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●第21号メニュー(2007/9/16発行)
【神・神社とその祭神】《そのU》

【神の魂の一部である御神体】

【玉置神社 玉石社 三石社】 〔玉石社 三石社〕 〔玉置神社〕
【天河大弁財天社】(天河神社) 「四石三水八社」
【丹生都比売神社】

 かつて陸の孤島≠ニいわれた秘境十津川村に、8月上旬取材をかねて行ってきました。先月号から【神・神社とその祭神】の連載をはじめ、わが国でもっとも古い玉置神社や天河弁財天社、丹生都比売神社などを参拝しました。この三社には、古代信仰がいまでも生きずいています。3社とも信仰形態が違いますが、この記述でそれぞれの相違点などを理解してください。
 はじめに、古代信仰の理解と国家神道の成り立ちなど、結論めいた説明をしてから、三社の信仰の原点をさぐり、現在に伝わっている社の来歴や由緒を記していきます。
 

【神の魂の一部である御神体】
 
 神社には「御神体」というものがあります。鏡や剣、石や木などがそれで、そうしたものは、神の象徴ではなく、神が降臨し、そこに宿る神の魂の一部と観念されています。御神体のことを「御霊代」ともいいますが、この「代」は、神霊がそこに憑る「依代」の代で、やはり神霊が宿る神聖なモノ≠フ意味であります。
 御神体に対する崇敬を偶像崇拝と混同しがちでありますが、偶像とは、キリスト像やマリア像、あるいは全国各地にある神社や寺院の神像・仏像などは、神様や仏様の似姿を模した像のことであります。
玉置神社の神木 (左) 神代杉 (右) 磐余杉
 
 それらの像の場合は、神仏の魂そのものが宿っているわけではありません。ご神体の場合は、そこに神が降臨すると考えられているのですから、明らかに偶像とは異なることは大変重要な点であります。
 古代日本人は、神の力をいただき、神とともに暮らしていくために、神の降臨を仰いで祀りますが、その際、しばしば自然の巨石、常緑の巨樹などを、降臨の御座所(依代)とみなして崇拝をしています。
 そうした巨石や、ひときわ気高い樹木は、神の住む山(神奈備カンナビ)や森など、神聖と信じられていた場所にあるモノが選ばれて、石の御座所は「イワクラ(磐座)」、樹木の御座所は「ヒモロギ(神籬)」などと呼ばれて、祭祀の対象となっていました。
 また、それより古い形の信仰では、女性の陰部と見なされる岩や洞窟も崇拝の対象となり、死と再生の儀礼(これにはしばしば太陽祭祀や火祭りなどもあります)などに用いられました。
 この祭祀は、たとえば春や秋など、生活の最も重要な節目に、そのつど祭場を設けて執り行われましたが、やがてそこに恒常的なカミマツリのための施設が作られるようになりました。これが「神社」であります。
 神社は垣を巡らして俗世間から隔絶されています。そして神の宿ります御神体を祀る本殿がつくられ、ご神体を拝むための拝殿、神に捧げる幣帛を祀る幣殿などがつくられましたが、古い形の信仰を残す神社には、たとえば大和の大神神社のように、神社の背後のカンナビ(神奈備)自体をご神体として、本殿を設けない神社もあります。
 神の御座所は、本来的には神社内にはなく、山や森、滝、丘、海や川、島そのものにあったからです。このことからわかるように、神社は、その土地と、その土地を司る神に密接に結びついて信仰されたのが古代信仰の姿でありました。
玉置神社本殿
 
 土地の神は「ウブスナガミ」(産土神)、また「ウジガミ」(氏神)として崇敬を集め、地域の統合の象徴として機能しましたが、やがて文明が発達してくると、この土地と結びついた神のほかにも、より霊威の強いと信じられた神々が祀られるようになりました。その代表が、稲荷であり、八幡であり、菅原道真と結び付けられた雷神・北野天神であります。   こうした神は、そのすぐれた現世利益の力によって、日本全国に勧請されました。その結果、古くからその土地を司っていた名もない神がわきに押しやられたり、祭神の置き換え、消滅も広く各地で起きています。
 それでも、明治に至るまでは、日本各地の村や里には、村里を守る鎮守の神があり、鎮守の社がありました。その神や社を統廃合して、祭神を古事記や日本書紀の記述にあわせるような圧力をかけて、神社本来のあり方に大きな改悪を加えたのは、明治政府でありました。
 この改悪により、各地の神社は、神位、格付けが行われ、神社庁の管轄下のもと、管理されることになりました。神社そのものは、本来の特定の神のもとに組織され、決まった信仰を強制されるような性質のものでなかったことは明らかであります。
 
