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●第35号メニュー(2008/11/16発行) |
【神・神社とその祭神】《そのXV》 伏見稲荷大社 |
〔稲荷の神のなりたち〕 |
〔本殿周辺の諸堂〕 [楼門][本堂][権殿][奥宮] |
〔お山めぐり〕 〔伏見稲荷アラカルト……〕 |
〔伏見稲荷大社〕 |
「病弘法、欲稲荷」という諺(ことわざ)があります。病気のことなら弘法大師、金儲けのことならお稲荷さんにという意味であります。また、「おいなりさん」と「天神さん」と「はちまんさん」は、日本人の神信仰の原点にあります。稲荷神社の所在は京都市伏見区深草で、稲荷山の山上山下の一帯が稲荷信仰の原域であります。 『山城国風土記』の逸文によると、古くからこの地域に住んで、一族が繁栄を極めていた秦氏の長者伊呂具(いろぐ)(秦の中家(なかつけ)の祖)は、2月初午の日、驕富(きょうふ)におごって餅を的にして矢を射たところ、的はたちまち白鳥と化して飛びたち、後ろの山の三ヶ峯の頂上にとどまりました。するとそこにたちまち「稲が奈利生(なりお)う」という奇瑞がおこり、その後は、秦氏の家運が傾きはじめたので、伊呂具は驕慢(きょうまん)の心を悔いて杉を神木(験(しるし)の杉)として稲の精霊を祀り、再び家運を挽回することが出来ました。 この霊験のあらたかさに感じて、この精霊を「稲成(いなり)の神」と崇め、山を神山(こうやま)として崇め、元明天皇の和銅4年(711)に、その麓に社殿を営むことになりました。そして伊呂具の後裔にあたる秦忌寸(はたのいみき)の一統が代々祖神祭祀の聖地として祭祀にたずさわってきました。 |
(左)二の鳥居の額縁から楼門を観る (右)内拝殿の唐破風 |
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かつては稲荷山の山頂を一ノ峰(上の塚)、二ノ峰(中の塚)、三ノ峰(下の塚)とするので、祭神も三座でありました。倉稲魂神を主神とし、のちに佐田彦命(中の塚)と大宮能売命(上の塚)を配祀し、稲荷神社の祭神は三座になりました。この三座の社殿は三つの峰に分在していましたが、応仁の乱の兵火で戦禍をうけて炎上しました。のち、これらを山麓に移して一社殿に統合したのは永享10年(1438)でありました。その後、山上にそれぞれ遷座されますが、明応3年(1497)から同8年にかけて現在の社殿が造営されました。このとき、下・中・上の3社別殿の古制を改め、新たに田中・四大神の両摂社を合祀し、五社相殿となりました。 平安時代に稲荷信仰は真言密教とむすびついて広まることになります。弘法大師空海は弘仁7年(816)、藤森神社の前身、藤尾社の土地を請い稲荷社を造営しました。天長4年(827)、空海は東寺の五重塔造営にあたり稲荷山の木を伐り出しました。ところが、このことが淳和天皇の病気の原因であるという占いが出ました。そこで天皇が稲荷神に従五位下の位階を贈って謝罪したことから、稲荷社と東寺の関係が密接になり、やがて東寺の鎮守社ともなりました。その後年々位階は累進して、延喜の制には名神大社に列し、4度の官幣や祈雨祭の幣にあずかり、正一位の極位を賜り、二十二社の官幣のおりにも上位となるなど、朝野の信仰をうけて発展しました。 |
また稲荷社の位置が京の東南(巽(たつみ))の方角にあたっているので、王城鎮護の神としての尊崇をうけ、延久4年(1072)からは祗園社とともに両社行幸≠ニ称し、皇室の慣例となって鎌倉時代までつづきました。これと並行して上皇らの熊野御幸が盛んに行われていたので、その道中の守護神としても尊崇をうけ、護法送り≠フ風習が起こりました。 平安時代中期以後、つぎつぎと整備されてきた山下の社殿は、応仁の乱の兵火で焼失し、明応8年(1499)に再興されました。境内地は山上・山下を合わせると約26万坪といわれ、山麓の台地を巧みに利用して本殿以下多くの摂社・末社が建ち並んでいます。 |
