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●第26号メニュー(2008/2/17発行)
【神・神社とその祭神】《そのY》
【天孫降臨】 【天宇受売命と猿田比古命】
【木花之佐久屋比売(神阿多津比売)】
【霊峰富士への信仰】 【海幸彦と山幸彦】

【天孫降臨】
 
 建御雷之男神タケミカヅチオと建御名方タケミナカタ神(大国主神の子・諏訪神社の祭神)の争いは、建御名方神の帰順によって決着し、その結果、大国主神は国土を返上しました。建御雷之男神は多芸志タギシの小浜に豪壮な天御舎アメノミアラカを造って大国主神を祀り、葦原の中つ国を平定したことを高天原の天照大御神に報告しました。
 ここで天照大御神はかねての計画どおりに、御子天忍穂耳アメノオシオミミ命に詔して、「葦原の中つ国は平定されたから、地上に降り立って治めよ」と命じました。ところが命は「僕アが降る装束ヨソイをしていると、子供が生まれました。日子番能邇邇芸ヒコホノニニギ命です。この子を降し給え」と答えました。このねは、高木神(高御産巣日神タカムスビ)の女ムスメの萬幡豊秋津師ヨロハタトヨアキツシ比売と天忍穂耳命との間にできた子であります。そこで天照大御神は、「この豊葦原瑞穂の国は、汝が治める国である。故命ミコトの随マニマニ天降アモりますべしとのりたまひき」と、邇邇芸命は天降りすることになりました。
(左)木花之佐久屋比売 (右)邇邇芸命 (両図とも日本国開闢由来記より)
 
 いよいよ天降りしようとすると、天の八衢ヤチマタ(天と地の分岐点)にあって、上は高天原、下は葦原の中つ国を照らす神があったので、天宇受売アメノウズメ神にその名を問わせると、その神は国津神の猿田サルタ比古神が、天孫降臨の先導をするため、その御前を仕えるために現われていたのでした。
 安心した天照大御神は、邇邇芸命に五伴緒イツトモオ(天児屋命 中臣連の祖・布刀玉命 忌部首の祖・天宇受売命 猿女君の祖・伊斯許理度売命 鏡作連の祖・玉祖命 玉祖連の祖)にそれぞれの職責をわりあてて、共に加えて天降らせました。
また、天照大御神は、八尺?勾ヤサカノマガタマ、八咫鏡、および草那芸クサナギノ剣を授け、「この鏡は、わが御魂としてわが前を拝くがごとくいつき奉れ」と命じました。
 邇邇芸命は天石位(アメノイワクラ 高天原の石で囲んだ神の御座)をはなれ、天の八重多那雲タナグモを押しわけ、いつのちわきちわきて(威勢よく道を開け通して)、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気クドフルタケに天降りました。
(左)木花之佐久屋比売 佐藤朝山作 (右)天鈿女と猿田比古 富岡鉄斎画
 
 そのとき、天忍日アメノオシヒ命(大伴氏の祖)と天津久米アマツマクメ命(久米氏の祖)は、天の石靱イワユギを負い、頭椎クブツチの太刀を佩ハき、天の波士ハジ弓をもち、天の真鹿児マカゴ矢を手挟んで、前に立って先導を仕え奉りました。
 さて、神々の一行は、宮殿を建てるにふさわしいところを求めて、笠沙の御崎に至りました。「此の地は朝日の直刺タダサす国、夕日の日照る国也。故カレ此地ぞいと吉き地とのりたまひて、底津石根ソコツイワネに、宮柱ふとしり、高天原に、氷椽ヒギだかしりて坐しましき」とこの地に住居を定めました。
 
【天宇受売命と猿田比古命】
 
 猿田比古命の道案内で、無事に高千穂に天降りした邇邇芸命は、天宇受売神を呼んで、「猿田比古命をはじめて知ったのは、御身だから、彼の本地にいっしょに行き、結婚するように」といい、そのことにより、子孫は猿女君サルメノキミと称するようになりました。
 天孫降臨に際し、天宇受売命は天の八衢にいる神(猿田比古命)に名を問う役を命ぜられ、そのとき天照大御神が「汝イマシは手羽女人タワヤメにはあれど、伊牟迦布イムカウ神と面勝オモカつ神なり」と詔ミコトノリしました。敵対する神に向かって気後れしない神とされています。
 一般に神祭りの女性は普通の人とは異なり、「強悍ツヨく、猛固タケく坐す」とあり、天孫降臨に際して面勝つ神、すなわちにらみ勝つ神として描かれ、特異な顔面を持つ神であります。また、もろもろの魚を天津神の御子に仕えさせ、此の功績により猿女君らが志摩の国の速贄を賜ることになったと伝えられています。
『日本書紀』の一書アルフミに猿女君の上祖トオツオヤとして「天鈿女命アメノウズメ」が五部イツトモの神として登場し、天孫降臨のときに天鈿女命は「目人メヒトに勝ちたる者なり」という理由から「猿田彦大神」に対峙し、「胸乳を露アラワにかきいでて、裳帯モヒモの臍ホゾの下シモに抑オシタれて、咲?アザワラひて向き立つ」とあり、天の岩屋戸の段に似た伝承があります。
 さて、猿田比古は、天宇受売と結婚し、伊勢の国阿邪訶アザカの里に住んでいました。ある日、猿田比古は釣竿をもって海に出かけ、釣りをしているとき、大きな比良夫貝ヒラブガイに手を挟まれて、溺れ、海底に沈んでしまいました。
 帰りの遅い猿田比古を気遣って海辺まで出た天宇受売は、海の底から泡が立っているのを見て、すでにこの世の人でないことを知りました。
(左)猿田比古像 (右)天鈿女像 荒立神社蔵
 
