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●第33号メニュー(2008/9/20発行)
【神・神社とその祭神】《そのXIII》 北野天満宮
〔はじめに〕
〔初公開の木造鬼神像十三躰〕 「京都新聞記事中より」 「開催にあたりて」「木造鬼神像について」
〔菅原道真と天満宮の成立〕 〔怨霊と雷神と天神様〕 〔北野天満宮境内の諸堂〕


〔はじめに〕
 
 先月の京都新聞17日の記事中に、北野天満宮で平成14年に偶然発見された木造鬼神像13体が2年にわたる修理を経て、本宮に戻ってきました。これを記念して初公開されることになりました。ここで本誌33号は北野天満宮を取上げてみました。それの参考と思われるので、冒頭に公開記事を紹介します。北野天満宮の祭神菅原道真は、怨霊から御霊にと、さらに福神となって今日に至っています。
  まず、原初の信仰から、神社の成立、変遷などの歴史を尋ねながら、天満宮の謎を垣間見していきたいと思います。(神像13体は平成18年に重要文化財に指定された。)
(左)束帯天神像 北野天満宮蔵 (右)縁起絵巻の雷
 
〔初公開の木造鬼神像十三躰〕
 
[京都新聞の紹介記事から]
 
 京都市上京区の北野天満宮は八月十九日から、重要文化財木造鬼神像を宝物殿で始めて公開する。十二年前に本殿を修理した際、約千年の時を経て偶然見つかった十三体で、平安時代中期に邪気
や御霊(ごりょう)を払うために交差点や集落のはずれに置かれたとみられる。
 鬼神像は立像十二体と座像一体。高さは46〜71cmで、大部分はヒノキの一木造り。十世紀後半に作られたという。憤怒の顔をし、腰布やふんどしを着けてずきんをかぶったり、手や足を
上げたりしている。
 北野天満宮創建は菅原道真の御霊が起源とされ、その縁で御霊を払った鬼神像も一緒に祭られたとみられる。邪気がついた像は通常破棄されるだけに貴重という。
 
[開催にあたりて] 北野天満宮 宮司 橘 重十九
 
 このたび重要文化財の指定を受けた十三体の木造鬼神像は、平成十四年の北野天満宮千百年大万燈祭の折、偶然本殿の深奥より見つかりました。
 これらの神々は街路や街道の要所にあって、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が都へ入るのを防ぐ霊験を持っていました。その名の通り鬼のような憤怒(ふんぬ)の形相は、さまざまな邪気から街や人々を守るための強面(こわもて)であり、よく見ればそこはかとしたユーモアも看取できます。
 この神像のうちには、『北野天神縁起絵巻』にある日蔵(道賢)上人が吉野の金峯山にて入滅し六道巡りをした際に上人を導いた蔵王権現の原型(プロトタイプ)があり、平安前期の御霊信仰を端緒とする天神信仰成立過程の神を見出すことができるのも興味深くまた意義深いことであります。
 やがて時代は下り人々の宗教心意も変転するうちに、これらの神像も岐(ちまた)の神としての役目を終え、ひと群(むれ)の木像にかえりました。そして自然のままに朽ち果て、あるいはその異形を畏れる者の手によって毀棄されることを惜しんだ人々により、当宮本殿に秘匿されたものと思われます。天神様の傍に封じられ、すでに御霊も失せたまま誰の目にも触れることなく眠り続ける木像に哀れを覚えられたのでしょうか、菅公ご神忌千百年の佳期に私どもの前に姿を現すことになったのは、まさにご祭神のご神慮というほかありません。
(左)北野天神縁起絵巻 承久本 (右)北野天満宮 特別展チラシ
 
[木造鬼神像について] 京都大学教授 藤井譲治
 
 十三体いずれの像も、口を堅く結び、大きく見開いた目には怒りが満ちている。上半身はほとんどが裸形。手に握られていたはずの持ち物の多くは現在失われている。
 天慶元年(938)あるいは翌年、平安京の大路小路に置かれていたという岐神・御霊は、異形の風体をし、遠方から入り込む邪気あるいは死者の邪気を防ぐ役割を持つ神像として作られたと古記録に記されている。「岐神」とは「ちまたのかみ」また「ふなどのかみ」のことで、集落のはずれや街道の分岐点で遠くからやってくる邪気を払う神のことである。近世には道祖神となる神である。
 本神像群はまさに、その像といってよい。この時期、死霊を怖れた民衆がこうした素朴な神像をつくり、祀った。こうした神像が現在に伝わることは希有なことであり、当時の庶民信仰の姿を伝えるものとして注目される。

