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●第14号メニュー(2007/2/18発行)
承前 【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その3》

〔皇太子の事蹟〕 〔冠位十二階〕 〔憲法十七条〕
〔大臣・大連・大夫〕 〔隋 581〜618〕 〔隋書〕


 前号につづいて、蘇我氏と厩戸皇子に触れていきます。今回は聖徳太子(厩戸皇子)の偉大な業績と言われているものについても触れてみました。
 


承前【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その3》
 
 推古11年(603)に聖徳太子の業績の一つである「冠位十二階」の制を考えて見ます。これは朝廷の役人の位の上下をきめ、12段階の冠を授けるものであります。それまでの朝廷の役人の地位は、氏族によって定められ、踏襲されてきました。こり新制度は、能力によって人材を登用するために作られたものであります。
「大徳・小徳、大仁、小仁、大礼、小礼、大信、小信、大義、小義、大智、小智」という、12の地位を示すものであります。
だが、馬子には最高位の「大徳」の位は授けられていませんが、馬子は授かる側でなく、授ける側であったと考えられます。この「冠位十二階」の制は、馬子には直接に関係のないもっと下位の役人を登用するためのもので、これは行政官としての馬子も必要であったのではないかと推察されます。
この制度は高句麗の12等級の位階制に似ていることから、それらに詳しい帰化人の学者が草案を作り、彼等を統率していた馬子が完成させたと見ることが出来ます。
(左)飛鳥寺遠望 (右)入鹿の首塚
 
 「冠位十二階」を制定した翌年、推古12年(604)、「皇太子親ら肇めてこれを作る」と、『日本書紀』にみえる「十七条の憲法」が制定されました。
「和をもって貴しとなす」
「仏教を敬え」
「天皇の命令には絶対服従」
 などをその基本としていますが、この「十七条の憲法」は後世の偽作と云われています。その根拠は、推古朝では、まだ国司の制ができていないのに、その12条によれと、
「国司、国造、百姓を斂とること勿れ、国に二君なし、民に両主なし、率土の兆民、王をもって主となす」とあることは、はなはだ疑問点が多くあります。
十七条憲法 嘉禎本 拡大
 
 また、その当時、百姓という一般庶民が、自分達を支配している地方豪族、さらにその
上に君臨する蘇我氏、さらにその上にいる天皇を、自分達の主人であるという実感をもっていたとは到底思えないのであります。
そうなると、この憲法は国司の制度ができた大化改新以後、天皇の権威が全国にいきわたった天武・持統朝に、聖徳太子信奉者によって創り出されたと思われます。
しかし、現存する「十七条憲法」は偽作だとしても、厩戸皇子がその基本となる憲法を作ったことは事実であるかもしれません。そのなかで、天皇、豪族が和をもって、仏教を敬うというのは、厩戸皇子の理想であったと思われます。
摂政・大臣が天皇の名において政治を行なうのですから、天皇の権威はより高められるわけであります。こうしてみてくると、聖徳太子の偉大な業績として伝わるものは、じつは後世になって作られたものであることに気付きます。そして『日本書紀』には、大臣蘇我馬子の業績についてはまったく触れられていないのも不思議であります。それには、天皇家の権威が高められた天武・持統朝に編纂され、天皇家絶対の思想によって書かれた『日本書紀』が、崇峻天皇暗殺という大逆を犯した馬子を憎んで、馬子の業績の大半が摂政である厩戸皇子の業績にすり替えられてしまったと考えられます。
飛鳥を中心とした仏教文化は、なんといっても摂政と馬子のすぐれた業績によるものでありますが、一般庶民から見れば、けっして住みよい時代ではなかったと思われます。一部の貴族を除いて、大半の庶民は、過重な労働を強制され、貧しい生活をおくっています。また、摂政時代の善政によって、民がうるおったということはありませんでした。
厩戸皇子の晩年に、「世間虚仮、唯仏是真」といって、世の中はすべて空しく、仏だけが真の存在であると云っていますが、これは政治家の言葉でなく、宗教家の悟りきった心境からでた言葉でありますから、摂政の立場からみるとこれは大変意味深長な言葉であります。厩戸皇子は推古30年(622)2月、斑鳩宮で亡くなり、49歳でありました。
厩戸皇子は外交面に大きな業績を残しています。『隋書』によれば、推古8年(600)に倭国の使者が隋に入っていることを記しています。そして、倭王は、姓は「阿毎アメ」、名は「多利思比孤タリシヒコ」といっています。アメタラシヒコは、つまり天皇のことであります。ヒコは彦で男性を指しますから、倭国の使者が倭の国の王だといったのは、推古女帝ではなく、厩戸皇子のことをさしています。
 つづいて隋の大業3年(607)、日本で言えば推古15年になりますが、この年、倭国はふたたび使者を隋に送っています。
  「大業三年、其の王多利思比孤、使いを遣わして朝貢す」 と隋書に書かれています。
 日本側の記録でも、推古15年に小野妹子が使者となって隋に派遣されています。この使者を厩戸皇子が派遣したとは『日本書紀』には記されていません。摂政の厩戸皇子が大臣馬子の賛同を得て派遣したと思われます。馬子はもともと帰化人の集団を支配しており、外国の情勢に明るいところから、仏教の信奉者である厩戸皇子ともども、仏教、学問の勉
強のために、当時の先進国である隋に遣隋使を派遣しました。
 さてこの小野妹子が持っていった倭国多利思比孤の国書には、
  「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」という有名な文面がありました。これをみて隋の煬帝は大いに怒りました。東の蛮夷の国としかみていないちっぽけな後進国の倭王が、このような文書を送ってきたからです。
(左)菩薩立像 法隆寺 (右)戌子年銘釈迦三尊像 法隆寺 拡大
 
