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●第3号メニュー(2006/3/19発行)
佛涅槃図について
沙羅双樹と夏ツバキ
おしらせ

 散策会第75回の例会は、平成6年10月9日に催行され50人の会員さんで史跡散策を楽しみました。当時はNHK大河ドラマ「花の乱」が放映されていました。第75回の散策会のテーマも[ドラマ花の乱]からとして、上御霊神社・相国寺・大光明寺・慈照院・本法寺などを訪れました。
 

涅槃図(重文) 長谷川等伯 本法寺蔵  
 そのとき偶然にも、本法寺でご住職のご好意で、長谷川等伯筆の[佛涅槃図](重文)を拝見する事が出来ました。でも突然で資料の準備もなしでしたが、ご住職の饒舌な説明をうかがいました。今月15日は釈迦の涅槃会(旧暦2月15日)が営まれます。この機会に改めて佛涅槃図をみることにしました。

【佛涅槃図について】
 
〔プロローグ〕

 釈迦はマツラ族の国を遊行した後、クシナガラの近郊、跋提河(バツダイカ)のほとりの沙羅双樹の林の中で病身を横たえ、菩薩や弟子たち、また信者が周辺に集って見まもるなか、入滅―般涅槃(完全にして絶対な平安の境地)―しました。 釈迦が80年の生涯を終えて涅槃に入ろうとしたとき、この時の情景を図絵したものが佛涅槃図であります。
入滅のときのお釈迦さまのお姿はすばらしいものであったと、初期経典の『中阿含経』には下記のように著わされています。
「彼の容貌は完全に、美しく、金色の山のように輝いていた。その気品は尊厳にして、一切の感情はことごとく統御され、暗雲を呼ぶすべての激情を離れてまことに安らけく、その心はよく鎮まり、静かに調えられて、まったく穏やかであった」とあります。
 信者たちの間に、仏像が出現するのは、その神々しい姿を渇望する気持ちのあらわれであります。教祖釈迦を偲ぼうとする気持ちは、時代や場所がへだたろうとも、仏教信者に共通した心理であったことは想像がつきます。
 その機会は、釈迦の命日に行なわれる涅槃会という宗教儀式の場が最も相応しいものであります。涅槃(ニルバーナ)には、煩悩を滅し尽くした心の状態という意味と釈迦の肉体的な死という意味とがあります。
 日本では奈良時代から2月15日に涅槃会を行なうようになり、平安時代以降、佛涅槃図を法会の本尊とすることが定着しました。
 
〔形式について〕
 
 佛涅槃図は大きく新旧二種の形式の違ったグループに分けることが出来ます。一つは応徳3年(1086)に制作された金剛峯寺本(国宝・これは現存する最古の佛涅槃図です)を始めとして、主に平安時代に制作された一群のものを第1形式と呼んでいます。また鎌倉時代に始まった新様式(第二形式)とに区別しています。その第1形式には、鶴林寺板絵(天永3年1112)、達磨寺本、東博本、宗祐寺本、新薬師寺本、浄教寺本、石山寺本などがあります。
 これら第1形式の図は釈迦を画面中央に大きく、寝台前面の会衆や動物は少なく静寂な雰囲気をもっています。涅槃図の前に立つ参拝者が実際に、釈迦の寝台に手をかけることができるがごとくに描かれています。そして釈迦の姿勢は第2形式と異なって両足を真っ直ぐ伸ばし、両腕を体の両側にくっつけています。釈迦を描く方向は釈迦の足側から見た構図で寝台の右側が見えるように描いています。また横たわる釈迦を大きく中心に描くため長方形横長の画面が少なくありません。
 現存する第1形式の図は浄土思想と結び付いていました。鶴林寺の板絵は法華堂の来迎壁で九品来迎図と表裏の関係にありました。
 
