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●第44号メニュー(2009/8/16発行)
【巷の小社の神々 京洛編】(その1)
〔由岐神社〕 〔貴船神社〕 〔流木神社〕 〔上御霊神社〕
〔幸神社〕 〔御手洗神社〕 〔河合神社〕

〔由岐(ゆぎ)神社〕 京都市左京区鞍馬本町 祭神 大己貴命 少彦名命
 
 鞍馬山の山麓、鞍馬街道に面した鞍馬寺の朱塗りの楼門(仁王門)をくぐると本堂へと通じるけわしい山道があり、少し行くと一段と高くに鎮座するのが由岐神社であります。
大己貴(おおなむち)命・少彦名(すくなひこな)命を祭神とする鞍馬寺の鎮守社であります。また、旧鞍馬村の産土神としても崇敬されています。
 その創建は古く、朱雀天皇の天慶3年(940)の勧請と伝えられ、古くは靭明神(うつぼみょうじん)といい、天皇の病や世上の騒がしいときには靭(矢をいれる器)を社前にかかげ、その安穏を祈りました。
 本殿の前に建つ拝殿(重文・桃山)は豊臣秀頼の再建といわれ、入母屋造り、屋根を桧皮葺とし、中央一間を通路としたいわゆる割拝殿で、崖にのぞんで舞台造りとなっているのは、巧みに地形を利用するためであり、本殿扉の左右には石造狛犬(重文・鎌倉)を安置しています。
 有名な鞍馬の火祭は毎年10月22日の夜半に行なわれる由岐神社と八所明神社の例祭で、太秦広隆寺の「牛祭」、今宮神社の「やすらい祭」とならぶ京都の三大奇祭の一つといわれています。社伝では天慶3年(940)9月9日の夜、祭神を御所より勧請したとき、村人が葦のかがり火をたいて出迎えた故事によると伝えられています。
 当日は各家門口にかがり火がたかれ襦袢・前掛・武者わらじ姿の子供やわらじばき・締込み姿の若者が、大小約250本の松明を振りかざし、「サイレイ、サイリョウ」のかけ声と共に二基の神輿が旅所に向かって練り歩きます。
 この祭礼の特異な点は、神輿の渡御に女性が参加することであります。これは神輿の曳き綱をにぎると安産のご利益が授かるといわれている所以であります。
(左)由岐神社拝殿(拡大) (右)鞍馬の火祭り(拡大)
  
〔貴船(きふね)神社〕 京都市左京区鞍馬貴船町 祭神 高?(たかみ)神
 
 貴船神社は鞍馬貴船町に鎮座する延喜式内の古社で、一に貴布禰・木船とも記されています。社殿は貴船川にそった狭小な台地にあって、本殿以下拝殿・権殿・末社などの建物が甍を接し、樹木のあいだをぬって赤い鳥居や玉垣がめぐらされています。
 社殿によれば、神武天皇の母玉依姫(たまよりひめ)が黄色の船に乗って浪速(大阪)より淀川に入り、賀茂川を経て鞍馬・貴船川をさかのぼり、この地に上陸されたといわれ、そこに一宇の祠を営んで祀ったのが当社の起こりだと記しています。しかし、元来貴船とは木生根・木生嶺であって、はじめは山林守護の神として祀られたものであります。それが平安遷都後、ここが都の北方にして、皇居の用水とされた賀茂川の水源地にあたるため、その清浄を守るために川上神とあがめられ、水を司る神(高?(たかみ)神)を祭神と定めました。
 それより降雨・止雨を祈る神として、大和室生の竜穴神とともに朝野の崇敬をあつめ、雨乞いには黒馬、雨止みには白馬が献じられました。弘化9年(818)には従五位下を授けられ、延喜の制には名神大社となり、のちには二十二社の一に列せられ、都下有数の大社となりましたが、何時の頃にか上賀茂神社の境外摂社とされ、その関係は明治初年まで続きました。明治4年、官幣中社となり上賀茂神社から独立しました。雨乞い祈願としての当社は公的な信仰の場合をいったものでありますが、民間の信仰では夫婦・男女の仲を守る神として、またその反対に縁切り祈願の神として幅広く信仰されました。その顕著な例は、夫にうとんぜられた和泉式部が当社に詣うで、貴船川に蛍のとびかうのをみて

物思へば沢の蛍もわが身より憧れ出づる魂かとぞみる (後拾遺集)

とうたったところ、貴船の明神が

奥山にたぎりて落つる瀧津瀬の玉散るばかり物な思ひそ

と返歌され、まもなく夫の心がもとに復したといわれています。また、能『鉄輪(かなわ)』には、宇治の橋姫は貴船の社に7日間参籠し、生きながら鬼神となり、ねたましいと思う相手の男女を取り殺したなどの、古来から多くの霊験を伝えています。
(左)貴船神社 奥宮の船形石 (右)貴船神社 流造りの本殿
 
