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●第60号メニュー(2010/12/19発行)

【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのVI)

〔夢窓疎石(国師)〕(6)  〔南禅院庭園〕 〔等持院庭園〕
〔臨川寺(夢窓国師終焉の地)〕

〔夢窓疎石(国師)〕(6)
 
 暦応2年・延元4年(1339)、国師が65歳の6月24日、西芳寺に移ってまだまもなくのことでありました。国師は「後醍醐天皇が僧形に身を変え、鳳輦に乗り、亀山の行宮に入られる夢を見た」と門弟に話していました。その後の8月16日に、後醍醐天皇は吉野の行宮で崩御されました。
 この報を受けた室町幕府は、7日間の喪に服し、足利尊氏は北朝の光厳上皇の勅を報じて、後醍醐天皇追修道場を嵯峨の亀山殿の地に開創し、夢窓国師を開山に迎えました。
 当初この寺は、光厳上皇により「霊亀山暦応資聖禅寺」と命名されました。この寺名にある暦応は当時の年号であり、また禅の名もつくことから、皇室から認められてつくられた禅寺であることを天下に示しいます。
 その後、同寺は、足利直義の夢に、金龍が南の河の中から現われたので、寺名を「天龍資聖禅寺」と改められました。足利尊氏・直義のめざす寺の規模は壮大であったため、現実には資金面などで苦労を重ね、スムースに建設が進みません。国師も光厳上皇の命により開山につきましたが、一ヶ月ほどでその座を退いてしまいました。当寺の建設には資金が少なく、中国・元との貿易船「天龍寺船」を再開し、その貿易による利益が寺院建立の資金に当てられました。
 足利一門の天龍寺建設への思いは非常に強いものがありました。足利幕府の力を世に示すためでもあり、壮大な伽藍を擁する寺院にする必要がありました。
 過去に、北条時頼(1229〜63)、時宗(1251〜84)が幕府を置いている鎌倉に、建長寺、円覚寺を建て、禅の教えを一門の拠り所としていたように、足利尊氏・直義も足利一門の拠り所となりうる禅寺を、幕府の開かれている京都に建立する必要がありました。
(左)足利尊氏像(拡大) (中)亀山上皇像(拡大) (右)後醍醐天皇像(拡大)
 
 北条氏も足利氏も、禅をみずからの国を治めていくときの拠り所としたことには、共通するものがあります。北条氏は建長寺、円覚寺とも、開山に渡来僧である蘭渓道隆(大覚国師)、無学祖元(仏光国師)を招いています。一方、足利尊氏・直義は天龍寺の開山には夢窓国師を請じています。
 このように、建長寺、円覚寺の開創のころは、日本における臨済禅の歴史はまだ浅く、渡来僧をもってその教えを乞うという時代でありました。しかし、足利尊氏が天龍寺を開く時代には、夢窓国師のたゆまぬ努力によって臨済禅は日本に定着しました。
 一方の曹洞禅は、もともとわが国の永平道元が入宋し、天童如浄の曹洞禅を伝えました。臨済禅よりいち早く、越前の志比の荘でわが国の禅を育て上げています。
 この、わが国における臨済禅、曹洞禅の歴史上の大きな違いは、臨済禅は、つねに幕府をはじめとする中央政権と近い関係にありますが、一方の曹洞禅は、永平道元が天童如浄の教えにしたがって国王、大臣、高官など貴族社会と交わることを避けることを忠実に守り、京都から遠く離れた福井に修行道場を開き、純粋禅の高揚に力を注ぎました。
宝治3年(1249)には、当時の執権北条時頼に請じられて、鎌倉へと赴き菩薩戒を授けていますが、半年後に永平寺に帰山しています。この一度のみ、道元が権力者と接しています。
 鎌倉、京都を中心に幕府と深い関係をもちながら、教線を広げていった臨済禅と、福井の山奥に修行の地を選んだ曹洞禅の違いがここにみられます。
 暦応寺(のちの天龍寺)の造営が行われている暦応2年・延元4年(1339)には、細川和氏が阿波の秋月(現、香川県阿波郡土成町秋月)に補陀寺を建立し、国師を勧請し開山としています。
 玉村本の『天龍寺造営記録』によると、康永元年・興国2年(1342)3月、同寺の礎始、7月に行われた建築用材の木引には、足利尊氏も出席して地曳祭が行われました。このときに寺名を「天龍寺」に変えています。8月に立柱し工事が本格的に始まりました。12月上棟、同月五山第二位に列せられています。 
 康永2年・興国4年8月、天龍寺の仏殿が完成しました。光厳上皇は上棟銘を書かれ、翌年の9月、光厳上皇は同寺に臨幸して工事を叡覧されています。
 康永4年・貞和元年(1345)4月8日に法堂開きの法要が営まれています。また、後醍醐天皇の七回忌法要と天龍寺の落慶法要が、延暦寺の圧力により延期となり、同29日に尊氏・直義の出席のもとに挙行されました。このときには光明天皇の勅使も出席し華々しく執り行われています。翌30日には、光厳上皇が天龍寺に御幸しています。
南禅院庭園(拡大)
 