 煬帝は、「蛮夷の書、無礼なもの有り、復たもって聞する勿れ」と席を立ったといわれています。だが煬帝は、怒るには怒りましたが、その翌年答礼の使者を日本に送っています。  この時、隋は北朝鮮の高句麗を討とうとしており、朝鮮半島に影響力のある日本を、自分の陣営に入れておくために、煬帝は怒りをおさえました。この隋に対して対等の口がきけるという国力を、朝鮮半島諸国に対して示した、厩戸皇子と馬子のコンビは、ともに卓越した外交手腕の持ち主であります。
 摂政の厩戸皇子が亡くなって、表面に出てくるのは蘇我馬子一人だけとなりました。馬子はすでに80歳になっていますが、依然として朝廷の実力ナンバーワンの地位を保っていました。この老練な政治家も歳にはかてず、推古34年(626)に死んでしまいます。墓は明日香村にある石舞台古墳が、馬子の墓だといわれています。この古墳は現在は、封土がなく、石室の天井石が露出していますが、昔はその上に土が盛られ、石室の大きさから想像すると、もとの墓はかなりの規模の大きなもので、権威をほしいままにした蘇我馬子の墓にふさわしいものであります。
 馬子は厩戸皇子とは姻戚関係にあるほか、信仰を同じくし、政治を動かす面においては、まさに一心同体でありました。したがって皇子の業績として伝えられるものは、すべて馬子の賛同を得たものであり、そのうちのあるものは、まったく馬子独自のものも含まれていると考えられています。
 厩戸皇子は、後世伝えられるほどの超能力の持主ではありません。たが、推古天皇と馬子の間にあって巧みに身を持し、国政を誤ることなく摂政の任を果しました。外交面では、隋、朝鮮諸国に対しては大いに国威を発揚しました。
 馬子についての資料はすべて後世、しかも蘇我氏に反対する立場の人々によって書かれたものであるので、『日本書紀』などを鵜呑みにせず、彼の置かれた大臣という立場、それも天皇、摂政ともに一族の身内といった族長的な特殊な関係を考慮する必要があります。
 
