号数索引 創刊号 第2号 第3号 第4号 第5号 第6号
  第7号 第8号 第9号 第10号 第11号 第12号
平成19年 第13号 第14号 第15号 第16号 第17号 第18号
  第19号 第20号 第21号 第22号 第23号 第24号
平成20年 第25号 第26号 第27号 第28号 第29号 第30号
  第31号 第32号

第33号

第34号 第35号 第36号
平成21年 第37号 第38号 第39号 第40号 第41号 第42号
  第43号 第44号 第45号 第46号 第47号 第48号
平成22年 第49号 第50号 第51号 第52号 第53号 第54号
  第55号 第56号 第57号 第58号 第59号 第60号
平成23年 第61号          
             
平成24年 第62号 第63号 第64号 第65号    

●第39号メニュー(2009/3/15発行)
【神・神社とその祭神】《そのXIX》 諏訪大社
〔はじめに〕 〔建御名方命と諏訪神〕 〔ミシャグチ神〕 〔八坂刀売(やさかとめ)命〕
〔御神渡の祭祀〕 〔式年造営御柱大祭〕

【諏訪大社】
 
〔はじめに〕
 
 諏訪大社には上社と下社があり、これらは諏訪湖をはさんで鎮座しています。上社は東南の守屋山(もりやさん)の北麓に位置し、本宮(諏訪市)と前宮(茅野市)の2宮から成っています。また下社は北にある下諏訪の町外れに位置し、春宮(はるのみや)と秋宮(あきのみや)(ともに下諏訪町)の2宮から構成されています。そして上社の本宮は拝殿の奥が空地になっており、本殿はありません。下社の春宮・秋宮も拝殿のうしろに宝殿が2棟建っていて、その後方には神木があるだけで本殿はなく、古い神社の形式を伝えています。
 このように諏訪大社と呼ばれる神社は、本宮・前宮の「上社」と春宮・秋宮の「下社」を合わせた総称なのです。上社と下社の分立と、それぞれがもつ2宮との関係は古来から謎に包まれています。
上社本宮境内図 (拡大)
 
 祭神は上社本宮に建御名方(たけみなかた)命、上社前宮と下社の春宮・秋宮には妃神八坂刀売(やさかとめ)命が祀られています。創建年代は明らかではありませんが、『延喜式』神名帳に「南方刀美(みなみかたとみ)神社二社」とあって明神大社とされる古社で、信濃国一ノ宮とされ、狩猟神、農業神、武神として、朝野の信仰崇敬を集めています。中世には、神官の大祝(おおほうり)が源氏、北条氏と結び、政治的にも大きな勢力を形成しました。戦国時代には、武田氏の保護のもとに置かれていました。全国1万余に上る諏訪社の本祠(ほんし)であり、江戸時代には社領1500石を授かっています。旧官幣大社で、旧神主家は諏訪の大祝と称し神裔(しんえい)が世襲し、奉行職の矢嶋氏は母神高志沼河比売(こしぬかわひめ)を遠祖としています。
 
