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●第19号メニュー(2007/7/15発行)
【聖徳太子信仰のながれ】(続編)

〔太子活躍の舞台〕

〔太子関連の史跡〕

 昭和61年4月に発足した「京都史跡散策会」は、平成17年10月に200回をもって例会を打ち止めにしました。その例会のリストをみてみると、聖徳太子(厩戸皇子)にゆかりのある寺院や法隆寺を中心とした太子建立の7ヶ寺など、また、斑鳩に遺跡を巡ったことなどが、実に、12回におよんでいます。はじめは、聖徳太子とはなにものであるか、太子信仰とは何たるかを窺い知ることが出来ないでいましたが、過去12回の例会の積み上げと、なおかつ、このHP≪月間 京都史跡散策会≫の拙稿によって、多少なりとも、聖徳太子への理解が深まったと思います。
 
【聖徳太子信仰のながれ】(続編)
 
【聖徳太子活躍の舞台と関連するその史跡】

 
 用明天皇2年(587)、蘇我馬子は排仏をとなえた物部守屋をたおしてから、真神原に仏寺建立を目論んでいました。そして、崇峻天皇元年(588)、百済から仏舎利と寺工、瓦工、画工が献上されたので、寺の造立を起工しました。完成には足掛け8年かかりましたが、推古天皇の4年(596)12月、落慶供養を行ないました。寺号を法興寺と称しましたが、飛鳥の地に因んで飛鳥寺といい、また、元興寺ともいいました。
 ついで、推古天皇の13年(605)、厩戸皇子(聖徳太子)は鞍作止利に銅造釈迦如来坐像を造らせて金堂に安置しました。これが現在の「飛鳥大仏」であります。この法興寺(飛鳥寺)の建立は、そのころの日本にとっては国家的な大事業でありました。

(左) 聖徳太子坐像 橘寺蔵 (右) 飛鳥大仏 安居院蔵
 
 養老2年(718)、平城遷都にともない法興寺も新京に移され新元興寺と称しました。旧地(飛鳥)の寺は、仏法元興の形見として保存され、本元興寺と呼ばれました。しかし、建久7年(1196)の雷火で焼失してからは荒廃し、今は僅かに安居院と呼ばれる一院に飛鳥大仏を残すのみで、遺構のほとんどは残っていません。
 飛鳥の南限にあるのが橘(明日香村橘)で。ここに用明天皇(橘豊日皇子)の別業がありました。いわゆる橘宮で、用明天皇の即位前の宮殿であります。厩戸皇子がこの宮殿で誕生したといわれていますが、この地には皇子ゆかりと称する遺跡が残されています。その一つが橘寺であります。伝えによれば、この寺は厩戸皇子が成人後、みずからの誕生の地に造立したものが起こりであると云われています。
橘寺 全景 遠望
 
 橘寺付近には、かつて厩戸という地名があり、飛鳥川の対岸の坂田寺の近くには「太子産湯の井」があったらしく、『太子伝古今目録抄』に、

 「橘寺ノ巽方に、厩戸垣内ト云フ処アリ。坂田寺側ナリ、件の垣内ハ、北方へ行クコト四町許、井有リ、太子宇夫湯ノ井ト号クー」 と見えています。

 橘寺厩戸皇子誕生説は、このような史料を背景として生れたものであります。現在の橘寺(境内国史跡)は、正式には仏頭山上宮菩提寺と称し、太子創建七ヵ寺の一つに数えられています。それにしても長い築地塀に囲まれた寺域は狭小であります。本堂(太子殿、江戸時代の造立)には摂政像(太子35歳、室町時代の造像)、拝殿には16歳の太子孝養像が祀られています。本堂の前には、勝鬘経講讃のとき天上から降った蓮花が地に満ちた跡という蓮花塚があります。
川原寺 全景 遠望
 