涅槃図 京都興聖寺蔵  
 第2形式は鎌倉時代に始まった新しい様式で、それ以後の涅槃図は殆どこの形式を踏襲しています。最も顕著な特長は釈迦入滅の情景を涅槃経典(大般涅槃経40巻本、36巻本)に忠実に従って景観的に描くことであります。釈迦はやや小さく右手を枕にして右脇を下にして横たわり両膝を曲げて両足を重ねています。52類が会衆として参集し、阿難は気絶し、力士は地に転び、地に伏して慟哭する女性が描かれています。
 画面上方からは摩訶摩耶経にもとずき釈迦の母摩耶夫人が降下しています。沙羅双樹の梢は高く雲は激しく飛び交い、満月が中天にかかっています。そして地には雲が湧き立っています。釈迦入滅の天変地変を暗示しています。画面には多数描かれている人間や動物の姿態は大げさで非常に賑やかであります。そしてその描法や色彩は多分に宋画の影響を受けていると思われます。
 鎌倉時代にもっとも流行した佛涅槃図に描かれている場景は、釈迦は右手枕にして、両膝をまげて寝台に横たわっています。寝台は釈迦を頭の方からみた形で、向って左側の側面を見せています。釈迦の枕もとには菩薩、寝台の後側と釈迦の足もとには、寝台近くに仏弟子、その外側に天部、寝台の前には仏弟子と俗人と仁王2体が配されています。また、釈迦の足もとに端座する大迦葉(もしくは足に手を触れる毘舎離城の老女)、寝台前では、悶絶して倒れる美男の阿難、供物を捧げる純陀が描かれています。摩耶夫人の一行はいずれも立ち姿で、阿那律に先導されて図面右上隅に飛来し、2月15日の満月は画面中央に描かれています。沙羅双樹は2本1組が4双あり、そのうち釈迦の足もとの4本の葉が白変しています。枕もとの1本の沙羅樹に釈迦の錫杖と鉢を包んだ包みがぶら下がっています。沙羅双樹の背景に涌雲と希連禅河(熙連河)を描いています。
 八相涅槃図とは、釈迦の涅槃の情景を描いた周囲に涅槃前後の出来事を6.7場面を描いたもので、一般に八相涅槃図と呼ばれています。また涅槃の周囲に仏伝を描いたものも八相涅槃図と呼ばれています。両者を区別して、前者を涅槃変相図と呼んでいます。
 描かれている出来事は、
@ 純陀の供養を受ける
A 力士達が聖棺を動かそうとしたが動かない
B 虚空中に昇って金体を示す釈迦
C 聖棺がひとりでに動きクシナガラ城を7回巡る
D 遊行から急いで戻ってきた迦葉のために釈迦は両足を棺から出し迦葉は礼拝する
E 釈迦が母摩耶夫人のために棺から身を起こして説法する金棺出現
F 釈迦の舎利をめぐり争いになったが一婆羅門の尽力で舎利が8分された分舎利
であります。
 鎌倉時代には涅槃変想図が新たに始められました。また、第1形式と第2形式が徐々に交替する時期でもありました。南北朝・室町時代は佛涅槃図が各寺院に普及した時期でありました。東福寺本(縦1500横800cm)は兆殿司、大徳寺本(縦591横352cm)は狩野直信、本法寺本(縦791横402cm)は長谷川等伯、興聖寺本(縦169横111cm)土佐行広が描くというように画家も各派にわたり、かつ巨大な法量をもつものが多数描かれました。
 
八相涅槃図(重文・鎌倉時代) 広島浄土寺蔵  
 江戸時代は庶民層まで涅槃図が普及した時期であります。前代と同様寺院への参詣も引き続き行なわれましたが、それ以外にも各村落共同体が釈迦の忌日の2月15日に涅槃講を行なっています。
 

この涅槃講は彼岸や念仏の供養と習合して年中行事化したものであります。特に奈良地方では涅槃講の本尊である涅槃図を今でも伝世している村が多数あります。また奈良を中心とした地域では竹坊という絵師が制作した図がほとんどで寛文期(1661〜73)頃のものであります。奈良地方では前記の八相涅槃図と場面選択が異なる図が伝世しています。それは前記E以降が、E 聖棺が自ら燃える F分舎利 G 舎利塔供養になっています。

