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●第23号メニュー(2007/11/18発行)
【神・神社とその祭神】 《そのW》

【冥府の神、荒ぶる神、須佐之男命】

【八坂神社】散策会資料 180号から抜粋

【冥府の神、荒ぶる神、須佐之男命】
 
 『古事記』では須佐之男命,『日本書紀』では素盞鳴尊と記しています。須佐之男命といえば、まず浮かぶものは、八岐の大蛇ヤマタノオロチを退治した話であります。それは記・紀神話の中でも出雲に赴いてからの須佐之男命の姿であります。そこで、記・紀の記載について、その神性を出生からたずねてみます。   
 『古事記』では次のように記しています。
 黄泉国から逃げ帰った伊邪那岐命は、私はなんともいやな穢れた国へ行っていたものだ,ここはなんとしても、この身の禊をしなければなるまい、として筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓いをした際、左の目を洗ったときに天照大御神が生まれ、右の目を洗ったときに月読命が生まれ、鼻を洗ったときに生まれた神が建速須佐之男命でありました。
八重垣神社本殿の壁画 (左)須佐之男命 (右)櫛稲田姫
 
 伊邪那岐命は三貴子みはしらのうずのこを得たと歓喜して、天照大御神には「高天原を治めなさい」と、次に月読命には「夜の食国オスクニを治めなさい」と、建速須佐之男命には「海原を治めなさい」と統治を分担させました。
 ところが須佐之男命は委任された国を治めず、髭が胸前に垂れるまでの大人になっても、啼きわめいているばかりです。その様子は青々と茂る山を泣き枯らし、河海まで泣き乾らしてしまいました。そこから邪悪な神の声が、五月の蠅さながらに満ちあふれ、万物はいっせいに災いに見舞われました。伊邪那岐命は須佐之男命に、「どうしてお前は任された国を治めずに泣き喚いているのか」と糾すと、「私は亡き母の国、根の堅洲国かたすくにに行きたいと思って泣くのです」と。伊邪那岐命は大いに怒って、「ならばお前はこの国には住んではならない」と須佐之男命を天上界から追放してしまいます。
(上) 宇気比の伝説地 天の安河 (下)祗園牛頭天王御縁起
 
 追い払われた須佐之男命が天照大御神に暇乞いをしようと天に上るとき、山川ことごとく鳴動して国土が揺れ動きました。この有様に天照大御神は驚いて、須佐之男命には善心がなく国を奪おうとしていると思い込んで、男性のように髪を美豆羅みずらに結い、千入りの靭を背負って雄々しく叫んで、「なぜ上がってきたのか」と問いただしました。
 すると須佐之男命は、「邪きたなき心なく、妣ははの国に行きたくて泣いていたところ追放された」と事情を説明しますが、天照大御神は、清廉潔白の証を求めます。いったい須佐之男命の言い分が真実かどうかを確かめるべく宇気比うけい(誓約)の方法をとりました。(註宇気比とは、ことの是非を占いで定める古代の審判方式で、「誓約」の字があてられます。)「自分の心が清明であることを証明するために、双方で子供を作りましょう」と答えました。
 この様子を『古事記』の原文で読んでみると、

かれここに各々天の安河を中に置きてうけふ時に、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳とつかの剣を乞い取りて、三段みきだに打ち折て、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌すすぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、タキリビメの命。またの御名をオキツシマヒメの命といふ。次にイツキシマヒメの命。またの御名はサヨリビメの命といふ。次にタキツコメの命。建速須佐之男命,天照大御神の左の御みずらに纏かせる八尺やさかの勾玉まがたまの五百津いほつみすまるの珠を乞い取りて、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌すすぎて、さがみにかみて、吹き棄うつる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミの命。また右の御みずらに纏かせる珠を乞い取りて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、アメノホヒの命。また御鬘みかづらに纏かせる珠を乞い取りて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、アマツヒコネの命。また左の御手に纏かせる珠を乞い取りて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、イツクヒコネの命。また右の御手に纏まかせる珠を乞い取りて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹いぶきの狭霧に成れる神の御名は、クマノクスビの命。

