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●第46号メニュー(2009/10/18発行)

【巷の小社の神々 京洛編】(その3)

〔白峯神宮〕 〔護王神社〕 〔五条天神社〕 〔菅大臣神社〕 〔繁昌神社・繁昌塚〕
〔新玉津島神社〕 〔六孫王神社〕 〔文子天満宮〕 〔剣神社〕

〔白峯神宮〕 京都市上京区今出川通堀川東入ル
 
 祭神は崇徳天皇と淳仁天皇であります。第75代崇徳天皇(1119〜1164)は小倉百人一首で親しまれている「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思う」の作者であります。鳥羽天皇の第一皇子で、保安4年(1123)即位、保元の乱(1156)に敗れ、流刑地の讃岐の白峰(現坂出市)で憤死しました。
 淳仁天皇は日本書紀を編集した舎人親王の皇子として天平5年(732)に誕生しました。25歳で第47代の天皇に即位しましたが、僧道鏡と藤原仲麻呂の争いに加わり、淡路島に流され、33歳の生涯をその島で終えています。
 「都に帰りたい」と二人の思いは共通しています。
 その供養に、と第120代孝明天皇が慶応2年(1866)に神社の建設を江戸幕府に命じました。しかし、天皇は間もなく亡くなり、皇子の明治天皇が受け継いで、建設に全力を尽くしました。
 時は明治維新にあたり、江戸は東京と名を改められ都がうつりました。それに伴い御所を囲むようにあった公家も東京に移り、神社の建設はその跡地に定められました。その場所は蹴鞠と和歌の宗家である飛鳥井家の旧邸地でありました。境内末社の地主神は、飛鳥井家の旧鎮守社で、蹴鞠道の神として崇敬されている精大明神を、神社建設に当たり、同家の守護神である精大明神の保存を申し出て、末社として残されることになりました。また、伴緒社は崇徳天皇に味方した源為義・為朝を祭祀しています。
(左)白峯神社遠望 (右)同社摂社 地主社(拡大)
 
 同神宮は太平洋戦争が終わると、見向きもされず荒廃の一途をたどります。その姿に嘆き悲しんだ地域住民が昭和27年ごろから、社殿や地主神の祠などの修理や境内の整備にかかり現在に至っています。
 精大明神は今、球技の神様として静かな人気を読んでいます。全国各地から球技上達の祈願に訪れています。
 
〔護王神社〕 京都市上京区烏丸通下長者町下ル
 
 護王神社の表門をくぐると、拝殿前で雌雄一対のいのしし像が出迎えてくれます。正式には「霊猪石像」と呼ばれています。猪は祭神の和気清麻呂の随身なのです。
 和気清麻呂は、平安京遷都を桓武天皇に進言し、自ら平安建都の最高責任者・造宮太夫を務めました。かつて護王善神として、和気氏の氏寺である高尾の神護寺境内に祀られていましたが、明治に入って別格官幣社に昇格し、これを機に護王神社は明治19年、御所の守護神として公家の中院家跡の現在地に移つされました。こまイノシシもその際に誕生したものです。
 清麻呂が九州へ配流になった時、300頭のイノシシが現われ、道案内して清麻呂の危機を救ったという故事にちなみ、竹内栖鳳の原画を基に和泉石で製作しました。体長、体高とも50cmで雌雄の2頭のイノシシが静と動の対照的な姿を見せています。
 境内にはイノシシの人形や絵馬、剥製など約500点のコレクションを展示する陳列所があります。また、神木オガタマノキの根元には願掛けの「猪串」が奉納されています。
 社殿の建立は新しい神社ですが、鬱蒼とした森の静けさに包まれています。樹齢100年を超す巨木が多数あるのは、中院邸の庭木がそのまま残されたからであります。
 ところで、当社には、清麻呂とともに、姉の広虫姫も祀られています。孝謙天皇ら四代の天皇に女官として仕え、京中の孤児を養育したという慈悲深さから「子育て明神」の名で庶民の厚い信仰を集めています。
(左)護王神社拝殿 (右)同社「霊猪」石像
 
