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【神・神社とその祭神】《そのXII》 春日大社(その2) |
〔若宮社成立と春日信仰〕 |
〔春日大社の祭神〕 「天児屋根命」 「経津主神」 「武甕槌神」 |
蛇は水の精で、農業や人々の生活を守る神と信じられていたので、人々はこの瑞祥を心から慶びました。しかし、若宮は第4殿で母の比売神と相住まいであったので、その神殿のせまい床に2柱の神餅を並べることは出来なかったので、1柱分の神饌ですましていました。 それから数十年たったある日、突然比売神が6歳の童子に乗り移って、「私にだけ神饌を供えても少しも嬉しくない。なぜ若宮のも供えないのか。以後、五所王子(天押雲根命)と名付けてお供えを供えよ。」とお告げがありました。こうした託宣があったからには、お供えをすべき場所として2殿と3殿の間に小さな仮の御殿を造ってお祀りすることになりますが、その場所は狭くて充分なことは出来ていません。 長承年間(1132〜35)、洪水や飢饉があいついだので、鳥羽上皇は大変心配され、いろいろと英慮をめぐらされた結果「若宮の御殿が、このようなお粗末なことでは申し訳ない。お生まれになった当初から立派な御殿を造るべきであった」と気付かれました。早速、氏の長者である関白藤原忠通を通じて、春日の正預であった中臣佑房に、新殿を造営する場所の選定をお命じになりました。佑房は、神様のお指図を仰ぐため、神前に7日間参篭祈願したところ、満願の日に不思議な夢を見ました。それは、真っ暗な暗夜、本社から一丁ばかり南の、現在地に向かって多数の神主や神人が行列をつくって遷宮する光景でありました。ただちに、このことを忠通に報告して新殿造営にとりかかり、長承4年(1135)2月27日、上皇臨幸のもとに盛大な遷宮祭が執り行われました。この若宮神の出現と祭祀は秘伝とされています。 春日の地は、古くは春日氏を名乗った和邇氏一族の居住地で、春日山、御蓋山を中心に古代祭祀が行われていました。今も境内の各所に磐座があります。 このような「名山浄処」といわれる聖地に、神護景雲2年(768)、藤原永手が一族の繁栄と王城守護を目的として春日社を創建しました。祭神は常陸(茨城県)の鹿島、下総(千葉県)の香取の両社から迎えた武甕槌命、経津主命、それにもとの氏神である河内(大阪府)の枚岡神社の天児屋根命と比売神を合わせた4神であります。こうして春日造りの社殿4棟が並ぶようになります。これらを内院とし、後には、中院、外院へと神社の規模も拡充しています。 |
遷都によって政治の中枢が平安京に移ったのちも、春日社は奈良にとどまり、藤原氏の氏神として一族の信仰の中心でありました。藤原氏の氏長者や摂政・関白の参詣する「春日詣」も延喜16年(916)、藤原忠平の参詣をはじめとしてたびたび行われ、その都度、莫大な寄進を受けて春日社は発展しました。 また、永祚元年(989)の一条天皇の行幸を皮切りに、上皇・天皇の行幸などが相つぎ、春日社の神威もますます上昇しました。 この春日社の繁栄に対し、藤原氏の氏寺である興福寺の働きかけも強まってきました。まず当時の神仏習合思想により、春日大明神を法相宗擁護の神と位置づけ、次いで天暦元年(947)、仏教行事である法華八講を春日社内で行うなど、徐々に興福寺の春日社内への浸透が続けられました。 寛治7年(1093)が最初といわれる興福寺による強訴には、僧兵に混じって春日社の神人も神木を奉じて参加しています。いわゆる「神木動座」であります。こうした強訴を成功に導びいたことから、春日社の神威が世間に注目されるという一面もありました。 保延元年(1135)、藤原摂関家が発願して春日若宮を創建しました。そして翌年から興福寺主導のもとに盛大な若宮祭(おん祭)を執り行うようになりました。