(註) 『本朝世紀』によると、道真の霊が単なる怨霊の段階を脱して雷神・天神と見なされるようになった天慶元年(938) に京中の町々では木でもって男女一対の神像をつくり、その前に八脚台のような机を置き、これに幣帛を捧げ、香華を供えることが盛んに行われたとあります。この神像を岐神(ふなどの神)とよび、彩色によって衣冠を表し、顔を描いたうえ、臍下には陰陽も刻してあったというので、これは後世の道祖神のようなものであったと考えられます。一方で、ときの人はこれも御霊とよんだというから、この神像は礼拝の対象としての偶像であるにしても、そこには祓いのための形代(かたしろ)としての性格を濃厚にとどめていたとも考えられます。
(京都の歴史 第一巻 平安の新京 御霊会より)
 

〔菅原道真と天満宮の成立〕
 
 京の都に鎮座する北野天満宮と九州の大宰府天満宮はともに、全国およそ12000余の分社の総本社として有名であります。また、現在は学問の神様として、その名を知らないものはいません。
祭神はもちろん天神様として親しまれている菅原道真であります。天神様といえば、あのわらべ歌「通りゃんせ」は全国の子供たちに歌われている天神様であります。このことを見ても、いかに道真が時と処をこえて日本国中に親しまれているかがわかります。
それにしても、いったい菅原道真はどういう人であるのか、神社の祭神といえばたいていは神話の神々で占められています。それなのになぜ彼は神に祀られたのか、それに彼の絶大な人気と信仰は、なぜ生まれたのか、その謎に迫ってみます。
 謎に包まれた北野天満宮とは、その遠い起源をたずねてみます。菅原道真は、承和12年(845)菅原是善(これよし)の3男として京に生まれました。菅原家は、代々学者の家柄で、祖父の清公(きよきみ)、父の是善はともに文章(もんじょう)博士となり、たくさんの詩文集を残しています。
 道真は幼少から秀才の誉れが高く、11歳のとき詠んだという詩、「月夜に梅花を見る」が『菅家文草』のなかに記載されています。
 貞観4年(862)18歳で文章生の試験に合格しました。20代の中頃から新進官僚として頭角を現しました。また、15年後には学者の憧れである文章博士になりました。その間には国司として讃岐に赴任しています。
 在任中、旱魃に見舞われた讃岐地方で、道真が坂出市(香川県)の城山神社に至誠の願文を奉納したことは、今でも語り草となっています。
 寛平3年(891)関白藤原基経が死去します。ここに宇多天皇の天皇親政が開始されると同時に、道真は栄達への道を歩みはじめました。宇多天皇は基経の長子の時平に対抗して道真を重用しました。寛平5年参議に進みます。9年には権大納言となり、右大将を兼務しています。道真は一学者の家から出て、醍醐天皇の昌泰2年(899)従二位右大臣という前例のない高位にのぼりつめました。それは、時の天皇醍醐天皇が、藤原氏と直接血縁関係のない天皇であったこととともに、官位の一族独占を夢見る藤原氏は、将来に対して、絶望的な危機感を持っていました。

(左)束帯天神像 荏柄神社蔵 (右)皇室と藤原氏・源氏・橘氏・菅原氏の関係略系図
 

 そこで、左大臣時平は、大納言源光をさそい、藤原氏と源氏の連合勢力の圧力で、時平は宇多天皇譲位後の醍醐天皇に、「菅原道真は醍醐天皇を廃し、彼の娘婿である斉世(なりよ)親王(のち、出家して真寂(しんじゃく)と称した)を天皇に立てようと企んでいる。」などと、醍醐天皇に讒訴(ざんそ)しました。延喜元年(901)1月25日。道真は左大臣の藤原時平の讒言によって、突如、大宰権帥に左遷され、四人の息子もそれぞれに配流され、一家はちりぢりになってしまいました。

(註) 道真には23人も子供がありました。上から4人めまでの男子も、土佐、駿河、飛騨、播磨へと流されています。

 配所での道真の失意の生活は、『菅家後集』に生々しくうつし出されています。彼も配所では、胃病を病み、皮膚病になり、だんだんおとろえて、延喜3年(903)2月25日。道真は大宰府の配所で59歳の生涯を閉じました。遺骸は、大宰府の近くに埋葬され、2年後には、近臣の味酒安行(みさけやすゆき)によってそこに祠廟が建立されました。これが今日の大宰府天満宮のはじまりであります。
延喜3年、道真が亡くなったこの年は旱魃に見舞われています。翌年は疫病が流行しました。さらに延喜8年には藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡します。つづいて9年には道真を陥れた張本人、左大臣藤原時平が39歳の若さで病死します。さらに4年後には右大臣源光が急死しています。このように道長の政敵は次々と消えていきました。
異変はなおも続きます。延喜23年(923)には時平の妹穏子(おんし)が生んだ皇太子保明(やすあきら)親王が31歳で亡くなりました。朝廷ではさっそく元号を延長と改め、道真を本官に復し正二位右大臣としました。だが道真の怨霊は鎮まらず、3年後にはわずか3歳の皇太子慶頼(よしより)親王が死去します。母は時平の娘であります。
北野天神縁起 津田天満神社蔵
 
