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●第59号メニュー(2010/11/20発行)

【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのD)

〔夢窓疎石(国師)〕(5) 〔西芳寺庭園〕

〔夢窓疎石(国師)〕(5)
 
 元徳3年・元弘元年(1331)、57歳のとき、夢窓は鎌倉の瑞泉寺に戻りました。執権の北条高時は、夢窓を鎌倉五山第一位の建長寺に迎えようとしましたが、みずからは赴かず、代わりに嶮崖巧安(けんがいこうあん)(1252〜1331)を推挙して建長寺の住持としました。翌元弘2年の春、夢窓はふたたび甲斐の恵林寺へ帰りました。
 この時期は、世の中が騒然とした時代であります。その原因は天皇家が、皇位、所領の継承問題をめぐって持明院統と大覚寺統の真っ二つに割れ、世の中が利権や思惑などに絡み、この問題に振り回されていたからです。それに鎌倉幕府の政策が結びつき、両統迭立(てつりつ)(代わるがわる立つ)の協約を結んでいたことから、問題を一層複雑にし、のちの南北朝時代を引き起こしました。
 閑居を好む夢窓は、本人の好む静かな生活とはまったく反対の、この問題の真っ只中へ引き出される結果となり、どちらからも信頼を受けて帰依されることになりました。
 この問題も最終的には、足利尊氏の支持を受けた持明院統の北朝が南朝を吸収して、解決にいたりました。正中2年(1325)に、夢窓が後醍醐天皇からの要請を受け、南禅寺の住持となりますが、この南禅寺を開いたのは、大覚寺統の亀山天皇であります。
 夢窓が甲斐の恵林寺に帰ったころは、後醍醐天皇の時代でありましたが、もともと幕府が決めた天皇在位期間の10年が過ぎていたことが大きな火種となり、時代が混迷に陥っていました。
長島(霞形中島)(拡大)
 
 この問題から、鎌倉幕府内の内紛も泥沼化し、その滅亡はもうすぐのところまで来ていました。後醍醐天皇は王政復古を試み、倒幕を企て、正中の変(1324)、元弘の乱(1331)を起こしますが、失敗して隠岐に流されました。
 正慶2年・元弘3年(1333)、嶮崖巧安が建長寺を退いたため高時がふたたび夢窓に住持としての入山を要請してきましたが、夢窓は、病気と称してこれを断りました。
 この年の2月、後醍醐天皇は隠岐からの脱出に成功しました。これまで鎌倉幕府軍と対峙していた後醍醐天皇の皇子である吉野山の護良親王、また、後醍醐天皇の綸旨を受け兵を挙げた楠木正成らの倒幕の戦いが続いていました。このときの後醍醐天皇の隠岐脱出は、その後の歴史に大きな影響を与えました。にわかに騒がしくなってきた状況を見て、3月に夢窓は甲斐の恵林寺を立ち、鎌倉の瑞泉寺に戻りました。その5月初めに、関東の新田義貞をはじめとする倒幕の挙兵が起りました。この21日には、ついに北条高時一族はその一族の菩提寺である東勝寺にこもって防戦しましたが敗れ、ここに鎌倉幕府は滅びました。このとき、夢窓は敗走する旧幕府の多くの兵を助けました。その救われた者の数は計り知れないといわれています。
 勝利を収めた後醍醐天皇は、6月5日に京都に入り、同10日には足利尊氏に命じ勅使を遣わし、鎌倉にいる夢窓に上洛を促しました。25日には、夢窓のいる瑞泉寺に勅使が到着し、後醍醐天皇の意を伝えました。天皇は建武中興(建武元年1334)の新政を始めるにあたり、まず夢窓を請じました。この年に夢窓は還暦を迎えています。
 後醍醐天皇は夢窓に弟子の礼をとり、ふたたび南禅寺に入るよう求めました。老病を理由に固辞しますが、「自分の思いは禅宗の興隆にあるのに、師に断られたのではすべもない」と天皇にいわれ、ふたたび南禅寺の住持となりました。
 夢窓はその恩徳に感謝し、7月に上洛、翌日には宮中に参内して、後醍醐天皇に朝見しました。天皇はたいへん喜ばれ、厚く夢窓をもてなしています。8月には、天皇は足利尊氏を勅使として、国師号を授け、臨川寺を夢窓の居住の場とすることを命じています。
 南禅寺の塔頭南禅院の池泉庭は、このときに改修されたと思われます。回遊式の池泉に、龍門瀑と座禅石を配した構成は、夢窓の禅庭の要素を色濃く残しています。
 夢窓が南禅寺に入って3年目の建武3年・延元元年(1336)、後醍醐天皇の親政は挫折しました。天皇に背いた足利尊氏が光明天皇を立てて、京都に室町幕府を開きました。天皇は吉野山に入ったときから、南北朝時代が始まります。後醍醐天皇を京都から追い出した尊氏は夢窓を幕府に招き、弟子の礼をとっています。
(左)金閣寺龍門瀑(拡大) (右)西芳寺庭園図(拡大)
 