〔五条天神社〕 京都市下京区松原通西洞院西入ル 
 
 京都市内では最も古い神社の一つです。『宇治拾遺物語』に、醍醐天皇の御代、当社近くの柿の木に仏があらわれ、庶民が群れ集まったとの話が伝えられており、平安時代の創祀と考えられています。
 古くから農耕の守護神、医薬の神として崇敬され、いまも厄除け祈願に参詣する人が多いです。毎年節分の夜には勝餅をくばり、一念の無事を祈る習慣があります。
 社伝によれば、同神社は延暦遷都に伴って大和の宇多から移されたと記しています。ご神体は天照皇大神・大己貴命・少彦名命であります。国土開発、医療の神で、「天使社」の社号もありました。「六条通りまで、天使突抜という地名があるのもその名残であります。昔はそこに社域があったことを示しています。
 当社は蛤御門の変などで二度被災しています。今はひっそりと松原通りの角にあります。実はこの松原通は以前、五条大路と呼ばれていました。呼び名が変ったのは豊臣秀吉がこの通りにあった五条橋を現在の場所へ移したからであります。
 現状からは想像も出来ませんが、牛若丸と弁慶は当社の境内で戦ったと「義経記」が伝えています。ひっそりと寝静まる深夜の五条大橋に、牛若丸が軽々と欄干へ跳び上がり、「刀を奪うも今宵で千本目」と見上げる弁慶が、長刀をきりりと構えたと、有名なシーンが唱歌にありますが、実はここ五条天神社であったのであります。
(左)菅大臣神社拝殿 (右)五条天神社遠望
 
〔菅大臣神社〕 京都市下京区仏光寺通新町西入ル
 
 菅大臣神社の社地は、もと、菅原家の屋敷跡であります。菅原道真の誕生地は、京都市内に何ヶ所もありますが、北野天満宮にある「天神縁起」によれば、ここが生まれた家だと伝えられています。
 もともとの屋敷跡は西洞院通と新町通、綾小路と高辻に囲まれた南北二町、東西一町の広い範囲でありました。北半分は父・是善の屋敷で紅梅殿といい、南半分が道真の屋敷白梅殿でありました。今でも境内には産湯に使ったという井戸があります。
 いつごろ神社が創建されたのか不詳であります。北野天満宮の創建と同じころ、道真の没後まもなくと思われますが定かでありません。京都の町は応仁の乱や天明の大火、明治直前のドンド焼けなどで何度も被災しています。菅大臣神社も例外ではありません。社寺の由来を記した文書などの史料は全く残っていません。明治初期の神仏分離で境内の元三大師堂は取り壊され、「上知」で社地は政府に削られて現在のようなこじんまりとした神社の佇まいになりました。「東風(こち)吹かばにほいをこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春なわすれそ」の歌は、道真が大宰府に流され、京を思って詠んだ有名な歌であります。この歌に詠まれた梅の木はここにあったといわれていますが、現在の神主によれば「私が子供のころは、境内にひと抱えもある梅や松の木がありました。また東風吹かば…という歌にちなんだ「飛び梅」もありましたが、この付近には染物屋が多く、石炭で湯を沸かしていたので、煤煙がひどく、梅の木もすっかり枯れてしまった」とのことです。菅大臣神社の北に、路地の奥に是善を祀る北菅大臣神社があります。
(左)扁額「紅梅殿」 (中)北菅大臣神社 (右)菅大臣神社「飛梅」(拡大)
 