 そして延長7年(929)は大豪雨に襲われ、翌八年にはついに恐るべき清涼殿の落雷事件が起きたのです。この年は6月に入っても雨が降らず、公卿たちが清涼殿で対策を協議の最中、にわかに愛宕山に黒雲が湧き起こり雷鳴がとどろいて、清涼殿の西南の第一柱上に落雷しました。殿上に出仕していた藤原清貫(きよつら)は胸を裂かれて即死、平希世(まれよ)は頭が焼けてたおれ、そのほか頭髪に火がついて死亡する者や狂乱する者、膝が焼けてたおれる者など、殿中は生き地獄の有様でありました。醍醐天皇は、この落雷のショックがもとで病床につき、3ヵ月後の9月には崩御されました。これらのことを『日本紀略』は、「世を挙げて云う。菅帥(かんそち)の霊魂宿念のなすところなり」と記しています。
誠実な文章博士の菅原道真。彼は怨みを抱いて異郷に果てました。そして怨霊の時代の寵児にふさわしく、彼の死後不祥事は絶え間なく起きてきました。道真の怨霊を鎮めることは、もはや人々の切実な願いであり、時代の要請となってきました。

(註) 奈良時代の末頃から天変地異がつづき、疫病が流行し、政争が絶えず起こっていました。人々は疲弊し、絶望し、打ち続く災難に怯えていました。そこで民衆は、そうした不気味な世情を、権力抗争に敗れて非業の死を遂げた貴族たちの怨霊の祟りと信じ、御霊会という祭りが盛んに行われていました。そうして、こうした御霊信仰は、道真の時代にいわば最盛期を迎えていました。

大宰府天満宮 遠望
 
病死した時平には忠平(ただひら)という弟がいました。この人は道真と親しく兄時平の謀計にも加わっていません。その子に師輔(もろすけ)が、父の関係もあって、道真の霊をあつく祀っていました。京都の落雷、火災、旱魃、疫病など、みな道真のたたりだと喧伝されているとき、道真の死後6年後に、自邸内に社殿を建立し、祭祀を荘重におこなったので、師輔の信望が大いに高まりました。

(註) 結果としては、兄の時平の系統は藤原氏の氏の長者、関白にもなれず、おとろえていくのに、弟の子師輔の系統は歴代栄えて、摂政、関白、氏の長者となり、道長、頼道を生み、最後には現在の近衛家まで続いています。これは道真の神霊の加護によると思われます。

忠平の関白就任の翌年、天慶5年(942)(道真死後40年)には、まず京都の右京七条二坊に住む多治比文子(たじひのあやこ)に、道真の霊が神がかりして、右近の馬場に祭ってくれという道真の託宣がありました。また、その五年後の天暦元年(947)には、近江国の比良宮の神官神良種(みわよしたね)の子太郎丸に、やはり道真の霊が神がかりして、右近の馬場に祭ってくれという神託がありました。そこで、この年の6月9日に、はじめてここ右近の馬場(現在地)に神社を造りました。それがその後13年間に、5回も焼けて見る影も無くなっていたので、師輔がこの場所に
立派な社殿を造営しました。
永延元年(987)、師輔の子で道長の父にあたる兼家(かねいえ)が摂政になった年(道真の死後84年め)、官祭の神社に列し、「北野祭り」が盛大におこなわれました。そして正暦4年(993)には、九州大宰府の墓には勅使が立って、太政大臣正一位を贈ることになって、道真の怨霊のたたりは終わりました。道真の神霊は、ここでは「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神号が贈られ、天満天神と称しました。寛弘元年(1004)には一条天皇が行幸されました。道長の没後およそ100年め、北野天満宮は天下の霊廟となりました。
 
