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●第7号メニュー(2006/7/16発行) |
聚楽第・伏見城の遺構 |
秀吉晩年の年表 |
天正13年(1585)7月、豊臣秀吉が関白に就任して、政治体制を、武家政権から公家政権に移行し、天皇家の臣下として、京での拠点の必要から豪壮な聚楽第を造営しました。その後、甥の秀次に関白職を移譲し、聚楽第も彼に与えました。文録4年(1595)7月、秀次と不和となり、高野山に追放後自害においこみ、秀吉自ら8月に聚楽第の破壊を命じています。遺構がわずか存在しますが、史跡散策会で特に取り上げたことがありませんでした。 この≪京の秀吉歳時記≫のなかで幻の聚楽第の姿を追ってみました。 |
同上 配置復元図 |
織田信長の後を受けて天下の覇権を握った羽柴秀吉は、天正14年(1586)12月16日、太政大臣に任じられるとともに、豊臣の姓を賜りました。政権の基盤をますます堅固なものとした秀吉は、京都の「内野」と呼ばれる地に、壮麗な居館・聚楽第を建設しました。「内野」とは、平安京大内裏の跡地であり、大内裏衰退以後、ながらく荒地となっていました。 名称は、内野御構・聚楽城ともいわれ、秀吉、次いで豊臣秀次の城郭形式の京都邸館であります。天正14年(1586)2月、京都内野の新亭(聚楽第)の縄打ちが行なわれました。「多聞院日記」天正14年2月27日条には「去廿一日ヨリ、内野御構普請、大物以下事々敷、諸国衆自身自身沙汰之。ヲヒタゞシキ事也」と工事の開始を21日としています。 ここに云う内野とはかつて大内裏が所在した地であり、秀吉が全国支配を貫徹する政権の所在地としてこの地を選んだのは、大内裏を意識してのものかどうかは不明でありますが、少なくとも秀吉が関白に就任した時点で、内野が大内裏の跡地であることは承知していたと思われます。 主人公が秀吉であるからには聚楽第が政治の中心であります。しかし、史上初の武家による統一政権は、関白という公家の最高官職をもって形成されました。大阪城は秀吉の武威を象徴とする私の城でありました。また、聚楽第は天下を統治する秀吉の公権を象徴しています。秩序の創造者は秀吉でありますが、形式・制度において公権である関白は、京都という都市で天皇家と並立しなければ成り立たなかったのであります。 しかしながらこの邸館の正確な四至は現在も判っていません。諸書によっても異説があります。「山城名跡巡行志」「莵芸泥赴」には、北は一条、南は春日(現在の丸太町通)、東は大宮、西は朱雀(現在の千本通)とし、「京羽二重織留」は、南北をニ条、一条、東は堀川、西は内野とし、「都名所図会」は南北をニ条、一条、東は大宮、西は朱雀とするといった具合であります。ただし、近年発見された京都最古の筆描地図といわれる京都図屏風を基にした聚楽第復元研究によると、聚楽第の北限は諸書と一致する一条通よりさらに約70mほど北にひろがります。このように聚楽第の立地そのものにも、まだいくつかの疑問点が残されていますが、第の四周の濠を全長1.000間とする点は、諸書とも一致しています。 復原研究の第内曲輪の推定復元によると、南側から南二の丸・本丸・北の丸と連郭式となっていて、東丸の西は西の丸となっています。東丸の北西角には聚楽第図屏風に描かれた外観4層の天守が聳えています。また二の丸は外側の天秤濠によって区切られ、現天秤丸町が南二の丸に該当する地とされています。「太閤記」には、こうした聚楽第の様相を「聚楽と号して里亭をかまえ、四方三千歩の石の築垣、山の如し、楼門のかためは鉄の柱、鉄の扉、揺閣星をつまんで高く、瓦の縫めは玉虎風に嘯き、金竜雲に吟ず、諸の御所は桧皮葺なり、御はしの間に神輿よせあり、庭上にぶたいあり、左右に樂やあり、後宮の局々に至るまで百工心をくだき、丹精手をつくし侍りしかば、華麗尤も甚。人みな目なれぬことをのみ云あえり云々」と述べ、また「雍州府志」は、「其の結構、言語に及ぶ所にあらず。本丸の内に仮山あり、山里あり。又、外門に黒門・日暮門の号あり。黒門は鉄を以って之を飾る。日暮門は其の門の蘭間に鳥獣草木を彫刻す。諸人之を眺めて、日暮れに及ぶを覚えず」と、その豪華絢爛な様を述べています。 |