〔繁昌神社・繁昌塚〕 京都市下京区高辻通室町西入ル
 
 繁昌神社のご祭神は「市杵島姫命」「田心姫命」「湍津姫命」であります。世に弁財天と言われ第五十六代清和天皇の貞観年中(859〜877)延喜の御代の鎮座であります。
 弁財天は安芸の宮島、京の神泉苑と同体で日本三仏と言い伝えられています。御神威は家運長久、商売繁盛を守るとともに良縁を結ぶとして古来より崇敬を集めています。
 神社は中世に功徳院と号して真言宗の僧が管理していました。しかし明治の神仏分離で神社が残りました。以前は武将藤原繁成の館跡で、邸内には功徳池という大きな池がありました。その池の小島には七福神の一つ弁財天が祀られていました。
 ここには「班女」の伝説(宇治拾遺物語)があります。昔、この付近にみなしごの姉妹が住んでいました。姉は嫁いだものの妹はハイミスのまま世を去ります。遺骨を棺に入れて、鳥辺野に埋めようとしましたが、いつの間にか遺骨は家の戸口に戻っていました。もう一度、棺に入れようとしますが、重くて動きません。そこで戸口の地中に埋めようとすると、軽々と持ち上がったといわれます。その後、塚のみが残りました。
 班女塚は同神社の北西、高辻通から仏光寺通に抜ける小路の中ほどにあって、岩の上に少祠が置かれています。昔は神社の前を縁談事で通ると、縁談が必ず破談になるといわれていました。でも今は縁結びの神として親しまれています。
 毎年5月20日は神社の例祭で、拝殿で御祓いを受けた神輿を担いで班女の霊をなぐさめます。この日ばかりは普段静寂な境内も、古くから伝わる「良縁を得られる」神輿担ぎで賑わいます。
(左)繁昌塚 (右)繁昌神社
 
〔新玉津島神社〕 京都市下京区松原通烏丸西入ル
 
 松原通の筋は、平安時代には「五条大路」と呼ばれていました。しかし応仁の乱で京都の町が焼け、五条大路の南には人家がなくなると、新玉津島神社の松だけが焼け残って遠くからよく見えていました。この通りはこの松にちなんで次第に「松原通」と呼ばれるようになりました。
 シンボルとなった松は、このあたりに邸宅を構えていた平安時代の歌人藤原俊成が、文治2年(1186)に芸能の神衣通姫(そとおりひめ)を屋敷内の社に祭った際、一緒に植えたと伝えられています。
 同神社は、俊成が天皇の意向をくんで和歌の浦(現和歌山市)にある新玉津島神社の祭神衣通姫を勧請し、歌道の家の氏神として祀ったのが起こりであります。以来、朝廷で歌道伝授が行われる際には、勅使がこの新玉津島神社に派遣されまた。
 社殿はその後、室町幕府を開いた足利尊氏らが修復しています。江戸時代には近江国野洲郡北村(現滋賀県野洲町北)出身の北村季吟が天和3年(1683)から6年間、宮司を務めていました。季吟は社殿復興などを進める一方、源氏物語などの古典研究や歌人、俳人として知られ、塾を開いて多くの門人を育てました。
 門人の一人に、松尾芭蕉もいました。芭蕉は、伊賀上野の藤堂藩主の命で京都に出るようになり、この神社にも出入して俳諧の道へ進んでいったといわれています。
 神社の表門の前には季吟の石碑が建てられ、季吟や芭蕉にあやかって短歌や俳句、文章などが上達するようにと、参詣者が手を合わせています。
 現在の社殿は、明治8年(1875)の再建であります。天明8年(1787)の洛中大火で焼失した後、孝明天皇の援助を受けて建築されました。歌道の神の社殿と松の木は、互いに寄り添うようにしてたびたびの災難を乗り越えてきました。
(左)新玉津島神社駒札(拡大) (右)新玉津島神社
 