 夢窓国師(以後国師とする)は、南禅寺をすでに退き、後醍醐天皇から賜わった臨川寺にて門弟の指導にあたっています。建武4年・延元2年(1337)に法嗣の無極志玄(むごくしげん)に臨川寺を譲り、みずからは同じ敷地内の三会院(さんねん)を創建してそこに退いています。
 この年に、国師の勧めで、足利尊氏・直義兄弟は、鎌倉以来の戦没者の菩提を弔うために、国分寺制にならって、国ごとに一寺一塔を建てる計画を明らかにしています。
その後の暦応2年・延元4年(1339)4月に足利尊氏の重臣である藤原(仲原)親秀(ちかひで)に招かれた国師は、西芳寺に入って中興開山になっています。
 西芳寺は、奈良時代、聖武天皇の在位中に、行基菩薩が近畿地区に開いた四十九ヵ寺のなかの一つに始まるといわれています。行基は全国各地で橋を架け、池を掘り、道路をつくり、貧しい人びとに施しをして回りました。また、東大寺大仏の造顕にも深く関わりました。その功績により、聖武天皇より大僧正の位を授けられています。
 その100年後には、平城天皇の皇子である真如親王が出家し、この西芳寺にとどまっていましたが、その後、唐にわたり、帰朝せずに亡くなっています。その後500年あまりが経ち、西芳寺は、荒廃の極みにありました。
 鎌倉時代初期には、摂津守仲原師員(もろかず)が浄土宗の宗祖である法然上人を請じてこの寺を浄土宗に改め、「厭離穢土、欣求浄土」を主題とし、西方寺と穢土寺を建立したといわれています。この寺はその後、空き寺となっていました。師員の子孫の藤原親秀が、国師を開山に招いて禅寺として再興したいという手紙をおくったところ、「吾、素より亮座主の風を慕い、而して今西山の居を得たり、また善からずや」といって、たいへん喜ばれました。
 国師は2寺を合体し、この寺の名も「祖師西来、五葉聯芳」の義をとって、西芳寺と改めました。さらに国師は、仏殿を西来堂と名付けました。 
 中国宋代の『碧巌録』(第18則)にみえる語句にちなんだ建物を配し、既存の浄土式池泉に禅の主題を加味しました。さらに池泉庭後方の山腹に枯山水を構築しました。その主題は龍門瀑であります。
黄金池(拡大)
 
 国師はこの地がみずからの理想とする修行を極めていく場としては最適地であると考えました。また、西山と呼ばれているここの地名が、国師の尊敬する中国唐代亮座主が身を隠した場所と同じ名前の西山であったこと、さらに、この地がなだらかな丘陵に囲まれた、水の条件のよい土地であったことが作庭心を強く動かしたと思われます。
国師はこの西芳寺に入寺すると、さっそく整備に力を注ぎ、仏殿(西来堂)の南に新しい二階建ての閣を建てました。上の階には仏舎利を納めた水晶の塔を祀り、「無縫塔」と名付け、下の階を「瑠璃殿」と称しました。堂閣と僧堂とは回廊で結ばれていました。その閣の南北に2亭を建て、南側を「湘南亭」、北側を「潭北亭」と名付けています。
また、背後の山の頂に「縮遠亭」を設け、そこへ入る入口の門を「向上関」と称しました。向上関からは急で九十九折となる階段を登って縮遠亭に至りますが、その途中に「指東庵」があります。そして枯滝組のある「洪隠山」などの名は、いずれも亮座主の故事にちなんでつけられた名称であります。
この西芳寺の庭園を楽しもうと、康永元年・興国3年(1342)に光厳上皇が足利尊氏を従え、御幸を行っています。その後もさまざまな人が同寺を訪れています。
国師は、この西芳寺を、都における修行の地と定め、ここでの修行にあたる僧の資質と人数も限定しています。
そして、康永4年・貞和元年(1345)10月、71歳のときに、国師は自分の滅後の西芳寺について『西芳遺訓』を書き、門弟たちに坐禅修行の指針を残しています。