 橘寺の北に白い築地塀をめぐらした川原寺跡(現・弘福寺)があります。川原寺は斉明天皇の離宮として造営されたもので、その名称のように敷地は飛鳥川の辺まで延びていました。
 川原寺跡の後方の丘は「甘橿丘」で、その北麓が豊浦の里であります。推古天皇の豊浦宮 橘寺の北に白い築地塀をめぐらした川原寺跡(現・弘福寺)があります。川原寺は斉明天皇の離宮として造営されたもので、その名称のように敷地は飛鳥川の辺まで延びていました。
 川原寺跡の後方の丘は「甘橿丘」で、その北麓が豊浦の里であります。推古天皇の豊浦宮は向原寺(現・広厳寺)のあたりと考えられています。
 青年太子(厩戸皇子)に暗いかげりを投げかけた崇峻天皇暗殺の舞台となった倉梯(桜井市)には崇峻天皇倉梯丘上陵があります。明治22年、金福寺・十二神社の寺社を御陵と認定し造営されました。金福寺には聖徳太子・崇峻天皇の尊牌が安置されています。崇峻天皇は殯もなく、ただちに葬られました。『崇峻紀』は

「十一月是日、天皇を倉梯岡陵に葬しまつる」 と記すだけであります。

 
〔太子活躍の舞台〕
 

 推古天皇9年(601)2月、厩戸皇子は斑鳩に宮殿を造営し、4年後の13年10月に一族を率いて移っています。これは馬子との無益な軋轢を回避したと思われています。これは隠遁ではなく活躍の場を広げるためでありました。
 それではいったい、厩戸皇子は何故に飛鳥から斑鳩に居を移したのか。おそらく領有する土地が斑鳩のある大和国平群にあったとも。この地は妃の一人膳部氏(膳部菩岐岐美郎女)の本拠でありました。
 とにかく厩戸皇子は斑鳩の宮殿で、自分なりの政治や生活を模索しています。そして新しい政策を立案し、それを実施するのでありますが、はかばかしい進展はありません。
 皇子の意図する政治とは、天皇の権威を高め、豪族をその体制化に組み入れ、大和政権を強化することにありました。
(左) 中宮寺 新本堂 (右) 如意輪観音 坐像
 
 しかし、蘇我氏をはじめ豪族の多くは反発して動こうとしません。それどころか厩戸皇子一族への批判や中傷が表面化してきました。そしてなによりも推古天皇の非協力が皇子を失望させました。かくして皇子のその政治思想は萎縮してしまいました。
 このような状態のなかでは皇子が仏教に傾斜するのは当然と思われます。いずれにしても皇子は仏教の世界に理想をもとめ、その中心としての斑鳩に多くの仏寺を造営しました。
「太子、七寺を起つ。四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂岡寺、池後寺、葛木寺―」(『上宮聖徳法王帝説』)
この7ヵ寺のすべてを厩戸皇子の造立とするには問題がありますが、皇子のゆかりの深い人々によって造立されたことは確かです。
 法隆寺(斑鳩町)は推古天皇14年(606)、用明天皇の遺願をつぎ、推古天皇と厩戸皇子が造立した寺で、斑鳩寺(鵤寺)ともいい、正しくは法隆学問寺と称します。この寺に住持する僧侶は、勝鬘・法華・維摩の三経を講演し、勉学しなければならない。ようするに法隆寺は学問(仏教)をするために造立されました。
 当初はおそらく厩戸皇子一族の人々の氏寺的な存在であったと考えられます。天智天皇9年(670)の火災で焼失しました。いまの伽藍は奈良時代前期に再建されたものであります。
 法隆寺は西院と東院の二つの寺域に分かれています。西院には金堂・塔を中心に、中門・回廊・講堂・南大門・東室・西室・聖霊院・三経院・西円堂・上御堂・大宝蔵殿その他の諸堂があり、東院には夢殿を中心に、伝法堂・太子殿・南大門・鐘楼などが連なっています。旧境内は国史跡に指定されています。
東院の築地塀と北室院(喜多室寺、北戒壇)の塀にはさまれた小道をたどると、清楚なたたずまいの中宮寺が姿をあらわします。
 中宮寺は、古くは中宮尼寺・中宮寺の宮・鵤尼寺・斑鳩御所などと呼ばれていました。創建には諸説があって一定していません。『聖徳太子伝暦』や『上宮聖徳法王帝説』によると、穴穂部間人皇后(厩戸皇子の母)の「中宮」を寺に改めたことによります。旧地は現在地の東方の幸前(小字旧殿)です。発掘調査により、四天王寺式の伽藍配置をもつ寺跡が確認されました。池泉に囲まれた新宝殿の中央には、本尊の弥勒菩薩半跏思惟像が安置されています。
 また、左側の厨子には『天寿国曼荼羅繍帳』が納められています。静かな微笑をたたえて思考する半跏思惟像は「古典的微笑」の典型として高く評価されています。
晩年の厩戸皇子は斑鳩を理想郷「天寿国」とすることに生き甲斐を求めました。皇子のこうした思いを妃の一人であり、推古天皇の孫にあたる橘大郎女(多至波奈大郎女)は、繍帳を作ることによって結実しました。
 法隆寺から道を北東にとると三井の集落があります。厩戸皇子の開削と伝える三つの井戸(御井・前戴の井・赤染の井)が大字名となりました。現存しているのは赤染の井(国史跡)だけとなってしまいました。
(左) 法起寺 遠望 (右) 十一面観音菩薩像 法輪寺蔵
 