 この天龍寺の落慶法要は、足利尊氏将軍の率いる幕府の威信をかけてのものであっただけに、その盛大さはたいへんなものであったと『太平記』に記されています。
 貞和2年・正平元年(1346)、国師72歳のとき「天龍寺十境」を定めています。同3月17日に、ふたたび光厳上皇が天龍寺に御幸しています。翌18日には、国師は天龍寺を弟子の無極志玄に託し、みずからは雲居庵に退きました。
 無極志玄は、国師が鎌倉円覚寺の住持をしていたときに首座をつとめています。国師は南禅寺、臨川寺、天龍寺とすべて無極志玄に譲っています。11月に光明天皇は、国師より受衣し弟子となりますが、翌日には、天皇より「正覚」の国師号を授与されています。
 貞和4年・正平3年、この年の10月にみずからの正師である高峰顕日(仏国国師)の三十三回忌の法要と、天龍寺の輪蔵落慶法要を行っています。
 貞和6年・観応元年(1350)、国師七十六歳、この年の2月に光厳上皇、光明上皇の太皇后、皇太后は国師を招き、衣鉢と法名を受けています。このころから国師は体力の減退を感じていたのか、4月は病の床についています。10月、ついに尊氏・直義の兄弟の不和が決定的なものとなり、戦火を交える結果となりました。
 観応2年・正平6年(1351)、国師77歳。正月17日足利尊氏・直義両者の不和の調停を試みましたが失敗に終わります。直義は鎌倉にて尊氏軍と争い破れてこの世を去りました。
 この年の4月、国師は後醍醐天皇の十三回忌の年にあたり、再度天龍寺の住持となっています。そして、いまだに完成を見ていない天龍寺の僧堂を完成すべく力を注ぎ、同年の7月、大規模な僧堂の完成を果たし、開堂を行いました。ま、8月15日には光厳上皇より国師号「心宗」を拝受しています。
 翌日の8月16日に後醍醐天皇の十三回忌法要をつとめると、翌日には、鼓を鳴らして天龍寺をふたたび退いて、臨川寺の三会院に隠居し世俗との接触を絶ちました。8月19日には渡来僧である東陵永?(とうりょうえいよ)(1284〜1365)が天龍寺の住持を継ぎました。
 静かな最後の暮らしを願う国師の願いとは裏腹に、国師の生前に結縁を願う人びとが臨川寺に押し掛けました。そのため、8月24日に師弟の結縁を願う僧俗に布衣受戒を行いました。その数は2500人あまりに達したと記録されています。
 9月1日には、みずからの最期を感じ、「吾れ行かんこと必せり。所疑有る者は、便(すなわ)ち請問せよ」といい、門弟に末期の垂示があることを告げました。
 また、朝廷からの治療の申し出には、「老病は自然なり。医薬の救うところにあらず」と述べて断っています。9月7日、光厳・光明両上皇が三会院に臨幸して見舞われています。9月27日には、遺誡十数条を書いて門人に与え、同日に無極志玄を三会院の塔主に任じています。9月29日には告別の遺偈を残しています。
南禅院庭園(拡大左)(拡大右)
 