〔佛涅槃図〕国宝 金剛峯寺蔵
 
 この涅槃図はその右下に「応徳五年丙寅四月七日甲午奉寫畢」と記されています。これで藤原時代の制作年代の判明する貴重な仏画であり、当代の絵画を代表する優れた作品であります。涅槃図とは前述しましたが、釈迦の入滅に際して菩薩や弟子たちの集まって悲しむ様を描くもので、わが国では八相成道図の一つとして早くより描かれていたものでありました。藤原時代後期ころ、佛涅槃図が独立して描かれはじめ常楽会(涅槃会)の本尊として多数制作されました。
 この佛涅槃図は、横臥する釈迦を中心として左方に菩薩の一群がそれに続いて釈迦の後方に羅漢の一群が居並んでいます。俗形の長者、動物たちも釈迦の前方に侍っています。釈迦を囲んで各々が思いおもいの態で悲しみに沈んでいるところを描いています。それはこの世に生を受けたもの悉くが釈迦の入滅を悲しむことを描写しようとしたもので、釈迦入滅による寂寞とした暗黒の世界の大いなる悲劇を描いています。その悲しみの描写は死の瞬間の悲しみでなく、後に持続する悲しみの表現を現しています。

 


京都興聖寺 涅槃図の配置図  

金剛峯寺 涅槃図の配置図  
涅槃図(国宝・平安時代) 金剛峯寺蔵  
 釈迦の頭のあたりに頬杖をついて空ろな目を開いてあらぬ方角を眺めている慈氏菩薩の姿、沙羅双樹の陰に放心したごときの文殊大聖、堪えられぬ悲しみを目を閉じて顔うつむけた普賢大士、また全身をもって悲しみと戦っている羅漢たちの姿や表情にも悲しみを窺うことが出来ます。
 釈迦入滅のことを聞いて、朷利天より降下した母摩耶夫人の沈痛な姿が右上に見られます。これらは悲しみに沈むさまざまの姿を美しく描いています。
 
〔八相涅槃図〕福井 剣神社 縦210cm×横275cm
 
 佛涅槃を主体とし、これに佛伝の幾つかの情景を添えたものを八相涅槃図といいます。八相(釈迦八相)は佛伝の主要な場面を意味していますが、かならずしも8種に限りません。
八相涅槃図 福井剣神社蔵  
この剣神社の八相涅槃図では、左右の縁にそれぞれ5・6景の場面を、下から上へ進む順序に描き、釈迦が摩耶夫人の胎内に宿る托胎から、五比丘に始めて仏法を説き聞かせた初転法輪までの重要な出来ごとを描き、中央を占める主題の佛涅槃で示された釈迦の死とその眞の意味とを理解させようとしています。横たわる釈迦をめぐって、静かに合掌する菩薩や悲嘆する佛弟子・在家信者の群れを配するのは、涅槃図一般の構図でありますか、この図のように人々の号泣を一層誇張し、鬼類やさらに動物をも加え、激しい慟哭のシーンを強調するようになるのは鎌倉時代からであります。
 
