号数索引 創刊号 第2号 第3号 第4号 第5号 第6号
  第7号 第8号 第9号 第10号 第11号 第12号
平成19年 第13号 第14号 第15号 第16号 第17号 第18号
  第19号 第20号 第21号 第22号 第23号 第24号
平成20年 第25号 第26号 第27号 第28号 第29号 第30号
  第31号 第32号

第33号

第34号 第35号 第36号
平成21年 第37号 第38号 第39号 第40号 第41号 第42号
  第43号 第44号 第45号 第46号 第47号 第48号
平成22年 第49号 第50号 第51号 第52号 第53号 第54号
  第55号 第56号 第57号 第58号 第59号 第60号
平成23年 第61号          
             
平成24年 第62号 第63号 第64号

第65号

   

●第65号メニュー(2012/5/20発行)

【日本の名庭を訪ねて】《そのU》

〔慈照寺(銀閣寺)の庭園〕 《足利義政と慈照寺の庭》
〔はじめに〕 〔パート1〕 〔パート2〕 〔パート3〕 〔パート4〕

【はじめに】
 
 慈照寺庭園(銀閣寺)は室町幕府第8代将軍足利義政の別荘東山殿の庭園でありました。第3代将軍足利義満の山荘であった鹿苑寺庭園(金閣寺)より80年後に造営されています。
 8代将軍義政は3代将軍義満の孫です。その間、義満の次にはその子義持(4代)、その子義量(5代)と続きますが、6代は義持の弟義教が将軍になり、7代は義教の子の義勝が立ち、その次には義勝の弟義政が家督をついで8代となっています。
 足利氏も3代までは充分に、将軍家らしい威厳がありましたが、6代義教に至ると管領赤松満祐に暗殺されるという悲劇があり、足利の家運に大きな傾きが見えてきます。
 父の暗殺、兄の早世により足利義政が将軍家の家督を継いだのはわずか9歳の時でありました。14歳で元服、室町幕府第8代将軍となりますが、各地で天災が続き、土一揆が頻発します。権力拡大をはかる守護大名たちが抗争を繰り返します。足利幕府の権勢は目に見えて衰えていく時代でありました。
 義政のまわりを、乳母の今参局、母の重子、側近らが取り巻いて口を出し、日野富子を正室に迎えてからも政治は混迷を深めていきます。野心の少なかった義政は、権謀術数がうずまく政治を次第に疎ましく思うようになり、現実から逃れるように建築や作庭に熱中しました。自邸の万里小路殿に庭を作り、高倉御所には西芳寺を模した庭を造ります。それは、母重子が西芳寺の庭の評判を聞いて一見を望みますが、当時、西芳寺は女人禁制であったので叶わず、義政が母のために再現した庭でありました。
(左)足利義政木像(拡大) (中)錦鏡池から東求堂を望む(拡大) (右)錦鏡池から銀閣を望む(拡大) 
 
 義政は政界を引退し、自由の身となって理想の美を追求する山荘経営を真剣に考えるようになります。妻富子には男子が無かったため、寛正5年(1464)に、僧となっていた弟を還俗させ義視と名乗らせ後継者としました。しかし、翌年、富子が義尚を生み、わが子を将軍職につけようと山名宗全に頼ったことから、義視を擁護する細川勝元と鋭く対立することになります。それに管領家の斯波・畠山両氏や諸大名の家督争いが結びついて応仁・文明の乱(1467〜77)が勃発しました。
 戦乱で山荘建設の中止を余儀なくされますが、義政の制作意欲はやむことがありません。宗全・勝元両名の死で乱がおさまると将軍職を義尚に譲り、東山山麓に焼亡した浄土寺跡地に、待望の山荘造営に着手しました。
 文明15年(1483)に常御所が完成するとそこに移り住み、後土御門天皇より東山殿の名を賜わっています。同17年に禅室としての西指庵が完成します。義政は剃髪し、法号を慈照院喜山道慶と称しました。
 東山殿の建物と庭園には、義政がすべて規範とした西芳寺を手本としながら、背景の月待山をいかし、浄土信仰や蓬莱神仙思想を取り入れた独自のものにしています。
 作庭にあたり、義政が最も信頼したのは善阿弥であります。才能があれば技芸集団の同胞衆として重く用いています。善阿弥の作庭の腕を評価し、相国寺の陰涼軒、花の御所の泉殿、高倉御所の泉水などの作庭を任せています。
(左)都林泉名勝図会(拡大) (中)東山殿復元図(拡大) (右)銀閣寺庭園図(拡大)
 