〔本殿周辺の諸堂〕 |
[楼門](重文・桃山) |
表参道に面して厳然として建つ朱塗りの楼門で、3間1戸、屋根は入母屋造り、桧皮葺で屋根の軒反りが大きく荘重な威厳があります。天正18年(1589)、豊臣秀吉が母大政所の病気回復を願って寄進したといわれ、昭和49年の解体修理の際、垂木に同年号の墨書銘が発見されました。 |
[本殿](重文・室町) |
社殿は明応3年(1494)の建造で、5間社、流造り、屋根は桧皮葺とした稀にみる大建築で、これを稲荷造り≠ニいいます。社記には、「御本殿、五社相殿、ウチコシナガレ作、四方ニ高欄アリ、ケタ行五間五尺、ハリ行五間五尺」とあります。打越流造りとは、浅い背面の流れが棟を打越して、雄大な曲線を描きながら、長々とゆるやかに流れており、側面から眺めると、棟へ向かって盛り上がる力感にあふれた妻がそびえている形をいいます。現在は本殿と拝所の間がきわめて狭くなっています。これは昭和38年の本堂修理の際に、内拝殿(祈祷所)を増築したためであります。このとき本殿を創建当初にもどし、向拝を内拝殿の正面に取り付けました。この唐破風の向拝は、秀吉が本殿修理後に付け足したもので、内部の蟇股には牡丹唐獅子や唐草など、桃山風の彫刻がみられます。 |
[権殿](桃山) |
一名若宮とも遷殿ともいい、天正年間、豊臣秀吉の造営であります。寛永年間に改築し ています。権殿とは本殿を造営するときに、御神体をその期間中うつし祀る御殿でありま す。建物は5間3間、流造り、桧皮葺で、本殿と同じ形式の構造であります。ただ向拝だ けがなく、本殿のもとの姿を知る上には好都合であります。 |
[奥宮](室町) |
奥宮は本殿の背後の上段の地にあります。三間社、切妻造り、屋根は桧皮葺で、本殿と 同じく明応年間の造営であります。祭神は稲荷神。三社殿または上御殿ともいい、下・中・ 上三社が別殿であった古いころの社殿でありました。 |
お山めぐりのイラスト |
奥宮より朱塗りの鳥居が立ち並ぶ参道を行くこと約200m、通称「命婦谷(みょうぶだに)」にあって、一般には「奥の院」(奥社遥拝所)の名で知られています。ここは稲荷山三ヶ峰の真西にあたり、山上の神蹟を遥拝するために設けられたもので、社殿は明応年間の創建であります。境内には後醍醐天皇の歌碑があります。 まず、奥の院から出発して根上り松を過ぎて熊鷹(くまたか)社へ出ます。ここから少し坂を登るとお産場池≠ゥら登る参道と出会います。ここを三つ辻といいます。さらに四つ辻までの道を登ると視界が急に開けてきます。 ここから左上は荒神峰へ、左下は白滝から東福寺へそれぞれ抜けられます。右を登れば三ノ峰(白菊社)・間の峰(荷田社)・二ノ峰(青木社)をへて頂上の一ノ峰(末広社)へ到着します。この峰がいわゆる東山三十六峰≠フ最後の36峰目であります。 四つ辻をまっすぐに登れば、大杉社・眼力社をへて、大山祭神事で有名な御膳谷奉拝所に出ます。石段を上ると小高い台地があって500以上のお塚が並んでいます。ここが御膳谷の神蹟で、むかしは神饗殿(みあいどの)や竃殿(かまどの)があって、山上三ヶ峰の神々に神饌を共進したところだと伝えられています。三ヶ峰の中央の谷間に位置しているところから、御前谷と呼ばれましたが、御膳をお供えしたところから御膳谷と呼ぶようになりました。 |
(左)お山めぐりの出発点 (右)奥社遥拝所 |
