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【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのVI) |
〔夢窓疎石(国師)〕(6) 〔南禅院庭園〕 〔等持院庭園〕 |
〔臨川寺(夢窓国師終焉の地)〕 |
北条氏も足利氏も、禅をみずからの国を治めていくときの拠り所としたことには、共通するものがあります。北条氏は建長寺、円覚寺とも、開山に渡来僧である蘭渓道隆(大覚国師)、無学祖元(仏光国師)を招いています。一方、足利尊氏・直義は天龍寺の開山には夢窓国師を請じています。 このように、建長寺、円覚寺の開創のころは、日本における臨済禅の歴史はまだ浅く、渡来僧をもってその教えを乞うという時代でありました。しかし、足利尊氏が天龍寺を開く時代には、夢窓国師のたゆまぬ努力によって臨済禅は日本に定着しました。 一方の曹洞禅は、もともとわが国の永平道元が入宋し、天童如浄の曹洞禅を伝えました。臨済禅よりいち早く、越前の志比の荘でわが国の禅を育て上げています。 この、わが国における臨済禅、曹洞禅の歴史上の大きな違いは、臨済禅は、つねに幕府をはじめとする中央政権と近い関係にありますが、一方の曹洞禅は、永平道元が天童如浄の教えにしたがって国王、大臣、高官など貴族社会と交わることを避けることを忠実に守り、京都から遠く離れた福井に修行道場を開き、純粋禅の高揚に力を注ぎました。 宝治3年(1249)には、当時の執権北条時頼に請じられて、鎌倉へと赴き菩薩戒を授けていますが、半年後に永平寺に帰山しています。この一度のみ、道元が権力者と接しています。 鎌倉、京都を中心に幕府と深い関係をもちながら、教線を広げていった臨済禅と、福井の山奥に修行の地を選んだ曹洞禅の違いがここにみられます。 暦応寺(のちの天龍寺)の造営が行われている暦応2年・延元4年(1339)には、細川和氏が阿波の秋月(現、香川県阿波郡土成町秋月)に補陀寺を建立し、国師を勧請し開山としています。 玉村本の『天龍寺造営記録』によると、康永元年・興国2年(1342)3月、同寺の礎始、7月に行われた建築用材の木引には、足利尊氏も出席して地曳祭が行われました。このときに寺名を「天龍寺」に変えています。8月に立柱し工事が本格的に始まりました。12月上棟、同月五山第二位に列せられています。 康永2年・興国4年8月、天龍寺の仏殿が完成しました。光厳上皇は上棟銘を書かれ、翌年の9月、光厳上皇は同寺に臨幸して工事を叡覧されています。 康永4年・貞和元年(1345)4月8日に法堂開きの法要が営まれています。また、後醍醐天皇の七回忌法要と天龍寺の落慶法要が、延暦寺の圧力により延期となり、同29日に尊氏・直義の出席のもとに挙行されました。このときには光明天皇の勅使も出席し華々しく執り行われています。翌30日には、光厳上皇が天龍寺に御幸しています。 |
南禅院庭園(拡大) |
この天龍寺の落慶法要は、足利尊氏将軍の率いる幕府の威信をかけてのものであっただけに、その盛大さはたいへんなものであったと『太平記』に記されています。 貞和2年・正平元年(1346)、国師72歳のとき「天龍寺十境」を定めています。同3月17日に、ふたたび光厳上皇が天龍寺に御幸しています。翌18日には、国師は天龍寺を弟子の無極志玄に託し、みずからは雲居庵に退きました。 無極志玄は、国師が鎌倉円覚寺の住持をしていたときに首座をつとめています。国師は南禅寺、臨川寺、天龍寺とすべて無極志玄に譲っています。11月に光明天皇は、国師より受衣し弟子となりますが、翌日には、天皇より「正覚」の国師号を授与されています。 貞和4年・正平3年、この年の10月にみずからの正師である高峰顕日(仏国国師)の三十三回忌の法要と、天龍寺の輪蔵落慶法要を行っています。 貞和6年・観応元年(1350)、国師七十六歳、この年の2月に光厳上皇、光明上皇の太皇后、皇太后は国師を招き、衣鉢と法名を受けています。このころから国師は体力の減退を感じていたのか、4月は病の床についています。10月、ついに尊氏・直義の兄弟の不和が決定的なものとなり、戦火を交える結果となりました。 観応2年・正平6年(1351)、国師77歳。正月17日足利尊氏・直義両者の不和の調停を試みましたが失敗に終わります。直義は鎌倉にて尊氏軍と争い破れてこの世を去りました。 この年の4月、国師は後醍醐天皇の十三回忌の年にあたり、再度天龍寺の住持となっています。