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●第8号メニュー(2006/8/20発行)

お土居の築造

お土居跡見て歩る記

 今年8月の土用に、改めて現在残っているお土居跡を取材してきました。かつて京都史跡散策会の第56回の例会で、鷹ヶ峯にある光悦寺・常照寺などの寺社をお参りしましたが、お土居跡は割愛して素通りでした。今月号は、「京の秀吉」の連載に加えて、「お土居の築造」と「お土居跡見て歩る記」を掲載しました。

≪京の秀吉歳時記≫[その五]

【お土居の築造】
 
 秀吉の「京中屋敷かへ」で上京がひっくりかえるような騒ぎになっていました。短冊型の町割や寺院街・公家町・武家町の造営で、京都市中が戦乱のような大騒動となっていた天正19年(1591)閏正月、秀吉は「京廻ノ堤」の築造に着手しました。
 
 
 京都市街のまわりに堀を掘り、掘り上げた土などを積み上げて土塁をつくり、堤の上に竹を植える大工事でありました。京都をすっぽり包む堤は、「土居」と書かれていますが、『三藐院記』(近衛信尹の日記)によると、「一、天正十九壬(閏)正月より、洛外に堀をほらせらる、竹をうへらるゝ事も一時也、二月に過半成就也」とみえていて、さらに「十の口ありと也、此事何たる興行とそ云々、悪徒出世之時、はや(早)鐘をつかせ、それを相図に十門をたて、其内を捲被と也」と記しています。まず濠池を掘り、その土を盛り上げて大堤とし、そこに竹を植えこんだのであります。また、「十口」(いわゆる京の七口≠フこと)を設けて出入口とし、一旦緩急あるときは、その門を閉ざして洛中を防衛する意図がうかがわれます。
 しかし、こうした政治的・軍事的意味に加えて、洪水対策としての意味も濃厚です。その一つの現われは、《お土居総図》で明らかのように、このお土居が市街地をはなれて北方へ、賀茂川に沿ってさかのぼり、やがて急角度で西へ左折していた点に注目されます。この形態の特徴が、京都の永年の悩みであった賀茂川の氾濫から、市街地を護ることをもっとも重要な役割としていたことは明白です。
 
お土居総図(1)
 
 お土居は、東は鴨河原と京都市街を区画するように、市街の東端、寺町の寺院境内の裏手を南北に走っていて、今出川から北へも、賀茂川の流路に沿うように延長され、上賀茂の西で大きく西へ屈曲しています。北辺は、そのままほぼ西へ延び、長坂越丹波道を越えて紙屋川の手前で南へ折れます。西辺は、紙屋川に沿って大将軍社前まで下がり、ここで紙屋川を渡り、大将軍村と西ノ京村の境界あたりでさらに西へ飛び出して矩形をつくり、紙屋川の左岸に戻って、南下しながら直角に4回屈曲して九条の羅城門跡(四ツ塚)へ至っています。南辺はほぼ九条通に沿って東進し、西洞院通との交点で北上、現在の京都駅構内を0番ホームに沿うように東進して高瀬川につきあたりまた北上、七条通の南で東進して、東辺のお土居へとつながり、お土居は文字どおり京都市街を大きく取り囲んでいました。
 
お土居総図(2) (拡大)
 
 お土居の総延長はおよそ5里26町(22Km超)であり、江戸時代の中期の記録によると、お土居の平均的規模は、堤基底部の幅が10間から15間半、堤上の通路幅が3間から4間、高さは2間から3間と記されています。もちろんお土居の長さにしても、内側と外側ではずいぶん違っているだろうし、高さも東北部の賀茂川の水が寄せるあたりでは30m以上もあったと伝えられているので、前述の記録の数字はあくまでも平均的なものであります。お土居の外側には幅5間前後の堀が巡っており、江戸期には洛外農村の用水として有効に機能していました。
 
京都惣曲輪御土居絵図より (拡大)
 