 その結果は、天照大御神が須佐之男命の剣をもとに3女神を得、須佐之男命が天照大御神の珠によって5男神を得ました。5男3女神の誕生により、清き心が証明されました。
しかし、須佐之男命は宇気比(誓約)に勝ったおごりから、天照大御神の営田みつくだの畦を壊し、溝を埋め、稲の初穂(大嘗)を召し上がる神殿を糞尿で汚します。しかし、天照大御神は、咎めようとするどころか、逆に弁護しています。「糞のようなのは私の弟が酔って吐き散らしたもの、田を壊し溝を埋めたのは私の弟が地面が惜しいとしてやったこと」と言葉でつくろいますが、そのとりなしにも反省せず、なおも悪しき行動は止むことがありません。さらに天照大御神が機織り屋で神に供える衣服を織っていたところの天井に穴を開け逆剥ぎにした天斑馬あめのふちこまを投げ込んで、天衣織女あめのみそおりめは仰天して機の杼ひでほとを突いて死にいたらしめました。須佐之男命の所業は、高天原の神聖への侵犯・冒涜であるので、おそれをなした天照大御神は、ついに大磐屋の戸を閉じて、中に籠ってしまいます。
(左)斎服殿に闖入し狼藉をはたらく須佐之男命 (右)建速須佐之男命御一代記
 
 そのため高天原から葦原の中つ国まで、天地に光が失われ暗黒が支配します。暗闇に乗じて悪魔・怨霊がはびこり、天変地異がひきつづいて、世はたがのはずれた混乱状態に陥ります。そこで八百万の神々が集まり、日の神を復活させるためのてだてを図りました。

ウズメ、女神ながら、……(中略) ……石屋戸のまえに伏せたからの桶を、足拍子おかしく踏み鳴らし、神がかりして、乳房をあらわに、裳の紐を陰ほとにまでおし垂らして踊りまくったので、高天原ゆらいで、八百万の神々、どっと笑った。

 神々の笑いさんざめく有様を、天照大御神は不審に思って身を乗り出し、やがて姿を現
す時、天上も地上もふたたび光明をとりもどしました。
 天照大御神の至上の権威が確立されて、またしても須佐之男命は「神やらい」(追放)に処されます。悪・罪・穢れ・不作・死・暗黒など、あらゆる負を一身に担うものとしては、当然の行く末でありますが、他方、刺激に満ちた風貌が、他に類を見ない独特の魅力をはぐくんでいます。こうした須佐之男命は、その後、出雲世界の英雄神に、そして根の国の祖神へと変貌・転生をとげてゆきます。