(左)黄金池 (右)金剛池の夜泊石(拡大)
 

〔西芳寺庭園〕
 
 現在の西芳寺の下段の庭に、湘南亭と潭北亭が建っています。夢窓国師はここに入寺して、荒廃していた浄土式庭園を改修して、池の周りに禅風の建築を建立しました。湘南亭も潭北亭もその一つでありますが、現存のものは、規模も位置も国師創建時のものと異なっています。
 国師が西芳寺庭園の建築に付した名称は、『碧巌録』(禅の公案の解説書)第18則の偈にもとづいています。
「湘の南 潭の北 中に黄金あり 一国に充つ 無影樹下の合同船 瑠璃殿上に知識無し」
 国師は残されていた阿弥陀堂を西来堂と名付け、いまの金剛池の南側、やや出島風の平地に2層の瑠璃殿を建て、西来堂とのあいだを渡り廊下で結んでいます。(註 室町文化の象徴となっている金閣と銀閣は、この瑠璃殿を模している。)
 湘南亭と潭北亭は、池を挟んで南北に位置していたと伝えられています。いまの潭北亭から向上関に向かう途中に、崩れた石組みがあります。潭北亭はかつての西来堂の北側に位置していたとされていますので、潭北亭の本来の位置はこの石組み付近であるとされています。当初の湘南亭の位置は、湘南亭を東に移動し、潭北亭と向き合う地点か、長島(霞形中島)の北東部の護岸石組を礎石と考えて、池にせり出して湘南亭が建っていたという説もあります。
 嘉吉3年(1443)、朝鮮通信使の随員として来日した申叔舟(しんすくちゅ)は、『日本栖芳寺遇真記』を著わし、西芳寺の往時の姿を記録に残しています。叔舟によれば、池泉には反橋の邀月橋(ようげつきょう)が架けられ、そこを渡ると「鯨の背に乗るが如し」と記しています。
 しかも、今も池に残る中島(長島)は、かつては白砂でおおわれ、松が植えられていました。現在の中島がこんもりした丘のようになっているのは、何回にもわたり池底を浚渫された泥が堆積したもので、かつては水面すれすれの状態だと思われます。
 かつての長島(霞形中島)は、一面の白砂であり、島の周囲には護岸の石組が組まれました。いまはすべてが苔におおわれ、かろうじて正面に三尊石組が見えています。
 夢窓国師は西芳寺に入寺して荒廃していた浄土式庭園(池泉を舟遊し、建物屋内から観賞する庭園)を、池泉の周囲を逍遥し観賞する回遊式を導入しました。庭を、思惟瞑想する禅の修業の場としました。
 方丈脇の金剛池から南へ緩やかな苑路づたいに庭へ入ります。この辺りにはかつては瑠璃殿が建っていました。上下段2部構成の庭の、下段の庭園の中心を占める黄金池には、三つの中島が浮かんでいます。北に夕日ヶ島、中央に朝日ヶ島、南にはやや小さめの長島(霞形中島)が配されています。国師の作庭当時はこれらの中島は白砂青松の景観を呈していましたが、いまではすっかり苔でおおわれています。島の周囲に護岸石組か組まれ、池中には長寿を願う鶴島・亀島を相対して配し、変化と動きを現わしていました。
 歩を進めると、池泉の南に茶室「湘南亭」があります。創建時はどこかの中島に建てられていたと思われますが、荒廃して消滅しました。現在の建物は、慶長年間(1596〜1615)に千利休の次男、千小庵が隠居所として現在地に新たに建てたものであります。ここの月見台から黄金池が一望できます。
(左)長島霞形中島の北東部石組(拡大) (右)湘南亭
 