 お土居築造の工事は諸大名に命じられ、諸大名は家臣はもとより京都の社寺や公家にも人足を賦課して、きわめて短時日のうちに完成しました。天正19年(1591)閏正月に着工、5月中旬には秀吉による巡見があり、ほぼこのころにはお土居の完成が近づいていたと推測されます。
 秀吉は、お土居と付設の堀造成に伴って、領地や境内など削り取られた社寺や公家衆に対しては相当する替地を支給しています。
 お土居築造にはどのような意味があったのか、一連の都市改革事業とはどのような関連をもつのかについては、いろいろな見方が考えられます。
 
京町御絵図細見大成より (拡大)
 
 まず、洛中と洛外を区画すること、すなわちお土居の内側を洛中、外側を洛外と区画する意味があったといわれています。しかし実際のお土居をみると、洛中=町、洛外=農村というわけではなく、また洛中と洛外を分けることには大きな行政的意味もありません。これは、目的というより結果として、江戸時代に洛中と洛外の境界をお土居とする考え方が定着したというべきであります。
 お土居と堀のセットとしてとらえ、さらに寺町の寺院街との隣接をも考慮に入れて、お土居に軍事的な保塁としての意味を見いだそうとする考えもあります。この考え方には、秀吉による都市改造は聚楽第を中心とする京都の城下町化構想であるといわれています。
また、『三藐院記』に、お土居に設けられた出入口十口は「悪徒」発生のとき早鐘を合図にその出入口を閉じるものであるといった記載があります。
 
京都明細大絵図より 
 
 お土居には、賀茂川や紙屋川などの自然的地形をかなり考慮して造成されている部分があること、市街地だけでなく隣接する農村部をも包み込んでいることなどから、お土居築造の目的は、第一は水害から京都を守ること、第二は将来へ向っての都市策定であったのではないかと考えられます。
 お土居のとくに北部に防災施設としての意味を認めることは、築造された場所と堤の構造から大方の了解を得るところであります。洪水の危険から都市を守るという意味でお土居が建設されたということは、新しい都市観として注目されます。戦国武将の都市観が、戦争を前提として都市が焼き払われる運命にあるものとしていたことと比較すれば、秀吉のお土居にみる都市観は、都市は保護されるもの、育成すべきものであるとして、まさに画期的な都市改造でありました。
 