【玉置神社 玉石社 三石社】
 
〔玉石社 三石社〕
 
 湯泉地温泉からしばらく行くと折立の集落に出ます。ここから玉置山頂の玉置神社へ道が通じています。玉置神社は熊野三社の奥の院とされ、標高1100mほどの山で折立からは山腹を縫う林道を遠く迂回しながら約10kmきつい道をのぼると玉置神社の参道口に至ります。参道は石が積み重なり木の根が走り、強い傾斜の勾配のきつい道を歩きます。鳥居が見えてきます。素木の清らかな社殿、あたりは樹齢3000年と伝わる老杉をはじめ、みあげる空に梢がそびえる杉があり、岩山の上の杉の巨躯は壮観であります。
 玉置山、玉置神社はその名のとおり、玉に関係があり、ここには玉石を祀る玉石社があります。三柱神社の隣に出雲大社教の社殿が建ち、その前を通ると山頂に向かう道があります。杉に囲まれた山道を登っていくと、大峰奥駆道という標識が立てられていて、すでに修験の行者道に入っています。ここには何かただならぬ気配が感じられます。大峰奥駆の山岳信仰はいまだに生きていて、古代自然信仰は人々の胸中に深く息ずいています。
玉置神社の磐座 (左) 玉石社 (右) 三石社
 
 玉石社は木の柵で結界されています。「社」といっても建物はなく、結界の中は3本の木に囲まれた窪地に、真白い丸石が敷かれています。そしてその白い石に包まれるように、大きな黒い丸石が上部をもたげています。黒石の上には、白い御幣をつけた鮮やかな緑葉の榊が一本置かれています。
 結界の柵に、木札が捧げられ、そこには「大峯 奉修行大峯奥駆順峰 七十五靡如意満足折伏」とかかれていました。順峰は熊野から吉野へ大峰山系を超える行であって、七十五靡はその間に点在する行場の数であります。全行程150kmを走破する大峯奥駆は、死をも覚悟して行う難行苦行であります。
 玉石でありますが、この信仰については豊穣祈願以外は不明であります。注連縄をかけ、榊を捧げ、水をかけ、ある秩序によって行われていますが、その本義や謂れについてはまったくわかりません。しかし、この石が玉置神社の御神体で社名の起こりとなりました。
 白石社は玉石社の背後に鎮座していますが、やはり周囲を垣に囲まれています。垣の中に三つの自然石が並んでいます。別名は三石社と呼ばれています。
 日本各地にある玉石の信仰は、道の神、塞の神、道祖神として、村の入口、出口、外部と交わる辻に置かれています。厄除け、生殖、豊穣などを祈って鎮座しています。玉石には、生むことや殖やすことがもっとも関心事であったと思われます。女性―母なるものの象徴であると考えると、那智の滝の前に置かれた玉石も、花の窟のそれも、そう考えることによって納得することが出来るのではありませんか?
 
〔玉置神社〕
 
 祭神は伊弉諾命・伊弉冉命・天照大神・神日本磐余彦命で、明治期の神社明細帳に記載されて現在に至っています。
 玉置山の頂上(標高1075m)の南に鎮座しています。3万uにも及ぶ境内には杉・檜の巨樹群がそそり立ち、樹齢3000年とも伝える神代杉があります。
 寛政2年(1790)4月の玉置山別当高牟婁院宛沙汰書に「玉置山之儀者熊野三山之奥院格別御由緒二付」とあります。また、熊野本宮には玉置社への遥拝所があったことが、「紀伊国風土記」にも記されています。
(左) 玉置神社の書院 (右) 同 磐楯
 
 大峰七十五靡10番の行場で、古来十津川郷の鎮守でありました。「玉置山縁起」には崇神天皇の代に熊野本宮とともに創祀されたとあり、「大和志」に「旧事記所謂紀伊国忌部遠祖手帆置負神即此、元慶五年十月従五位下」と記されています。
 天安2年(858)、天台宗の智証大師円仁が、那智の滝にこもったのち、当山で修法加持をして本地仏を祀り神仏混淆となりました。平安時代大峰修験道の本拠となり、熊野三社の奥の院として繁栄しました。
 大峰・金峰・熊野とを連結する要衝として順・逆いずれの行者も通過した行場であります。山頂の玉石社は祠がなく玉石がご神体で当社の奥宮であります。明治以前は京都聖護院門跡の支配下にあり、盛時には7坊15ヵ寺がありました。
 梵鐘には応保3年(1163)3月初3日の紀年銘と梵字銘があります。宇治川先陣争いで有名な佐々木信綱が戦勝を祈願して寄進したと伝えられています。
かつての高牟婁院を改修した書院風の書院建築の社務所と入母屋造りの鉄板葺きの台所があります。社務所の戸襖70枚は杉の一枚板で、そこには狩野派の一派である橘安養の絵が描かれています。
境内3万uに叢生する杉の巨樹群には、神代杉、常立杉、磐余杉、浦杉、大杉など胴回り8mから10m、樹高30mから50mに達するものがあり、千石杉のごときは一本から千石の木材が出来るといわれ、夫婦杉は中に数uのホラがあり、おいもち杉は地上5mのところにとりもちの大木が寄生しています。
 