 法輪寺は、矢田丘陵を背にしてたたずんでいます。法琳寺・法林寺とも称され、別名は三井寺・御井寺と云っています。推古天皇30年(622)、厩戸皇子の病気の平癒を祈って、山背大兄王・由義王らが造立したと『聖徳太子伝私記』などに記されています。
伽藍配置は法隆寺式で、飛鳥時代の瓦が出土しています。寺宝に飛鳥様式の仏像(薬師如来像・虚空蔵菩薩像)があります。この様式から7世紀の創建と推定されています。三重塔は昭和50年3月に復元が完成しました。
岡本の山裾に三重塔の見られる寺が法起寺であります。地名から池後尼寺、池後寺などと呼ばれました。三重塔の露盤に、厩戸皇子の遺言によって「岡本宮」を改めて寺としたとの銘文が刻まれています。この塔は飛鳥式としては唯一のもので、屋根の逓減の度合いは大きく、軒の出が深く荘重な塔であります。伽藍は法起寺式で、法隆寺とは逆の配置となっています。
 このほか、厩戸皇子ゆかりの遺跡には駒塚(馬塚)があります。皇子が薨去した日に、嗚呼と啼いて倒れた愛馬烏駒(黒駒)を葬ったところであります・『太子伝暦』はそれを中宮寺の南と記しています。松の疎林をのせた墳丘(全長49m・前方後円墳)がその塚といわれています。その南の水田の中に皇子の侍者の墓と伝える調子丸古墳(円墳)があります。
 皇子はこの甲斐の烏駒に乗り、飛鳥から斑鳩へと調子丸を従えて往来しました。この筋違道が「太子道」で、さらに河内の磯長(現在の太子町)へと通じています。したがって、太子道沿いには皇子ゆかりの遺跡が伝わっています。
 この道に王寺(奈良県北葛城郡)の達磨寺があります。『推古紀』21年(613)冬12月の条に見える片岡山の逸話にもとづく、達磨寺の草創の物語であります。
 庚午の朔に、厩戸皇子は片岡山に遊行したとき、飢えた人が臥しているのに出合います。憐れに思った皇子は水と食べ物を与え、自分の衣服を脱ぎ、その身体に被せました。
翌日、使者を遣わし様子を見させると、すでに死んでいました。その報告を聞いた皇子はたいそう悲しみ、臥していた場所に厚く葬りました。
信貴山寺 遠望
 