出雲の神代神楽
 

 こうして天界追放となった須佐之男命は、出雲国の肥の河の上流、鳥髪の地に天降り、箸が川を流れ下だるのを見て、人が川上にいると思い、流れをさかのぼると、翁と媼が乙女を中において泣いていました。聞けば、毎年娘を餌食にする怪物八岐大蛇が、今またやってくるのだという。大蛇の目は赤い酸漿の色に血走り、身一つに八つの頭・八つの尾、コケと樹木の茂る身の丈は谷八つ峰八つにわたって、その腹がいつも血に爛れている物凄い大蛇であります。須佐之男命は、娘(櫛名田比売)を妻にとのぞみ、その身を明かせば、老夫妻(アシナズチ・テナズチ)は畏れ多いことと承知しました。
 須佐之男命は、まず美麗な櫛にその乙女を変身させ、自身の髪にさして保護したうえ、アシナズチ・テナズチに言いました。
 「そなたたちは、」八塩折の酒をかもし、また垣根を作りめぐらし、その垣根に八つの門を作り、門ごとに八つのさずき(桟敷)を結い、そのさずきごとに酒船を置き、船ごとにその八塩折の酒(繰り返ししぼった強い酒)を盛って待つがよい」と。
 この言葉のままにもれなく整えて待つうちに、八岐大蛇、まさに言うとおりにやって来ました。ただちに酒船ごとに八つの頭をさし入れて、その酒を飲みます。飲むほどに酔いしれて、そこに留まり伏して眠りにつきます。
 須佐之男命、身に帯びた十拳剣を抜き、大蛇を散々に切り放てば、肥の河は血となって流れゆきました。大蛇の中の尾を斬った時、剣の歯が欠けました。何事かと思い、剣の切っ先をもって割いて見れば、鍛え上げた太刀がひとふり出てきました。須佐之男命はこれは不思議なものと思い、天照大御神に献上しました。そして出雲の清地・須賀に宮処を定め、助けた櫛名田比売(奇稲田姫くしいなだ姫)と結婚しました。
 原始の自然力をバックに君臨した蛇体の神は、こうして退治・克服されました。古い野蛮な権威に代わって、新しい秩序が出来上がってゆく、その推進力となったのが須佐之男命であり、英雄神の誕生であります。
 須佐之男命と櫛名田比売の結婚からさらに新たな神々が生まれます。その6代目に当たる神を大国主神といい、父祖・須佐之男命のうち立てた秩序をうけついで、どのように国を作り出すかは大国主神の役割でありました。
 大国主神も須佐之男命の娘須勢理毘売の助力を得て、最後は葦原中つ国の国土経営を行うという、繁栄と秩序への布石をしています。また、出雲での須佐之男命は、国土を統治し、安定をもたらす神となっています。
 須佐之男命の荒ぶる性格が、逆に災いを祓ってくれる頼もしい神としての信仰を生んでいます。「備後国風土記」の逸文には、病気を流行させる行疫神・武塔神と同一神とされ、蘇民将来の伝承と結びつき、さらには牛頭天王とも習合しました。
 厄除けの神の信仰は、天禄元年(970)に始まった祇園御霊会により平安京を中心とする庶民信仰となり、やがて全国に広まって現在に至っています。夏の厄除けの祇園祭は、京都の八坂神社に代表されています。
 
【八坂神社】散策会資料180号より抜粋 散策会催行 平成16年1月18日
 
 八坂神社という名称は、明治維新の神仏分離の際に、所在地に因んで改称されました。それまでは祇園社感神院と称していました。この名称は、古代インドで須達長者が釈迦に寄進したという寺、祇園精舎にちなんだものといわれています。
 葵祭の賀茂神社が王城の守り神≠ニいう性格が濃いのに対し、祇園社は京都に住む庶民たちの信仰の象徴として親しまれています。祇園社の祭神は、牛頭天王といって、もともとは疫病鎮めの神でありました。
 その神は、3面の頭上に牛頭をいただいく異形の姿をとり、それまでの神像や仏像の枠ではおさまらない、新しい神格が誕生しました。
 祇園社感神院の本尊である牛頭天王という神には、平安時代以来、もとはインドの神であったという伝承があります。「祇園」という名称も、この神の故郷に由来するものです。この祇園精舎の守護神が牛頭天王でありました。