そして、いまだに完成を見ていない天龍寺の僧堂を完成すべく力を注ぎ、同年の7月、大規模な僧堂の完成を果たし、開堂を行いました。ま、8月15日には光厳上皇より国師号「心宗」を拝受しています。 翌日の8月16日に後醍醐天皇の十三回忌法要をつとめると、翌日には、鼓を鳴らして天龍寺をふたたび退いて、臨川寺の三会院に隠居し世俗との接触を絶ちました。8月19日には渡来僧である東陵永?(とうりょうえいよ)(1284〜1365)が天龍寺の住持を継ぎました。 静かな最後の暮らしを願う国師の願いとは裏腹に、国師の生前に結縁を願う人びとが臨川寺に押し掛けました。そのため、8月24日に師弟の結縁を願う僧俗に布衣受戒を行いました。その数は2500人あまりに達したと記録されています。 9月1日には、みずからの最期を感じ、「吾れ行かんこと必せり。所疑有る者は、便(すなわ)ち請問せよ」といい、門弟に末期の垂示があることを告げました。 また、朝廷からの治療の申し出には、「老病は自然なり。医薬の救うところにあらず」と述べて断っています。9月7日、光厳・光明両上皇が三会院に臨幸して見舞われています。9月27日には、遺誡十数条を書いて門人に与え、同日に無極志玄を三会院の塔主に任じています。9月29日には告別の遺偈を残しています。 |
真浄界中無別離 真浄界中 別離なし、 何須再会待他時 何ぞ須(もち)いん再会して、他時を待つことを。 霊山付嘱在今日 霊山の付嘱は、今日に在り、 護法権威更仰誰 護法の権威、更に誰かを仰がん。 |
( 訳 真実で清らかな世界には別れなどない、何で再会の時を待ちわびるのか。その昔、お釈迦様が弟子の摩訶迦葉に寺のことを託したように、今弟子に託したのだ。寺のことはすべてここに頼むから、仏法を守ってゆくに相応しい後継者に従ってほしい) |
さらに辞世の頌として、 |
転身一路 転身の一路 横該堅抹 横該(おうがい)の堅抹(じゅまつ) 畢竟如何 畢竟(ひっきょう)如何 彭八刺札 彭八刺札(ほうはちらさつ) |
( 訳 私の旅立ってゆく道は、縦横無尽、すべてのところに行き渡っている。どうだ。エイ。この最期の転身の力を見よ) |
書き終えると国師は「老僧已に手臂(しゅひ)の不仁を覚ゆ。明日行かん」といいました。翌日9月30日。粥罷(しゅくは)(朝食)が終わって、天龍・臨川両寺の僧や遠方の僧(老宿)たちが来て、親しく別れを告げ、三会院南詢軒(なんじゅんけん)で泰然として遷化されました。世寿、77歳でありました。 数万の人々が父母を亡くしたときのように慟哭(どうこく)しました。門弟たちは、遺命により全身を三会院に葬り、平日切っていた爪髪を天龍寺の雲居庵に埋めました。国師の遺体を荼毘に付すと、粟粒大の舎利が多く残りました。国師の遷化を知った崇光天皇は、悲しみのあまり数日間政務をとらなかったと伝えられています。 |
当時、亀山上皇の兄の後深草上皇も健在で、両院並び立つ状況で、後深草天皇の皇子煕仁親王(伏見天皇)が後宇多天皇の皇太子に迎えられることになりました。この後継指名が、のちに皇位継承をめぐる大覚寺・持明院両統の対立の発端となりました。 亀山上皇はこうした世俗を捨て、洛東に築いた離宮・禅林寺殿に移って出家しました。東福寺3世の無関普門(大明国師)を開山として、南禅寺を創建しました。 離宮は「上の宮」とよばれて、法皇があたりの風光を愛し、庭を築いた地であります。いわゆるここが南禅寺発祥の地であります。 南禅寺の塔頭南禅院の池泉庭は、夢窓国師が後醍醐天皇の求めで、二度にわたって南禅寺の住持となったときに改修されたと思われます。 回遊式の池泉に、龍門瀑と坐禅石を配した構成は、国師の禅庭の要素を色濃く残しています。後醍醐天皇のかかわりにおいて、坐禅の場から純粋な観賞を目的とした要素が加えられるようになったと思われます。その最初が、南禅院庭園であるといわれます。 庭園は、方丈の西から南にかけて、瓢箪のような形の池を中心にして展開しています。南の池には小さな中島と大きな出島(もとは中島)が、西の池には三つの中島と出島があり、二つの池がつながるところに石橋が架かっています。池には、嵯峨・天龍寺の池と同じ曹源池の名があります。 方丈から南池をのぞむと、東山を背景に深い自然林に包みこまれた幽邃の庭であります。正面にある鶴島は、高さ1.2mの立石があり、蓬莱石を表現しています。 庭は池泉が中心で、滝は隅の方に組まれています。その位置関係は、鎌倉時代までの古い様式であります。