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●第61号メニュー(2011/1/16発行)

【小堀遠州の庭園】(そのT)

〔小堀遠州略伝〕 〔頼久寺庭園〕 〔二条城二の丸庭園〕

【小堀遠州略伝】
 
 近世作庭の第一人者は小堀遠州であります。遠州の活躍は桃山時代に始まりますが、その作庭の最盛期は、寛永年間の二十余年にわたるものです。この期間は、彼の50歳代晩年の円熟期であります。
 遠州作庭と伝えるものは日本全国に多数存在していますが、これは何でも遠州の作といえば間違いないとの伝説にもとづきます。彼の名は伝説的に高められ、喧伝された結果と考えられます。
小堀遠州は天正7年(1579)、近江国坂田郡小堀村(現滋賀県長浜市)に生まれました。父は小堀新介正次(新助とも)、母は磯野丹波守員正(昌とも)の娘であります。遠州の本名は政一(正一とも)で、幼名は作介です。号は宗甫、孤篷庵と称しました。
父新介は若いころ僧籍にありましたがのちに還俗し豊臣秀吉の家臣となりました。さらに秀吉の弟秀長の家臣となり、天正13年、秀長の転封によって、大和郡山城下に住んでいます。幼い作介は父の縁で主君秀長の小姓になっています。
秀長の小姓であった時、秀吉が御成りになるというので給仕を命じられました。お成りの前日、秀長へ千利休が挨拶に来て、お茶を教えている時に、呼ばれて座敷に入ると利休が茶を点てていました。このことが茶人としての遠州の茶の原点がここにあったのかもしれません。
(左)小堀正次(父) (中)同夫人(母) (右)小堀遠州
 
 豊臣秀吉政権のなかで最も教養もあり、利休とも親しく茶の湯を愛した秀長のもとで小姓をつとめたことが、作介(正一)がのちに遠州として活躍する文化的な基礎をつくったと思われます。
天正19年(1591)、主君秀長が病死。つづいて千利休切腹。父新介は秀長の遺領を継いだ豊臣秀保の家臣となりました。
遠州の茶会への登場の記録は、文禄3年(1593)2月3日。父に供して松屋久政の茶会へ客として招かれた記事であります。15歳で茶に親しみ、その直後には利休の弟子古田織部の門に入っています。18歳の時、遠州は洞水門(水禽窟)を発明して師の織部を驚かしています。
遠州の父小堀新介には武功というものはありませんが、官僚として優れていました。遠州が吏僚として抜群の能力を見せたのも、父親譲りの管理能力でありました。
豊臣秀保が狂気の末没すると、新介は秀吉の直参に戻り、後に徳川家に接近します。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のおりには、早くより徳川家康に従って息子の作介(このころ正一)ともども下野小山の陣所にありました。驚くべき先見の明であります。外様でありながら小堀家が譜代なみの扱いを受けた背景には新介の判断の良さがありました。
 関ヶ原の功により新介には新たに備中国のうちで一万石が加増され、旧領と合わせて一万四千四百六十石が与えられ大名に列しました。あわせて備中国奉行の職と松山城が付与されました。
国奉行というのは国絵図をつくり検地帳を整備し年貢を確保することが第一であります。国の中には幕府の直轄地をはじめ旗本や大名家の知行地などが入り組んで、その全体の管理や国役といって幕府から割り当てられた労働力の提供が滞りなく実行されるように監督するなど、多岐にわたり相当の管理能力が要求される職責であります。実質的な備中国支配を担当しながら備中に常住するわけではありません。伏見城御門の作事奉行をつとめ近江国の検地奉行も担当しています。この激務のなかで大名になってわずか5年。慶長9年(1604)2月29日、父新介は江戸へ向かう旅の途中、藤沢で突然病に倒れました。享年六十五歳でありました。
頼久寺庭園・背後に愛宕山を借景
 