〔六孫王神社〕 京都市南区壬生通八条上ル
 
 学生時代を京都で過ごした水上勉は、小説「西陣の蝶」で昭和12年の六孫王神社を舞台に物語を作りました。「この日の昼、六孫王神社は市が立っていた。(中略) 源経基を祭神とするこの社は、武運の神とも言われているので、戦時中は出征兵士の安泰をねがう参詣者がかなりの数にのぼった」。
 当社がまつる源経基は清和天皇の第六皇子(貞純親王)の長男であります。清和天皇には孫にあたることから「六孫王」と呼ばれ、平将門の乱の平定などに活躍しました。源氏の姓
を与えられ「清和源氏」の祖となりました。
 神社は応和3年(963)、経基の死を悼み、その邸宅跡に息子の満仲が建立したのに始まりです。清和源氏の流れをくむ源頼朝や足利氏らに手厚く保護されましたか、室町時代に被災し、応仁の乱の兵火にあい衰退しました。
 現在の社殿は、江戸時代に徳川綱吉が再建しました。当時の境内は約22haの広大な社域をもち、その中に源実朝夫人が興した大通寺や広大な庭園もありました。かし、格式の高さから庶民には縁遠い神社で、明治以降はさびれてしまいます。
それを昭和初期に再び興したのが、現宮司の祖父であります。「警察官だった祖父は退職後、何かの縁でこの神社の宮司になり、退職金で荒れた神社を整備したと聞いています」。その後、国鉄が新幹線の建設などで二度の用地買収が行われ、境内は往時の三分の一に減ってしまいます。大通寺も九条大宮下ルに移築され、環境の変化で神竜池の湧き水も枯渇してしまいました。
 こうした栄枯盛衰の中でも、地元住民や全国の清和源氏の子孫らが神社を支えてきました。崇敬者総代は「神社に氏子がいない分、地元でみこし巡行などを受け継ぎ、神社の存在をアピールしています」と。
 境内中央に広がる神竜池があり、当社の象徴でもあります。死んだ後も竜となって池に棲み、子孫の繁栄を祈るという源経基の遺言に因むものであります。
(左)六孫王神社庭園 (右)同社入り口
 
〔文子天満宮〕 京都市下京区間之町通花屋町下ル
 
 当社は、天神信仰の発祥の神社であります。祀るのは、もちろん菅原道真であります。鳥居の両側には、北野天満宮と同様に牛の石像が並んでいます。
 社伝によると、道真が京の都から大宰府に左遷される際、嘆き悲しむ乳母の多治見文子に自分の彫像を残しました。道長の死後、文子は自宅の庭に小さな祠を建て、この像を祀りました。その後、文子は道真から「北野の右近の馬場に祠を構えてまつられよ」と託宣を受けて、現在の北野に移したとつたえています。
 北野天満宮の前身神社といわれる所以であります。ただ、祠の地は西京七条二坊とあり、文子天満宮も何かの理由で現在地に移転しています。古来、道真は学問・文芸の神とあがめられ、天満宮、天神は全国に一万社余を数えます。
 江戸時代、周辺は東本願寺の寺内町として栄えていました。塗師屋町、仏具屋町などの町名が今も残る中に、文子天満宮は天神町の名を与えられています。これは天神信仰の根強さを示しています。祠が北野へ移ってからも、町衆の厚い信仰があったからこそ、小さな社が生き長らえています。
(左)多治見文子像 (右)文子天満宮(拡大)
 
〔剣神社〕 京都市東山区今熊野剣ノ宮町
 
 剣神社の創建は平安時代にさかのぼります。都を造るとき、王城鎮護のため南東の方角に宝剣を埋めたのが、この地でありました。祭神は、伊邪那岐命 伊邪那美命 邇邇芸命。
 古来、剣の威光にあやかってか、子どもの守護神として知られています。ひきつけや夜泣き、疳(かん)の虫封じに霊験があり、かつてはわが子の手を引いて参詣する親の姿が絶えなかったと口碑は伝えています。
 11月3日に行う「三疳(みかん)封じ火焚まつり」は、火であぶったミカンを参詣者に振る舞います。これを食べると風邪をひかないと云われています。
神経を病む病気で悩む人の信仰も厚いものがあります。7月の土用の丑の日に行う「ほうらく灸」は、頭にほうろくを乗せ、その上からお灸をすえる神事があります。
 かつては周囲に田畑が残る静かな場所でありました。ホトトギスの名所として知られ、文人がよく集まっていたと伝えています。今は周りを囲むように住宅が立ち並んでいます。
(左)剣神社絵馬 (中)剣神社本殿(拡大) (右)剣神社遠望(拡大)
 
 境内には、無数の「飛び魚」が躍っています。これは当社の絵馬に描かれているものです。青い背に鮮やかな黄色の胸びれが、空を舞っているのか、流線型の魚体をスッとのばした二匹の飛び魚が描かれています。珍しい絵馬なので有名であります。

≪月刊京都史跡散策会46号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その3) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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