〔怨霊と雷神と天神様と〕
 
 道真が北野に鎮座したのは何故だろう。当時ここには右近衛府の馬場があり、道真は右近衛大将の頃しばしばこの馬場に臨んでいました。北野は彼が好んだところと思われています。ここには古くから雷神の祭場があり、元慶年中(877〜884)には藤原基経が豊年祈願をし、以後、毎年秋に祭りを行っていました。
 雷神の総本社は京都の賀茂神社ですが、賀茂祭の起源は、欽明天皇の時代に天変地異がつづいたので、占うと賀茂の神の祟りであることがわかりました。そこで賀茂の神を祀ると五穀も稔り、世の中は平穏になったと伝えられています。いわばこのことは神の怨霊を鎮めたということで、これが御霊信仰の始まりと見ることができます。
 道真の怨霊鎮魂の神社が北野に建てられたのは、彼の生前のゆかりの地であったと同時に、当時北野は雷神の祭場としてもっとも重要な場所でありました。道真は火雷天神と呼ばれますが、雷神が怨霊神のシンボルであったことによります。
北野天神縁起 承久本 北野天満宮蔵
 
 元来北野は北野(ほくや)と云われていました。というのは、大内裏の北側にある原野のことであり、古くから神聖な場所と考えられていました。それは、天皇一代の大盛儀である即位のときの、大嘗祭(だいじょうさい)の悠紀(ゆき)、主基(すき)の斎場所(まつりの場所)でありました。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、承和3年(836)、北野で遣唐使派遣の際、その安全を祈願して天神地祇を祀ったところであります。延喜4年(904)には雷神を祭って農事の祈願をしています。道真の死んだ翌年です。以後北野は、雷神を祭るところになりました。
 当時、雷神信仰は、農業信仰のひとつであり、その神社が、古くからここにある北野天神(ほくやてんじん)でありました。祭神は天穂日(あめのほひ)命(菅原氏の祖神)であります。道真は死後雷神となって、火雷天神といわれたので、いつしか天神と道真が一緒にまつられることになったと考えられます。
 道真の怨霊は、御霊信仰のシンボル「雷神」や北野の地主神「天神」(註 壮麗雄大な社殿の裏側に、小さい地主神社がある)に置き換えられてしまいます。それは、打ち続く天変地異に極度の不安を感じていた当時の民衆が、道真の怨霊に期待を寄せていたことを物語るものです。 
 彼が生きた時代は、御霊信仰が人間の生と生活に大きく支配していた時代でありました。そして彼は、そうした時代の申し子として、その悲劇的な死とともにまたたくまに怨霊神の旗頭に祭り上げられました。
 しかし時は移り、人々の意識の変化とともに、怨霊神・道真の姿は遠退き、学者・道真「文道の太祖、風月の本主」としての姿がクローズアップされてきました。そして国風文化の発展につれてますます篤い信仰が寄せられてきました。かれは『三代実録』や『類聚国史』のような史書をつくり、また、詩文章、和歌などが巧みであったので、学問の神様となる要因がありました。しかし、江戸時代になると、読み書き算盤の寺子屋の普及とともに道真が能書家であるとの信仰が全国に広がり、その霊験は受験戦争の現代へと受け継がれてきました。かつて雄大な本殿の裏にあった乾大神は、参詣者が多く、ために現在は境内の西南の隅に新築移転しました。俗に「牛さん」とよばれ、石造の臥牛を神体として祀っています。菅神の神使といわれる牛にあやかり、入学試験の合格を祈る信仰があり、まわりには試験合格を祈る絵馬がたくさん掛けられています。
(左)北野天満宮鳥瞰図(拡大) 
(右)北野曼荼羅図 室町時代 北野天満宮蔵(拡大)
 
 そして今、道真が辿った後世の運命は、もちろん道真を祀る神社の運命でもあります。怨霊鎮魂の神社から学問興隆の神社へと様変わりしました。
 また、怨霊の神、祟り神として恐れられた天神さんも、やがて慈悲の神≠ニして信仰されるようになりました。
 先ず、雪冤(せつえん)―無実の罪を晴らしてくれる神≠ニしての信仰が、早くから萌芽していました。罪なくして都を追われ、望郷の思いも空しく配所に死した道真の同情が、常に弱者の立場に立たされる民衆の間に、強く湧き上ってきたのはむしろ当然であります。いつしか道真は雪冤の神≠ニして仰がれるようになっていきました。
 愛する妻や子と別れ、配所で病苦に悩みながらも、天皇への忠誠をいささかも失わなかった道真なればこそ、死後、冤罪もそそがれ、名誉を回復することが出来ました。その敗者復活≠フ歴史
的事実が、無実の罪になく人たちを、勇気づけました。勝訴祈願にも天神信仰が行き続けています。
 