ここに、ついに春日社と興福寺の一体化が実現しました。 一方で、春日社の4神に釈迦(不空羂索観音)・薬師・地蔵・十一面観音の各本地仏(神の真の姿とされる仏)が定められ、以降、春日信仰は仏教信仰と密接に係わりあいながら発展しました。また、興福寺は、春日社と合体することで各領地を統合した結果、大和一国の支配権を得ることとなり、鎌倉幕府より大和守護職に任じられるようになりました。 その興福寺が主催する春日若宮社の祭(おん祭)には、武士層や一般の人々も強い関心を寄せています。とくに舞楽や猿楽を愛好した足利義満は、たびたび若宮に参詣しています。さらに豊臣秀吉・秀長・徳川将軍家も、若宮を通じて春日社・興福寺を保護することとなります。 こうして中世、近世を通じて春日信仰は、皇室・藤原一族から武士や庶民にまでおよび、その範囲も大和一国から全国へと広がりました。 春日若宮おん祭の起源は、保延2年(1136)であります。当時は全国的な洪水や飢饉のために万民が苦しんでいるのを憂いて、時の関白藤原忠通が、春日若宮を春日野の仮御殿にお遷しして、数々の芸能を奉納し、若宮を丁重にお祀りしたところ、雨は止み、作物も豊穣となり、天下が無事におさまったので、以来、毎年行うことになりました。 |
『日本書紀』の天石窟(あめのいわや)の段には、中臣連の遠祖天児屋根命あるいは中臣神とも記され、当初より中臣氏の始祖とされて、神を称え、祝福し、神に祈る命として描かれています。また、一書(あるふみ)には興台産霊命(こごとむすびのみこと)の子とも記されています。 素盞鳴尊の高天原追放に際しては、天児屋根命に対して「解除(はらえ)の太諄辞(ふとのりと)を掌り(つかさどり)宣(の)らしめた」とあります。天孫降臨では『古事記』と同様「五部神(いつとものかみ)の一神(天津神籬(あまつひもろぎ)奉斎という祭祀をつかさどる神)」として登場しています。その一書(あるふみ)では、太玉命(布刀玉命)とともに天照大神を祀る神殿の守護神となるよう天照大神に命ぜられています。 天児屋根命は中臣氏の祖先神とされていますが、中臣氏とは神話の伝承からも、天津神と皇孫との間を取り持つ「仲執(なかとり)持つ」、すなわち神祇奉斎の一族ともいえます。『古事記伝』にも、名の意味は中執臣(なかとりおみ)とあります。 『中臣寿詞(なかとみのよごと)』にも「本末傾けず茂槍(いかほこ)の中執り持ちて仕え奉る云々」「中臣の遠つ祖(おや)天児屋根命、皇御孫(すめみま)の御前に仕へ奉りて」などと見え、中臣氏は古く宮廷祭祀にかかわる氏族でありました。 また、『日本書紀』の神功皇后摂政前紀には「中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して、審神者(さにわ)にす」と記しています。「さにわ」とはもとは神祭りの庭の意が転じて、神の言葉の翻訳・解釈をすることで、宮廷の神祭りの場に中臣氏がかかわっていた記述が見られます。のちの「神祇令(じんぎりょう)」には「中臣は祝詞を宣(の)れ」とあり、国家の祭祀での役所(やくどころ)が明記されています。 中臣氏の子孫に藤原氏があり、その氏神は春日大社であり、氏寺が興福寺であります。 |
高皇産霊(たかみむすび)尊が、葦原中津国の平定に遣わす神を誰にするかを神々に諮(はか)ったときに、推薦されたのが経津主神でありました。そこに武甕槌神が自分から志願して来たため、経津主神と武甕槌神の2神が出雲国五十田狭(いたき)の小汀(おはま)に天降り、大国主命とその御子神の事代主(ことしろぬし)神と交渉して、葦原中津国の平定をなし遂げました。 また、『日本書紀』の一書(あるふみ)によれば、経津主神は岐神(ふなとのかみ)に導かれて葦原中津国を巡り、反抗する者を征服したと語っています。 