【パートT】
 
 足利義政の新しい山荘の地に選ばれたのは、応仁の乱で焼失した浄土寺の跡で墓地が設けられていました。この寺は比叡山延暦寺の末寺で、義政の弟義視が門主であったことに関係します。
 この時、義政は無断でこの土地を没収し、山荘を経営しようとしたので、延暦寺は彼の専横に対し、「浄土寺は蓮下無比の霊地であるにもかかわらず、墓をあばき山荘を造営するとは、仏罰に値するものである」と義政の後継将軍義尚に強く抗議をしています。それでもなお、義政がこの地にこだわったのは、この土地の風致の良さが義政の心を魅了したことによります。
 乱後の変動の激しい時期にあって、造営のための経費、資材、労力などの不足により、工事は極めて難航し、建設期間は文明14年(1482)から延徳2年(1490)に義政が死去するまでの長期にわたりました。
 特に建設費は、「山荘要脚段銭」という臨時課税で賄う予定でしたが、国々の財政はとこも苦しく、なかなか徴税は思うように行きません。やむなく大寺大社、公家や豪族の荘園から強引に役夫を駆り出し、また用材の調達を行ないました。
 また日明貿易であげた利益、関所を通行する人馬から徴発する関銭、はては酒屋や土倉など、洛中の富商、金貸しから応分の寄附を求めるといった民衆からの掻き集めた資金を湯水のごとく費やして造営にあたったため、多くの怨嗟の声があがっています。
 (1484)には、等持院から多数の松樹を東山殿に移植しています。それの運搬にあたって院の壁と廊下を破壊して行ないました。
 文明18年(1486)には、奈良の長谷寺から多数の檜樹を移植しています。また京都の東寺から大量の蓮を、金閣寺より庭石10個を東山殿に運び込んでいます。さらに翌年には長谷寺から檜樹を運び、また小川弟跡、室町弟跡、仙洞御所跡からは庭石を徴集しています。
 長享2年 (1488)には、仙洞御所跡から松樹を、金閣寺と建仁寺から岩石を運び、特に松樹は二回にわたりそれぞれに人夫千人と二千人を使って運ばせています。
東求堂より錦鏡池の白鶴島を望む(拡大)
 
 翌年には、奈良の大乗院から梅樹2本と松樹を、花御所跡から多数の人夫によって松樹3本を、奈良の西南院から松樹1本を、また一乗院からも松樹1本を運ばせています。
 このような著名な邸宅や寺院からの石木献上は、ほとんど無償であり、樹石を徴収されるのみならず、それらの運搬に必要な人夫まで課せられたのです。特に奈良の寺院は、遠く京都まで庭樹を運ばなければならなかったので、その負担に耐えられない状態にあり、奈良で最も有力な大乗院ですら「樹木は望みのまま献上するが人夫は断わりたい」との意向を表明しています。にもかかわらず、多くの場合、有無を言わせずに人夫を課して実行させたので、義政の専横に対して悪感情をあらわにしています。
 長享元年(1487)に長谷寺から檜樹を東山殿へ送ったとき、尋尊僧正は彼の日記に「毎々これを仰せいださるは迷惑のことなり」と記しております。翌年に大乗院の越智家栄が庭樹を輸送した時は「大儀是非もなきものなり」と記しています。このような悪感情に対して身分の低かった庭師に樹石を検分させたこともあり、寺院と義政との間に争いが生じています。
 長享2年(1488)とその翌年に、義政は、庭師を興福寺諸院坊へ下向させ、庭園を検分させました。寺格の高い一乗院の中を、庭師がわがもの顔で歩き回ることで、ついに一乗院は庭師を締め出し、検分を拒絶しました。義政はこのことに非常に立腹し、幕府に命じて一乗院の山城西院荘を没収しています。
 このように、都周辺の著名な樹石を半ば強制的に徴収した結果、山荘が完成したときには、諸建築が自然と人工を駆使した庭に配されて、乱後の荒廃した京の町とは別世界の景観を作り出しました。
 しかし、義政は銀閣の完成を待たずにこの世を去っています。長享2年(1488)の春、長年の酒びたりのため、脳溢血が悪化します。その後、病症は一進一退の経過をたどり、7月には病気平癒の祈祷を諸寺院に命じています。それでも銀閣の造営に打ち込んでいます。翌年4月には中風が再発し左半身不随となり、身動きができなくなりますが、不例平癒の祈祷が続けられています。このときも銀閣の造営は急ピッチですすめられていました。
僧侶らの平癒祈願のかいもなく、銀閣上棟の翌年、延徳2年(1490)1月7日、わずか5人の僧侶と、形式的に付き添っていた人々に見守られながら、ついに銀閣の完成を見ることなく淋しく旅たったのでした。享年55歳でこの世を去っています。
銀閣より錦鏡池の仙人洲を望む(拡大)
 
