸を裂かれて即死、平希世(まれよ)は頭が焼けてたおれ、そのほか頭髪に火がついて死亡する者や狂乱する者、膝が焼けてたおれる者など、殿中は生き地獄の有様でありました。醍醐天皇は、この落雷のショックがもとで病床につき、3ヵ月後の9月には崩御されました。これらのことを『日本紀略』は、「世を挙げて云う。菅帥(かんそち)の霊魂宿念のなすところなり」と記しています。 誠実な文章博士の菅原道真。彼は怨みを抱いて異郷に果てました。そして怨霊の時代の寵児にふさわしく、彼の死後不祥事は絶え間なく起きてきました。道真の怨霊を鎮めることは、もはや人々の切実な願いであり、時代の要請となってきました。 |
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大宰府天満宮 遠望 |
病死した時平には忠平(ただひら)という弟がいました。この人は道真と親しく兄時平の謀計にも加わっていません。その子に師輔(もろすけ)が、父の関係もあって、道真の霊をあつく祀っていました。京都の落雷、火災、旱魃、疫病など、みな道真のたたりだと喧伝されているとき、道真の死後6年後に、自邸内に社殿を建立し、祭祀を荘重におこなったので、師輔の信望が大いに高まりました。 |
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忠平の関白就任の翌年、天慶5年(942)(道真死後40年)には、まず京都の右京七条二坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)に、道真の霊が神がかりして、右近の馬場に祭ってくれという道真の託宣がありました。また、その五年後の天暦元年(947)には、近江国の比良宮の神官神良種(みわよしたね)の子太郎丸に、やはり道真の霊が神がかりして、右近の馬場に祭ってくれという神託がありました。そこで、この年の6月9日に、はじめてここ右近の馬場(現在地)に神社を造りました。それがその後13年間に、5回も焼けて見る影も無くなっていたので、師輔がこの場所に 立派な社殿を造営しました。 永延元年(987)、師輔の子で道長の父にあたる兼家(かねいえ)が摂政になった年(道真の死後84年め)、官祭の神社に列し、「北野祭り」が盛大におこなわれました。そして正暦4年(993)には、九州大宰府の墓には勅使が立って、太政大臣正一位を贈ることになって、道真の怨霊のたたりは終わりました。道真の神霊は、ここでは「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号が贈られ、天満天神と称しました。寛弘元年(1004)には一条天皇が行幸されました。道長の没後およそ100年め、北野天満宮は天下の霊廟となりました。 |
元来北野は北野(ほくや)と云われていました。というのは、大内裏の北側にある原野のことであり、古くから神聖な場所と考えられていました。それは、天皇一代の大盛儀である即位のときの、大嘗祭(だいじょうさい)の悠紀(ゆき)、主基(すき)の斎場所(まつりの場所)でありました。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、承和3年(836)、北野で遣唐使派遣の際、その安全を祈願して天神地祇を祀ったところであります。延喜4年(904)には雷神を祭って農事の祈願をしています。道真の死んだ翌年です。以後北野は、雷神を祭るところになりました。 当時、雷神信仰は、農業信仰のひとつであり、その神社が、古くからここにある北野天神(ほくやてんじん)でありました。祭神は天穂日(あめのほひ)命(菅原氏の祖神)であります。道真は死後雷神となって、火雷天神といわれたので、いつしか天神と道真が一緒にまつられることになったと考えられます。 道真の怨霊は、御霊信仰のシンボル「雷神」や北野の地主神「天神」(註 壮麗雄大な社殿の裏側に、小さい地主神社がある)に置き換えられてしまいます。それは、打ち続く天変地異に極度の不安を感じていた当時の民衆が、道真の怨霊に期待を寄せていたことを物語るものです。 