 数日後、皇子はあの飢者は凡人てはなく、真人であろうと思い、使いを再び遣わして墓を改めさせました。ところが中には屍骨がなく、棺の上には与えた着物がたたまれて残っていました。
世人はこれを達磨の化身と信じ、塚を築いて「達磨塚」と名付け、一宇を建立して、皇子の作といわれる達磨像を祀りました。いうまでもなくこの寺が達磨寺であります(日本霊異記)。
 この片岡山麓には皇子の造立した46院の一つの片岡僧寺(片岡王子)がありました。『法隆寺資材帳』によると、推古天皇6年(598)、播磨国から水田の布施があったとき、皇子はこれを斑鳩寺と中宮寺、そして達磨寺に分与しています。現在、跡地には放光寺とその鎮守の片岡神社が建っています。
なお、畠田の送迎ひるめという垣内は、斑鳩に通った皇子を送り迎えしたところであります。ここから明神山を越えて国分(河内)に出るのが「送迎越え」という古道であります。
 平群の信貴山寺(朝護孫子寺)も厩戸皇子ゆかりの寺刹であります。近くの椎坂越えの峠道は、皇子が斑鳩から四天王寺へ行くときに通った古道であります。伝えによると皇子が蘇我馬子と物部守屋を討ったとき戦勝を祈願し「信ずべし、貴ぶべし」と称え、勝利をおさめたのちに、この地に毘沙門天を祀りました。皇子が椎坂を越えるとき、信峰・貴峰に毘沙門天があらわれたので、その地を信貴といい、毘沙門天を祀りました。この信貴山寺は魔除けの霊験がある寺として、いまも盛んな信仰をあつめています。
 
〔太子関連の史跡〕
 
  斑鳩(大和)から二上山を越えて竹内街道を西下すると磯長谷に出ます。付近一帯には敏達・用明・推古・孝徳天皇らの山陵が点在し、「王陵の谷」と呼ばれています。厩戸皇子の遺骸もこの河内の磯長陵に葬られています。
 推古天皇30年正月、厩戸皇子は病床に臥し、その看護の疲れと心労からか、妃の膳大郎女もみまかりました。さしてその翌日に皇子も「早く妙果に昇りたまはなむ」と往生しました。皇子と妃の遺骸は、生母間人大后が眠る墓所に葬られました。これが三骨一廟(合奏)といわれる太子廟であります。
 その南側に仏寺が創建され、石川寺・御廟寺・磯長寺などと称しました。のち、聖武天皇が法隆寺を模して東西両院を造営し、西院を叡福寺と称しました。
 なお、厩戸皇子が薨じたとき、その乳母ら3人が出家し、太子廟の南に西方尼院を造立し、皇子の菩提を弔っています。
第190回例会 集合写真 大聖勝軍寺にて
 

 用明天皇の崩御後、蘇我・物部の両氏は皇位継承者の擁立をめぐって対立、ついに戦いの火蓋を切るに至りました。磐余に結集した蘇我氏と与党豪族の連合軍2万は、二手に分かれて物部軍の本拠渋川に向いました。すなわち主力軍は逢坂を越え、第2軍は竜田越えで河内に出撃しました。
 主力軍は待ち構えていた物部軍と衛香川付近(羽曳野市)で激突、死闘を展開しました。第2軍は渋川を急襲しました。猛攻にたじろいだ物部軍は渋川を放棄し、衣摺の稲城まで後退し、ここを拠点として反撃に転じました。湿地を利用した物部軍の戦法はたくみで、攻撃軍は立ち往生することもあり苦戦を強いられました。が、やがて主力軍が到着し、戦局は転回して物部軍は混乱におちいりました。乱戦のさなか、物部守屋は迹見赤檮に射られて死にました。
 この合戦には14歳の厩戸皇子が参加し、蘇我軍が苦戦におちいったとき、白膠木で四天王の像を刻み、「諸天の冥助により勝利を得れば、四天王を祀る寺を造立して、恩を無窮に報じよう」と誓願し、蘇我馬子もまた寺塔の造立を誓って総攻めに移り、ついに物部討伐は成功しました。
合戦後、厩戸皇子は誓願を果すため難波に四天王寺(大阪市天王寺区元町)を、馬子は法興寺(飛鳥寺)を造立しました。
 なお、皇子は物部氏の本拠であった渋川の阿都(八尾市太子堂)に大聖将軍寺を建てています。奈良街道に面して「仏法元始聖徳太子古戦場」という石碑と下馬石が立ち、門前には守屋池があります。秦河勝がこの池で物部守屋の首級を洗ったと伝え、その東方に守屋の墓があります。
 奈良街道(渋川道)は久宝寺跡、杭全神社、大念仏寺、摂津国分寺跡などを経て四天王寺に至ります。