〔北野天満宮境内の諸堂〕
 
 明治維新までは曼殊院門跡が別当として管理していました。その下に祠官として松梅院・徳勝院・妙蔵院があって、これらの僧が社務を奉仕し、その下に神職が置かれていましたが、明治の神仏分離によって廃止され、仏教的なものはすべて境内から取り除かれました。その後は官幣中社として国家の祭祀にあずかっていましたが、終戦後はかかる社務は廃止され、今は「北野の天神さん」と呼ばれ、市民の崇敬と親愛をあつめています。
 鎮座地は紙屋川の東畔にあって、広大な神域内には数多くの檜皮葺の典雅な社殿が建ち並び、清浄な雰囲気をかもしています。社殿は創建以来しばしば兵火によって焼失を繰り返しましたが、現在の多くの建物は豊臣秀頼が片桐且元を奉行として慶長12年(1607)に造営したもので、その由来が本殿の高欄擬宝珠に記されています。
 中門(重文・桃山時代)。明治時代に造営された楼門を入った左方にあります。入母屋造りの前後に軒唐破風をかけ、上部に千鳥破風を設けた檜皮葺の四脚門で、桃山式の豪華な彩色彫刻がほどこされています。特に中央冠木上の唐獅子の大蟇股は見事であります。梁間に日輪・月輪・三日月の三光を彫刻しているので、「三光門」とも称されています。
 本殿(国宝・桃山時代)。中門を入ると南面して建つ大きな檜皮葺の社殿で、菅原道真を主神として、相殿に中将殿(長男高視(たかみ))と吉祥女(正室島田氏)を祀っています。
 この建物は世に権現造(ごんげんづくり)とよばれる複雑な様式からなるもので、入母屋造り、檜皮葺の本殿と拝殿とが相の間によってむすばれ、拝殿の屋根正面に千鳥破風、向拝に唐破風をつくり、左右に入母屋造りの楽之間を設け、多数の屋根が結合しているので、八棟造(やつむねつくり)ともいわれています。
 また、建物の随所には桃山時代の特色をあらわす華麗な彫刻があり、なかでも蟇股や欄間・手挟(たばさみ)などにみられる花鳥や人物・動物などの絵様彫刻は、日光東照宮に勝るとも劣らぬものであります。
(左)火之御子社 (右)地主神社
 
 地主神社は、本殿は背後の東側にある摂社の一つで、古くは北野(ほくや)天神をといい、天満宮創始以前からの鎮座であります。社殿は桃山建築で、高蘭には北野神宮寺の多宝塔の擬宝珠を流用したもので、慶長12年(1607)の銘があります。
 火之御子(ひのみこ)社は、中門の前にある摂社の一つで、火雷神を祀っています。『西宮記』に延喜4年(904)豊穣祈願のため雷神を北野に祭るとあるもので、天満宮創祀以前からの鎮座であります。毎年6月1日の例祭には雷除けの御符が授けられます。
 一夜松神社は、一名『船宮(ふねのみや)』とも云われます。祭神は一夜の松の霊といわれ、道真がわが棲まんところは一夜に1000本の松の生ずるところであると託宣されたのに因んで祀られています。
 
〔北野天神縁起絵巻〕
 
 菅原道真の一代記と、死後怨霊≠ニなって災いをもたらしたので、鎮魂のため北野に天神社を建てるまでを「絵巻」にしたものであります。
 北野天満宮蔵の承久本(鎌倉初期)は、最初に出来たもので<根本縁起>と呼ばれています。第一〜五巻までが道真の生涯を描き、第五巻後半から六巻までは道真の怨霊が清涼殿を襲ったりする崇りの場面を描き、第七〜八巻は吉野金峯山の僧・日蔵が道真の導きで地獄をめぐった後に蘇生するという構成になっています。第九巻は未完成で白紙であります。
 作者は似せ絵の名手・藤原信実といわれています。この絵巻は料紙を縦に継いでいるため幅が広く、華やかな色彩と弾力のあるタッチは、他本を圧倒しています
松崎天神縁起 防府天満宮蔵
 
 防府天満宮蔵の「松崎天神縁起」(重文・鎌倉時代)は、弘安本の系統に自社の縁起を加えたもので、保存もよく華麗な色彩にみなぎっています。六巻のうち第五巻までは弘安本とほとんど同じで、しかも完本なので貴重であります。
 第六巻は、道真が周防国勝間の浦に泊まったとき、海中から光が発するという奇瑞が現れたので、国司が道真の死後、社殿を造営したとこの縁起は伝えています。色彩も鮮やかで巧緻な描写は、鎌倉時代の絵巻の中でも優作といわれています。

【神・神社とその祭神】《XIII》(その3)完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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