 苑路に沿って潭北亭を右に見て、上段庭園がある洪隠山の中腹へ進んでいくと、向上関の門をくぐりますと、通宵路(つうしょうろ)という急な石段が続き、悟得(ごとく)のための厳しい修行の場が広がります。下段の池泉回遊式庭園とは異なり、枯木寒巌(こぼくかんがん)の空間です。
 苑路を上ると左手に亀石組があり、そこから石段をあがれば、正面に指東庵(開山堂)が建っています。これは、国師が坐禅堂として造営したもので、現在は質素な小堂が再建されています。その右手の山の斜面には、北宋山水画を思わせる3段の枯滝石組が組まれています。この枯滝石組は、3段の滝を鯉がさかのぼる「登竜門」にちなんだ「龍門瀑」を表現しています。するどい稜線の石で組まれ、ほとばしる滝の音が聞こえてくるようです。また、芸術性にもすぐれたこの石組は、当時の人々に衝撃と感動を与え、作庭家としての夢窓の名を広く世に知らしめました。作庭から約665年後、枯滝石組の迫力は絶大であります。
 指東庵を挟んで、枯滝石組の反対に位置する坐禅石から下行すると、回遊式庭園の一周が終わり、西来堂や書院が建ち並ぶ境内に戻ってきます。
 西芳寺の庭園は平地部と山の斜面の枯山水の2段構成になっています。下段はもとからあった池泉に伏流水を引き入れ改修した黄金池の周囲に建物を配し、池は畔をめぐって変化する景色を楽しむ庭園であります。
 国師の年譜の著者は、この庭についてまとめています。
水出岩罅潺々如喜也。白沙之洲、怪松之嶼、嘉樹奇巌、間錯林立、船泛漣?、     
舘影水中、天下絶景、似非人力所能也
(訳 岩の間より湧き出る水は、さらさらと流れて大変美しい。白砂の州浜、島には形の良い松を植え、木々の合間に形のよい景石を据え、舟を浮かべ漣(さざなみ)の立ったところに映える館の影、これらは天下に誇る絶景であり、人の力及ぶところではない。)
と、最高の賛辞を記しています。この庭園で、国師は池に望んだ多くの亭と、庭としてし
つらえられた景色が織り成す調和という空間構成を初めて試みています。
 現在の西芳寺庭園は、国師の作庭当初の姿を大きく改変されています。西芳寺川を渡り境内に入ると、一面の苔に美しさに驚かされます。しかし、現在の庭園には、国師の時代を伝える建物は皆無であります。そのうえ、現在の金剛池は当初の池より相当規模を縮小して、現在の観音堂が建てられた折に平地を築くために池の大部分が埋め立てられています。現在、夜泊石(よどまりいし)と呼ばれている直線状に並べられた2列の石は、建物と建物を結んでいた回廊の礎石と思われます。
枯滝石組
 
 一方、最もよく当時の姿を伝えているものに、霧島、亀島、鶴島があります。これらの島は当時の護岸石組を非常によく伝えており、その美しさは抜群であります。この護岸石組は朝日ヶ島のほうが正面に組まれていることから、当初は庭園の景色を眺める建物が存在していたと思われます。
 また、金剛池の北側、向上関に至る手前に広い平地があります。ここは木立の足元が一面苔でおおわれ、苔の面積も最も広くなっていますが、この部分の北側にも建物内から眺めるように組まれた石組が二ヵ所に残っています。この場所に、かつて建物(潭北亭)が在ったと思われています。
 向上関をくぐり石段を登ると、指東庵の前に至ります。年譜には下記のように記されています。
剪榛開徑、為 四十九盤 面登危磴、曲折之間、苔滑雲粘、萬木陰森、未至半山、
  別卓小庵扁曰指東。
 (訳 木の枝を切り詰め、苑路のためにつくった四十九段の石段は、曲がりくねり、苔がはえて、じめじめした滑る道である。その道は大きな樹木におおわれ、山の中腹に至れば、指東と額を掛けた小さな庵がある)
 この指東庵の東側には、豪快で力強い枯山水の石組があります。この石組は国師がみず
ら指揮をして組み上げたもので、禅の枯山水はこの石組からすべてが始まるといわれるほ
ど禅観の境地を表現しています。
 (註 「枯山水」については、わが国で最も古い造園書『作庭記』(平安時代後期に関白藤原頼道の三男橘俊綱により書かれたといわれる)では、「池もなく遣り水もなき所に、石をたつる事あり。これを枯山水となづく。その枯山水の様は、片山のきし或る野筋などをつくりいでて、それにつき石をたつるなり。又ひとへに山里などのやうに、おもしろくせんとおもはは、かたき山を屋ちかくまうけて、その山のいただきよりすそさまへ、石をせうせうたてくたして、この家をつくらむと、山のかたそわをつくし、地をひきけるあひだ、おのつからほりあらはされたり石の、そこふかきとこなめにて、ほりのくへくもなくて、そのうえもしは石のかたかとなんとに、つかはしらをも、きりかけたるていにすべきなり。)
 (訳 野筋(穏やかに地面に付けられた起伏)をつくって、それに添うように石を据えたり、家の近くに高い山を築き、その頂から裾まで石を据え、自然に現われたような大きな石はそのままにして、その上に建物の束柱を立てるようにすべきである。)
(左)亀石組(拡大) (右)鯉魚石(拡大)
 