〔建御名方命と諏訪神〕
 
 祭神の建御名方命が登場するのは『古事記』であります。そこには出雲の国譲りと深く関係する重要な人物として記されています。
 天照大御神は天孫降臨に先がけて、豊葦原瑞穂国(とよあしらみずほのくに)を統一しようと、出雲の国に二度まで使者を遣わされて、国を譲るように交渉しましたが、思うような回答を得ることができません。そこで武力に訴えてでも所望を遂げようと、建御雷(たけみかずち)神と天鳥船(あめのとりふね)神の2神を遣わしました。この2神は、出雲の伊奈佐の小浜に降りつき、十掬(とつか)の剣を波に突き立てて、大国主命に談判をします。
 「天照大御神は、汝が治める葦原中国(あしはらなかつくに)は我が子の支配すべき国であると仰せられている。汝の心はいかに」
 これに対して大国主命は、
 「私は答えることはできない。私の子の事代主(ことしろぬし)命に答えさせよう。いま御大(みほ)の前(さき)へ漁に行っていて未だ帰っていない」
 と即答を避けました。そこで天鳥船神が事代主神を呼び戻してくると、話しを聞いた事代主命は、
 「この国は天神の御子に差し上げて下さい」
 と、自分の乗っていた船をひっくり返し、青柴垣を造って身を隠し、恭順を表しました。
 建御雷神はさらに大国主命に、
 「汝の子の事代主命は国譲りに賛成したが、他に反対する子がいるか」
 「建御名方命を除いて他にはいません」。
 ここで諏訪大社の祭神となる建御名方命が登場します。
大きな岩を片手で軽々と持ちあげながら、
 「誰だ。わしらの国に来て、こそこそと変な話をするのは。おれと力競べして決着をつけよう。まず、おれかお前の手を握ろう」
 と、建御雷神の手をつかみますが、まるで氷を握るようであり、剣を握るようでありました。今度は建御雷神がつかみかえすと、建御名方命の手はまるで若葦のように、あっけなく握りつぶされました。建御名方命は出雲から逃げ出しますが、科野(しなの)の国の洲羽(すわ)の海で追い詰められて、まさに殺されかかったとき、
 「どうか殺さないでください。この土地からよそへは行きません。父や兄の命にも背きません。この葦原中国は、天神の御子の命(めい)のままに献(たてまつ)りましょう」
 と降伏を申し出て赦されました。
 以上が『古事記』にある出雲の国譲りの神話で、建御名方命のそれは武力的支配の屈服を物語っていますが、これには、建御雷神の神威を称揚するために、すでに有名な武神であった諏訪神の建御名方命が引き合いに出されて、物語りにされたという見方があります。
 事実、中世にできた『諏訪大明神絵詞』によると、諏訪明神である建御名方命が諏訪の地にきたのは、先住の多くの地主の神や、水の精霊とされる守矢(もりや)の神や手長、足長などを打ち負かし、服従させたためとあります。そこには建御名方命はむしろ勝利者として、征服者の姿があり、『古事記』にみられるような敗北者のイメージはありません。
 さらに建御名方命と建御雷神とが手をつかみ、引き合うという相撲の話は、諏訪に伝わる「河童のわび証文」という伝承が基になっていると云われています。河童が人間に相撲を挑んだが、腕を引き抜かれて、二度と悪さはしないと誓って赦された話であります。
上社本宮
 

 ところが、この伝説が大和朝廷に取り込まれると『古事記』の編纂者たちによって、主客か転倒してしまいます。つまり、勝者であったはずの建御名方命が、出雲の国譲りの話に一方的に挿入され、しかも逆に敗北者にされてしまいます。一方、勝利者となる建御雷神は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神で常陸の鹿島神宮の祭神であります。まったく出雲と関係のないこの神が国譲りに登場するのは、中臣氏の勢力誇示を図ろうとするものであります。事実、『古事記』の筆録に関与したといわれる太安万侶(おおのやすまろ)の同族の多氏(おおし)(太氏)は、鹿島神宮の神官でもあったのです。
 この神話が天皇家を中心とする律令制国家の成立の過程で、政治的な理由のために、後から作り上げられたものであるとする説がほぼ確定しています。本来は古来から信仰されていた土着の神(国津神)であり、その縄文時代以来の土着信仰は、御柱(おんばしら)祭(さい)などの諏訪神社の祭祀行事全般に名残りを残しています。この御柱でありますが、縄文時代以前のミシャグチ信仰の石柱との関連性があるという説が有力であります。神長官守矢によると御柱はミシャグチを降ろす依り代であるとの事で、また富士見町の御射山(みさやま)や松本市の三才山(みさやま)などの地名は、このミシャグチ信仰が地名として残ったものとも言われています。尚、八幡や住吉など他の信仰にも見られるように、個々の祭神が意識されることなく、まとめて「諏訪大明神」としてあつかわれる事がほとんどでほかに「お諏訪さま」「諏訪大神」などと呼ばれています。
 7,8世紀ごろ中臣氏は関東・東北の蝦夷族の鎮撫を図っていましたが、すでに武神として威を誇っていた建御名方命を引き合いに出し、あえて敗者とすることによって、氏神である建御雷神の神威を高めようとしたと考えられます。いってみれば、諏訪神は『古事記』の世界だけで、勝手に敗北者にされた不幸な神であります。『日本書紀』はこのことについては無視しています。ところで建御名方命が、二度と諏訪の土地以外に出ないと誓って赦されたという話の筋は、諏訪神職の大祝(おおはふり)のタブーに諏訪の地以外には出てはならないというものがあり、それを『古事記』では逆に利用したのではないかと考えられています。しかし、諏訪には大和朝廷が台頭する以前から、諏訪神と結びついた勢力集団があり、独立自存の領有権を握っていました。もちろん大和からの介入を拒むと同時に、自らも諏訪以外には出ないという暗黙の了解が存在していたと思われます。それが歪曲されて、二度と国外に出ないという記述に取り入れられたと考えられます。ところが『宮下文書』によると、諏訪神の独立性は骨抜きにされ、建御名方命の神系は左大臣家の天太玉(あめのふとだま)命の孫で、経津主(ふつぬし)神(香取神)と建御雷神(鹿島神)の兄とされ、筑紫の外冦の際には弟らと共に四大将軍として出征し大功を上げています