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左:後陽成天皇 中央:豊臣秀吉 右:豊臣秀次 |
なお、聚楽の名の由来についても、この地に「聚楽角坊」が所在したことや、大村由巳の「聚楽行幸記」にいう「長生不老の楽をあつむるものなり」の意から名づけられたともいわれていますが、そのいずれとも決するに確たるものはありません。 聚楽第の造営と時を同じくして、秀吉は第の周辺に、一大武家屋敷街を建設しました。フロイスの「日本史」の伝えるところでは、建設のために2.000軒の民家を破壊して、諸大名に地所を分配し、彼等はそれぞれの地に秀吉の不興を買わないような、豪壮な邸宅を競って建てたと記されています。現在、それらの武家屋敷にちなむと思われる町名がいくつか残されています。列記して見ると、如水町=黒田如水、小寺町=黒田(小寺)如水、加賀屋町=前田加賀守直茂、籐五郎町=長谷川籐五郎則秀、甲斐守町=黒田甲斐守長政、主計町=加藤主計頭清正、福島町=福島左衛門正則、稲葉町=稲葉入道一徹斎などのほかに合せて17の町名があげられます。このほか、聚楽第の建物の関連から残されたものに高台院竪町・山里町・須浜町・須浜池町・須浜東町・東堀町などがあります。 「雍州府志」は聚楽第の歴史を記したあと、そうした町名への転化について、「斯の城、荒廃の後、其の地民家となり、或は町号となる。又、湟を埋めて田疇を開く。天守、二之丸、彼の楼、某の閣、此の門、某の地並びに山里などの名、町の号となり又田の字となる。其の外、列侯の宅地も亦名存するのみ」と伝えています。そして以上の関連町名は、北は一条通北から南は下立売通、東は猪熊通東から西は浄福寺通西の間に、ほぼ点在していることから、聚楽第の規模が類推できます。 |
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後陽成天皇 聚楽第行幸図 堺市博物館蔵 |
天正15年(1587)9月、秀吉は完成した聚楽第に移り、翌16年4月、この第に後陽成天皇の行幸を仰いでいます。世に名高い聚楽行幸であります。おそらく聚楽行幸は秀吉の権威を確たるものにするための演出と考えられますが、なぜ秀吉がこうした豪壮な第を京都に築かなければならなかったということであります。 前述したように、聚楽第造営の目的は、秀吉の権力を示威することにありました。それは天正16年(1588)4月14日に始まる後陽成天皇の聚楽第への行幸によって完全に達せられました。 朝廷では、聚楽第の工事の完成をひかえて、新第への行幸に用いるために、同月3日には車4輌の新調を準備しています。しかし、秀吉が正式にここに移るのは、ずっと遅れて9月のことでありました。 いっぽう、行幸を迎える秀吉の側でも、前田玄以を奉行に命じて、故実についての調査をはじめさせています。室町時代に行なわれた2回の行幸、すなわち応永15年(1408)後小松天皇の義満北山第への行幸と、永享9年(1437)後花園天皇の室町第への行幸について諸家の日記を調べさせています。 日程の方は、いったん3月15日と定められましたが、この年は5月が閏月にあたり、3月中旬は余寒が厳しいとの理由で4月14日に延引されました。そして当日、行幸の儀はきわめて盛大に行なわれました。秀吉にとっては、この行事の目的からして、荘厳であることが何よりも大切なものでありました。そのため、先にあげた2回の行幸において将軍が自邸の門外で迎えたという古例を越えて、禁裏にまで迎えに出ています。そして、みずから天皇の裾を取って乗輦を手伝ったといわれています。行列もまた盛大なものでありました。禁裏から聚楽第までの距離は15・6町でありましたが、先頭が聚楽の門をくぐったときに後尾はまだ宮中にあったといわれています。 |
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御土居配置図(中央聚楽第) |