 ただちに正一が小堀家を継ぎ、遺領のうち一万二千四百六十石を相続し、のこる二千石を弟の治左衛門正行が継ぎました。正一は備前国奉行の職も松山城も父のあとを引き継ぎました。
正一に最初の作事奉行の命がさがるのはその2年後、御陽成院御所の作事であります。さらに慶長13年(1608)、駿府城作事奉行が命じられ、その功により従五位下遠江守に叙せられました。それから正一は小堀遠江守、すなわち遠州と通称されるようになりました。
その後、慶長19年より元和元年(1615)の大坂冬・夏の陣をはさんで名古屋城天守作事奉行(慶長17年)、内裏造営(同18年)、元和3年(1617)伏見城本丸普請、河内国奉行、播州姫路仕置、元和4年に女御御殿造営などさまざまな役職を果たしています。
その間には、荒廃していた備中松山城の修築を果たし、あわせて頼久寺の庭園を作っています。
元和5年、長年親しんだ備中松山から近江浅井郡へ所領替えとなりました。30年ぶりに本貫の地に戻りました。畿内への復帰は遠州と幕閣との関係の強化を意味しています。
元和9年(1623)、遠州は伏見奉行に任ぜられました。伏見奉行は京都所司代の配下にあっ
て西国三十三ヵ国の探題の役もつめる要職であります。同時に伏見という交通の要衝の地に屋敷と茶室をつくり、いやがうえにも遠州の声価が上りました。伏見奉行は死去するまで果たしています。
開幕以来、朝廷と徳川幕府の関係はギクシャクしていました。殊に後水尾天皇が即位し、その女御として二代将軍秀忠の娘和子を入内させようと幕府が強引にことを進めたため、両者の間に軋轢が生じました。
しかし元和6年(1620)に、年14歳で入内した徳川和子は、針のむしろに座るような反感が支配する内裏の雰囲気を一変させ、つぎつぎと親王・内親王を出産しています。こうしたなかで朝廷と幕府の関係も修復された結果が、寛永3年(1626)の、後水尾天皇、中宮和子が二条城へ行幸するイベントでありました。
二条城行幸を迎えるために江戸を出発した徳川秀忠の一行に供奉する武士は20万人。続いて出立した三代将軍家光の共は10万という破天荒なものでありました。
また、二条城行幸に先立って、行幸を迎えるための殿舎の建設が進められました。行幸御殿、中宮御殿、御次の間、女御御殿、権大納言局室、台所、牛舎などが遠州の指図のもとに建設されました。
頼久寺庭園・(左)書院 (右)庫裡
 
新造の行幸御殿から見ると裏側になってしまう従来の庭園を、逆に御殿側から正面に見る庭園へと遠州が大改修を行いました。行幸後、新造された行幸御殿以下はすべて解体移築され、現在は遠州作事の遺構として残ったのは二条城庭園だけであります。
いよいよ9月6日、行幸が始まると、後水尾天皇の饗応役は井伊直孝と板倉重宗が当たり、代官として小堀遠州以下2名がつきました。なかでも膳部のととのえは遠州でありました。茶の湯と室礼の第一人者としての遠州の役割は大きいものがありました。
寛永3年には、徳川家康の信任を得て南禅寺の住持となった以心(金地院)崇伝から金地院の建築と東照宮、庭園の造営の依頼がありました。
二条城の造営に並行して金地院の建築にあたり、寛永5年(1628)に完成し、翌年には金地院方丈の庭園の作庭がはじまります。しかし、この時期の遠州は、二条城二の丸や江戸城西の丸の作庭など、本来の業務である幕府直轄の仕事に追われ、金地院に足を運ぶことが出来ず、遠州は詳細な庭の図面を描き、村瀬左介や賢庭らに工事を命じて、寛永9年に完成しました。
寛永11年(1634)に遠州は五畿内検断の役が命じられました。これはのちの上方八人衆のことで、緊急事態発生のとき、上意を待たず、八人の合議によって行動を起こしてよいという職務であります。もはや一大名という立場をこえて幕閣の中枢を担うところに遠州は位置しました。
寛永13年には、日光社参供奉のため江戸へ出府していた遠州に、社参の途中で急に三代将軍家光への献茶のことが命じられています。
寛永17年から、翌18年に全国規模に広がった飢饉対策に、19年夏には、上方八人衆が江戸に集結しました。そこで基本対策が決定されると、遠州は一旦伏見に戻ったあと、ふたたび同年秋、64歳になった遠州は出府を命じられて江戸へ赴きます。それから、正保2年(1645)に伏見に戻るまでの足掛け4年、江戸に在府しています。これを「遠州の江戸四年詰め」といわれています。
飢饉対策が一段落して遠州は茶の湯活動を活発に行いました。寛永20年3月より帰洛する正保2年1月までの間に50回の茶会を開いています。そこに招かれたのは延べ331名におよびました。内訳は武将が69名、幕府の重職者86名、遠州の職責に関係ある者47名。これらの人物は、江戸における遠州の政治的立場を強固ならしめるに必要でありました。
二条城庭園・左隅に滝をのぞむ(拡大)
 