〔皇太子の事蹟〕
 
『日本書紀』によると、厩戸皇子は叔母推古天皇即位の翌推古元年(593)に皇太子に立てられ、摂政として万機をことごとく委ねれられと記しています。つまり皇太子による政治は推古天皇の初世から始められたことになりますが、推古天皇は皇太子にはわが子の竹田皇子を望んでいましたが、もう一人の有力候補の厩戸皇子と甲乙をつけがたく、即位後しばらくの間は皇太子は立てられていません。その後、竹田皇子が早逝したので、厩戸皇子が皇太子となりました。その時期は、厩戸皇子が弟の来米皇子を撃新羅将軍に任命した推古10年より少し前のことであり、撃新羅将軍任命が摂政の初仕事でありました。
 また、『書紀』には、推古天皇は皇太子に、「録摂政マツリゴトカサネツカサドらしむ。万機を以って悉に委」ねたとあり、この記事にももとづいて推古朝の政治は厩戸皇子の主導のもとに推進されたというふうに理解されていますが、実際は大臣蘇我馬子との共同政治でありました。皇子単独の卓越した指導のもとに行なわれた事蹟は無いに等しいものであります。むしろ政治の主導権は馬子の側にあつたということであります。皇太子の内政でもっとも重
要な事蹟と云われるものは、冠位十二階と憲法十七条の制定であります。
 
〔冠位十二階の制定〕
 
 『日本書紀』の推古11年条に、「十二月の戊辰の朔壬申に、始めて冠位を行ふ。大徳・小徳……、あわせて十二階」とありますが、誰が制定したのか明記されていません。しかも冠位十二階は、推古8年の第1回の遣隋使と推古15年の第2回遣隋使の派遣の間に制定されているのであります。帰国した第1回の遣隋使の建言にもとづいて、隋の制度を参考にして制定されました。
 また、冠位十二階制定の目的は、対隋外交のために国内の礼的秩序を整えるということのほかに、新しく国内に起こってきた官人階層に冠位を授与してこれを秩序づけて掌握するためでありましたが、冠位十二階は全国のすべての豪族や官人に授与されたものではあ『日本書紀』の推古11年条に、「十二月の戊辰の朔壬申に、始めて冠位を行ふ。大徳・小徳……、あわせて十二階」とありますが、誰が制定したのか明記されていません。しかも冠位十二階は、推古8年の第1回の遣隋使と推古15年の第2回遣隋使の派遣の間に制定されているのであります。帰国した第1回の遣隋使の建言にもとづいて、隋の制度を参考にして制定されました。
 また、冠位十二階制定の目的は、対隋外交のために国内の礼的秩序を整えるということのほかに、新しく国内に起こってきた官人階層に冠位を授与してこれを秩序づけて掌握するためでありましたが、冠位十二階は全国のすべての豪族や官人に授与されたものではありません。
 蘇我氏などの上級貴族は授与の対象外であり、蘇我氏は冠位十二階によって何らの制限も受けなかったし、畿外の地方豪族のほとんどが授与されていません。冠位は畿内の中小貴族や官人を主たる対象にしたものでありました。
明日香石舞台付近
 