(左)牛頭天王像 興禅寺蔵 (右)牛頭天王像 松雄神社蔵
 

 縁起によると、その神が新羅を経て日本に渡り、播磨の明石の浦に垂迹し、そこから同国の広峰に移って鎮座しました。そこからさらに京都北白川東光寺へと転々とした後、清和天皇の貞観18年(876)に、常住寺の円如大法師が京都八坂の地にお祀りしました。
 牛頭天王の妃は婆梨采女で、八柱御子(八王子)といわれる御子神たちと殿内に祀られています。牛頭天王は八王子を従えた神でありますが、素盞鳴尊もまた8人の皇子をもうけられており、荒ブル神という共通性のあるところから、素盞鳴尊と牛頭天王が習合・垂迹されました。こうして神輿を置く神殿を造り、素盞鳴尊と八王子と妃の櫛稲田姫を合祀したのが現在の八坂神社であります。
 また、祇園の牛頭天王は、水の神としての性格を持っています。祇園社(現八坂神社)の本殿の床下には、竜穴という深い井戸があります。現在ではその井戸にふたを被せています。また妃神の別名は少将井といい、中世にはこの名の井戸がお旅所にあり、神輿を井戸枠の上に安置しました。神社の神紋が水に縁のある「瓜」であることも考え合わせて、水神=竜蛇神の性格を持つ複合的な神格であったことが窺われます。加茂川のほとりに鎮座しているのも、このような水神的性格に由来します。
 日本の信仰の歴史は、仏教伝来から、神仏習合の形態が発展して、そこに御霊信仰が結びついて、特徴ある性格を持つようになりました。当社も、明治の神仏分離、廃仏毀釈により、祇園社感神院から八坂神社と名称を変えました。
 当社の前身である祇園社感神院の創建については、どこに真をおいてよいのか全く不明瞭であり、定説らしきものはありません。

八坂神社本殿 内部
 

 わが国では、もともと異常な死に方をした死者が災いをなすという考え方がありました。9世紀の頃、政争が盛んになり、しかも同時に都市が発展すると、疫病その他の不安を、政治的敗北者の悪霊のたたりと見なすようになりました。
 人の思考の枠を越えて信仰された呪術神がはやりだしたとき、それを具体的なイメージにするため、身近に起こった政治的悲劇のヒーローたちに結びつきました。勿論、この結合の根底には、時の権力者(政治的悲劇のヒーローたちの仇)に対する民衆の反感もありました。全国的にわたり、怨霊を鎮めるため、仏を拝んだり、歌舞・相撲・騎射などに歓をつくす御霊会が盛んになりました。
 政治的敗北者の霊を祀る代表的な神社は北野神社ですが、具体的な政治的敗北者の結びつきが弱く、むしろ普遍的な呪術神を祀る寺社の代表が祇園社感神院(現八坂神社)でありました。そして今も盛んなこの社の祇園祭(御霊会)が、残っていることは最大の証であります。
 祇園社感神院の本尊は薬師如来で、かつては比叡山の支配下にありました。仏教が渡来してしばらくすると、日本人の信仰が混沌としてきます。仏教が神道化し、神道も仏教化して(御霊信仰も加わり)神仏習合という現象が生まれました。これは本地垂迹という考え方で、絶対的理想(本地)である仏陀(如来)が日本人を救おうとして跡を垂れた(垂迹・顕現した)のが神である(例えば天照大神の本地は大日如来)という説であります。
 そして、これが神前読経、神前写経などの風習がはじまり、神宮寺とか神護寺といって、神社が寺に、寺が神社に付属していました。
 神仏習合というと、神のほうが格が上みたいに聞こえますが、これは口調の都合で、実は仏が主体で神の位置は低く、神主よりも僧侶のほうがずっと権威がありました。
 祇園社感神院の本地垂迹では、薬師如来が日本に跡を垂れ(垂迹して) 素盞鳴尊になったといわれます。これにもう一つ、新羅経由で天竺から伝わった悪疫退散の神、牛頭天王が加わりました。
 吉田神道では、日本の神々が本源であって、諸仏は衆生救済のために神々が現世に姿を顕したものという、仏教側の本地垂迹説とは反対の主張をしています。この考え方から、吉田神道では中世社会で大流行していた牛頭天王を神道に取り込んで、その本体を素盞鳴尊だとして解釈したのです。
 それまでの神仏習合説に反対したのは、第一は室町末期に始まる吉田神道でありました。第二は国学者で、殊に平田篤胤とその門下でありました。第三は儒者たちであります。水戸学といわれる一派は猛烈を極め、その主張を藩政に反映させるため、水戸藩では多くの寺を廃し、金銅仏や銅鐘をつぶして大砲を鋳造しています。幕末には、この水戸学と平田学が、当時の若者にもてはやされました。
(左)祗園社絵図 八坂神社蔵(拡大) (右)洛中洛外図屏風 部分八坂神社蔵(拡大)
 