 正保2年3月、将軍から茶入橘丸壷を拝領して遠州は伏見へ戻りました。帰着の半年後、口切を契機に茶会が始まります。遠州は己の死の近いことを悟ったのか、連日のように茶会が開かれました。正保2年10月より正保4年正月までの間に58回の茶会が催されました。それは正に遠州の茶の集大成でありました。
正保4年(1647)正月22日、最期の茶会を終えてまもなく、遠州は病に倒れました。そして2月6日伏見奉行屋敷で、ついに不帰の客となりました。享年69歳。紫野大徳寺孤蓬庵に葬られました。号は孤蓬庵大有宗甫居士と称します。
 優秀な幕吏であった遠州は、長年伏見奉行をつとめるともに、並行して幕府の作事奉行として数々の建築と作庭を行いました。
 また、千利休、古田織部の流れを継ぐ茶人として徳川家の茶道師範役をつとめ、遠州流茶道を開き、書画や和歌の道にも秀でていました。天賦の才能に恵まれた遠州には、大名、官僚、技術者、文化人などの多くの顔があります。
 遠州が範としたのは、父・小堀正次と茶の湯の師匠である古田織部であります。正次は遠州が幼少のころより茶席に伴って茶の湯へ導き、織部に師事させました。検地奉行であり、奈良の長谷寺の造営に携わった記録も残る正次のそばで、遠州は土木や建築の技術を習得したと思われます。
 正次急逝の年より、遠州は頻繁に織部を訪ねています。茶の湯だけでなく茶器製作、建築、造園などにも才があった織部から、さまざまな知識を得てその感性を学び取りました。
 28歳で御陽成院(仙洞)御所の作事奉行を命じられて以降、建築と造園の才能が認められ、60代はじめまで朝廷と幕府の建物と庭園を数多く作っています。
 こうした大規模な造営を並行して行えたのは、遠州の意図をくみ取り、それを形にする多くの庭師や建築棟梁がいたからであります。いわば遠州は、そのプロデューサー的存在でありました。
二条城庭園・中央に蓬莱島(拡大)
 
〔頼久寺庭園〕(名勝)
 
 慶長5年(1600)、遠州の父正次は、備中国(現岡山県)の国奉行に任命されました。当時、備中松山城は戦乱で荒廃していました。そこで遠州父子が仮の居館としたのが、頼久寺であります。4年後、江戸出府の途中に父正次は急死してしまいます。遠州は26歳で家督を継ぎ、以後元和3年(1617)まで頼久寺を拠点とし、その間に松山城の修築と頼久寺の庭園を完成しました。
 国奉行は幕府直轄の役人で、遠州は年中ここに居たわけでなく、駿府城や名古屋城などの普請奉行も命じられています。備中国の任務と庭造りはどのように行っていたか。ここに家老を常駐させて、次々に書状を送り、指示・命令を出しています。この頼久寺の庭も、設計は遠州が行い、実際の造作は配下の者に任せました。そして戻ったときに、細かく仕上げをしています。
 この庭園は小堀遠州の初期の代表作として、昭和49年に国の名勝に指定されました。鶴亀の庭と呼ばれ、蓬莱山水の海波を大刈込で表現した造型と、ダイナミックな手法は、若き日の遠州の意欲を感じます。のちの遠州庭園を彷彿とさせる力強さがあります。
 立石があるのが鶴島。後方の三つの刈込の足元に亀島があります。遠望する背後の山は愛宕山で庭の典型的な借景となっています。中央に白砂を敷き海を、後方の皐月の大刈込に青海波を表わし、三段の大刈込が力強い大波の躍動感を示しています。
 鶴島の中央の大きな立石は鶴の羽石で、左右に脇石を従え、三尊に組まれています。のちに遠州が得意とする神仙蓬莱の構成がすでにでき上がっています。
 大刈込は書院の東につらなり、庫裡からの眺めが正面となります。しかし庫裡からみると、鶴島・亀島の横側をみることになり、この庭が大刈込と石組を同時にみる構成になっていないことがわかります。
 最初からそのように意図されたのか、大刈込が後世のものなのかは不明です。しかし鶴島・亀島が大海に浮かび、大刈込を大波の表現とすれば、すべては一体となります。
 このほか、書院の軒内や庫裡に向かう飛石、また書院前の富士山型の石などは、のちの遠州庭園の要素が組み込まれ、庭づくりの名人といわれた小堀遠州の出発点なのであります。
二条城庭園・亀島(拡大)
 