〔佛涅槃図〕(重文) 明兆筆 室町時代 京都 東福寺 縦15m×横8m
 
 本図は応永13年(1408)涅槃会の本尊として制作完成したもので、款記によると明兆57歳の作であります。伝記には、着手したのは応永8年で「師(明兆)嘗て涅槃変相を作らんと欲して遍ねくその藍本を求む。偶々木津川の舟中に在って異人に会いこれを獲て、遂に是図を拓製す」とあります。明兆は佛涅槃図を描くにあたり、藍本を筑前博多まで行って、模写してこようと思い立ちました。木津川の渡し舟で難波に向おうとするとき、一人の中国人に巡り会いました。事の次第を話すうち、その異人から佛涅槃図の一軸を授かることになりました。これは博多地方にある図絵(佛涅槃図)以上のもので、明兆はそのまま博多行きを中止して、京都に戻り、これを藍本として、意匠や構成のすべてとその様相を描き、遂に完成しました。
 明兆は、この佛涅槃図における諸衆の悲嘆する光景を肥痩のある力強い運筆を駆使して、精力的に描き上げました。しかし、墨線を強調しながらも濃厚な色彩を施す手法は佛画の伝統を守っています。この図には、猫が描かれていますが、涅槃図には猫を描くことはありませんが、この猫はいつも明兆の傍らにいたと云われた猫です。
 明兆は、観応2年(1351)に淡路国(兵庫県)に生まれ、字を吉山といいました。東福寺の殿司(仏殿を管理する役僧)を勤めながら画を描いていたので、「兆殿司」と呼ばれました。画業に熱中するあまり禅の修行を怠り、師の大道一以から破れ草鞋のように捨てられかけたので、自戒して、以後、「破草鞋はそうあい」の印を用いるようになったと伝えられています。
 明兆は、宋元画を範とした鮮やかな色彩の大幅を描いていますが、東福寺の涅槃図などに使われた顔料は、稲荷山北麓の「絵具谷」から採掘したといわれ、世に知られていない色があったと云われています。
明兆は、2世住持となった塔頭南明院において、80歳で没しました。墓所は、南明院の南側すぐの丘陵に
あります。
 
〔佛涅槃図〕古繝筆 江戸時代 京都 泉涌寺 縦16m×横8m
 
 中央に釈迦の横たわる寝台をやや小さく描き、左右と前面の空間をひろくとり、菩薩、諸弟子、王侯貴族以下の人物がゆったりした筆法で描かれています。とくに画面手前に多数の動物が悲嘆にくれて号泣するさまを克明に描いています。
 沙羅双樹の右の4本は悲しみに枯れています。この大涅槃図には母摩耶夫人を描いていません。巨大な画幅の性質上、左右の画面を切り詰め、縦長の構図に多数の人物を巧みに配置し、人物・動物の描写に動きのある太目の描線を用いて、泣き崩れる複雑な姿態を力強く描き出しています。沙羅双樹の2本の幹を寝台の前方に配するのも巨大な縦長の画面を引き締めています。この他に類例のない巨大な画面の迫力は圧倒的であります。
 筆者の古繝は名を明誉、号を虚舟といい、京都法恩寺の住職を務めていましたが、画を狩野永納に学んでいます。のちに雪舟に私淑して山水人物画・仏画・絵巻などを描いています。この涅槃図は古繝が享保2年(1717)5月23日、65歳で入寂する直前の作品であります。
 

涅槃図 京都泉涌寺蔵  
〔佛涅槃図〕重文 長谷川等伯筆 京都 本法寺 縦10m×横6m
 
 京都三大涅槃の一つであります。大幅で華やかな描表具を含めると高さ10mになります。この涅槃図は供養する前に宮中に持参して披露を行なったと記録が残っています。
 長谷川等伯は天下人秀吉のご用絵師と言う地位にあり、秀吉の愛児鶴松の菩提寺である祥雲寺の障壁画を託されました。等伯は息子久蔵とともに、それまでに蓄積した力量を発揮していました。障壁画が完成した、わずか半年後の文禄2年(1593)に久蔵は26歳の若さで急死しました。その2年前には、等伯の作品を認め、力になってくれた千利休が秀吉の命で自害しています。こうしたなか、60歳頃には『松林図屏風』(国宝)を描がいています。墨の濃淡と余白が生む静かな清涼感。斬新な構図から、松林を包む朝霧までをも感じさせる詩情は、等伯の底知れぬ無常感の現われです。慶長3年(1598)、中国制覇の野望をかけた朝鮮出兵の重荷に耐えかねたように、豊臣秀吉は62歳で没しました。その翌年、還暦を過ぎた61歳の等伯は、巨大な『佛涅槃図』を制作し、本法寺に寄贈しました。ちょうどこの年は息子久蔵の七回忌にあたっています。
 久蔵をはじめ、近親者の供養をこめて制作された『佛涅槃図』の画面右隅には、『願主自雪舟五代長谷川藤原等伯六十一歳謹書』と、日通上人の筆で記されています。
 注目されるのは、本図表具の裏には日蓮上人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母、養父母と等伯より先立った息子久蔵の供養名が記されていることです。老齢の等伯か描いたこの涅槃図にいったいどんな思いで描いたのか?
この画面に嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にしたとき、先立った人々への等伯の思いが伝わってきます。
 