 その水底に沈んだときの名を「底度久御魂ソコドクミタマ」、海水に泡が立った時の名を「都夫多都ツブタツ御魂」、水面に泡が開いたときの名は「阿和佐久アワサク御魂」と称します。
 猿田比古命は伊勢にゆかりのある神であり、さらには伊勢・志摩の漁労に従事した海人族の儀礼や呪術などにも関係が生じています。
 猿田比古命の形姿について、その鼻の長さは7咫アタ、背の長さ7尺サオ余り。まさに7尋ヒロというくらい大きく、また口尻クチワキは明るく輝いている。眼は八咫鏡のようで、照り輝く様子は赤酸醤アカカガチに似ている。と「記紀」に記されています。
 先導の神としての猿田比古命は、現在でも祭礼の神幸祭の先導役として高鼻の赤い面を付けて登場するので知られています。
 天宇受売命は、三重県鈴鹿市・椿大神社の摂社天鈿女社や滋賀県彦根市・千代神社、宮城県古川市・志波姫神社などに祭祀されています。
 猿田比古命は、三重県鈴鹿市・椿大神社や三重県鈴鹿市・都波岐・奈加等神社、京都市伏見区・伏見稲荷神社などに祭祀されています。
 
【木花之佐久屋比売 (神阿多津比売)】
 
 邇邇芸命は笠沙の御前ミサキで、美しい一人の乙女に会います。名を問うと、大山津見オオヤマズミ神の女、神阿多津カムアカツ比売(日本書紀には鹿葦津カアシツ姫としている)と答えました。この美しい比売は、またの名を木花之佐久屋コノハナノサクヤ比売と云います。彼女の姉は石長イワナガ比売といい巌のように大層醜い女であります。
邇邇芸命は、美しい妹を娶りたいとおもい、その父神に乞うと、大山津見神は喜び、醜い姉をもいっしょに命に奉りました。しかし、邇邇芸命は石長比売があまりに醜いので送り返し、木花之佐久屋比売と一夜の契りをしました。父神は怒って、「わが女ムスメを二人奉ったのは、石長比売によって天津神の御子の命が常石トキワに堅石カキワに揺るがぬように、また、木花之佐久屋比売によって天孫が木の花の栄ゆるごとく栄えませと祈りました。だが、石長比売が返されたからには、天津神の御子の御寿ミイノチはこの花のあまい間(木の花の咲いている間)となろう」と嘆きました。
さて、邇邇芸命と一宿婚ヒトヨミトした木花之佐久屋比売は、ある日、邇邇芸命の御殿にきて、「妾妊身アラハラメるを、今産コウむべき時に臨ナりぬ。是の天つ神の御子、私に産みまつるべきにあらず故カレ請モウすとまをしたまいき。」と、邇邇芸命は、一夜で孕んだというが、どうして天津神の御子というのか、もしや、国津神の子ではないか、と云いました。
邇邇芸命は、木花之佐久屋比売が一夜で妊娠したのを不審に思い咎めました。姫はこれに答えて「わが妊みし子、もし国津神の子ならば、産むこと幸サキくあらじ(無事には産めないであろう)。もし天津神(邇邇芸命を指す)の御子ならば幸サキくあらむ」といい、戸口のない八尋ヤヒロ殿に入り、周りを土で塞ぎ、火をその殿につけて出産しました。こうしてその火の燃えさかるときに、火照ホデリ命・火須勢理ホスセリ命と火遠理ホオリ命(天津日高日子穂穂手見アマツヒコヒコホホデミ)命の三柱の神が無事に出産して、身ごもった子が天津神邇邇芸命の子であったことを証明しました。
邇邇芸命は、笠沙の宮にながくとどまって、天の下を治めていました。その間に三柱の神の分担をそれぞれ決めた後、崩カクレれられました。
木花之佐久屋比売が産んだ火照命は『古事記』において、火須勢理命は『日本書紀』において、海幸彦とも呼ばれて水神的な性格がみられ、火を制御する水神誕生の物語とみることができます。
木花之佐久屋比売を祀る富士山本宮浅間大社の社伝によれば、噴火を繰り返す富士山が、水徳の神である木花之佐久屋比売を祀ることによって、鎮火したと伝えています。また、富士山本宮浅間大社は、その名が生命の誕生を示唆する湧水「湧玉池」に接して鎮座しており、木花之佐久屋比売が水と関係ふかい神であることがわかります。
祭祀されている主要な神社は、静岡県富士宮市・富士山本宮浅間大社、山梨県一宮町・浅間神社、京都府宇治市・県神社など、全国各地にある浅間神社であります。
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【霊峰富士への信仰】
 