 お土居設置場所や形状については、築造地点のさまざまな事情を反映していると考えられるので、統一的な論理づけは難しいです。市街地化されていない空閑地を多く含んでいるという点でも注目されます。空閑地が、洪水にそなえての遊水池的な意味もあったかもしれませんが、発展していく京都市街地を策定する都市計画の意味も含まれていたと考えられます。
秀吉が既成市街地の再開発の観点から、短冊型町割、寺院街の形成を進める都市改造を強行していったことは、当然京都の市街地拡大は予定されていたので、その将来の大都市を災害から守り、都市発展の方向性を策定したのが、このお土居だったのではないかと思われます。
「土居」の語に、元来は武士の邸館を囲む土塁=防壁を指すものでありますが、もしこのお土居の完成によって京都が一個の巨大な城塞都市へと転生した点を重視すれば、それは「堤」と呼ばれるよりもむしろ「土居」の名で呼ばれるほうが相応しいと思います。また、お土居が京都住民の生活の上に果たした役割に重点をおけば、やはり賀茂川の氾濫の防壁=堤防という性格であったと思われます。いずれにせよ、それが「お土居」と呼ばれるにいたった背景には、この「王城の地」の防壁であるという意識とともに、徳川幕府治下の京都人の、秀吉時代への想いというものが何がしか働いていたのではないだろうか。
  前述しましたお土居の総長は5里26町(約22.5km)、東は賀茂川、北は鷹ヶ峰、西は紙屋川、南は九条を限度としています。現在残っているのはごく一部分ですが、現存部の位置や、江戸時代の地図類、さらにお土居にちなむ現存地名(町名・通り名)などを手掛りとしてつないでみても、とうてい築造当初の原型は完全につかむことは出来ません。現状と、古絵図類から察すると、高さ12〜15尺(約3m)、基底部の厚さは約5間(約9m)あり、これに幅2〜10間(約3.6〜18m)あまりの濠が延々と併設されています。もっとも場所によってはその地形や現状に合わせています。そして土居の最底部には、廃寺跡などから集められた礎石や石垣、石仏などの石が使われていました。
 高さ12〜15尺余という高さの土塁、その上に竹が植えこまれたこのお土居は、当時の京中のどこからでも眺められる状景でありました。新奇で巨大な風物は、京都の住民たちの度胆を抜くに充分なものでありました。
 ところで、お土居を考える上で見過ごせないのは、何よりもこの工事が京都の自然条件を的確にとらえ、かつ応用しきっていたことであります。随所に散在する池沼、または河川の水は濠の水に転用され、鷹ヶ峰方面で顕著でありました。もともと相当な懸崖をなすこの辺りでは、お土居の外壁面の高さは20間(約36m)にも達していました。お土居が、とくにきわだって西側と北側とで土塁・濠ともに雄大であったのは、このような京都の地理的条件が加わってのことであります。
 かくして、お土居は東―賀茂川、西―紙屋川、また、散在している池沼・湧泉を充分に活用しつつ、北方では急崖を、また南方では低湿の条件を併せて利用しながら実現しました。着工いらいわずか5ヶ月そこそこの短期間の工事でありましたが、着工に先立ってはおそらくかなりの日数を費やして、地形はむろんのこと、お土居建設予定地の土地の所有関係までも含めた予備の調査が進められていたと考えられます。
 ここで参考の《お土居総図》を見てください。この図からは、お土居の構想と当時の京都との現実的な関係を見ることが出来ます。江戸時代の記録類によると、秀吉は天正18年(1590)に全国統一を終えたあと、連歌師の里村紹巴・京都所司代前田玄以を伴ってひそかに洛中を巡見しています。その後、細川幽斎を呼んで洛中・洛外の境界を明らかにすることを諮問しています。幽斎の説いた話の内容は不明ですが、当然かつての平安京の規矩や羅城(城壁)の問題がその中心であったと思われます。四境なく、町から近郊へとおのずと移るというふうの京都に、洛中=町と、洛外=近郊農村地域との明確な仕切りをするという着想は、秀吉や、その側近による発明であったと思われます。しかし、秀吉の作ったお土居は、かつての平安京のイメージを着想の原点におきながらも、無為な形式主義におぼれることなく、まさにこの時期における統一政権の要請にふさわしい形で、しかも、地形とか、治水対策といった京都の現実的な条件に即応しながら実現されたものでありました。
 先述したこれらの諸条件を整理してみると、この「お土居」が何の目的に築造されたのか考察して見ます。

@ 平安京は中国の長安をモデルに羅城門を中軸に造られたものの、城壁は作られなかったので、それをお土居として完成させた。
A いざ戦いが起これば、出入口(七口)を閉ざして洛中を防衛するため。
B 悪人などの通行(七口)を監視し、洛中の治安を維持するため。
C 京都をつねにおそった賀茂川・紙屋川の氾濫による洪水から市中を守るため。
D 洛中と洛外を明確化し、洛中を聚楽第の城下町とするため。 

以上、結論としてはこれらに絞ることが出来ます。
御土居配置図(中央聚楽第)
 