【沙羅双樹と夏ツバキ】
 
 人間の死の場面を最も劇的に描いているのが、お釈迦さんの死、入滅の様子を伝える佛涅槃図であります。
 枕辺にいる弥勒菩薩や地蔵菩薩など、駆けつけた菩薩たちはどの顔も悲嘆にくれ、天を向いて号泣する衆生、頭を垂れて悲哀する弟子たち。金剛力士も左手を目に当て、大きな口をあいて泣き叫んでいます。獅子は、背を地面にすりつけてもがき、目は真っ赤。右上には急遽朷利天から佛母摩耶夫人が降下し、唯一、優しい眼差しを注ぐ姿があります。
 
涅槃図(部分) 滋賀石山寺蔵  
 上方は波涛山海が渦巻いて、まさに天地鳴動しています。それを物語り、さらに画面全体に強烈な印象を与えているのが、お釈迦さんの横臥する寝台の四方に2本ずつ生えている巨木、沙羅双樹であります。双樹のうち1本は白褐色に彩られ、季節はずれの花を咲かせています。白い花びらを散して遺骸を供養しています。
 高野山金剛峯寺所蔵の国宝『佛涅槃図』(平安時代)をみると、お釈迦さんが入滅した際の様相を知ることができます。
 経典によると、双樹のうち白鶴になった沙羅は、入滅と同時に枯れてしまい、他のものは生き残りました。自然界の現象で、こんな摩訶不思議なことがおこることを「四枯四栄」として神格化され、盛者必衰の[無常]を象徴するものとして沙羅双樹が登場することになります。
 ナツツバキは、シャラノキあるいはシャラと呼ばれています。釈迦入滅のとき、時ならぬ花を咲かせたと伝えられている沙羅双樹(『平家物語』の冒頭の語りで有名)とよく混同されていますが、まったくの別種であります。ちなみに沙羅双樹はインド中部からネパールに分布する熱帯性の樹木なので日本には自生していません。
 ある僧侶がわが寺に植えたいと日本国中くまなくさがしたあげく、ナツツバキを沙羅双樹と思いこみ、それを広めてしまったため混同されてしまいました。
 ナツツバキは、その名のとおり6〜7月にツバキに似た白い花をつけるツバキ科には珍しい落葉樹であります。新緑の美しさ、愛らしい夏の白花、秋の紅葉、冬はしなやかな枝振りと、まだらに剥げるすべすべした赤褐色の幹肌が現われます。
 
涅槃図(部分) 板絵裏 兵庫鶴林寺蔵  

 
●小学館刊 原色日本の美術 7 仏画 ●至文堂刊 日本の美術 9 涅槃図などを参考にしました。

 
≪第3号 完≫

編集:山口須美男 メールはこちらから。

≪お知らせ≫
 今年のつばき展≠ヘ3月(毎年)の第4週、24〜26日に開催します。南山城つばきの会の会員が丹精こめて育てた約400種の鉢花・切花を、宇治市植物公園のロビーで展示します。アクセスは近鉄大久保駅・京阪宇治駅から京阪宇治バス「植物園」下車。入園料金:500円。小生の在園日は25・26日です。つばきのお花見をお楽しみ下さい。
 第4号は、【秀吉京洛歳時記】の予定をしています。ご期待下さい。
 
◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

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