 奥宮は本社より北、貴船川のほとりにあって、祭神(さいじん)闇?神(くらおのかみ)(船玉命)を祀る本殿一宇があるだけですが、境内は老杉うっそうとして幽邃森厳(ゆうすいしんげん)の氣がただよっています。貴船神社は初めここにありましたが、天喜3年(1055)貴船川の氾濫によって社殿が流失したので、下流の現在地に移りました。また本殿の下には竜神のすむという竜穴(井戸)になっていて、文久年間(1861〜64)に社殿を修理したとき、大工があやまってノミを落したところ、一天俄(にわか)にかきくもり、風が吹きあげノミを空中に吹き上げました。
 また本殿の傍らに小石を積み上げて船の形にしたものがあります。長さ10m、幅3m、高さ1.5m。これを船形石といい、玉依姫が乗っていた船を人目を忌み、石をもって囲んだものといわれ、これにちなんで船人はこの小石をもちかえり、航海安全の守護を祈願しました。
 
〔流木(ながれぎ)神社〕 京都市左京区下鴨半木町
 
 京都府立植物園は、大正2年に大正天皇の御大典を記念し、博覧会の敷地としていたものを、故あって途中で変更し、植物園に改めました。6ヶ年の歳月を経て、同12年11月に竣工しました。24万平方メートルにおよぶ広大な園内は、半木(なからぎ)ノ森をとり入れて池をつくり、地形を巧みに利用して平野または高原折衷式の自然公園としたものであります。
 半木ノ森は園内西北部にあるこの地に残る唯一の自然林で、正しくは「流木ノ森」と伝えています。面積は約5500平方メール、周囲に池をめぐらし、老木がうっそう生い茂っていて幽邃な景をなしています。この森の中に上賀茂神社の境外末社である流木神社(祭神天太玉命(あめのふとだまのみこと))が鎮座しています。
 流木とは、西賀茂の浮田ノ森に祀られていた三座のうちの一座が、賀茂川の洪水によって流され、下流のこの地に留まったといわれている故事によります。
 この半木ノ森にちなみ、植物園の西側の賀茂川河川敷を半木ノ道と呼んでいます。北山大橋から北大路橋間の780m。以前は殺風景なところでありましたが、昭和48年、時の蜷川京都府知事の提案によって70本の紅枝垂桜が植えられました。
(左)半木ノ道の紅枝垂桜 (右)半木の森の流木神社
 
〔上御霊神社〕(出雲御霊社) 京都市上京区上御霊竪町
 
 正しくは「御霊神社」といいます。鞍馬口より南、出雲路のほぼ中ほどにあって怨霊(おんりょう)神を祀る神社であります。その創祀年代については明らかでありませんが、通説では桓武天皇が平安遷都のとき、早良(さわら)親王(崇道天皇)と井上(いのえ)内親王(光仁天皇后)・他部(おさべ)親王(光仁天皇皇子)の神霊を勧請したのが初めといわれ、はじめ御霊社と号していました。
 次いで承和6年(839)に伊予(いよ)親王(桓武天皇皇子)とその母藤原吉子(藤大夫人)が祀られました。その後、橘逸勢(たちばなのはやなり)(橘大夫)・文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)(文大夫)が合祀さました。
 この人たちはいずれも政争の渦に巻き込まれた不幸な犠牲者であります。奈良時代から平安時代には天災地変や悪疫の流行は罪なくして横死し人々の怨霊のたたりによると信じられていました。
 貞観5年(863)、これらの人々の霊をなだめ祀るため、神泉苑において盛大な御霊会(ごりょうえ)が行なわれました。これが御霊会(祇園御霊会)の起こりであります。
 その後、さらに吉備真備(きびのまきび)(吉備聖霊)と火雷神(ほのいかづちのかみ)(六柱の荒(あら)御魂(みたま))を加え、祭神は伊予親王を除いて八座となりました。これを俗に「八所御霊」と称しました。もっとも吉備は文武天皇の皇女吉備内親王との説があり、火雷神は菅原道真であるといわれ、また八座の中に藤原廣嗣(ひろつぐ)を加えるなど、当社の祭神については古来から不詳の点が多々あります。
 こうして出雲路の地に上・下二つの御霊社が久しく祀られていましたが、中世、下御霊社は他所に移転しています。上御霊社は出雲寺の衰退にもかかわらず、よく朝野の崇敬を集めていました。とくに京都御所に近い地理的関係もあって皇室の産土神として尊信され、中世以来、本殿の改築には内裏賢所を賜わるのを例としています。
 御霊の森は当社境内の森をいったもので、応仁の乱の発端となったところで有名です。今は社域も狭く、樹木も少なくなっていますが、『中古京師絵図』をみると、神社より南の相国寺にかけて古木がうっそうと生い茂っているさまを描いています。現在は市街化によって森はその半分にも達していませんが、古くはかなり大きい森とおもわれます。
 『応仁記』によれば、文正2年(応仁元年1467)正月17日の夜、東軍の将畠山政長は自邸に火を放ち、手兵2000余騎を率いて御霊の森に布陣しました。これを知った西軍の将畠山義就は3000余騎をもって攻撃することに決し、翌18日夜明け方より降り出した雪の中で、両軍は終日激しい攻防戦をくりひろげました。しかし、東軍が頼みとする細川勝元の援軍が来なかったため、政長は夜に入って神社の拝殿に火を放ち、相国寺のヤブをくぐって撤退しました。この時の戦は一日でありましたが、これがきっかけとなって本格的な戦となり、その後11年間にわたって洛中洛外を戦火の巷と化するに至ります。御霊の森は、実に応仁の乱の勃発地として、歴史上忘れられない遺跡地であります。
(左)上御霊神社 (右)応仁の乱 勃発地の碑
 