 維新後、この平田篤胤の弟子たちが新政府の宗教政策を受け持ったため、慶応4年(1608)3月以降、神仏分離と廃仏毀釈とが全国的にすすめられました。祇園社感神院は比叡山の支配からはなれ、5月には、牛頭天王が廃棄されました。社名を「八坂神社」と改名して、大鳥居からは、小野道風筆といわれる「感神院」の額がはずされました。
 貞観5年(863)の神泉苑御霊会以来、庶民の間での疫病退散の行事は一段と盛大になりました。その後、貞観11年(869)には、日本60ケ国の鉾を立て牛頭天王を祀り、疫神を神泉苑に送ったのが祇園御霊会の始まりであります。疫神―牛頭天王―祇園社が結びつき、貞観18年に、延長4年(926)に、承平4年(934)に、社地・社殿が拡大整備され、順次社会的な位置づけを持って造営されました。牛頭天王をわが国で素盞鳴尊として考えるのも、日本人の祖霊であり、それも、最も恐ろしい御霊神(荒ブル)であったからです。中古以来、祇園社感神院に祀るものは、薬師如来であり、牛頭天王であり、素盞鳴尊でありました。
 昔、感神院なる寺の境内には祇園社があって、社殿の西隣には薬師堂があったと伝えられています。秋里離島もその『都名所図会』のなかに祇園社頭の鳥瞰図を挿入していて、社殿の西隣に薬師堂を描き、本尊は最澄作の薬師如来だと記しています。都名所図会が出版された安永9年(1780)には、まだこのような堂宇が存在していました。
都名所図会 安永9年(1780)刊(拡大)
 
 また、文政10年(1827)に刊行された『洛陽十二社霊験記』には、薬師堂には本尊薬師如来のほか日光・月光菩薩の脇侍と十二神将があったと記し、また、御堂のなかは硬く閉ざされた厨子が一つで、そこには最澄がもろもろの疾病を払うために造立した秘仏の夜叉明王が納められていて、僧侶たちは祟りを怖れて開けたがらない、と記しています。
 われわれの先祖は明治維新の頃まで、このように漠然としたカミを特におかしいとも思わず、ただカミのみを尊崇して世の平安を祈っていました。
 幕末まで天台宗感神院として広大な寺領を与えられていましたが、薬師堂が秘仏もろとも失せたのは明治初年の廃仏毀釈でありました。神仏配祀であった寺ですので、すっきりした社名のなかった社に、そのとき八坂の名が付けられました。
 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社がありましたが、明治の廃仏毀釈令によって、ほとんどが八坂神社(弥栄神社)に改名しています。
《註》八坂神社のご祭神の素盞鳴尊は、気性の激しい直情径行の性格で、随分乱暴な所行があらましたが、艱難辛苦の末、ついに清浄な心境に到達された神様であるので、罪穢を祓い清める神として、また、清々しさそのものを表す神として信仰されました。
 また、櫛名田比売とのご結婚のときに詠まれた「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣造るその八重垣」は、日本最初の和歌といわれ、文学の神様、縁結びの神様としての信仰があります。かつて本殿正面の軒下に三十六歌仙の額が懸けられていました。
 また、御子五十猛神と新羅国の牛頭山に降り、植林に努められ、山林生育の神として、さらに自らの赤心をかけ、天照大神とご誓約された故事から、誓文払いの神として商家の信仰にも厚いものがあります。このように、ご祭神のご神徳は多岐にわたり、あらゆる階層の深い信仰を集め、現在の八坂神社は、多くの人々の参詣はあとを断ちません。
《追記》牛頭天王(素盞鳴尊)化現の跡と伝える瓜生石が、近くの知恩院の黒門前にあります。
【神・神社とその祭神】 《そのW》完 つづく


≪第23号完≫
 


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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