 お土居が着工された天正19年(1591)閏正月には、すでに「京都南川原」に工事が行なわれ、「兼見卿記」によれば、「諸大名普請衆上洛、日々数輩数を知らざるなり」と伝えられています。また2月には、「京都南表普請これを初む、数万人なり」とあって、市街地が京都南部の、とくに川原地帯にむかって広がっていたことがわかります。この方面は従来はまったくの農村地域であって、市街地らしいところは五条(現松原通)の辺りで止まっていましたが、お土居完成の約3ヶ月ののちには、本圀寺(下京の七条坊門堀川)の南隣の荒野に本願寺(西)が移ってきて、やがて寺内町・門前町の充実発展にともない、新興の街区を生み出しつつありました。また、慶長7年(1603)には、烏丸七条北の地に東本願寺が建立され、同様の発達を示すに至りました。「洛中」南部の都市化でありました。
 それに反して、三条や四条の河原に展開した一大歓楽境は、年々とお土居の矛盾を京都人に知らしめてきました。それに何よりも、あの豪壮をきわめた聚楽第が、秀次の一件にみるように、一朝の夢と消えたことは、お土居に囲まれた京都が、その中核を失う結果となり、また、京都に代わって、伏見の位置が重要度を増していたことも見過ごせないものでありました。
 そして江戸時代に入ると、慶長年間(1596)に続々と現われる東山の社寺、豊国社・豊国廟・高台寺・方広寺大仏殿などが、旧来親しまれてきた数多くの名所とともに京都の人々を東山方面に誘うものでありました。また門前町の展開も一役買っていました。
 日増しにつのる鴨東の賑わいは、「洛中」を随所で河原をこえた東方へと引き出すことになり、それにつれて、さしものお土居も急速に衰退(破壊)へと向わざるをえません。
 このお土居の上には豊かな竹薮が茂っていました。この竹の自由伐採はお土居の保全と竹林の商品価値に根ざす管理権(特権)の問題もあって厳禁され、江戸時代の初期、寛文9年(1669)には、豪商角倉家が竹材を含むお土居の管理を京都所司代から委任されていました。また、お土居の修理などに関する人夫役は、京都の町人たちに賦課されていました。 
 古く「京の七口」といわれる、京都と外をつなぐ出入口がありました。鞍馬口、長坂口、清蔵口などと列挙しても、時代により史料により名前がかわり、場所も一定していません。ようするに漠然としていたと思われます。
 ここにお土居が築造されることによって、都市の輪郭もはっきりしたし、なによりも七口がお土居の口という形になり、非常に明確になったのでありました。鞍馬口、荒神口、三条口、東寺口、丹波口、大原口、清蔵口(長坂口)という七つが確定し、以前の七口とは異なった性格を持つことになりました。
 史上初の完全都市羅城であるお土居も、秀吉没後からしばらくして綻び始めました。特に賀茂川東の歓楽街と寺社門前町の発展は、市街の東方への拡大をうながし、お土居の東ラインは徐々に崩れ始めました。土塁は商人や寺社へ払下げられて市街化が進みました。堀は完成80年にして、生活のゴミで埋まってしまいました。
 現在では、北西部を中心に数ヵ所の遺構が残るのみで、南半分は完全に市街地に埋没してしまいました。とはいえ、お土居の痕跡は、今でも形を変えながら残っています。
 今出川から七条にかけての河原町通、JR山陰線丹波口駅付近の高架線路、北野天満宮付近の紙屋川の流路、京都駅0番ホーム下などは、お土居のライン上に位置しています。
 

