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●第57号メニュー(2010/9/19発行) |
【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのV) |
〔夢窓疎石(国師)〕(3) 〔瑞泉寺庭園〕 |
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(左)瑞泉寺本堂 (右)夢窓国師像 瑞泉寺蔵(拡大) |
同年に上総千町の荘(千葉県いすみ市)に移り、丘陵を背にして退耕庵(たいこうあん)を開き庵居されました。目の前は見わたす限りの田園が広がっています。退耕庵は現存していませんが、旧称を千町というように美田がひろがり、西方の山の中腹に太高寺があり、裏山に「金毛窟」という岩窟があり、そこが夢窓の坐禅窟の跡であります。 正中元年(1324)朝廷の倒幕計画が露見し、後醍醐天皇はむずかしい情勢下に置かれていました。翌年、夢窓は後醍醐天皇より京都の南禅寺に住職せよとの勅使がくだります。退耕庵に天皇の勅使が来たときは病を理由に固辞しましたが、のちに執権北条高時を通じて強い要請があり、やむなく上洛に応じたのであります。路を甲州にとり、山路をとおって8月に虎谿に入りました。虎谿には、最初この地を訪れとき同道した元翁本元が住していたので、禅師を伴って京都に上りました。 参内して天皇に禅の要諦を説いたとき、再度南禅寺への入寺を要請されました。やはり夢窓は固辞しますが、さらなる説得で天皇の禅への深い思いを知り、南禅寺に入ることを承諾しました。毎月3回にわたり禅を述べることになりました。この年で夢窓の20年にわたる聖胎長養の修行は終えました。 嘉暦元年(1326)7月、鎌倉の執権高時は、使いを遣わして寿福寺に招聘しますが、夢窓はこれを断りました。8月には、1年を過ごした南禅寺を辞し、生まれ故郷の伊勢に立ち寄り、善応寺をひらいています。現在この寺の場所は不明ですが、夢窓の誕生地に近いところと推察され、現在の輪聖寺をあてる説があります。船で熊野の那智の滝を回って9月に鎌倉へ戻り、永福寺の近くに南芳庵をひらきました。 嘉暦2年、執権北条守時に浄智寺に出世するように求められ、固辞しましたがついに応じて、夏安居の3か月の修行を勤めて南芳庵に帰りました。 8月、近くで富士山の見える錦屏山(きんぺいさん)に瑞泉寺を開いて移り、虎渓の永保寺と同様に修行 の道場としての伽藍を整えました。「王龍井」という井戸があって良質の清水が湧出したの で「瑞泉」と名付けました。 寺の背後に大きな坐禅窟をうがち、岩盤をほって池泉を築いています。庭というより、洞窟と一体になった屋外の坐禅所であります。翌嘉暦3年、観音堂を作り、錦屏山の頂上に堂を建て「偏界一覧亭」と名づけ、その眺望の景を禅観の境(きょう)としました。 |
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瑞泉寺庭園全景(拡大) |
錦屏山の中腹の岩盤を刻んで、滝、池などをつくった岩庭である鎌倉石が露わになった崖には、坐禅窟(天女洞・葆光窟)があり、夢窓はここで坐禅修行しています。この坐禅窟はかなりの広さと高さをもった空間であります。坐禅窟の左側の滝は、自然の崖の高低差を利用して設えられたもので、崖の上には水源とした貯水池が設けられています。山肌を流れるわずかの水を貯水しておき、客人があると、貯水池の堰を外して水を落とし、滝を構成する仕掛けが施されています。 滝壷にあたる部分には、水の跳ねを止めるための石が据えられています。明らかに意匠的に据え付けたものであり、見方によっては、鯉魚石とみることができます。 また、偏界一覧亭へ登る途中にも二つの石を組んでいます。これは、夢窓の行った石組みの最も初期のもので、のちの甲斐の恵林寺や京都での西芳寺や天竜寺などの作庭の基礎をなすものと思われます。 本堂の北にある庭園の池泉・貯清池と、山を垂直に切り崩した岩壁に穿たれた天女洞は大きく開口し、庭というより、洞窟と一体となった屋外の坐禅所を構成しています。貯清池は降雨により岸壁から流れ落ちて溜まった水を湛えています。天女洞は「水月観道場」ともよばれ、坐禅修行の場でありました。鎌倉の山は掘削しやすい凝灰岩からなっているので、現在でも3,000ほどの墳墓窟「やぐら」が残存しています。 庭の左側の橋を渡り崖に築かれた石段を上り、偏界一覧亭に至ります。池泉庭の背景の上に、眺望を楽しむ場を設けています。これは現存する夢窓作庭の庭にほぼ共通する構成であります。 裏山に通じる急坂の十八曲がりと言われている登坂路を上ると小さな瓦葺の偏界一覧亭に着きます。そして亭の手前からは富士山を真正面に望むことができます。 |
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貯清池と天女洞(拡大) |
霊峰富士を望む壮大な景観は、夢窓は霊山を庭園に取り込むことにより、庭園の精神性をたかめます。偏界一覧亭はその名の通り、世界を遍く広く見わたすという意味が込められています。 夢窓が正和2年(1313)に開創した美濃の永保寺では、山腹に坐禅石があり、眼下に美濃の山並みが広がっています。また、晩年の作庭でありますが、京都の西芳寺からは比叡山が、天龍寺からは愛宕山を拝することができます。夢窓にとって借景とは、単に自然の風景を取り込むことでなく霊山を仰ぎ見ることでありました。 夢窓にとって、それらの高みにはどんな意味があるのか、漢詩「偏界一覧亭に題す」で次のように詠んでいます。 |
天は尺地(せきち)を封(ほう)じて 帰休するを許す、遠を致し深を鉤(さぐ)りて自由を得たり。 此に到って人々、眼皮綻(ほころ)ぶ、河沙の風物、我れ焉(いずく)んぞかくさん。 |
《大意》「天が、僅かの休息を与えてくれたので、わたしは今、思いのままに、遠をきわめ深きをさぐることができた。ここにくると、誰もみな眼のウロコがおちる。限りなく広がる景色を、わたしはとても隠し切れない。」(柳田聖山『夢窓国師語録』) |
瑞泉寺の伽藍構成から見ると、境内の参道を出来るだけ長くとり、山のいちばん奥のたどり着いたところに堂宇を整えています。背後の山との関連を深めたところに建物を配置していますが、庭園と偏界一覧亭をつくることを初めの段階から意識している配置とおもわれます。この点からも夢窓は、自然と修行の場との関係、ひいては庭園と建物との関係を重視していたことが、初期の作庭からも理解されます。 |
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(左)偏界一覧亭 (右)富士山遠望 |
《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのV) 完 つづく |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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