【パートU】
 
 足利義政が東山殿を造るに当たっては、彼の愛していた最高の作庭家善阿弥を度々西芳寺に使いして調査をさせたり、西芳寺の西に対して東山殿の東をとり、西芳寺の指東庵に対して、東山殿には西指庵を造っています。また、西来堂に対して東求堂を造り、西芳寺の瑠璃殿を模して銀閣(観音殿)を設けました。
義政は、夢窓国師を崇拝し、国師ゆかりの西芳寺庭園を何度となく訪れています。下部に池の庭を上部に枯山水を築いた上下二段式の構成や、建物の名称・配置などを、西芳寺の構成に倣って造営されました。
この東山殿には、今日保存されているのは銀閣と東求堂で、境内の西南の角と東北の角とを結んでいます。そしてかつては会所があって、それらの建物をぬって作庭されています。しかし、今日の銀閣庭園は、室町末期の内乱で大いに荒廃し、元和元年(1615)に、宮城丹波守豊盛が大改修を行なっています。
しかし現在の庭を見ると、東求堂前の中島を中心とする辺りから、仙月泉の滝付近にかけての石組は、義政時代の初期の手法が保存されているので、元和の改修はその南西部にかけてのものであったことがわかります。それのみでなく、今の書院の前方銀沙灘の南部の護岸を中心に、銀閣付近の石組には、江戸中期頃の手法も見られますので、度々の改修のあったことがわかります。
銀沙灘と方丈との間を進むと、青松に取り囲まれた錦鏡池のほとりに達します。そして池の周囲には変化に富んだ石組みが見られます。中程でくびれた形の池は二つの中島をもち、白鶴島や仙人洲など蓬莱の世界にちなんだ名が付けられています。 
池の西端に銀閣(観音殿)が、北端に東求堂が対峙するように建っています。その間に池をめぐりながら回遊式庭園が展開しています。
東求堂から見る庭園の景観の中心は何といっても白鶴島であります。鶴の胴部をあらわす島から、翼のように左右にのびる石橋は、薄く軽やかな印象であります。右の橋は仙袖橋、左は仙桂橋と呼ばれ、両翼を広げて飛ぶ鶴の姿を表現しています。池の護岸石組や苑路に沿った土留めの石組などは当初の姿を伝えています。仙桂橋は中央に橋脚を立て、2枚連結式の石橋であります。仙袖橋越しの左手の奥に低く滝が落ち、その奥に臥雲橋が架かり、さらに奥の高みからは仙月泉の滝があります。
白鶴島正面にある三尊石組は、西芳寺の霞形中島の三尊石組、金閣寺の葦原島の三尊石組と類似しています。また、石橋の手法には天龍寺の石橋と共通するものがあります。
銀閣の前の池は江戸期に大きく改変されています。現在の池は中央に石橋を渡した中島の仙人洲が一幅の絵のような景観を見せています。そこに架けられている石橋もどれも個性豊かであります。橋挟み石の典型的な石組みの濯錦橋、薄く横一文字の迎仙橋、ふたつの切石を連ねた分界橋があります。
現在、錦鏡池は7か所に石橋が架かり、石橋の庭の観があります。また、庭の見所も石橋がらみであります。また、四つの浮島があり、義政が集めた名石が配されています。
錦鏡池の東端の山裾に築かれた滝は洗月泉と呼ばれ、山から流れ落ちる水を、下段に広がる錦鏡池へと導水しています。
(左)仙袖橋(拡大) (中)濯錦橋(拡大) (右)分界橋(拡大)
 
【パートV】
 
洗月泉を後にしてつづら折りに山路を登ると、苑路はつづき泉のあるお茶の井の相君泉に至ります。このあたりはかつての漱蘚亭がありその庭園の跡と考えられ、泉の付近に禅室西指庵があったと推定されています。義政はこの泉の水を汲んで茶の湯に用いています。相君泉の石組は茶の湯の蹲踞の原型とされています。西芳寺の龍淵水を写したといわれています。山畔に崩れかかったような石組があります。西芳寺の上部庭園枯滝石組にならったもので、それが崩れたのではないかと考えられます。この上下二段からなる庭の構成は西芳寺の模倣であります。
(左)お茶の井(拡大) (中)漱蘚亭跡付近の枯山水石組(拡大) (右)山腹への苑路(拡大)
 
【パートW】
 
 唐門わきの小さな中門をくぐり庭に入ると、正面にあってひときわ目立つのが、白砂を富士形に高く盛りあげた向月台と銀沙灘であります。方丈前の銀沙灘は中国の西湖をかたどったとものといわれています。この二つの砂盛が醸し出す幽玄な趣が、今の銀閣寺庭園の最大の特色であります。この見事な砂盛は、義政が築造した当初には無く、江戸時代に入ってから出来たものであります。
 元和元年(1615)、宮城丹波守豊盛が荒れ果てた堂や庭の補修にとりかかった際に、砂盛が始まったと云われています。では、この砂の造形はどのようにして生まれたのか。
 背後にひかえる大文字山一帯から比叡山までの間は花崗岩性の土壌で、白川砂の産地であります。長い年月の間、谷間から流出する砂が、銀閣寺の池にたまり、池を掃除した折に浚渫された多量の砂を、庭の砂盛りに利用することを考えました。はじめ低かった砂盛は、時を経るにしたがって現在のような意匠に変化しました。
 安永9年(1780)刊行の『都名所図会』と寛政11年(1799)の『都林泉名勝図会』の二つの本に収録されている銀閣寺の絵には、ともに向月台と銀沙灘が描かれています。特に『都林泉名勝図会』に描かれている銀沙灘の紋様は現在とほぼ同じで、向月台も現在よりはかなり低いものの『都名所図会』に比べて高くなっています。江戸時代中期ごろには、すでに向月台と銀沙灘が存在していたことを裏付けています。
(左)向月台と銀沙灘(拡大) (右)銀閣寺航空写真(拡大)
 
【日本の名庭を訪ねて】(そのU) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/