号数索引 | 創刊号 | 第2号 | 第3号 | 第4号 | 第5号 | 第6号 |
第7号 | 第8号 | 第9号 | 第10号 | 第11号 | 第12号 | |
平成19年 | 第13号 | 第14号 | 第15号 | 第16号 | 第17号 | 第18号 |
第19号 | 第20号 | 第21号 | 第22号 | 第23号 | 第24号 | |
平成20年 | 第25号 | 第26号 | 第27号 | 第28号 | 第29号 | 第30号 |
第31号 | 第32号 | 第34号 | 第35号 | 第36号 | ||
平成21年 | 第37号 | 第38号 | 第39号 | 第40号 | 第41号 | 第42号 |
第43号 | 第44号 | 第45号 | 第46号 | 第47号 | 第48号 | |
平成22年 | 第49号 | 第50号 | 第51号 | 第52号 | 第53号 | 第54号 |
第55号 | 第56号 | 第57号 | 第58号 | 第59号 | 第60号 | |
平成23年 | 第61号 | |||||
平成24年 | 第62号 | 第63号 | 第64号 | 第65号 |
●第3号メニュー(2006/3/19発行) |
佛涅槃図について |
沙羅双樹と夏ツバキ |
おしらせ |
散策会第75回の例会は、平成6年10月9日に催行され50人の会員さんで史跡散策を楽しみました。当時はNHK大河ドラマ「花の乱」が放映されていました。第75回の散策会のテーマも[ドラマ花の乱]からとして、上御霊神社・相国寺・大光明寺・慈照院・本法寺などを訪れました。 |
![]() |
涅槃図(重文) 長谷川等伯 本法寺蔵 |
そのとき偶然にも、本法寺でご住職のご好意で、長谷川等伯筆の[佛涅槃図](重文)を拝見する事が出来ました。でも突然で資料の準備もなしでしたが、ご住職の饒舌な説明をうかがいました。今月15日は釈迦の涅槃会(旧暦2月15日)が営まれます。この機会に改めて佛涅槃図をみることにしました。 |
この涅槃講は彼岸や念仏の供養と習合して年中行事化したものであります。特に奈良地方では涅槃講の本尊である涅槃図を今でも伝世している村が多数あります。また奈良を中心とした地域では竹坊という絵師が制作した図がほとんどで寛文期(1661〜73)頃のものであります。奈良地方では前記の八相涅槃図と場面選択が異なる図が伝世しています。それは前記E以降が、E
聖棺が自ら燃える F分舎利 G 舎利塔供養になっています。
|
|
![]() |
涅槃図(国宝・平安時代) 金剛峯寺蔵 |
釈迦の頭のあたりに頬杖をついて空ろな目を開いてあらぬ方角を眺めている慈氏菩薩の姿、沙羅双樹の陰に放心したごときの文殊大聖、堪えられぬ悲しみを目を閉じて顔うつむけた普賢大士、また全身をもって悲しみと戦っている羅漢たちの姿や表情にも悲しみを窺うことが出来ます。 釈迦入滅のことを聞いて、朷利天より降下した母摩耶夫人の沈痛な姿が右上に見られます。これらは悲しみに沈むさまざまの姿を美しく描いています。 |
〔八相涅槃図〕福井 剣神社 縦210cm×横275cm |
佛涅槃を主体とし、これに佛伝の幾つかの情景を添えたものを八相涅槃図といいます。八相(釈迦八相)は佛伝の主要な場面を意味していますが、かならずしも8種に限りません。 |
![]() |
八相涅槃図 福井剣神社蔵 |
この剣神社の八相涅槃図では、左右の縁にそれぞれ5・6景の場面を、下から上へ進む順序に描き、釈迦が摩耶夫人の胎内に宿る托胎から、五比丘に始めて仏法を説き聞かせた初転法輪までの重要な出来ごとを描き、中央を占める主題の佛涅槃で示された釈迦の死とその眞の意味とを理解させようとしています。横たわる釈迦をめぐって、静かに合掌する菩薩や悲嘆する佛弟子・在家信者の群れを配するのは、涅槃図一般の構図でありますか、この図のように人々の号泣を一層誇張し、鬼類やさらに動物をも加え、激しい慟哭のシーンを強調するようになるのは鎌倉時代からであります。 |
〔佛涅槃図〕(重文) 明兆筆 室町時代 京都 東福寺 縦15m×横8m |