この奉拝所の前、玉垣の中に御饌石(みけいし)と称する径約1m、高さ50cmの平坦な霊石があります。毎年1月5日の大山祭には100枚の斎土器(いみどき)に中汲酒(なかくみざけ)と清酒を盛り、これを御饌石の上にならべて神に供えて祭典が行われます。祭礼後、神職たちは日陰の蔓をかけ、杉の小枝を烏帽子に挿し、それぞれの神蹟を巡拝して下山します。 この先の薬力社・おせき社から石段を登ると左側に「山科の里、大石良雄旧跡」と刻んだ石標が立っています。 おせき社は風邪、咳に霊験のあるというお塚があります。薬力社は一般に薬の神様として信仰されています。 さらに朱の玉垣のある長い石段を登れば、長者社(御劔社)の前に出ます。ここは劔石(つるぎいし)(雷石)と称する磐境(いわさか)がご神体として祀られています。この左側に焼刃(やいば)の水と呼ばれる清水の井戸があります。謡曲で知られる三条小鍛冶宗近が、むかしここに参籠し、稲荷山の埴土をもって焼刃(やいば)の水に合わせ、稲荷明神の霊験を得て名劔小狐丸を鍛えたという伝説のところであります。さらにうっそうたる杉木立の参道を行けば、春繁(はるしげ)社があります。 |
(左)荷田社 (右)薬力社 |
なお二百数十段の長い石段を登りつめると稲荷山の最高峰である一ノ峰上社の御神蹟があります。この一ノ峰は、むかし大宮能売大神を祭祀していた跡といわれ、一般に末広大神様と呼ばれ、芸能の祖神、和合の神として人々から崇められています。ここから参道を降ると二ノ峰中社の御神蹟に出ます。ここは佐田彦大神をお祀りした跡で、一般に青木大神様と呼ばれ、交通、海運、導きの神様として信仰を集めています。この付近を青木谷と称し、古来「しるしの杉」という稲荷大神の霊験著しい御神木の繁茂したゆかりの地であります。二ノ峰から生い茂った杉林の坂道を降れば、間ノ峰荷田社の御神蹟に出ます。ここを一名人呼塚(ひとよぶつか)ともいわれています。この荷田社の前にある鳥居は、奴禰(ぬね)鳥居≠ニいう独特の形をしたものであります。これは笠木と貫の間が合掌されたもので、甚だ変わっています。また御神蹟の石の扉に梅花の裏紋が刻まれているのも珍らしいものです。当社の祠官荷田家の祖神である龍頭太(りゅうとうた)は徳望高く、その容貌すこぶる怪異で、顔は龍の如くして、顔の上に光あり、夜を照らすこと昼に似たりといい、他界するとき雲を起こして昇天したので、かたわらの梅花がことごとく裏向きになって散ったので、この由来から荷田家の紋には梅の裏紋が用いられるようになったとあります。 |
(左)薬力の滝 (右)おせき大神 |
ここから参道をさらに降ると三ノ峰下社の御神蹟があります。下社は当社の主神で五穀をつかさど宇迦之御魂(うかのみたま)大神をお祀りした神蹟で一般に白菊大神様とも呼ばれています。これを降るともとの四つ辻の見晴台に戻ってきます。ここのすぐ北にある荒神峰は、田中社の御神蹟で、一般では権太夫さんと呼んでいます。この田中社の後方の参道の峰つづきを行くと、京都市内を一望に見渡せる絶景の場所があります。ここに御幸(みゆき)奉拝所(新しい親塚)と稲荷社の崇敬厚かった横山大観の筆塚があります。この辺りを古くから御幸辺(みゆきべ)と称しています。三つ辻から熊鷹社を過ぎ、奥社奉拝所への分岐点まで来ると、ここに大社の神苑(しんえん)があります。周囲は木々に覆われ、木の間に見えるのは八嶋ヶ池であります。神苑の北方渓流のほとりに神田(しんでん)があります。毎年4月の水口播種(みなくちはんしゅ)祭、6月の御田植祭と10月の抜穂祭の神事が行われます。 |
(左)下ノ社 (右)御膳谷のお塚 |