 日本で富士山に初登頂したといわれるのが、聖徳太子であります。富士山を聖山と憧憬すると同時に、実際に頂をきわめようとする人たちが、すでに平安時代に現われています。
 お山に坐す神仏と一体化し、人知を超えた境涯にいたろうとする求道者が現われます。それは全国の霊山を開いた修験僧であり、富士山では室町時代の末代上人であります。
 末代上人は、「富士山の登ること数百回におよび、山頂に仏閣を構えて大日寺と号していた」といわれています。上人は信仰上の疑問を解決するために、富士の中腹に籠り、百日の断食行の果てに神の啓示を受け、その徴シルシとして富士山型の水晶を得たと伝えられています。村山(富士宮市村山)に堂舎を構えた上人は、修行で得た験力によって里人から生き神とあがめられていました。
(左)木花之佐久屋比売像(拡大) (右)富士講祭具 (ともに富士吉田市歴史民俗博物館蔵)
 
 上人の尽力によって、富士山は、至高の教主である大日如来が統スべる仏の山だとする信仰が確立していきます。そして、従来崇アガめ鎮めるべき自然神であった浅間大神アサマノオオカミは、「民衆を救うため仮に神の姿であらわれた大菩薩」と見なされるようになりました。
 末代上人に始まる富士修験は、室町時代にピークを迎えました。そのころになると、組織化された修験者が、信仰登山者を集め、集団で登拝する姿が一般化してきました。
 それが、大衆の間にいっきに広まったのは、江戸時代の中期、「富士講」の隆盛によるものでした。
富士山頂にある浅間神社の祭神は古くは、「浅間明神」とか「浅間大明神」と称されていました。浅間の「アサ」は、火山に通じる名称であります。浅間神社の根源社である富士山本宮浅間大社の起源についても、日本有数の火山であった富士山の噴火を鎮めるためと伝えられています。
その祭神が木花之佐久屋比売と考えられるようになったのは、江戸時代に入ってからのことであります。その背景には、古来より山ノ神は女神と信じられていたこと、そして木花之佐久屋比売が、燃えさかる炎の中で無事に出産を果たしたことにより、火を鎮める霊力をあらわしたからといわれます。
現在では、火難消除のほか、安産・航海・漁業・農業・機織の守護神として、そのご新徳が讃えられています。
 
【海幸彦と山幸彦】
 
 木花之佐久屋比売が燃えさかる火の中で産んだのは、火照ホデリ命(後の隼人の阿多君の祖)・火須勢理ホスセリ命・火遠理ホオリ命(またの名は、天津日高日子穂穂手見アマツヒダカヒコホホデミ)命の三柱でありました。
塩椎神と火遠理命 鮮斎画譜より
 
 火照命は海幸彦(海の獲物にめぐまれている男。古事記では海佐知比古)といい、火遠理命は山幸彦(山佐知比古)といいます。山幸彦は兄に幸(獲物をとる道具)を交換しようと乞い、やっと許されて釣り針を得て魚を釣りに行きましたが、一魚も得られないばかりか、大切な釣り針を失くしてしまいます。弟は剣をつぶして500本、1000本の釣り針をつくり償いをしますが、兄はどうしても許してくれません。
山幸彦が途方にくれていると、塩椎神(椎ツチは精霊をあらわすので海の精のこと)が海辺に現われ、無間勝間(目を細かく編んだ竹籠)の舟を作り、それに乗ってしばらく行くと、やがていい潮路にでるから、それに乗ると魚麟で葺いたような宮殿につくと、綿津見ワダツミ(海)神の宮への道を教えました。その門のところに泉があり、そばに桂の木があります。それに登っていると、綿津見神の女ムスメ豊玉比売の侍女があらわれて、玉の器で水を汲もうとすると、泉に人影が映っているので仰ぎ見ると、木の上に、麗しき壮夫オノコがいるので不思議に思います。そのとき、山幸彦は水を飲みたいというと、侍女が玉の器に水を汲んでさしだすと、山幸彦は首飾りの玉を解いて、それを口に含んでから、その器のなかに吐きいれます。すると玉は器の底にくっついて離れません。やむなく侍女は、玉がついたままの器を豊玉比売にさしだします。豊玉比売は器の玉をみて、門のところに誰かいるのではないか、と侍女に尋ねました。不思議に思って出てみると侍女の言うとおりでありました。この宮には、海神の女ムスメの美しい豊玉比売(すぐれた神霊の宿る女)がいて、姫は山幸彦を恋しく思い、まぐわいして父の海神に彼を紹介しました。海神は山幸彦をみて、「此の人は、天津日高の御子、虚空津日高ソラツヒダカにませり」といって、御殿に招じ入れて手厚くもてなしました。山幸彦は姫とともに3年の間海神の宮に居ついてしまいます。
(左)「龍宮」青木繁画 ブリジストン美術館像 (右)玉依姫 吉野水分神社像
 