彼が生きた時代は、御霊信仰が人間の生と生活に大きく支配していた時代でありました。そして彼は、そうした時代の申し子として、その悲劇的な死とともにまたたくまに怨霊神の旗頭に祭り上げられました。 しかし時は移り、人々の意識の変化とともに、怨霊神・道真の姿は遠退き、学者・道真「文道の太祖、風月の本主」としての姿がクローズアップされてきました。そして国風文化の発展につれてますます篤い信仰が寄せられてきました。かれは『三代実録』や『類聚国史』のような史書をつくり、また、詩文章、和歌などが巧みであったので、学問の神様となる要因がありました。しかし、江戸時代になると、読み書き算盤の寺子屋の普及とともに道真が能書家であるとの信仰が全国に広がり、その霊験は受験戦争の現代へと受け継がれてきました。かつて雄大な本殿の裏にあった乾大神は、参詣者が多く、ために現在は境内の西南の隅に新築移転しました。俗に「牛さん」とよばれ、石造の臥牛を神体として祀っています。菅神の神使といわれる牛にあやかり、入学試験の合格を祈る信仰があり、まわりには試験合格を祈る絵馬がたくさん掛けられています。 |
本殿(国宝・桃山時代)。中門を入ると南面して建つ大きな檜皮葺の社殿で、菅原道真を主神として、相殿に中将殿(長男高視(たかみ))と吉祥女(正室島田氏)を祀っています。 この建物は世に権現造(ごんげんづくり)とよばれる複雑な様式からなるもので、入母屋造り、檜皮葺の本殿と拝殿とが相の間によってむすばれ、拝殿の屋根正面に千鳥破風、向拝に唐破風をつくり、左右に入母屋造りの楽之間を設け、多数の屋根が結合しているので、八棟造(やつむねつくり)ともいわれています。 また、建物の随所には桃山時代の特色をあらわす華麗な彫刻があり、なかでも蟇股や欄間・手挟(たばさみ)などにみられる花鳥や人物・動物などの絵様彫刻は、日光東照宮に勝るとも劣らぬものであります。 |
(左)火之御子社 (右)地主神社 |
地主神社は、本殿は背後の東側にある摂社の一つで、古くは北野(ほくや)天神をといい、天満宮創始以前からの鎮座であります。社殿は桃山建築で、高蘭には北野神宮寺の多宝塔の擬宝珠を流用したもので、慶長12年(1607)の銘があります。 |
火之御子(ひのみこ)社は、中門の前にある摂社の一つで、火雷神を祀っています。『西宮記』に延喜4年(904)豊穣祈願のため雷神を北野に祭るとあるもので、天満宮創祀以前からの鎮座であります。毎年6月1日の例祭には雷除けの御符が授けられます。 |
一夜松神社は、一名『船宮(ふねのみや)』とも云われます。祭神は一夜の松の霊といわれ、道真がわが棲まんところは一夜に1000本の松の生ずるところであると託宣されたのに因んで祀られています。 |
〔北野天神縁起絵巻〕 |
菅原道真の一代記と、死後怨霊≠ニなって災いをもたらしたので、鎮魂のため北野に天神社を建てるまでを「絵巻」にしたものであります。 北野天満宮蔵の承久本(鎌倉初期)は、最初に出来たもので<根本縁起>と呼ばれています。第一〜五巻までが道真の生涯を描き、第五巻後半から六巻までは道真の怨霊が清涼殿を襲ったりする崇りの場面を描き、第七〜八巻は吉野金峯山の僧・日蔵が道真の導きで地獄をめぐった後に蘇生するという構成になっています。第九巻は未完成で白紙であります。 作者は似せ絵の名手・藤原信実といわれています。この絵巻は料紙を縦に継いでいるため幅が広く、華やかな色彩と弾力のあるタッチは、他本を圧倒しています |
松崎天神縁起 防府天満宮蔵 |
防府天満宮蔵の「松崎天神縁起」(重文・鎌倉時代)は、弘安本の系統に自社の縁起を加えたもので、保存もよく華麗な色彩にみなぎっています。六巻のうち第五巻までは弘安本とほとんど同じで、しかも完本なので貴重であります。 第六巻は、道真が周防国勝間の浦に泊まったとき、海中から光が発するという奇瑞が現れたので、国司が道真の死後、社殿を造営したとこの縁起は伝えています。色彩も鮮やかで巧緻な描写は、鎌倉時代の絵巻の中でも優作といわれています。 |
【神・神社とその祭神】《XIII》(その3)完 つづく |