 真浄界中無別離  真浄界中 別離なし、
 何須再会待他時  何ぞ須(もち)いん再会して、他時を待つことを。
 霊山付嘱在今日  霊山の付嘱は、今日に在り、
 護法権威更仰誰  護法の権威、更に誰かを仰がん。
( 訳 真実で清らかな世界には別れなどない、何で再会の時を待ちわびるのか。その昔、お釈迦様が弟子の摩訶迦葉に寺のことを託したように、今弟子に託したのだ。寺のことはすべてここに頼むから、仏法を守ってゆくに相応しい後継者に従ってほしい)
さらに辞世の頌として、
 転身一路  転身の一路
 横該堅抹  横該(おうがい)の堅抹(じゅまつ)
 畢竟如何  畢竟(ひっきょう)如何
 彭八刺札  彭八刺札(ほうはちらさつ)
( 訳 私の旅立ってゆく道は、縦横無尽、すべてのところに行き渡っている。どうだ。エイ。この最期の転身の力を見よ)
書き終えると国師は「老僧已に手臂(しゅひ)の不仁を覚ゆ。明日行かん」といいました。翌日9月30日。粥罷(しゅくは)(朝食)が終わって、天龍・臨川両寺の僧や遠方の僧(老宿)たちが来て、親しく別れを告げ、三会院南詢軒(なんじゅんけん)で泰然として遷化されました。世寿、77歳でありました。 
 数万の人々が父母を亡くしたときのように慟哭(どうこく)しました。門弟たちは、遺命により全身を三会院に葬り、平日切っていた爪髪を天龍寺の雲居庵に埋めました。国師の遺体を荼毘に付すと、粟粒大の舎利が多く残りました。国師の遷化を知った崇光天皇は、悲しみのあまり数日間政務をとらなかったと伝えられています。
 
〔南禅院庭園〕
 
 亀山上皇が正応2年(1289)9月、髪を落として法皇となって以来、嘉元3年(1305)、嵯峨の亀山殿で亡くなるまで過ごしたのが、南禅寺の塔頭・南禅院であります。
 亀山法皇は建長元年(1249)、後嵯峨天皇の第4皇子として生まれました。母は大宮院藤原?子です。正元元年(1259)、兄で第3皇子だった後深草天皇のあとをうけて即位します。
父の後嵯峨上皇は、後深草天皇よりも、若くして儒学を好み和歌をよくした亀山天皇を高く評価していました。蒙古襲来に際しては身をもって国難にあたり、伊勢神宮に敵国降伏の祈願を行っています。天皇は文永11年(1274)に、在位15年で皇太子の世仁親王(後宇多天皇)に譲位しています。
(左)天授院庭園(拡大) (右)南禅院庭園滝石組(拡大)
   