〔幸神社〕 京都市上京区寺町通今出川上ル
 
 寺町通りも今出川通りにさしかかると、その手前の小路を西へ入ったところに幸神社があります。神社としては小さいですが、由緒はすこぶる古いものがあります。一般には「こうじんじゃ」と呼ばれていますが、「さいのかみのやしろ」が正式名称であります。猿田彦神を主神とし、他に八柱の神を祀る旧村社であります。
 当社は古くは「出雲路幸神」または「出雲路道祖神社」と称し、道祖神を祀る神社として信仰されていました。道祖神は塞神(さえのかみ)ともいい、外から襲来する疫神や悪霊などを、村境や辻・橋がかりなどで守り防ぐ神と信じられていました。この「さえ」の神が「さい」の神となり、「さい」幸の字をあてたのが当社の起こりであります。
 はじめ京極(寺町通)の東、鴨川原に近いところにありましたが、延暦15年(796)または天慶2年(939)の創祀と伝えていますが、明らかではありません。
 後嵯峨天皇は寛元4年(1246)下鴨神社参詣のとき、道祖神社の前を東に向かわれたという記録により、鎌倉時代は現在の地に移されていたことが知られます。その後、縁結び神として信仰されましたが、また京都御所の東北にあたるので鬼門を守る神として崇敬されました。本殿の東側に御幣(ごへい)を肩にかついだ日吉山王の神使猿の像があるのは、かかる由縁によるものです。また、境内の東北隅にある「猿田彦神石」は、その形が男性性器に似ているのが珍しく、これも猿田彦の古来生殖の神からきたものであります。今も安産守護・子孫繁栄の信仰があります。
猿田彦神を祀る幸神社
 
〔御手洗(みたらし)社〕 京都市左京区泉川町
 
 下鴨神社本殿の東、小さな池を前にした末社の一つで、瀬織津姫(せおりつひめ)命を祭神とする小社が御手洗社であります。井戸の上に社殿があるので、一に「井上社」ともいい、古くは式内出雲井於(いずものいのえ)神社に擬せられたこともありました。「夏越(なごし)の祓(はらひ)」は、毎年立秋の前夜に社前の池の中に大小の斎串(いぐし)50本を立てて行なわれる重要な行事の一つであります。一に「矢取の神事」ともいい、神職の祓の祝詞が終わると同時に待ちかまえた裸男たちによって斎串の奪い合いが行なわれ、その猛烈なことは手に汗を握らせます。このときの池の中における負傷はお互いに責任なしという古来のしきたりがあります。矢(斎串)を取るということは、福を得ること、または子のないものは矢を持ち帰って神棚に供えると必ず子供が授かると信じられていました。
 これも玉依姫が瀬見の小川(賀茂川)で丹塗りの矢を得、別雷神(わけいかずちのかみ)を産んだという神話伝説によるものであり、また王朝時代に鴨川の水辺でみそぎ祓を行なった遺風を伝えたものであります。
 
〔河合神社〕
 
 下鴨神社本社より南へ約300m、糺の森の中を南にいくと、右手に土塀をめぐらした中にみえるのが河合神社であります。当社は賀茂川と高野川とが合流する河洲にあたるので河合神社と呼んでいますが、正しくは鴨川合坐小社宅(かものかわいにいますおこそやけ)神社といい、多多須(ただす)玉依姫(神武天皇母)を祭神とする下鴨神社の境内摂社の一つであります。社宅とは社戸(こそべ)の意で、はじめ賀茂社の社家に祀られていた屋敷神で、その名のような小社でありましたが、延喜の制には名神大社に列せられました。
「ただす」は只洲とも記し、賀茂・高野二川の合流するところに出来た川洲によりますが、河合神社の祭神多多須玉依姫にちなんで多多須の森、また社名にちなんで河合の森とも称します。
 「糺(ただす)」は糾の略字で、しらべただすことであり、まつわりからみつくことであります。鴨建角身(かもたけつぬみ)命はここで人民の争いをききただし、ことの処理を計ったといわれています。裁きにあたっては邪念を払うため、首から日陰のかずらを掛けたといわれ、これが後世に儀式や会議に日陰のかずらを用いられるようになった起こりであり、さらにこれを模様として染めぬいたのが、改正前の裁判官の法服であり、法冠でありました。
(左)河合神社 (右)御手洗祭
 

≪月刊京都史跡散策会44号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その1) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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