後陽成天皇は18日までの5日間、聚楽第に留まって、管弦・和歌会・舞楽などの贅をつくしたもてなしを受けていますが、この行幸中においてもっとも大切な行事は2日目に行なわれました。この日、秀吉は京中地子銀5530両余を禁裏御料所に、京中地子米800石を正親町上皇ならびに智仁親王に、近江国高島郡8000石の地を諸門跡・廷臣にそれぞれ寄進しています。ここにおいて、秀吉がいっさいを敬虔に行なおうとした行幸の儀は最高潮に達しました。その情況の中で秀吉は、織田信雄・徳川家康ら29人の大名たちに、禁裏御料などに対して子々孫々異儀のことなく、秀吉の命にはなにごとも違背せぬことを誓わせたのであります。 後陽成天皇の見守るなかで、前田利家・宇喜多秀家・豊臣秀次・同秀長・徳川家康・織田信雄は連署をもって秀吉への臣従を誓わされました。また、長曽我部元親・池田輝政ら21人も同様の誓詞を秀吉に出しています。 秀吉が、厳粛に行幸を迎えたことも、莫大な御料所を献上したことの意味は、そのすべてが、秀吉の権威を不動のものとするための目的に発したものでありました。武力もって従わせた諸大名を、最終的に臣従させる役割を、この行幸のなかで期待していたのでありました。そして、その行幸を迎える計画が聚楽第の造営と並行して進められていました。 |
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聚楽第図 復元図 |
聚楽第造営に着手した年、秀吉は京都東山に大仏殿建立を計画し、次いで天正18年には洛中に散在する諸寺院を集中管理するため寺町・寺之内の寺院街の形成にとりかかり、さらに同年、T町四方によって区画された京都の町を、さらに二分するいわゆる「短冊の町割」に着手しました。そして同19年、秀吉は京都の市街地を堤によって囲繞する御土居の建設にとりかかりました。 |
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伏見築城のことは、前回で詳述しましたが、現在、伏見城の遺構といわれるもののなかには、聚楽第から伏見城へ移築した建物が存在しているのではないかと思われますが、はっきりした根拠はありません。 |
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左:円徳院庭園 右:高台寺時雨亭 |
天正10年(1582)6月2日 天正10年6月13日 天正11年4月24日 天正11年5月25日 天正11年9月1日 天正12年8月8日 天正13年7月11日 天正14年2月23日 天正14年4月1日 天正14年12月19日 天正15年6月19日 天正15年9月13日 天正15年10月1日 天正16年4月14日 天正16年5月15日 天正19年1月 天正19年12月27日 文録3年(1592)1月3日 文録4年7月15日 文録4年8月 慶長1年(1596)2月27日 慶長1年5月4日 慶長1年7月13日 慶長1年7月14日 慶長2年5月4日 慶長3年3月15日 慶長3年8月18日 |
本能寺の変。 山城山崎に明智光秀を破る。 柴田勝家を北荘城に攻めて陥れる。 池田勝人、大阪城を秀吉に渡す。 大阪城の修築始まる。 大阪城新亭に移る。 関白に叙任し、姓を藤原と改める。 京都内野の新亭(聚楽第)の縄打を行なう。 大仏殿造営の地を定める。 太政大臣に任ぜられ、豊臣の姓を賜う。 キリシタン禁令を発布する。 大阪城より聚楽亭に移徙する。 京都北野に大茶会を開く。 後陽成天皇、聚楽亭に行幸する。 大仏殿の基礎の儀を行なう。 京都の周囲に堤(お土居)を築造する。 秀次、関白に任ぜられる。秀吉は太閤を称す。 京都伏見に築城に着手する。 秀次、高野山で自刃す。 聚楽第を破却する。 伏見向島に築城する。 伏見城天守に移る。 畿内に大地震。伏見城崩壊。大仏破裂す。 向島城の破壊により木幡山に築城。 伏見城天守に移る。 醍醐の花見を行う。 秀吉 伏見城で逝去 享年63歳。 |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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