ここから参道を降ると十石橋のたもとに出ます。ここには稲荷山復元記念之碑が立っています。これは明治四年に稲荷山の境内全域が上地されたのを、昭和36年の鎮座一千二百五十年大祭にあたり、その記念事業の一環として関係当局にはたらきかけ、100年ぶりに昔ながらのお山として復元されたのを記念して立てたもので、碑には伊勢神宮祭主北白川房子の歌が刻まれ、また奉賛会総裁河野一郎が題字を揮毫しています。この辺りの参道沿いに数多くの石灯籠が立ち並んでいます。そのほとんどは江戸時代に奉納されたもので、7月22日の本宮祭の宵宮に行われる万灯の神事には、すべてに灯がともされます。この前のゆるやかな石段をおりて北に進むと、朱の玉垣をめぐらした一群の社があります。これが摂社大八嶋社であり、社殿はなくこの地が神地とされています。 |
(左)お産場の駒札 (右)お産場稲荷 |
さらに北へ進むと通称お産場といわれている十二祠につきあたります。この社前に供えたローソクを持ち帰るとお産の陣痛がそのローソクの短さだけですむといわれ、安産の守護神として婦人の信仰があります。お山参道の帰りの石段を降りた右側に、榊と松の木の前に自然石があり、約4坪ほどの玉石を敷いた斎場があります。ここは各祭典の際に幕を張りめぐらして、神職をはじめ奉仕員をお祓いする祓所であります。この東に白壁の塀をめぐらした平入桧皮葺の門があり、そのなかに全国の崇敬者が勧請する御神璽(おみたま)をはじめ、社頭で授与される神札をつくる奉製所であります。奥の院奉拝所から出発したお山めぐり≠ノは、所要時間約2時間をかけて、道程約4`にわたる神蹟やお塚を巡拝することです。 |
(左)眼力社のお塚 (右)大八嶋社の駒札 |
〔伏見稲荷アラカルト〕 |
深草は、稲荷山から南の伏見山(桃山)につづく深草山の西麓にひらけた地域をいい、その名のごとく、むかしは草深い原野でありました。しかし、弥生式土器などが発掘されており、その開拓は早く、奈良朝時代には土師氏(はじし)が来住し、この地の粘土を用いて土器をつくっていたことが『日本書紀』に記されています。また、同書には秦大津父(はたのおおつち)の出身地として『山背国紀郡(やましろのくにきのこうり)深草里』または「深草屯倉(みやけ)」の名がみえ、皇室ゆかりの要地であったことがわかります。 さらにこの地が紀伊郡深草郷と称したのは、紀氏一族がこの地に勢力を占めていたからで、とくに蘇我氏は紀氏と同族でありますが、渡来人の秦氏を配下にもち、収穫物の貯蔵所である屯倉を設け、大和朝廷の重要な経済的根拠地としました。現在の藤森神社が紀氏の祖神を祀った氏神であります。 しかし、蘇我氏の滅亡後、紀氏もしだいに勢力をうしない、秦氏のみが栄えました。秦氏は稲荷山に稲荷神を祀って農耕守護神とあがめ、深草一帯の開発に努めました。 |
[宇賀神(宇迦之御魂神)]は、生命の源(みなもと)である食物を司る神であります。なかでも稲の霊の神を意味しています。『古事記』には、須佐之男命(すさのおのみこと)と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に宇迦之御魂神が誕生したと記しています。『日本書紀』は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の御子として倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と伝えています。この両神は同一神であるとされています。「ウカ」は「ウケ」に通じ、食物の意味であります。この宇賀神は、食物を司り、飢饉から人々を救済する神徳を具えています。そのことから、寿命や福をもたらす福神へと発展しました。 一般には、この神を白蛇の姿であらわし、宇賀神祭という福禄を祈る神事が行われていましたが、後世、稲荷神と習合して、京都の伏見稲荷大社に祀られるようになりました。 [勧請稲荷(かんじょういなり)]稲荷信仰の盛んなわけは、その現世利益の霊験あらたかなことであります。その御神威が農業・漁業・商業・鍛冶のほかに家屋敷の守護から厄除けまでの広範囲にわたっています。これによって全国各地に祀られ、企業の敷地内や建物の屋上に祀られ、また、家々の神棚にも祀られています。