(左)上社前宮 (右)下社春宮
 
  その後、信濃の太守に任ぜられ、子孫がこれを継承し、神武天皇のとき、諏訪建勇(すわたけいさむ)命が日高(飛騨)、志奈野(しなの)、住和(すわ)3国の国造に任命され、一族は信濃10郡の国司となったと云われています。ここには国譲り伝承は記されていませんが、中臣氏系を通して大和朝廷に直接結びつけています。ここにも万世一系思想に追従する後世の思惑が感じられ、やはり諏訪神の性格を歪めたことは否めません。
『旧事記』には、諏訪と出雲の関係を示すものが記されています。大国主命が高志(こし)国(越の国・新潟県糸魚川市付近)の沼河比売(ぬかわひめ)命をはるばる訪ねて求婚したという神話があります。しかも、二人の間に生まれた子供が建御名方命であり、「信濃国諏方郡諏方神社にまします」と記されています。近年の研究に諏訪地方と出雲文化との交流が確認され、諏訪には出雲族や天孫族よりも古い原住民族がいて、その国津神として建御名方命を奉じる大祝(おおはふり)と出雲族との間に長期にわたって交流が行なわれ、混然一体となっていたのではないかとも考えられます。
 大国主命に代表される出雲族と、高志と諏訪を象徴される沼河比売命と建御名方命との交流があることから、二つの集団氏族の存在が地方的な枠を越えての存在があったと認められます。そして、諏訪大社上社の本宮にかかる「日本第一大軍神」の額が示すように、建御名方命は高志地方に進出した出雲族にとって畏敬の存在であったと思われます。
  そのため国譲りの記述には、温順な性格の大国主命や事代主命に対置するかたちで、武勇神の代表として建御名方を登場させて、この神の敗退を示すことによって天孫族たる大和朝廷の優位性を知らしめることが必要であったと思われます。
 

〔ミシャグチ神〕
 

 ミシャグチは、古来より日本に伝わる自然神、または祟り神であります。ミシャグチ信仰は東日本の広域にわたって分布しており、主に石や樹木を依り代とする神で、蛇の姿をしているとも言われています。その信仰形態や神性は多様で地域によって差異があり、その土地の神の神や他の神の神性が習合されている場合があります。信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグチ神の御神体となっている物や依り代とされている物が、各地にも同じ物が出土している事などから、この信仰が縄文時代から存在していたと考えられます。
(左)矢立石のひとつ (中)前宮二之御柱 (右)御頭御社宮司総社
   
〔八坂刀売(やさかとめ)命〕
 
 建御名方命の妃神とされる八坂刀売命は、上社前宮の祭神であり、下社春宮・秋宮の祭神とされています。八坂刀売命は、神話には見えない神ですが、諏訪に程遠くない安曇地方の国津神として、安曇族の信仰を集めていたと思われます。安曇族が塩尻峠をこえて諏訪湖周辺の沃野に定着し、この女神を祀ったと考えられます。そして、いずれが先か後かは不明ですが、八坂刀売命と建御名方命が結びつき、諏訪一帯の祭神となったものと考えられています。
 また、建御名方命の入諏訪以前に、諏訪一帯は国津神の洩矢(もれや)(守矢)神がいたとされ、この洩矢神が天竜川近くで建御名方命に力競べをして負け、服属したという伝承があり、建御名方命と八坂刀売命とが合力して諏訪を平定したとも考えられます。
 太古の諏訪信仰であった洩矢神は、神奈備信仰を持っていたといわれ、後の諏訪神もこの名残りをとどめています。それは、上社と下社とも拝殿と幣殿だけであって、本殿はなく(この形式は奈良の大神神社と同じ)、上社本宮では前宮の方向で日の出の方角を拝み、本宮よりも古いといわれる前宮は守屋山を神奈備山としています。また下社は霧ケ峰の御射(みさ)山がご神体で、今日でも上社と下社にはそれぞれ御射山神社があります。
諏訪湖の御神渡(近景と遠景)
 
