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●第50号メニュー(2010/2/21発行)

【巷の小社の神々】洛外編 《その1》

〔荒見神社〕 〔水度神社〕 〔久世神社〕 〔雙栗神社〕

〔旦椋神社〕 〔伊勢田神社〕 〔巨椋神社〕


〔荒見(あらみ)神社〕 城陽市富野荒見田
 

 もと、奈良街道の宿場「長池宿」にあって、広大な社叢の森を背に鎮座する旧村社であります。社伝によれば、大化3年(647)に在地の土豪三富野部連金建(みとのべのむらじかなたて)が天神五柱を祀り、阿良美五社明神として祀ったのが起こりであります。はじめ長池の東方山中、五社ヶ谷にありましたが、寛正2年(1461)に水害で耕作不能となった荒見田を救うために、御旅所であった現在の地に移築されました。このとき境内末社の御霊神社も同時に移しています。荒見は荒水の転字で、水度神社(後出)と同じく河川の氾濫による水害防除を祈って祀られた神社であります。
 祭神五柱は天火明命(あめのほあかりのみと)(饒速日命(にぎはやひのみこと))・天村雲尊・阿比良依姫(あひらよりひめ)命・天香語山(あめのかごやま)尊・木花開耶姫(このはなさくやひめ)命といわれていますが、一説には、木花開耶姫命・天児屋根命・蛭子(えびす)命・加茂大明神・応神天皇とするなど、時代による祭神の変化がみられます。
 古くから、旧富野荘村の産土神として崇敬され、延喜の制には小社に列しています。近世は天満宮と称していましたが、明治21年に荒見神社と改称しました。
 本殿(重文・桃山時代)は、慶長9年(1604)の再建であります。丹塗の美しい社殿で、三間社、流造り、屋根は桧皮葺とし、蟇股には唐獅子、木鼻には若葉の彫り物があって桃山時代の特長をよく表わしています。
荒見神社(左)御霊神社 (右)荒見神社本殿(拡大)
 
御霊神社は境内末社で、本殿と同時代の建築であります。一間社、流造り、屋根は桧皮葺。柱間に虹梁をわたし、蟇股を入れ、柱上の斗?は舟肘木であります。祭神は不明ですが、おそらく御霊信仰によって祀られたものであるので、素戔鳴命(すさのおのみこと)と考えられます。
 久御山町田井にも同名の荒見神社があって、そのいずれかが式内荒見神社であるかは、いまだ結論はついていませんが、当社をあてる説が有力であります。
 
〔水度(みと)神社〕 城陽市寺田水度坂
 
 もと寺田の北方の大神宮山にありましたが、文永5年(1268)に、東方水戸芝山(俗にダイジ山)の現在地に移り鎮座する旧寺田村の産土神であります。遷座の理由はおそらく大谷川の氾濫によると考えられます。
 当社の創祀年代については不詳でありますが、『山城国風土記』逸文に「久世郡水度社、祇社(くにつやしろ)」、『三代実録』には貞観元年(859)正月、従五位下の神位を賜わったことが記されています。また延喜の制には小社に列せられていることから、平安時代初期からの鎮座であることが考えられます。
 社名の水度は三富(みと)といい、この地に繁栄した三富氏の一族が天照国照天火明(あまてるくにてるあめのほあかり)命を祀った氏神社で、あわせて栗隈の大溝の守護神として奉斎しました。三富氏は水主直(みぬしのあたい)・榎室連(えむろのむらじ)と同じく、当地方の古代豪族で、いずれも天火明命を祖神としています。彼らは木津川の水門、港津の管理にあたっていました。同神を祀った神社は多く、南山城一帯に分布しています。当社もその内の一つでありますが、現在の祭神天照大御神・高皇産霊(たかみむすび)神・少童豊玉(わだつみとよたま)姫の三神のうち、天照大御神は天照国照天火明命をあやまって称したものであります。また少童豊玉姫とは和多都弥(わだつみ)とも記し、古来水神として崇められた神であり、水害防除の守護神として併せ祭祀されました。
水度神社 (左)本殿(拡大) (右)鳥居
 