 山幸彦は、釣り針のことを思い出して海神に訴えると、海神は海の大小の魚どもを集めて問いました。すると一匹の鯛が喉に何かが刺さってものが食べられず困っていることがわかりました。その鯛の喉をさぐると、はたして釣り針が見つかったので、これを山幸彦に奉りました。海神はさらに、故郷に帰って兄に釣り針を返してもなお聞き入れられないときの用心にと呪文を教え、潮の満ちひきを自由にする塩盈珠シオミツタマ・塩乾珠シオヒルタマを授けました。山幸彦はそれをもらって一匹の和邇魚ワニに乗って故郷に帰りました。
兄の海幸彦はなおも山幸彦を許しません。そこで「攻め戦わば、塩盈珠をだして溺れさせ、もしそれ愁ウレい請マオさば、塩乾珠を出して活かし」と海神から教えられたとおりに兄の海幸彦を散々苦しめたので、海幸彦は降参して「僕アは今よりのち、汝命イマシミコトの昼夜に守護人マモリビトとなりて仕え奉らむ」と誓いました。その子孫は今に至るまで、その溺れたときの種々クサグサの態ワザを演じて、絶えず仕えていますと。
山幸彦が国に帰るときに、豊玉比売は海辺のなぎさに鵜の羽をもって葺草カヤとして産屋を造りはじめましたが、まだ産室が出来上がらないうちに、産気づいたので、いそぎその産室に入って山幸彦の子を産もうとしました。
彦火々出見尊絵巻より 鮮斎画譜
 
 姫は「佗国アダシクニ(他の世界)の人は、産むときに臨ナれば、本つ国(もとの国)の形をもって産生ウむなり。願わくば妾アをな見たまいそ」といって八尋和邇ヤヒロワニの姿になり、這いずり回っていました。覗き見した山幸彦は驚いて逃げたので、姫は「これ甚?イトハずかし」といって、子を産みおいたまま綿津見宮に帰ってしまいました。この御子が天津日高日子波限建鵜葺草葺不合アマツヒタカヒコナギサタケウガヤフキアエズ命であります。
綿津見宮に帰った豊玉比売は、覗き見されたことを恨みながらも、恋情は絶ちがたく、生まれた子を養育するため、妹の玉依比売をつかわし、歌をことづけました。
  あかだまは 緒さへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり
と。そこで火遠理命(山幸彦)も
  おきつとり 鴨著トくしまに わがゐねし いもはわすれじ よのことごとに
とこたえました。
 日子穂穂手見命(火遠理命(山幸彦))と豊玉比売の間に生まれた鵜葺草葺不合命は、成長して高千穂の宮にすまいして、その姨オバの玉依比売を后として、五瀬イツセ命・稲飯イナヒ命・御毛沼ミケヌ(三毛入野)命・若御毛沼命(神倭伊波礼比古尊・神武天皇)の4人の男子を産んでいます。末子の神倭伊波礼比古尊は、初代天皇とされる神武天皇であります。

鵜戸神宮 本殿
 

ところで、鵜葺草葺不合命が生まれたのは、日南海岸の鵜戸窟ウドイワヤといわれています。いま、この鵜戸窟のなかには、鵜葺草葺不合命を祀る鵜戸神宮があります。
窟の背後の山は、連日峯で、山頂に鵜葺草葺不合命の陵墓といわれる吾平山陵があります。鵜戸神宮の北約4Kmのところにある宮之浦神社は玉依比売を祀っています。
神倭伊波礼比古尊の誕生で「神話の時代」は終わります。そして、いわゆる神話は新しい時代を迎えます。神倭伊波礼比古尊は、日向三代が培ってきた、さまざまな力と栄誉を身につけ瑞穂の国を治める初代君主となります。そして、宮居をいまの宮崎市の北西に定めます。皇宮屋コグヤ(高千穂宮)というのがそれであります。

【神・神社とその祭神】《そのY》完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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