 当時、亀山上皇の兄の後深草上皇も健在で、両院並び立つ状況で、後深草天皇の皇子煕仁親王(伏見天皇)が後宇多天皇の皇太子に迎えられることになりました。この後継指名が、のちに皇位継承をめぐる大覚寺・持明院両統の対立の発端となりました。
亀山上皇はこうした世俗を捨て、洛東に築いた離宮・禅林寺殿に移って出家しました。東福寺3世の無関普門(大明国師)を開山として、南禅寺を創建しました。
離宮は「上の宮」とよばれて、法皇があたりの風光を愛し、庭を築いた地であります。いわゆるここが南禅寺発祥の地であります。
南禅寺の塔頭南禅院の池泉庭は、夢窓国師が後醍醐天皇の求めで、二度にわたって南禅寺の住持となったときに改修されたと思われます。
 回遊式の池泉に、龍門瀑と坐禅石を配した構成は、国師の禅庭の要素を色濃く残しています。後醍醐天皇のかかわりにおいて、坐禅の場から純粋な観賞を目的とした要素が加えられるようになったと思われます。その最初が、南禅院庭園であるといわれます。
 庭園は、方丈の西から南にかけて、瓢箪のような形の池を中心にして展開しています。南の池には小さな中島と大きな出島(もとは中島)が、西の池には三つの中島と出島があり、二つの池がつながるところに石橋が架かっています。池には、嵯峨・天龍寺の池と同じ曹源池の名があります。
 方丈から南池をのぞむと、東山を背景に深い自然林に包みこまれた幽邃の庭であります。正面にある鶴島は、高さ1.2mの立石があり、蓬莱石を表現しています。
 庭は池泉が中心で、滝は隅の方に組まれています。その位置関係は、鎌倉時代までの古い様式であります。鯉魚石(滝の上段)は丸い頭で水を受け、流れはやさしい表情みせています。滝石組(曹源泉)は、奇岩を縦横に組み、深山の滝を思わせます。高さは約2mのふたつの立石を中心に、下部に約1mの横石を配しています。
当時、亀山上皇の兄の後深草上皇も健在で、両院並び立つ状況で、後深草天皇の皇子煕仁親王(伏見天皇)が後宇多天皇の皇太子に迎えられることになりました。この後継指名が、のちに皇位継承をめぐる大覚寺・持明院両統の対立の発端となりました。
亀山上皇はこうした世俗を捨て、洛東に築いた離宮・禅林寺殿に移って出家しました。東福寺3世の無関普門(大明国師)を開山として、南禅寺を創建しました。
離宮は「上の宮」とよばれて、法皇があたりの風光を愛し、庭を築いた地であります。いわゆるここが南禅寺発祥の地であります。
南禅寺の塔頭南禅院の池泉庭は、夢窓国師が後醍醐天皇の求めで、二度にわたって南禅寺の住持となったときに改修されたと思われます。
 回遊式の池泉に、龍門瀑と坐禅石を配した構成は、国師の禅庭の要素を色濃く残しています。後醍醐天皇のかかわりにおいて、坐禅の場から純粋な観賞を目的とした要素が加えられるようになったと思われます。その最初が、南禅院庭園であるといわれます。
 庭園は、方丈の西から南にかけて、瓢箪のような形の池を中心にして展開しています。南の池には小さな中島と大きな出島(もとは中島)が、西の池には三つの中島と出島があり、二つの池がつながるところに石橋が架かっています。池には、嵯峨・天龍寺の池と同じ曹源池の名があります。
 方丈から南池をのぞむと、東山を背景に深い自然林に包みこまれた幽邃の庭であります。正面にある鶴島は、高さ1.2mの立石があり、蓬莱石を表現しています。
 庭は池泉が中心で、滝は隅の方に組まれています。その位置関係は、鎌倉時代までの古い様式であります。鯉魚石(滝の上段)は丸い頭で水を受け、流れはやさしい表情みせています。滝石組(曹源泉)は、奇岩を縦横に組み、深山の滝を思わせます。高さは約2mのふたつの立石を中心に、下部に約1mの横石を配しています。
 方丈の建物は、元禄年間(1688〜1704)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の再興になるもので、御霊殿には亀山法皇像(重文)を安置しています。
 国師の手が加えられた、洛西の西芳寺、天龍寺とともに、南禅院は京都の3名勝庭園のひとつに数えられています。
等持院庭園(拡大)
 