【天河大弁財天社】(天河神社)
 
「四石三水八社」
 
 天河神社には、「四石三水八社」のいわれが伝えられています。最近小説や映画で有名になり、社域は整然と整備され、あまり神々しさが感じられません。しかし威勢あるご神徳は多くの人々に大きな安心を与えています。
天河大弁財天社 (左) 参道 (右) 本殿遠望
 
 古くは「天ノ安河ノ宮」と呼ばれ、天川の地名の由来となりました。弥山川、川迫川、山上川の三水を集める天ノ川の河畔にあり、分水山の信仰を生み、後に、修験道においても重要な位置を占め、水神と弁財天信仰が習合して弁天社の成立につながりました。
 街道に立つ鳥居から参道に入ると、ひろい白砂を敷いた広場があります。朱塗りの鳥居前に「大峯本宮 天河大辨財天社」の大きな石の社標が立っています。最近修理されたと思われる朱塗りの鳥居に、掛かっている扁額には「大辨才天」とあり、社標と扁額に違和感を感じました。結界の太鼓橋を渡ると拝殿に続く石段があります。十数段上った左側に大きな自然石を木の柵で囲んだ磐座があります。さらに十数段上った左側に本殿に向かって四基の祠が並んでいます。この祠の前庭にも磐座があります。石段を登りきると拝殿です。ここに前号で紹介した神籬がこの拝殿に祀られています。ここに来てやっと古社らしいもの寂びた雰囲気が感じられます。拝殿から奥を見上げると本殿です。普段は本殿の昇殿が許されていません。この本殿は大きな磐座の上に建てられていると云われています。
 この天河大辨財天社は霊山弥山(標高1895m)の山麓に鎮座していますが、奥の院は弥山の頂上にあります。当社の本尊は弁財天であります。修験道の祖、役の行者が大峰山の一つ、山上ヶ岳(標高1719m)で国の平和を祈願されましたが、最初に弁財天が現れます。次に蔵王権現が姿を現しました。弁財天は女神であるため、荒々しい山上ヶ岳の守護にふさわしくないと判断して、隣接する水の神の山である弥山に祀りました。現在は山頂に禊神社がありますが、ここの磐座に役の行者が神の降臨を願った場所ではないかと推測されます。
天河大弁財天社 磐座(左右とも)
 
 「四石三水八社」の最後の謎は「八社」であります。この天河大辨財天社と周辺に鎮座する摂社・末社の総数と考えられます。本社にお祀りしている三柱(市杵嶋姫命・熊野坐大神・吉野坐大神)と大将軍神社、八坂神社、聖天社、韋駄天社、弥山頂上にある禊神社ではないかと想像されます。
神社の拝殿から本殿を望む
 
〔天河大辨財天社〕
 
 天河大辨財天社は、地理的には、日本三大霊場である高野、吉野、熊野を結んだ三角形の中心に位置しています。言い伝えによると、神武天皇が天河神社の地で、「ヒノモト」という言葉を天から賜ったと伝えています。この「ヒノモト」が「日本」であるので「日本」という国名はこの地に生まれたということになります。
 社伝によると、天川という聖なる場所の神秘に引きつけられた、修験道の祖である役小角(役行者)が七世紀ごろ、長年にわたり大峰山で修行の折、天川を活動の拠点とし、大峰山に75靡の道場を開山しました。また、山上ヶ岳で鎮護国家の祈祷で最初に出現したのが弁財天で、山上ヶ岳は女人禁制のため天川に祀り、次に出現した蔵王権現を山上ヶ岳の本尊として祀ったと伝えています。また空海(弘法大師)が高野山開山の前の3年間、ここを根拠として大峰山で修行し、その後、高野山で真言宗を創始しました。その折、天川辨財天社を琵琶山妙音院と号して神仏習合の一大聖地としたと記されています。
 社殿については、七世紀、天武天皇が戦勝祈願の功に対する感謝から、神殿を建立したのが最初であると伝えています。現在の壮麗な社殿は、平成元年に再建されたものです。
 
【丹生都比売神社】
 
 社伝によると、『播磨国風土記』に、神功皇后の朝鮮出兵の折、丹生都比売大神の宣託により、衣装・武具・船舶を朱色に塗って出兵し、戦闘には絶大な効果が現われて戦勝することが出来ました。これに感謝して応神天皇が壮麗な社殿と広大な土地を社領として下賜されたと伝えています。
丹生都比売神社 (左) 太鼓橋(参道) (右) 本殿(四殿並立)
 