〔二条城二の丸庭園〕(特別名勝)
 
 二条城は、京都御所を守護し将軍上洛時の居所とするため、関ヶ原の合戦の翌慶長6年(1601)の夏に着工されました。徳川家康が豊臣秀吉の聚楽第を継いで構想した平城であります。家康がはじめて入城した慶長8年3月までに殿舎(現在の二の丸)は竣工しています。
 家康は4月4日から3日間、公家衆や諸大名を招いて、征夷大将軍宣下を祝う華やかな演能の宴を催しています。御殿を飾る金碧の障壁画に華麗な調度、御殿から眺める築山泉水の典雅な庭園に、新しい「天下人」の権力を顕示するには、これにまさる舞台はみあたりません。いまに伝えられるこうした二の丸御殿の威容は、築城後の23年目、ふたたび華やかな舞台となります。寛永3年(1626)9月の御水尾天皇の行幸のために、徳川家光が新たに御殿の造営を命じました。
 この寛永度造営では、西に城域を拡大して新たに本丸を設け、家康建造の旧御殿を二の丸御殿とするとともに、天皇のための行幸御殿などを新設して、御殿に面した庭園も大改修を行いました。この作事の一切を任されたのは、すでに名古屋城や大阪城の作事奉行を見事につとめ、その能力を認められた小堀遠州であります。
 当初の庭の様子は不明ですが、二の丸庭園は、家康の築城時に造営した庭を、御水尾天皇の行幸にともない、遠州の指導で改修したものです。
 「寛永行幸御城内図」によれば、この折の改修では二の丸御殿に加えて、西側に長局、南側は行幸御殿と中宮御殿が庭をとり巻くように新設され、行幸御殿から廊下をつけて、池の南岸に庭を眺める釣殿の御亭が設けられました。
 庭園は二の丸御殿大広間、同黒書院、行幸御殿の三方からの観賞に配慮して改造されました。当時は大広間から、伏見城より移築された5層の天守や隅櫓が庭園の背後に聳えて、雄渾な庭園景観を構成していました。

二条城庭園・(左)西南の護岸から鶴島と蓬莱島(拡大) (右)蓬莱島にかかる三つの橋(拡大)
 

 庭は北東から東側を二の丸御殿の雁行する黒書院と大広間に、南側を行幸御殿に囲まれているため、三方からみて、それぞれ際立つ景観をつくり出す必要がありました。しかも、庭を通じて、徳川将軍家の勢威を示さねばなりません。
 そのため巨石を使って庭石を大幅に組み直し、池泉に中島と四つの橋を配しました。島は神仙蓬莱の世界を表現する鶴島、亀島、蓬莱島で、将軍の長寿、ひいては徳川家の繁栄を願う吉祥の庭であります。(註 蓬莱島は中国の伝説上の島で、仙人が住む不老不死の世界)
 二の丸庭園は、大広間の上段に当たる一の間からの眺めを第一に作庭され、御殿の高い床からみても映えるように数多くの巨石で構成されています。池泉の北西隅に位置する2段落ちの滝は、切り立った山を思わせる石組の間から流れ落ちる景趣は見事であります。  滝からつづく池泉の汀の岸辺に据えられた護岸石組が心地よいリズムを作っています。
 池泉や中島の周辺にはおびただしい数の石が、技巧を駆使してダイナミックかつ装飾的に配されています。庭の中心にある蓬莱島(中島)の護岸には巨石が配され、力強い景観が眼を引きます。島の右手は亀島、島の背後に鶴島があります。これは神仙蓬莱の世界を表現しています。池には自然石による四つの石橋が架けられています。そのうちの三つは亀島や蓬莱島の周辺に集中しています。ジクザグに架けられた3橋は視点が重ならないように高さが変えられ、景観に奥行きをもたらしています。石はすべて結晶片岩(青石)です。
 特色として、庭園全体に配置してある布石が、どれも巨大で背丈が高いことです。これは行幸御殿の床が高いことと、天皇の御座所が奥の方にある関係上、そこから叡覧に供するためには庭の樹木や石を高く立たせています。この手法は後述する三方院庭園には全く見られないものであります。この広潤で層々たる石組は、のちの大名庭園に受け継がれ、重厚で派手な大振りな趣がここに萌芽しています。

《月刊京都史跡散策会》【小堀遠州の庭園】(そのT) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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