(上左) 金堂内部 (上右) 勝鬘院多宝塔 (下) 四天王寺中心伽藍
 
 四天王寺(四天王護国寺、国史跡)は厩戸皇子の誓願によって造立されましたが、その旧地は玉造の東の岸辺(大阪城付近一帯)でありましたが、のち、難波の荒陵と呼ばれていた現在地に移りました。伽藍配置はいわゆる四天王寺式(百済様式)で法隆寺式より古い形式であります。当初は敬田院・療病院・施薬院・悲田院の4院を備えた大寺でありました。現在の寺域は敬田院跡で、戦後に再興された新伽藍はこの跡地を中心に配置されています。
 四天王寺には「聖徳太子絵伝」をはじめ皇子ゆかりの遺品が多く、皇子の命日にあたる4月22日に行なわれる聖霊会が催され、そのときに舞楽が奉納されます。
 別院の勝鬘院(愛染堂)は皇子が勝鬘経を講じた道場でありました。その境内にある大江神社には皇子自作の毘沙門天を祀っています。
 播磨(兵庫県)揖保郡にも太子町があり、地名の「鵤」とともに皇子ゆかりの深いところで、斑鳩寺があります。推古天皇が法隆寺に施入した「鵤荘」は、この斑鳩寺を中心に展開したと考えられています。現在の伽藍には、仁王門・鐘楼・太子殿・講堂・三重塔(室町時代の建四天王寺(四天王護国寺、国史跡)は厩戸皇子の誓願によって造立されましたが、その旧地は玉造の東の岸辺(大阪城付近一帯)でありましたが、のち、難波の荒陵と呼ばれていた現在地に移りました。伽藍配置はいわゆる四天王寺式(百済様式)で法隆寺式より古い形式であります。当初は敬田院・療病院・施薬院・悲田院の4院を備えた大寺でありました。現在の寺域は敬田院跡で、戦後に再興された新伽藍はこの跡地を中心に配置されています。
 四天王寺には「聖徳太子絵伝」をはじめ皇子ゆかりの遺品が多く、皇子の命日にあたる4月22日に行なわれる聖霊会が催され、そのときに舞楽が奉納されます。
 別院の勝鬘院(愛染堂)は皇子が勝鬘経を講じた道場でありました。その境内にある大江神社には皇子自作の毘沙門天を祀っています。
播磨(兵庫県)揖保郡にも太子町があり、地名の「鵤」とともに皇子ゆかりの深いところで、斑鳩寺があります。推古天皇が法隆寺に施入した「鵤荘」は、この斑鳩寺を中心に展開したと考えられています。現在の伽藍には、仁王門・鐘楼・太子殿・講堂・三重塔(室町時代の建立)があります。三重塔のほかはいずれも近世のものであります。
(左) 広隆寺南大門 (右) 秦河勝坐像 広隆寺蔵
 
(左) 弥勒菩薩半跏思惟像(百済伝来) (右) 弥勒菩薩半跏思惟像
 
 加古川市にある鶴林寺も皇子ゆかりの寺であります。寺伝によると皇子が秦河勝に命じて造立した寺であります。太子堂(旧法華堂)の宮殿には聖徳太子像が安置されています。法華堂が太子堂になったのは鎌倉時代であります。鶴林寺太子堂はこの地方の太子信仰の中心でありました。
 広隆寺は、推古天皇11年(603)に建立された山城(京都)最古の寺院であります。四天王寺、法隆寺などとともに、聖徳太子建立の7ヶ寺の一つであります。古い名称は蜂岡寺と呼ばれていました。

十一年十一月己亥朔。皇太子請諸大夫曰。我有尊仏像。
誰得是像以恭拝。時秦造河勝進曰。臣拝之。便受仏像。因以造蜂岡寺。

 このように秦河勝が聖徳太子から仏像を賜り、それを本尊として建立したことが記されています。
 この本尊が現存する弥勒菩薩であります。この広隆寺こそは、仏教を興隆して文化の向上を図り、民衆の和合を熱願された聖徳太子の理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺跡であります。
 和国の教主と敬慕された厩戸皇子(聖徳太子)にたいする信仰は、漸次各地に拡大され、さまざまな遺跡が創られ、各時代を通じ太子信仰により庇護され、現在に伝えられています。
 
聖徳太子信仰のながれ(続編)完


≪第19号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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