【お土居跡見て歩る記】
 
 天正19年(1591)、京都の周辺に市街を取り囲む大堤が築造され、お土居と呼ばれるようになりました。当時の京都は、聚楽第や伏見城の建設など、豊臣秀吉による大土木工事が盛んで、その一環として築かれました。
 お土居の目的は実ははっきりしていません。一つには洪水(賀茂川・紙屋川)を防ぐため、一つには外敵から都市を守るためなどといわれていますが、秀吉の土木趣味の気まぐれとも解釈することも出来ます。
 さて、今年8月の土用に、改めて現在残っているお土居跡を取材してきました。かつて京都史跡散策会の第56回の例会で、鷹ヶ峯にある光悦寺・常照寺などの寺社をお参りしましたが、お土居跡は割愛して素通りでした。
 今日の取材の起点は、現在の京都駅からです。いま、駅の0番線のホーム下(@)は、お土居の南辺の一部にあたります。ホーム下には当初の遺構が存在しています。
 京都駅から市バスを乗り継いで、現在、大宮交通公園(A北区紫竹上長目町)内にあるお土居の遺構をみました。残っているお土居の一部は、過去400年の風雨に、土塁は大きく削り取られていますが、整理され綺麗に保存されています。まるで蒲鉾状の小さな築山が、約60mほど横たわっているという状況です。しかし土塁の方向は間違いなく西に向かっています。ここからさらに西へ進み鷲ヶ峰を見ながらゆるい坂道を上がって行くと、突然、急坂に造られた土塁を輪切りにしたような巨大な切り口(底辺は30m・鷹さ15m)が眼前に飛びこんできました。ここは市バスの玄琢下(B北区大宮土居町)であります。鷹ヶ峰に登る急な坂に築かれた峰の頂上へと延びる築堤は大変な難工事を思わせます。この巨大な土の築造物は、長年の風雨によって削られ、全体が痩せていると思いますが、堀が併設されていた当初の姿を思うとその巨大さは驚嘆に値します。
 
@ 京都駅0番線ホーム下にお土居
 
B 玄琢下のお土居・土手の竹薮
 
 道に沿って登りますが、お土居の東側には住宅が建ち並び、堀の全貌を見ることが出来ませんが、住宅と住宅の合間の2箇所から、竹を植えたお土居が見えます。残っている土塁は150m程であります。ここから上にはお土居の幅の輪郭線上に住宅が建ち並んで、不自然と思われる道(お土居の規模か)がついています。
 登りきると通りに面して「史蹟御土居」(C北区鷹ケ峯旧土居町2)の石碑があります。石碑の背後に300坪ほどの空き地がフェンスに囲まれ、中に細長く基壇めいた石組があります。ここは長坂口(七口・千本口)の出入口のあったところで、その遺構の一部と思われます。この石碑の前に、光悦堂という和菓子屋があり、「お土居餅」を販売しています。店の主もお土居通≠ナいろいろな質問に答えてくれました。
 この道(千本通)を南下して仏教大学の少し手前にある、岸本材木社の角を右折して少し行くと、史跡公園があります。繁った木々の間に多数のベンチが置かれ、ほぼ中間に「史蹟御土居」(D北区鷹ケ峯旧土居町3)の碑が立っています。この公園の規模はせいぜい100mぐらいですが、西側は崖となっていて高さは約25m以上ありました。西にある紙屋川の洪水に備えたのかは不明ですが、お土居の内側を見ると斜面に沿って窪みがあり、現在は3mほどの溝(窪み)が続いています。仏教大学の前をすぎると北大路通と西大路通の交点にでてきます。
 