 石組はまさに指東庵に向かって組まれており、左側に山を背おっ地形と、じつによく空間構成が保たれています。石組は三段構成になっており、奥に行くほど石組の範囲が狭くなり、使用されている石が大きくなっています。逆に、手前、指東庵に近くなるほど、石組の範囲が広がり、石は小さくなっています。指東庵前の石組は、あたかも建物を飲みこんでしまうような迫力ある構成であります。
 指東庵側を底辺とした三角形をなし、奥に行くほど石が大きくなっています。これは距離感を十分に感じさせながら石組の力強さを際立たせるのに効果をあげています。それに反して、3段目の石組には大きな石を使用しています。ここは地面の勾配もきつくなり、大きな石を使うのは難儀であります。この大きな石を斜面に据え付けるのであり、それもきちんと石の姿を見て据え付けてあるので、並みのことでは出来ません。想像に絶する困難があったと思います。この石組を行うには強力な指導力、高い技術力、豊かな感性が必要とされます。
 石は組んだときが最終形であります。樹木は植えてから成長して周囲になじんできま
すが、石は決してごまかしが出来ません。下手に組んでも上手に組んでも、一度据えたら何百年も据えたときのままであります。
頭のなかで構図を想定して石を組みながら、現場の景色を見てさらに必要な石を据えて
いきます。石を組むときは、一つ一つの石と対話して、その石がどこに据えてほしいと語りかけてくるまで待ちながら、石の心を汲みながら組んでいくことが日本庭園において何よりも大切なことであります。このことからしても、この洪陰山の禅の枯山水は、後の日本庭園の規範となる庭園です。
この枯山水が、滝を表現した石組であるか、単なる山の斜面に作った石組かという説が
あります。後者はこの洪陰山の石組は、山頂に設けられていた縮遠亭へ登るための園路修景のための石組であるという説であります。
この三段構成になる石組は、一段目部分は間口が広く組まれており、中央よりやや左に
階段状に三段石が組まれているところがあります。この部分だけだと階段石組といえますが、二段目以降の石組を見ると明らかに滝石組であります。

(左)天竜寺庭園坐禅石(拡大) (右)西芳寺庭園坐禅石(拡大)
 

二段目、三段目と、扱われる石の大きさかしだいに大きくなっています。とくに三段目
部分の石組の水落石(鏡石)には三尺以上の高低差があるものを使用して登ることは不可能です。その石組の後ろを回って斜面を登ることもできますが、実際には山の斜面の急なところに取り付いており、とても登ることは出来ません。この三段目の石組は明らかに滝石組として組まれています。その石の扱いにも高い品格がうかがえて、しかも力強く組まれているところに、国師の、並々ならぬ造形的力量を見ることが出来ます。
国師の語録に「仮山水韻(かれさんすいいん)」というのがあり、そのなかに 
繊塵不立峯巒峙 涓滴無存澗瀑流 一再風前明月夜 箇中人作箇中遊
(訳 高く聳えた山には、わずかな塵一つない。谷川の瀑流には、水の滴りもない。一時風が吹けば、名月の夜となる。仏法の道理を知った人は、その道理の中に遊ぶ)
 水の無いところに谷川の流れを感じています。国師の枯山水(仮山水)に対する心境の一端を、うかがい知ることが出来ます。
この西芳寺の一群の石組造形は、国師の修行によって築かれた心の厳しさと静けさが共存した姿を映しだしています。かつて国師が一人山の中で修行に励んだ時代、身近に感じていた大自然を、人間の智恵と技量によって、庭園という小宇宙にまで昇華した極限の造形であります。
この指東庵の西側には龍淵水があり、その右に坐禅石が据えられています。この坐禅石で国師は、坐禅修行をするとともに、枯山水の作庭の折に指揮したといわれています。やや背丈の高い坐禅石であり、現在の指東庵の建つ前であれば、この坐禅石の上に立つと、石組が一望できたと思われます。
国師は自然のなかで修行を重ねていますが、そこはどこも幽境の地であり、山河の眺望が開け、かつ人里から離れた渓流や滝の近くであることが絶対の条件でありました。そのような地で坐禅修行を長年行ってきた国師にとって、眺望の条件を整えた幽邃の地とすることは不可避でありました。

《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのV) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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