 本殿(重文・室町時代)は、境内の北部にあって南面しています。一間社、流造り、屋根は桧皮葺。正面中央に千鳥破風を置くという珍しいつくりで、正面は吹寄せ組格子戸とし、他の三方は壁塗りとしています。また正面上部の長押(なげし)には、唐草文様の透し彫りに3個の笹竜胆(りんどう)を配した精緻な欄間がはめ込まれています。この建物は現存する棟札により、文安5年(1448)の再建が明らかであります。
 
〔久世(くぜ)神社〕 城陽市久世芝ヶ原
 
 久世神社の一帯は久世廃寺跡といわれ、神社境内には土檀跡が残っています。神社の東部が塔跡、西部が金堂跡と推定されています。また講堂・回廊・築地・南大門の跡が確認されています。飛鳥時代から平安時代初期に存在した、奈良仏教文化の伝播を示す貴重な遺構であります。久世神社の東側にある山道は柿本人麻呂ら万葉の歌人らによって歌われた「久世の鷺坂(さぎざか)」にあたるとの伝承があります。
久世神社は、旧奈良街道より少し東に入った城陽市大字久世小字芝ヶ原に鎮座する旧久世村の産土神で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神としています。
その創祀年代は不詳でありますが、本殿の建物が室町時代末期の建築であることからみて、それ以前の鎮座であることが想像されます。もとは若王社(にゃくおうしゃ)といいましたが、明治維新のときに現称に改め、明治7年に郷社に列せられました。
 『大和本紀』によれば、日本武尊は薨去後、一羽の白鳥に化して各地を飛びまわり、ついにこの地の「鷺坂」にとどまったと伝えています。このような伝説にちなんで当社は一に「白鳥の宮」とも呼ばれます。
ちなみに日本武尊の妃は山代玖玖麻毛利比売(やましろのくくまもりひめ)といい、足鏡別王(あしかがみわけのみこ)を生んだといわれています。ククマはクリクマ(栗隈)の約言で、モリは守の意と解釈すれば、この比売は栗隈県主一族の出身者と思われ、日本武尊と栗隈氏とはなんらかな所縁によって、この地に勧請祭祀されたものであると考えられます。
また『万葉集』巻七にかかげる柿本人麻呂の歌に、
   山背の久世の社(やしろ)の 草な手折りそ わが時と 立ち栄ゆとも 草な手折りそ (1286)
に因んで当社は万葉時代の創祀といわれますが、一説に久世の「社(やしろ)」は「杜(もり)」の写し誤りといわれています。
 本殿(重文・室町時代)は鬱蒼たる樹木の生茂る境内に南面して建っています。一間社、流造り、屋根は桧皮葺。小建築でありますが木割は比較的雄大で、正面格子戸の上には美事な笹竜胆の唐草文様の彫刻がみられます。
 他に末社として竜王神社(祭神 級長津彦命・級長津姫命)と稲荷神社(祭神 倉稲魂神)があります。
(左)鷺坂の万葉歌碑(拡大) (中)久世神社拝殿(拡大) (右)久世神社本殿 
 
《註》〔久世鷺坂〕
 久世の鷺坂は、久世神社前の旧奈良街道上のゆるやかな坂であります。しかし一説では、久世神社の東、竜王谷の下手を経て大谷に通じる山道をそれと伝え、鷺坂山はその東方の山をさすとも伝えています。
 『万葉集』巻九に「鷺坂にて作る歌」と題して、
   白鳥の 鷺坂山の 松陰に 宿りて行かな 夜もふけ行くを (1687)
   栲領巾(たくひれ)の 鷺坂山の 白つつじ 我れに染(にほ)わね 妹に示さむ (1694)
   山背の 久世の鷺坂 神代より 春は萌(は)りつつ 秋は散りけり (1707)
と詠われ、また、
   白鳥の鷺坂山を越えくれば小篠ヶ嶺に雪降りにけり 六条修理大夫顕季(あきすえ)
   神代より時雨降りにし山城の久世の鷺坂紅葉しにけり 藤原家隆
など、古来より和歌によまれたところであります。これに因んで坂を鷺坂、東の山を鷺坂山、峰を小篠ヶ峯といわれています。
 万葉時代の大和路は栗隈山中を通っていたといわれるから、「久世の鷺坂」とは、栗隈山中のいずれかの坂を称したものであるので、豊臣秀吉がひらいた現在の旧奈良街道上の久世の坂を「久世の鷺坂」とするのは誤りであります。
 