 ご祭神の丹生都比売大神は、天照大神(オオヒルメ)の妹神で、稚日女ワカヒルメノ命であります。ご祭神の名の「丹」は、朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』にはすでに古代邪馬台国の時代に、丹の山があったことが記載されています。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀がとれます。その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があります。もともと丹生都比売大神は、朱砂の採掘を司る丹生氏の氏神として祀られたと考えられます。
 丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされています。全国にある丹生神社は88社あり、丹生都比売大神を祀る神社は108社、摂社末社を入れると180社余を数え、丹生都比売神社は、その総本社であります。
 創建の年代は不詳でありますが、『丹生大明神告門』には、祭神の丹生都比売大神は、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨され、御子の高野大神とともに紀伊・大和を巡られ農耕殖産を広め、ここ天野原に鎮まったと伝えています。
高野大師行所図画部分(高野山蔵) (拡大)
 
丹生都比売大神の御子である高野御子大神(狩場明神)は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現われ、高野山へと導きました。
弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開創しました。これ以後、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の恵みを感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、神と仏が共存する日本人の宗教観(神仏習合)が形成されました。
中世、当社の周囲には、数多くの堂塔が建立され、明治の神仏分離まで56人の神官と僧侶で守られていました。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入り口で、まず当社に参拝した後に高野山に登ることが習慣でありました。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四社殿となりました。
現存する本殿は、室町時代に再建されたもので、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重文に指定されています。
(左) 丹生明神像 (右) 高野明神像 (左右とも高野山蔵)
 
【神・神社とその祭神】《そのU》完 つづく


≪第21号完≫
 
江戸時代の大仏復興と公慶上人(前編)戌 2題 狛犬・洋犬
江戸時代の大仏復興と公慶上人(後編)五劫思惟阿弥陀如来坐像について
佛涅槃図について 沙羅双樹と夏ツバキ
秀吉の大仏殿造営 百椿図について
北野の大茶の湯 黄金の茶室 華厳宗祖師絵伝
伏見築城とその前後 禅寺の年中行事
聚楽第の造営 聚楽第・伏見城の遺構 秀吉晩年の年表
お土居の築造 お土居跡見て歩る記
鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源 三重・新大仏寺 大仏師 法橋 快慶
秀吉の醍醐の花見 醍醐寺と三法院 名石・藤戸石の由来
史上初 湖東三山の秘仏ご開帳 天台宗について
厩戸皇子・聖徳太子の足跡《その1》 
〔日本書紀抜粋 崇峻天皇・推古天皇記〕〔日本書紀〕〔舎人親王〕〔蘇我馬子宿禰〕〔物部弓削守屋〕〔用明天皇〕〔穴穂部間人皇女〕〔田目皇子〕〔推古天皇〕〔橘寺〕〔大聖勝軍寺〕〔四天王寺〕
【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その2》
【亥年にちなんで】
「亥・猪の文字の語源」 「和気清麻呂と猪」 「護王神社」
承前 【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その3》
〔皇太子の事蹟〕〔冠位十二階〕〔憲法十七条〕〔大臣・大連・大夫〕〔隋 581〜618〕〔隋書〕
【聖徳太子信仰のながれ】 (その1) 《叡福寺》
〔太子信仰の拠点 叡福寺〕〔磯長叡福寺の概要〕〔本堂・聖霊院〕〔上の御堂〕〔聖徳太子磯長墓〕〔結界石〕〔二十句の霊碑〕
【科長神社】
【聖徳太子信仰の流れ(その2)《法隆寺前篇》】
〔斑鳩寺(法隆寺)創建への歩み〕〔東院伽藍(若草伽藍跡)の造営〕
【聖徳太子信仰のながれ(その3)《法隆寺中編》】
【太子信仰と多様な聖徳太子像】
【聖徳太子信仰のながれ】(その4)《法隆寺後編》
〔太子説話と太子絵伝〕〔太子の伝記史料〕 〔太子建立の寺院〕〔太子尼寺建立の謎〕
【聖徳太子信仰のながれ】(続編)
〔太子活躍の舞台〕〔太子関連の史跡〕
【神・神社とその祭神】《そのT》
【神は大自然への畏敬と祈りから成立した】〔森・林〕〔鏡・影見・形見〕〔大和の神〕〔伊勢神宮の成立〕
【神・神社とその祭神】《そのU》
【神の魂の一部である御神体】
【玉置神社 玉石社 三石社】 〔玉石社 三石社〕〔玉置神社〕
【天河大弁財天社】(天河神社) 「四石三水八社」
【丹生都比売神社】

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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