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●第65号メニュー(2012/5/20発行) |
【日本の名庭を訪ねて】《そのU》 |
〔慈照寺(銀閣寺)の庭園〕 《足利義政と慈照寺の庭》 |
〔はじめに〕 〔パート1〕 〔パート2〕 〔パート3〕 〔パート4〕 |
義政は政界を引退し、自由の身となって理想の美を追求する山荘経営を真剣に考えるようになります。妻富子には男子が無かったため、寛正5年(1464)に、僧となっていた弟を還俗させ義視と名乗らせ後継者としました。しかし、翌年、富子が義尚を生み、わが子を将軍職につけようと山名宗全に頼ったことから、義視を擁護する細川勝元と鋭く対立することになります。それに管領家の斯波・畠山両氏や諸大名の家督争いが結びついて応仁・文明の乱(1467〜77)が勃発しました。 戦乱で山荘建設の中止を余儀なくされますが、義政の制作意欲はやむことがありません。宗全・勝元両名の死で乱がおさまると将軍職を義尚に譲り、東山山麓に焼亡した浄土寺跡地に、待望の山荘造営に着手しました。 文明15年(1483)に常御所が完成するとそこに移り住み、後土御門天皇より東山殿の名を賜わっています。同17年に禅室としての西指庵が完成します。義政は剃髪し、法号を慈照院喜山道慶と称しました。 東山殿の建物と庭園には、義政がすべて規範とした西芳寺を手本としながら、背景の月待山をいかし、浄土信仰や蓬莱神仙思想を取り入れた独自のものにしています。 作庭にあたり、義政が最も信頼したのは善阿弥であります。才能があれば技芸集団の同胞衆として重く用いています。善阿弥の作庭の腕を評価し、相国寺の陰涼軒、花の御所の泉殿、高倉御所の泉水などの作庭を任せています。 |
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【パートT】 |
足利義政の新しい山荘の地に選ばれたのは、応仁の乱で焼失した浄土寺の跡で墓地が設けられていました。この寺は比叡山延暦寺の末寺で、義政の弟義視が門主であったことに関係します。 この時、義政は無断でこの土地を没収し、山荘を経営しようとしたので、延暦寺は彼の専横に対し、「浄土寺は蓮下無比の霊地であるにもかかわらず、墓をあばき山荘を造営するとは、仏罰に値するものである」と義政の後継将軍義尚に強く抗議をしています。それでもなお、義政がこの地にこだわったのは、この土地の風致の良さが義政の心を魅了したことによります。 乱後の変動の激しい時期にあって、造営のための経費、資材、労力などの不足により、工事は極めて難航し、建設期間は文明14年(1482)から延徳2年(1490)に義政が死去するまでの長期にわたりました。 特に建設費は、「山荘要脚段銭」という臨時課税で賄う予定でしたが、国々の財政はとこも苦しく、なかなか徴税は思うように行きません。やむなく大寺大社、公家や豪族の荘園から強引に役夫を駆り出し、また用材の調達を行ないました。 また日明貿易であげた利益、関所を通行する人馬から徴発する関銭、はては酒屋や土倉など、洛中の富商、金貸しから応分の寄附を求めるといった民衆からの掻き集めた資金を湯水のごとく費やして造営にあたったため、多くの怨嗟の声があがっています。 (1484)には、等持院から多数の松樹を東山殿に移植しています。それの運搬にあたって院の壁と廊下を破壊して行ないました。 文明18年(1486)には、奈良の長谷寺から多数の檜樹を移植しています。また京都の東寺から大量の蓮を、金閣寺より庭石10個を東山殿に運び込んでいます。さらに翌年には長谷寺から檜樹を運び、また小川弟跡、室町弟跡、仙洞御所跡からは庭石を徴集しています。 長享2年 (1488)には、仙洞御所跡から松樹を、金閣寺と建仁寺から岩石を運び、特に松樹は二回にわたりそれぞれに人夫千人と二千人を使って運ばせています。 |
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東求堂より錦鏡池の白鶴島を望む(拡大) |
翌年には、奈良の大乗院から梅樹2本と松樹を、花御所跡から多数の人夫によって松樹3本を、奈良の西南院から松樹1本を、また一乗院からも松樹1本を運ばせています。 このような著名な邸宅や寺院からの石木献上は、ほとんど無償であり、樹石を徴収されるのみならず、それらの運搬に必要な人夫まで課せられたのです。特に奈良の寺院は、遠く京都まで庭樹を運ばなければならなかったので、その負担に耐えられない状態にあり、奈良で最も有力な大乗院ですら「樹木は望みのまま献上するが人夫は断わりたい」との意向を表明しています。にもかかわらず、多くの場合、有無を言わせずに人夫を課して実行させたので、義政の専横に対して悪感情をあらわにしています。 長享元年(1487)に長谷寺から檜樹を東山殿へ送ったとき、尋尊僧正は彼の日記に「毎々これを仰せいださるは迷惑のことなり」と記しております。翌年に大乗院の越智家栄が庭樹を輸送した時は「大儀是非もなきものなり」と記しています。このような悪感情に対して身分の低かった庭師に樹石を検分させたこともあり、寺院と義政との間に争いが生じています。 長享2年(1488)とその翌年に、義政は、庭師を興福寺諸院坊へ下向させ、庭園を検分させました。寺格の高い一乗院の中を、庭師がわがもの顔で歩き回ることで、ついに一乗院は庭師を締め出し、検分を拒絶しました。義政はこのことに非常に立腹し、幕府に命じて一乗院の山城西院荘を没収しています。 このように、都周辺の著名な樹石を半ば強制的に徴収した結果、山荘が完成したときには、諸建築が自然と人工を駆使した庭に配されて、乱後の荒廃した京の町とは別世界の景観を作り出しました。 しかし、義政は銀閣の完成を待たずにこの世を去っています。長享2年(1488)の春、長年の酒びたりのため、脳溢血が悪化します。その後、病症は一進一退の経過をたどり、7月には病気平癒の祈祷を諸寺院に命じています。それでも銀閣の造営に打ち込んでいます。翌年4月には中風が再発し左半身不随となり、身動きができなくなりますが、不例平癒の祈祷が続けられています。このときも銀閣の造営は急ピッチですすめられていました。 僧侶らの平癒祈願のかいもなく、銀閣上棟の翌年、延徳2年(1490)1月7日、わずか5人の僧侶と、形式的に付き添っていた人々に見守られながら、ついに銀閣の完成を見ることなく淋しく旅たったのでした。享年55歳でこの世を去っています。 |
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銀閣より錦鏡池の仙人洲を望む(拡大) |
【日本の名庭を訪ねて】(そのU) 完 つづく |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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