〔等持院庭園〕
 
 等持院は、衣笠山の南麓に立地する足利将軍家ゆかりの寺院です。室町時代に、京都十刹筆頭の格式を誇った等持寺の法灯を継ぎ、臨済宗天龍寺派に属しています。山号を万年山と称します。
 建武新政崩壊後に幕府を開いた足利尊氏は、暦応2年・延元4年(1339)、みずからの居館(幕府)の近くに、幕府の官寺としての体裁を整えた等持寺を創建しました。それから2年後に、尊氏は将兵の追善供養のための寺院建立を発願し、夢窓国師を開山に招いて、衣笠山麓に別院を創建しました。これが等持院の起こりであります。一般には、幕府近くの等持寺を南等持寺とよび、別院の方を北等持寺と呼んでいます。延文3年・正平13年(1358)4月に没した尊氏の葬儀が行われたのは北等持寺であります。このとき、尊氏の法号にちなみ、寺号を等持院と改めました。
 古絵図によれば、創建当初の伽藍は広大なもので、26の堂宇が甍を並べています。その後、火災で全山焼失してしまいます。
 尊氏百年忌の長禄元年(1457)に、8代将軍足利義政が再興しました。応仁の乱後、洛中にあった等持寺は衰え、洛西の等持院が本院となりました。現在の建物のうち、方丈は元和2年(1616)、福間正則により妙心寺塔頭の海福院から移されたものであります。その他の諸堂は、江戸後期以後の建築であります。
 方丈の東側には霊光殿があり、尊氏が念持仏とした本尊の地蔵菩薩像、夢窓国師像、徳川家康像、足利将軍像13体(5代義量と14代義栄を欠く)などの彫像が安置されています。室町後期から江戸初期に造立された歴代の像が並ぶさまは圧巻であります。
 庭園は、東側の心字池と西側の芙蓉池から構成され、ともに無窓国師の作庭と伝えられています。東の庭には三つの島が浮かび,いちばん大きな蓬莱島には、かつては妙音閣という楼閣が建っていましたが、現在は礎石がその存在を示しています。
 西の芙蓉池は、足利義政が手を加えたといわれ、北側には清漣亭という古い時代の茶室遺構が残っています。また、心字池と芙蓉池の間に、足利尊氏の墓と伝える宝篋印塔が山茶花の垣に囲まれて立っています。台座には「延文三年(1358)四月」の文字が刻まれ、尊氏が薨去した年月と一致しています。
等持院庭園(拡大左)(拡大右)
 
〔臨川寺〕
 
 臨川寺は、夢窓国師の廟所があることで知られています。この地はもと亀山天皇の離宮であった川端殿のあった場所で、亀山天皇の皇女の昭慶門院の御所となり、女院に養われた世良親王(後醍醐天皇の皇子)の離宮となりました。親王が早世したのち、後醍醐天皇は夢窓国師を開山に招き、建武2年(1335)、勅願寺として臨川禅寺を建立しました。これは天龍寺の開創に先立つこと4年、山号も天龍寺と同じ霊亀山と称し、天龍寺の開山堂としての地位を占めていました。
 観応2年・正平6年(1351)、病を得た国師は臨川寺に移り、翌月臨川寺三会院において入寂しました。夢窓国師像を安置する開山堂の床下、蓮華形自然石の下に、国師の棺が納められています。
臨川寺三会院と龍華三会の庭(拡大)
 
 室町時代を通じ、京都十刹第二位の寺格を誇っていましたが、創建当初の堂宇は戦乱で焼失し、現在の三会院(本堂)は江戸時代の建立であります。
 度重なる火災により焼失し、現在は中門・開山堂三会院・客殿だけが残っています。中門には足利義満筆の「三会院」の額がかかり、客殿の内部は狩野永徳が描いた襖絵「水墨花鳥図」が飾られています。現在の庭園は昭和に作られたものですが、白砂の中に三尊石組や十六羅漢をあらわす石組が配されています。
 江戸中期の天明7年(1787)刊行の『拾遺都名所図会』に描かれる臨川寺の絵図には、大井川(大堰川)に面して広大な寺域を有し、開山堂の南側(右)には池泉庭か広がっていることがうかがえます。
(左)拾遺都名所図会嵯峨臨川寺(拡大) (右)夢窓国師墓所の蓮華石
 

《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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