〔憲法十七条の発布〕
 
 『日本書紀』の推古12年条に、「夏四月の丙寅の朔戊辰に、皇太子、親らはじめて憲法十七条作りたまふ」と、皇子の制定になることが明記されていますが、江戸時代からこれを後世の偽作とみる説があります。
 それは憲法の内容が、官僚制の存在を前提にして、官吏の心構えと従うべき規律を諭したものであり、官僚制の未発達な推古朝にはそぐわないものであります。
 豪族・官人の天皇に対する忠誠を強調した憲法十七条は、実際に公布され、施行されたとは思われていません。公布され広く施行されたのであれば、他の文献にも憲法のことがふれられていてもよいはずであるのに、『書紀』以外にはふれた文献が見当たりません。
 皇子は理想的国家像をもりこんだ憲法を制定したものの、理想と現実のギャップが大き
く、ほとんど実効があったとは思えません。共同執政官の蘇我馬子の力が強大なために、国内政治において皇子が、独自の新機軸を打ち出していくことは、容易ではありませんが、出来るものとしては、朝廷の儀杖や礼法などの整備でありました。
 推古11年に大楯と靫を作り旗幟に絵を描かせています。また、翌年には宮廷の門の出入りの作法を中国式に改めました。さらに、諸王諸臣に命じて褶ヒラオビを着用させました。褶は隋の礼服で、これらを取り入れて朝廷の儀容を整えています。これら一連の儀容・礼法の整備は、天皇の権威を高めるに功を奏しています。
 推古13年皇子は飛鳥から斑鳩宮に宮を移しました。この斑鳩遷居の理由については、馬子との政争の軋轢から飛鳥から逃避したという隠遁説と、朝鮮・隋との外交の要衝である難波への道を押さえるという積極的な意味があったという説もあります。近年ではこの
説が妥当であるとされています。
皇子は推古30年に斑鳩宮に没しましたが、皇子の摂政の後半は。『天皇記』『国記』を
編纂した以外にはほとんど事蹟がありません。それは一般的に、蘇我氏に対する政治的挫折を意味するといわれます。
 この時期の『日本書紀』自体のもつ性格を検討してみる必要が叫ばれています。蘇我氏の見えざる圧力によって政治的に挫折して失意のうちに世を去ったとは思えません。
 
〔大臣・大連・大夫(おおおみ・おおむらじ・まえつぎみ)〕
 
 大臣や大連は、それぞれ臣や連の姓をもつ大和朝廷の有力豪族から大王(天皇)によって任命されます。伝承では成務朝の武内宿禰が大臣の最初とされていますが、5世紀後半の雄略朝のころから7世紀半ばの大化改新の前まで、宿禰の後裔と称する葛城・平群・巨勢・蘇我の諸臣から大臣がでています。
大連も垂仁朝の物部十千根が最初とされていますが、やはり雄略朝のころ以後が確かで、大伴・物部の両連から出ています。大夫は大臣や大連の出た氏以外の臣や連ら有力豪族から、氏の代表として一人ずつ出ます。数人から十数人はいたようであり、大臣や大連を出した家柄が没落して大夫を出すこともありました。
 大化改新以後、大臣・大連の職はほぼ左大臣・右大臣に引き継がれ、大夫は4位・5位クラスの通称となりました。
 
〔隋 581〜618〕
 
 南朝・北朝の併立のあと中国を統一した王朝であります。揚堅は北周(北朝)で実権をにぎり、581年に新しく隋を立て、589年に陳(南朝)を滅ぼして中国を統一しました。揚堅は文帝として即位し。都城の大興城(長安)を築き、官制を改め、科挙を始めるなど中央集権をはかりました・後を継いだ煬帝も長城を修復し、運河をつくって南北を結び、また吐谷渾とよくこん(青海地方の遊牧国家)を討って西域への道を開き、チャンパ(インドシナ、南ベトナム地方にあったチャム族の国)、台湾、高句麗などを討っています。
 しかし土木工事などによる民生の圧迫と、無理な高句麗遠征により国内が混乱し、わずか39年で滅亡しました。
 
隋書
 
〔隋書〕
 
 隋王朝38年の歴史書で、唐になって魏徴らが本紀5巻・列伝50巻を貞観10年(636)に完成しました。その後、長孫無忌らが志30巻を顕慶元年(656)に追加しています。
 日本や遣隋使についての記事は列伝46「東夷伝」の「倭国」の項にあります。最初の遣隋使から36年とたたぬうちの記述であります。この『隋書』がその後の遣唐使によって輸入され、『日本書紀』の編集者たちも読んでいたことは、隋の文帝の遺詔がほとんどそのまま、雄略天皇の遺詔として雄略記に無断使用されている事実からも確かであります。
 
【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その3》完

 次号から、≪聖徳太子信仰のながれ≫を連載します。京都史跡散策会の例会で参拝した聖徳太子のゆかりの寺院における「太子信仰」を尋ねます。 乞うご期待。

≪第14号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

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