〔雙栗(さぐり)神社〕 宇治市久御山町佐山
 
 雙栗神社は、久御山町の東南部、佐山小字双栗に鎮座する旧佐山村の産土神で、天照大神・素戔鳴命・事代主命・応神天皇・比淘蜷_・仁徳天皇・神功皇后を祭神としていますが、初めはこの地に居住していた古代豪族羽栗氏の祖神を祀った旧郷社であります。羽栗氏は小野氏や和邇氏と同じく天帯彦国押入命(孝昭天皇皇子)を祖としています。
社伝によれば、当社は羽(は)栗(ぐり)郷(ごう)(佐山村)・殖栗郷(えぐりごう)(佐古村)の両郷の鎮守社にちなみ、双栗神社と称したとか、羽栗の「羽」を「双」にうつし誤って双栗神社となったともいわれ、社名のいわれについては明らかではありません。
神社として、創祀以来、朝野の崇敬あつく、貞観元年(859)には従五位下の神位を賜わり,延喜の制には小社に列せられ、官幣にあづかりました。その後、天治2年(1125)石清水八幡宮の分霊を勧請し、境内にあった椏(あて)の大木にちなんで椏本八幡宮と称しました。「椏本八幡宮縁起」によると、応保2年(1162)には勲一等を授与され、椏本八幡大菩薩の号と神田を賜わっています。

雙栗神社(左)拝殿(拡大) (中)本殿(拡大) (右)鳥居
 

〔旦椋(あさくら)神社〕 宇治市大久保町北ノ山
 
 祭神は高皇産霊・神皇産霊を主神とし、天満天神(菅原道真)を配祀するので、古くは「栗隈天神」と称していました。旧大久保村の産土神であります。はじめ村の西方、字浅倉(あさくら)の地にありましたが、天文19年(1550)に現在地に移りました。
 旦椋とは、穀物を貯蔵するところの校倉の古言で、この地は『和名抄』の「久世郡栗隈郷」にあたるので、栗隈屯倉址(くりくまのみやけあと)に因んで創祀された神社であります。
 栗隈屯倉についてはその沿革は不詳ですが、国造や縣主の相伝の所領の一部を朝廷に献じて屯倉とした例があるので、ここの屯倉も栗隈縣主かその所領の一部を献じたのが起こりと見ることが出来ます。あるいは仁徳・推古両朝にこの地に栗隈の大溝を掘って田畑を開墾せしめたことがあり、その一部が朝廷直轄の御料地の屯倉となりました。
 神社としては創祀以来、農耕の守護神として崇敬され、延喜の制には小社に列せられ、官幣にあづかった久世郡中、有数の古社であります。
 本殿(江戸時代)は、広い境内の北部にあって南面しています。一間社、流造り、桧皮葺、正面は板扉とし、内法(うちのり)上に竜の欄間彫刻をはめ込んでいます。向拝柱の面の大きさからみて、江戸初期の再建と見ることが出来ますが、向拝や妻飾りの蟇股には桃山時代初期の技法がみられます。
旦椋神社(左)本殿側面(拡大) (中)本殿向背細部(拡大) (右)本殿全景(拡大)
 