〔御神渡の祭祀〕
 
 海抜759mにある諏訪湖は、厳冬になると一面に凍りつき、大音響を伴って亀裂が生じ、それがくり返されることによって氷が膨張して盛り上がります。湖上の南北を横断するこの亀裂は、上社から下社に向かって起こるため、昔から上社の諏訪神が下社の妃神のもとに通った御神渡(おみわたり)≠ニして神聖視されています。この御神渡≠ェ湖畔に達する所を神の御座所として、それか上社・下社となったといわれています。
 一方、上社の前宮と本宮の分立を考えてみると、前宮は洩矢神を中心とする先住の信仰を取り込んだ建御名方命を象徴とする諏訪一族・大祝の私的な祭祀空間として発生しました。その勢力が拡大するにつれ、公的な祭祀の霊場として発展したのが本宮となったとされています。
 また、下社の春宮・秋宮の鎮座に関しては、御神渡≠ノよる発生以外にありません。半年毎に両宮の神霊が交替して鎮座する風習を考えると、きわめて農耕神的な性格に基づく発生が考えられます。春に山の神を迎えて田の守護神とし、収穫を終えた秋に、神を山へ送るという古代の祭祀形態によって春宮・秋宮両宮の霊域が形成されました。2月と8月の一日に行なわれる御舟祭≠フ行事には、豊穣を祈願するさまざまな神事を見ることができます。
御柱祭 (左)木曳スタート (右)山出し
 
〔式年造営御柱大祭〕
 
 諏訪大社の神事で、もつとも有名なものは寅(とら)と申(さる)の年の7年目ごとに行なわれる御柱(おんばしら)祭≠ナあります。この祭りの起源は大変古く、いつから行なわれたかは不明であります。諏訪大明神絵詞には、延暦20年(801)の蝦夷征討の時の戦功に報いる形で、時の桓武天皇が延暦23年(804)、信濃国の国祭として、その費用を信濃国で負担するよう命じたことが記されています。平成10年の寅年の祭りは桓武天皇が国祭としてから丁度200回にあたるといわれています。
 御柱の用材は樅の木が使われ、三年前から木の選定の準備に入り、上社は約25K離れた八ヶ岳の中腹から、下社は八島高原の近くから約10Kの里程を曳き出します。大きな柱は周囲3m、長さ16m余、重さは約13tにおよび、独特の木遣り歌と共に約3千人の人々によって曳行されます。車もコロも使わず、人の力だけで曳きずる原始的な方法で、急坂を曳き落したり、川を曳き渡ります。非常に荒っぽく勇壮な行事として知られ、奇祭の一つに挙げられています。
上社の本宮と前宮、下社の春宮と秋宮の4社は、各4本ずつ、計16本の御柱木を、それぞれの社頭に運び、社殿の四隅に立てます。
 そして御柱祭は上社の一週間後に下社というように、それぞれが別々に行なわれています。また、それぞれに山出し祭が4月上旬に、里曳き祭が5月上旬にそれぞれに3日ずつあり、合計で12日間にわたって行なわれます。
 上社のすべての御柱にはメドでこと呼ばれる角のような柱がV字型になるよう柱の前後に付いていますが、これは上社の男の神をあらわすシンボルとされています。このメドに氏子がしがみつき、左右にゆらしながら、おんべを振る姿は圧巻であります。山出し、穴山の大曲、木落し、川越し、里曳き、建御柱の順に行なわれます。
 次の御柱祭平成22年寅年、4月に山出し、5月に里曳きが行なわれます。
御柱祭 (左)川越し (右)里曳き
 

【神・神社とその祭神】《そのXIV》 諏訪大社 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

Google