鯉魚石(滝の上段)は丸い頭で水を受け、流れはやさしい表情みせています。滝石組(曹源泉)は、奇岩を縦横に組み、深山の滝を思わせます。高さは約2mのふたつの立石を中心に、下部に約1mの横石を配しています。 当時、亀山上皇の兄の後深草上皇も健在で、両院並び立つ状況で、後深草天皇の皇子煕仁親王(伏見天皇)が後宇多天皇の皇太子に迎えられることになりました。この後継指名が、のちに皇位継承をめぐる大覚寺・持明院両統の対立の発端となりました。 亀山上皇はこうした世俗を捨て、洛東に築いた離宮・禅林寺殿に移って出家しました。東福寺3世の無関普門(大明国師)を開山として、南禅寺を創建しました。 離宮は「上の宮」とよばれて、法皇があたりの風光を愛し、庭を築いた地であります。いわゆるここが南禅寺発祥の地であります。 南禅寺の塔頭南禅院の池泉庭は、夢窓国師が後醍醐天皇の求めで、二度にわたって南禅寺の住持となったときに改修されたと思われます。 回遊式の池泉に、龍門瀑と坐禅石を配した構成は、国師の禅庭の要素を色濃く残しています。後醍醐天皇のかかわりにおいて、坐禅の場から純粋な観賞を目的とした要素が加えられるようになったと思われます。その最初が、南禅院庭園であるといわれます。 庭園は、方丈の西から南にかけて、瓢箪のような形の池を中心にして展開しています。南の池には小さな中島と大きな出島(もとは中島)が、西の池には三つの中島と出島があり、二つの池がつながるところに石橋が架かっています。池には、嵯峨・天龍寺の池と同じ曹源池の名があります。 方丈から南池をのぞむと、東山を背景に深い自然林に包みこまれた幽邃の庭であります。正面にある鶴島は、高さ1.2mの立石があり、蓬莱石を表現しています。 庭は池泉が中心で、滝は隅の方に組まれています。その位置関係は、鎌倉時代までの古い様式であります。鯉魚石(滝の上段)は丸い頭で水を受け、流れはやさしい表情みせています。滝石組(曹源泉)は、奇岩を縦横に組み、深山の滝を思わせます。高さは約2mのふたつの立石を中心に、下部に約1mの横石を配しています。 方丈の建物は、元禄年間(1688〜1704)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の再興になるもので、御霊殿には亀山法皇像(重文)を安置しています。 国師の手が加えられた、洛西の西芳寺、天龍寺とともに、南禅院は京都の3名勝庭園のひとつに数えられています。 |
等持院庭園(拡大) |
〔臨川寺〕 |
臨川寺は、夢窓国師の廟所があることで知られています。この地はもと亀山天皇の離宮であった川端殿のあった場所で、亀山天皇の皇女の昭慶門院の御所となり、女院に養われた世良親王(後醍醐天皇の皇子)の離宮となりました。親王が早世したのち、後醍醐天皇は夢窓国師を開山に招き、建武2年(1335)、勅願寺として臨川禅寺を建立しました。これは天龍寺の開創に先立つこと4年、山号も天龍寺と同じ霊亀山と称し、天龍寺の開山堂としての地位を占めていました。 観応2年・正平6年(1351)、病を得た国師は臨川寺に移り、翌月臨川寺三会院において入寂しました。夢窓国師像を安置する開山堂の床下、蓮華形自然石の下に、国師の棺が納められています。 |
臨川寺三会院と龍華三会の庭(拡大) |
室町時代を通じ、京都十刹第二位の寺格を誇っていましたが、創建当初の堂宇は戦乱で焼失し、現在の三会院(本堂)は江戸時代の建立であります。 度重なる火災により焼失し、現在は中門・開山堂三会院・客殿だけが残っています。中門には足利義満筆の「三会院」の額がかかり、客殿の内部は狩野永徳が描いた襖絵「水墨花鳥図」が飾られています。現在の庭園は昭和に作られたものですが、白砂の中に三尊石組や十六羅漢をあらわす石組が配されています。 江戸中期の天明7年(1787)刊行の『拾遺都名所図会』に描かれる臨川寺の絵図には、大井川(大堰川)に面して広大な寺域を有し、開山堂の南側(右)には池泉庭か広がっていることがうかがえます。 |
(左)拾遺都名所図会嵯峨臨川寺(拡大) (右)夢窓国師墓所の蓮華石 |
《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】 完 つづく |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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