《註》〔栗隈の大溝〕
 『日本書紀』の仁徳天皇12年10月の条に勧農工事の一つとして、栗隈県に大溝を掘って、田圃(たんぼ)を潤したことがみえ、次いで推古天皇15年(607)にも栗隈に大溝を掘らしめ給うたとみえます。溝というのは灌漑用の水路でありますが、この工事が二度にわたって記載されています。この国史に特記されていることからみて、当時としては余程の大規模な工事であったと推察されます。だが、現在その遺構については明らかでありませんが、通説で
は、大久保の西方を南から北に流れる古川と推定されています。
 しかし、『山城名勝志』巻十八には、
   今、長池町ノ北ニ長池ノ跡トテ廻リニ堤アリ、今ノ町モ古ヘノ池ノ跡ナリト云。是昔ノ栗隈ノ大溝ナルベシ云々
と記し、長池がその水源地であると推定しています。
 また土地の古老の話によれば、栗隈の大溝とは東方の丘陵地帯の水まわりの悪いところを対象に掘った灌漑用の水路であって、南は長池から水を引き、寺田・久世・平川・大久保・伊勢田の各村を経て、えんえん六キロ、末は巨椋池(おぐらいけ)に注いでいたと伝えています。その途中の山麓にはいくつかの貯水池があって、寺田の玉池・正道池、久世の上正道池・下正道池、大久保の新淵などは、この大溝のための補助池としてつくられていたといわれています。これらの池は、いずれも掘ったものでなく、湧き水と山中から流れ出る谷水をせきとめて、溜め池とし、その水を大溝を通して、西方の低地帯に向かって幾条かの用水路をつくり、田畑に水を供給して開墾に供したと考えられます。
故に国史にも、「大溝を掘る」とあるも、「池を造る」とは記されなかった所以であります。
栗隈の大溝の遺構か
 
〔伊勢田(いせだ)神社〕 宇治市伊勢田町若林
 
 伊勢田はその名の示すごとく、伊勢皇大神宮に付属した御料田をいい、神社はこれを神格化したものであり、天照大神を祀っていました。
『山城国風土記』逸文には「伊勢田社」とみえ、「大歳御祖命の御子、八柱木(やはしらぎ)を祀る」とあり、『延喜式』にみえる「伊勢田神社」にあたるといわれています。現在の祭神は万幡豊秋秋津姫(まんはたとよあきつひめ)命・多力雄(たじからお)命・天照大神でありますが、何時のころにか祭神が変更されたと思われます。
 本殿(江戸時代)は、南北にわたる細長い境内の北端にあって、浸水をおそれてか、石積みの壇上に建っています。一間社、流造り、桧皮葺。全体に桃山時代風の気分のただよう規模の大きな建物でありますが、妻虹梁の若葉絵文様がひろく、向拝柱の面が大きくないところから江戸時代初期の再建とみられます。
伊勢田神社(左)本殿(拡大) (右)鳥居
 
〔巨椋(おぐら)神社〕 宇治市小倉町寺内
 
 旧奈良街道に面した旧小倉村(久世郡)に鎮座する産土神で、春日神(武甕槌神・経津主神・天児屋根神・姫大神)を祀った旧村社であります。小倉は「巨椋」とも記し、宇治川が巨椋池に注ぐデルタ地帯にできた半農半漁の村であります。当社ははじめ村の北方、春日ノ森にあって、天正18年(1590)現在地に移したと伝えていますが、実際にはそれよりも古く、『延喜式』に「久世郡巨椋神社」、『新撰姓氏録』に山城国神別(しんべつ)として「巨椋連(おぐらのむらじ)」の名がみえるので、この地に繁栄した巨椋氏一族がその祖神を祀ったのが当社の起こりとみられます。
 神社として延喜の制に小社にあずかりましたが、平安時代末期に藤原氏の荘園「巨倉荘」となったので、藤原氏の氏神(春日神)を勧請して春日神社と称しました。明治10年に式内社と認められ、現在の社名に改められました。
 広大な境内は「小倉の杜」と和歌に詠われていますが、今なお椋(むく)の大木が繁茂し古社らしい森厳さを残しています。
巨椋神社(左)本殿 (右)鳥居
 
〔子守神社〕は、巨椋神社の境内参道の東にあります。祭神は天磐樟船(あめのいわくすぶね)神と蛭子(えびす)神を祀っています。社伝によれば、むかし三羽の大鷲(大鳥)が、子供にわざわいをするので、惟喬(これたか)親王が退治されたという伝承にもとづき、子供の守護神と崇められるに至りました。一説に巨椋氏が祖神と仰ぐ惟喬親王の霊を勧請したものといわれますが、明らかではありません。

《月刊京都史跡散策会》【巷の小社の神々】洛外編 (その1) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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