『古事記』には、建御雷之男神(たけみかづちのおかみ)(武甕槌神)が推薦を受けて天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とともに平定に遣わされたとされていますが、経津主神は登場していません。しかし、『古事記』では、建御雷之男神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)が伊邪那岐命(いざなぎのみこと)によって斬り殺されたときに、剣の鍔に付着した血が湯津石村(ゆついわむら)に飛び散ったところに生じたと伝えられ、『日本書紀』で語られる経津主神が生じた状況と類似しています。また、『古事記』では、建御雷之男神の別名として、「フツ」の語を含む神名が記されています。 さらに、『古事記』の神武東征の神話には、建御雷之男神が、熊野で苦境に陥っていた神武天皇に布都御魂(ふつのみたま)または佐士布都(さじふつ)神・甕布都(みかふつ)神という、やはり「フツ」の語を含む名の刀を授けたとされています。このように、経津主神と建御雷之男神とが同一神であるとの見方もあります。たしかにこの2神には深い関係があると思われます。 ともに藤原氏の氏神として春日大社に祀られているほか、東北鎮護の社として知られる?竈神社でも、ともに祀られています。経津主神(斎主神)を祀る千葉県佐原市の香取神宮は、 建御雷之男神を祀る鹿島神宮とは利根川を挟んで直線距離で十数キロという近さで鎮座しています。そして、ともに古来有数の軍神として有名であります。 また、香取神宮の12年に一度(午年の4月15日・16日)の式年神幸祭(軍神祭)では、香取神宮の神輿が甲冑武者などとともに利根川に舟渡御し、途中で鹿島神宮の出迎えを受けます。この祭りは、『日本書紀』に語られている経津主神と武甕槌神による葦原の中津国の平定の故事にちなむ祭りといわれています。 |
〔武甕槌神(たけみかづちのかみ)〕 |
伊邪那美尊(いざなみのみこと)が火の神軻遇突智(かぐつち)を産んだとき、その御子神の発する激しい火力によって陰部を焼かれます。そのときの火傷が原因となって伊邪那美尊は死んでしまいます。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那伎尊は十拳(とつか)剣を手にし、火之軻遇突智(かぐつち)神を斬り殺してしまいます。 |
(左) 御船祭(鹿島神社)の水上巡幸 (右)武甕槌神像 |
そのとき、剣の先から滴り落ちた血液が石に付着して、六柱の神々が誕生しました。武甕槌神は、その中のひと柱であります。建御雷之男神とか武甕雷神とも表記されるように、雷を神格化した神と考えられます。剣から産まれているのは、剣が稲光(雷)のシンボルとも考えられていたからです。 武甕槌神の活躍がみられるのは、国譲り神話であります。天照大神は、御子神の天忍穂耳命に葦原中国を統治させるため、まず使者を遣わして国津神の大国主神と交渉させました。3回目に派遣されたのが武甕槌神と天鳥船神(日本書紀では経津主神)であります。 出雲国稲佐の浜に降り立った武甕槌神は、大国主神に国譲りを申し入れます。すると、大国主神は、「ふたりの子供たちが同意するのであれば、異存はない」と答えました。 大国主神の上の御子神である事代主神(ことしろぬしのかみ)は、あっさりと国譲りに同意しました。だが、力自慢の弟、建御名方神(たけみなかたのかみ)が武甕槌神に力比べを挑(いど)んできました。まず、建御名方神が武甕槌神の手をつかんだところ、その手はたちまち氷柱に変じ、次に剣の刃に変わりました。すっかり怖気づいた建御名方神の手を、こんどは武甕槌神がつかむと、その手は若葦のように柔らかくなってしまい、簡単に投げ捨てられてしまいました。建御名方神は、信濃国の諏訪湖まで逃げのび、そこに留まることを条件に許されました。 |
【神・神社とその祭神】《XII》(その2)完 つづく |