C 長坂口のお土居跡  D お土居公園の碑
 
E 小石仏があるお土居・柏野付近の紙屋川
  
 千本通を南に歩くと、上品蓮台寺の北東の角を西に入ると、大きな欅を公園の中心に据えた衣笠児童公園があります。この公園は傾斜地に造られ、下には小道をへだてて紙屋川があります。この傾斜はお土居の名残ではないだろうか。この公園の下の小道を流れに沿って南下して行くと紙屋川橋の下にいたります。この橋から下をみると流れは約20mほど下にありました。橋から流れに沿ってさらに南下を続けると。川の流れは民家の裏にかくれ、流れには平野神社まえの橋で再会します。
 その途中に50m程の土塁があり、竹の代わりに蕨が植えられて、その緑がまぶしく感じられました。中央に「史蹟御土居」(E北区平野鳥居前町)の石碑が建てられ、南端にはかってお土居に埋めこまれていたと思われる小石仏が約30体ほど赤い前垂れをしてまつられていました。小道を100mほど下がると北野天満宮の北門の前の道に出ました。右手に赤い鳥居が見えています。平野神社です。この平野橋の下の流れは30m下にみえます。現在は小さな川なのにと思います。この深い谷状の規模は、かつての紙屋川の猛烈な洪水の様子を彷彿させてくれます。橋の側に小堂があり数体の地蔵尊(小石仏)がまつられ、駒札にお土居に埋められていたと記しています。
 北野天満宮の北門(裏門)から入るとすぐ国宝本殿の裏です。表に廻り華麗で豪華な拝殿から天神様を拝しました。社殿前には大きな棚板に梅の土用干しが行なわれていました。拝殿中庭の西のくぐりを出て、西へ行くと松梅院と刻まれた大きな石灯籠があり、ここにある石垣はお土居の内側(洛中側)の石積みの遺構です。
 ここの土手がお土居(F上京区北野馬喰町)の一部です。紙屋川の洪水を防ぐためにこれだけの規模、巨大な築地が必要であったのか。今の時期は川端に下りて散策は出来ませんが、川の両側は急勾配の斜面で、ゆうに30mはあります。土手の上部には1本の欅(樹齢400年)がありますが、この大木を育ててきたお土居の規模を今に伝えています。
 今日は北野さんの縁日でないので、秀吉ゆかりの長五郎餅はだめですが、表にある粟餅屋で、餅を食べながら一服しました。
 さて、ここから市バスで西大路御池に降り、西土居通にある市五郎大明神に向いました。この通りは、西大路通の東側、紙屋川沿いのお土居と堀に沿って出来た道路であります。北は仁和寺街道から南は九条通の一筋北までの全長5.1kmの通りであります。お目当て市五郎大明神社は御池上ルにあり、こんもりとした森の中に鎮座しています。また土居稲荷とも呼ばれ、通りから赤い鳥居が続いています。社殿の前に「史蹟御土居」(G中京区西ノ京中合町)の石碑が建てられています。このお稲荷さんが在ることで破壊が免れたと思います。
 昨日は西のラインの御土居跡を取材しましたが、今日は東のラインに残るお土居跡を取材しました。東は、上賀茂御園橋からスタートです。市バスに乗車して加茂中学前で降りたところに土手があってお土居とわかりました。これに続いて少し先にフェンスに囲まれ「史蹟御土居」(H北区紫竹上長目町)の碑がたち、二つの土居跡は南北に向かっています。

HI 加茂街道と堀川通の分岐
 

御薗橋付近の賀茂川の大堤
 
 さらに中学の裏手にやはりフェンスに囲まれ「史蹟御土居」(I北区紫竹上長目町上堀川町)の碑がたち、方向は東西に向っています。ここは御土居の北辺の東の角にあたります。
 古来からあばれ川といわれ、白河天皇の三不如意の一つである賀茂川の水はたびたび大水害を招き、ときの為政者の悩みでありましたが、秀吉はこの洪水を防ぐ大堤(お土居)を築造して解決しました。御園橋から北大路橋までの堤防はお土居の遺構であると考えます。
 お土居巡りも最後の一件ととなりました。河原町通にある京都府立医大病院の前に在る関西文理学園の校舎の裏にあります。この側面は整理が進み綺麗になっていますが、反対の側面は廬山寺の墓地であります。やや盛りあがった樹木の茂った土手が70mほどつづき、中央に「史蹟御土居」(J上京区広小路上ル)の碑がたっています。ここもお土居が墓地に使われているので破壊されず生き残りました。
お土居はたびたび改修されたり、また拡張れてきました。現在は殆どが破壊されていますが、国の史跡に指定されているお土居跡は、秀吉の大土木工事のロマンを語り継ぐ、貴重な遺構であり、後世へ残された贈り物であります。
 
≪第8号完≫

 次号へつづく

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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