本図は応永13年(1408)涅槃会の本尊として制作完成したもので、款記によると明兆57歳の作であります。伝記には、着手したのは応永8年で「師(明兆)嘗て涅槃変相を作らんと欲して遍ねくその藍本を求む。偶々木津川の舟中に在って異人に会いこれを獲て、遂に是図を拓製す」とあります。明兆は佛涅槃図を描くにあたり、藍本を筑前博多まで行って、模写してこようと思い立ちました。木津川の渡し舟で難波に向おうとするとき、一人の中国人に巡り会いました。事の次第を話すうち、その異人から佛涅槃図の一軸を授かることになりました。これは博多地方にある図絵(佛涅槃図)以上のもので、明兆はそのまま博多行きを中止して、京都に戻り、これを藍本として、意匠や構成のすべてとその様相を描き、遂に完成しました。 明兆は、この佛涅槃図における諸衆の悲嘆する光景を肥痩のある力強い運筆を駆使して、精力的に描き上げました。しかし、墨線を強調しながらも濃厚な色彩を施す手法は佛画の伝統を守っています。この図には、猫が描かれていますが、涅槃図には猫を描くことはありませんが、この猫はいつも明兆の傍らにいたと云われた猫です。 明兆は、観応2年(1351)に淡路国(兵庫県)に生まれ、字を吉山といいました。東福寺の殿司(仏殿を管理する役僧)を勤めながら画を描いていたので、「兆殿司」と呼ばれました。画業に熱中するあまり禅の修行を怠り、師の大道一以から破れ草鞋のように捨てられかけたので、自戒して、以後、「破草鞋はそうあい」の印を用いるようになったと伝えられています。 明兆は、宋元画を範とした鮮やかな色彩の大幅を描いていますが、東福寺の涅槃図などに使われた顔料は、稲荷山北麓の「絵具谷」から採掘したといわれ、世に知られていない色があったと云われています。 明兆は、2世住持となった塔頭南明院において、80歳で没しました。墓所は、南明院の南側すぐの丘陵に あります。 |
〔佛涅槃図〕古繝筆 江戸時代 京都 泉涌寺 縦16m×横8m |
中央に釈迦の横たわる寝台をやや小さく描き、左右と前面の空間をひろくとり、菩薩、諸弟子、王侯貴族以下の人物がゆったりした筆法で描かれています。とくに画面手前に多数の動物が悲嘆にくれて号泣するさまを克明に描いています。 沙羅双樹の右の4本は悲しみに枯れています。この大涅槃図には母摩耶夫人を描いていません。巨大な画幅の性質上、左右の画面を切り詰め、縦長の構図に多数の人物を巧みに配置し、人物・動物の描写に動きのある太目の描線を用いて、泣き崩れる複雑な姿態を力強く描き出しています。沙羅双樹の2本の幹を寝台の前方に配するのも巨大な縦長の画面を引き締めています。この他に類例のない巨大な画面の迫力は圧倒的であります。 筆者の古繝は名を明誉、号を虚舟といい、京都法恩寺の住職を務めていましたが、画を狩野永納に学んでいます。のちに雪舟に私淑して山水人物画・仏画・絵巻などを描いています。この涅槃図は古繝が享保2年(1717)5月23日、65歳で入寂する直前の作品であります。 |
![]() 涅槃図 京都泉涌寺蔵 |
〔佛涅槃図〕重文 長谷川等伯筆 京都 本法寺 縦10m×横6m |
京都三大涅槃の一つであります。大幅で華やかな描表具を含めると高さ10mになります。この涅槃図は供養する前に宮中に持参して披露を行なったと記録が残っています。 長谷川等伯は天下人秀吉のご用絵師と言う地位にあり、秀吉の愛児鶴松の菩提寺である祥雲寺の障壁画を託されました。等伯は息子久蔵とともに、それまでに蓄積した力量を発揮していました。障壁画が完成した、わずか半年後の文禄2年(1593)に久蔵は26歳の若さで急死しました。その2年前には、等伯の作品を認め、力になってくれた千利休が秀吉の命で自害しています。こうしたなか、60歳頃には『松林図屏風』(国宝)を描がいています。墨の濃淡と余白が生む静かな清涼感。斬新な構図から、松林を包む朝霧までをも感じさせる詩情は、等伯の底知れぬ無常感の現われです。慶長3年(1598)、中国制覇の野望をかけた朝鮮出兵の重荷に耐えかねたように、豊臣秀吉は62歳で没しました。その翌年、還暦を過ぎた61歳の等伯は、巨大な『佛涅槃図』を制作し、本法寺に寄贈しました。ちょうどこの年は息子久蔵の七回忌にあたっています。 久蔵をはじめ、近親者の供養をこめて制作された『佛涅槃図』の画面右隅には、『願主自雪舟五代長谷川藤原等伯六十一歳謹書』と、日通上人の筆で記されています。 注目されるのは、本図表具の裏には日蓮上人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下の歴代住職、等伯の祖父母、養父母と等伯より先立った息子久蔵の供養名が記されていることです。老齢の等伯か描いたこの涅槃図にいったいどんな思いで描いたのか? この画面に嘆き悲しむ弟子や動物たちを前にしたとき、先立った人々への等伯の思いが伝わってきます。 |
≪お知らせ≫ |
今年のつばき展≠ヘ3月(毎年)の第4週、24〜26日に開催します。南山城つばきの会の会員が丹精こめて育てた約400種の鉢花・切花を、宇治市植物公園のロビーで展示します。アクセスは近鉄大久保駅・京阪宇治駅から京阪宇治バス「植物園」下車。入園料金:500円。小生の在園日は25・26日です。つばきのお花見をお楽しみ下さい。 第4号は、【秀吉京洛歳時記】の予定をしています。ご期待下さい。 |
◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/ |