これらを総称して勧請稲荷≠ニいいます。 [お塚]伏見の稲荷山を特徴づけるものに、山を埋め尽くすかのように立つ「お塚」があります。稲荷講や個人の信者が、伏見稲荷大社の山内に、福徳大明神とか白狐大神などの神号を刻んだ石碑や小さい祠を建てたものがお塚です。 現在では数万基に及ぶといわれていますが、その大部分は明治以後に造られたものです。お塚そのものの歴史は新しいものではありませんが、近世までは土盛りだけの「塚」がほとんどでした。石碑のお塚は近代の流行と見られます。 お塚の建立の動機には、商売繁盛祈願やご利益を受けたお礼が多いのですが、今でも巫女や行者のお告げ、霊夢によるものも少なくないようです。石碑に刻まれた個性の強い神号も、そのような建立の事情をうかがわせます。 お塚の神号には龍・狐・蛇の文字が目につきますが、福・徳・金の字も多く、そこに信者の願望が伝わってきます。また、お塚に福神信仰の性格も認められます。庶民信仰としての稲荷神の性格は、お塚にもっとも強く現されています。 |
稲荷山の航空写真(拡大) |
[稲荷と狐]の関係については数説ありますが、通説では稲荷のご祭神が倉稲魂(くらいねたま)命・稚産霊(わかむすび)命・保食神(うけもちのかみ)の3神とされるように、すべて食物神、御饌神(みけつのかみ)≠ナあり、この御饌(みけつ)から御狐(みけつね)≠ワたは三狐(みけつね)≠ニいわれ、これが狐になった由来とも。また、一説には、仏教のもってきた印度の稲の神が、頭に狐のかんむりをのせた陀枳尼天(だきにてん)であった偶然から、いよいよ稲荷はキツネの姿をした神であると信じられるようになりました。 |
[楼門と秀吉]豊臣秀吉は桃山に居城を構えた関係から、稲荷神社を信仰していたと思われます。伏見城には、その分かれである満足稲荷を、聚楽第には同じく出世稲荷を祀りました。これは勧請稲荷の一典型であります。 秀吉の母(大政所)が病気になったとき、稲荷神に祈願こめた奇妙な願文を奉っています。願文にはつぎのような意味のことが書かれています。 「こんど、大政所さまが病気になられたが、もし、ご全快になれば、一万石の所領を加増するから、いよいよ熱心にご祈祷をしてくれ。なお、いのちは三ヵ年でもよいから延ばしてくれ。三年がだめなら二年でもよい。それもだめなら三十日でもよい」と神様に命乞いをしています。さいわい、大政所の病気は治りましたが、秀吉は一万石のことなど忘れてしまいます。神社側から催促があったので、そのとき、現在の楼門を寄進しました。 |
[後醍醐天皇の御製の碑]これは延元元年(1336)12月21日の深夜に、後醍醐天皇は大江景繁(おおえかげしげ)の手引きによって花山院より女装して、吉野へ落ちていかれる途中、稲荷社のあたりで漆黒の闇に行く手をはばまれ、難渋(なんじゅう)をきわめられたときに、天皇が御製を稲荷の神にたむけて伏し拝まれると、不思議にもはるか稲荷の山上から一群の赤い雲があらわれ、行幸の道を照らして大和の内山まで送りまもなく雲は金剛山の上で消え失せたとあります。 碑には「ぬばたまのくらき闇路に迷うなり、われにかさなむ三つのともしび」とあります。 [稲荷寿司]甘煮のアブラゲのなかに酢飯をつめたものを稲荷寿司といいます。アブラゲがキツネ(おいなりさん)の好物だからといわれています。アブラゲがキツネの好物と勝手に決め込んだのは、アブラゲの色とキツネの毛色との類似からの連想によると思われます。とにかく稲荷寿司の名は稲荷即キツネという意識に変わりはありません。 『稽古三味線』という書物によると、天保の大飢饉のおり、大阪信太(しのだ)の森の稲荷にちなんで売られたのがその名の起こりだといわれています。 |
【神・神社とその祭神】《XV》伏見稲荷大社 完 つづく |