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●第13号メニュー(2007/1/21発行)
【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その2》

【亥年にちなんで】
亥・猪の文字の語源」 「和気清麻呂と猪」 「護王神社


 明けましておめでとう御座います。平成19年は第13号がスタートです。
昨年の正月から創刊した《月刊 京都史跡散策会》は、内容や編集に試行錯誤しながら進めてきました。パソコンのスピードを利用して、各号のページが素早く繰れることや指図と写真などに鮮明な再現性をもたせました。また一方、不便なところもあります。誌面の写真と文字の関係が構成上適切な場所に置くことが出来ません。現在は写真を並列にまとめて置いています。適当と云うことがまだ出来ていません。これからも内容の充実と誌面の構成を計ります。お送りいただいたメッセージに、このマンスリーが200号まで続くようにとの有り難い励ましがありました。今年もよろしくご指導お願い致します。


【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その2》
 
 厩戸皇子の育った環境には蘇我氏なくしては語ることが出来ません。ではその蘇我氏が、朝廷の二大勢力としての物部氏を押さえて、覇権を手中にすることが出来ました。
 まず、蘇我氏の誕生から探って、また、蘇我氏の血を強く受けている厩戸皇子に触れていきたいと思います。
『記紀』によると、蘇我氏の祖、武内宿禰は第13代の成務天皇によって、日本で最初の大臣に任じられました。その後、仲哀、応神、仁徳と4人の天皇に仕えています。そこで、これら4帝に仕えた年数からみると武内宿禰は300歳まで生きていたことになります。しかし、大臣に任じた成務天皇と、その次の仲哀天皇は幻の天皇であります。
(左)飛鳥・雷の丘 遠望 (右)飛鳥寺
 
 伝説によると、仲哀天皇が熊襲征伐のために九州にきた時、神のお告げを聞くことになりました。この時、巫女は仲哀天皇の皇后であった神功皇后、「さにわ」が武内宿禰でありました。「さにわ」とは審神者のことで、神がかって喋る巫女の言葉を解釈して人間にわかるように翻訳する役で、男のミコであります。
 やがて神が乗り移った神功皇后は「西の方に金銀のある国があり、その国を授けよう」とお告げがありましたが、その言葉を天皇は信じなかったので、神が怒って天皇を殺してしまいます。この場合、武内宿禰は、あくまでも神功皇后(応神天皇の母)の側にあり、天皇の味方ではありません。
 これからみても、武内宿禰という人物は、応神天皇(神功皇后の子)側にあり、応神天皇の大和進出に功があった人物で、応神天皇と同じように、武内宿禰も朝鮮から渡ってきた人物ということになります。
宿禰とは新羅の王ススオの訛ったもので、武内宿禰自身が新羅王族の一員であったと推察されます。大和へ進出した応神天皇は、武内宿禰とのコンビによって大和地方の豪族を従えて、国土の経営に当りました。
『古事記』によれば、武内宿禰はその300年におよぶ超人的な生涯において、7人の男子をもうけています。
(左上写真)飛鳥大仏 ・ 系図拡大
 

波多八代宿禰
許勢小柄宿禰
蘇我石川宿禰
平群都久宿禰
木角宿禰
葛城長江曽都毘古
若子宿禰

 そして、これら7人の子供から、波多臣、許勢、蘇我、平群、木臣、坂本臣などの豪族が生まれています。その後、朝廷で勢力を振るう豪族のすべての祖が武内宿禰ということになります。これをみても、武内宿禰という超人的な人物は実在したのではなく、朝廷の各豪族をひとつに結びつける伝説的な人物として、創造されたことがわかります。
 しかし、武内宿禰が実在しなかったとしても、そのような超人的な性格を持ったすぐれた政治家がいたことは事実であると考えられます。あるいは、いく人かの性格の違った政治家を一つにまとめて、武内宿禰という人物を創造したとも考えられます。
 伝説の巨人武内宿禰の「内」というのは、天皇の側にいつもいるといった意味であります。現に仁徳天皇は、武内宿禰のことを「内の朝臣」と呼んでいます。
 蘇我氏も『古事記』によれば、他の豪族のように武内宿禰の子孫ということになっています。すなわち武内宿禰の子が,蘇我石川宿禰,その子が蘇我満智であります。
 蘇我満智は履中天皇の時、斎蔵(神庫)、内蔵の検校となり、雄略天皇の時、絹織物の貢物を主として納める大蔵の検校となり、朝廷の財政の責任者となりました。このように蘇我氏は、他の豪族のように天皇の将軍として功をたてる武門の誉れよりも、財力を背景とした行政家としての手腕を認められた家柄であります。
 それは、蘇我氏が統轄していた帰化人集団によるところ大であります。帰化人たちは当時の最高の文化人、もしくは技術者でありました。朝鮮半島からの物資の輸入や、布帛や耕作の器具などすべては、そうした帰化人の手になるものです。それら帰化人の元締めの立場にあった蘇我氏も、元をたどると朝鮮半島からの渡来人であったと思われます。

飛鳥寺伽藍復元図
 
 武内宿禰の伝説がつくられた頃、蘇我氏は権力の絶頂にいたので、その祖先を朝鮮半島に関係の深い武内宿禰に求めたということは、蘇我氏の血の中には、朝鮮を故国とする人々の厚い血潮に受け継がれていたと思われます。
 蘇我満智の子が韓子、さらに韓子の子が高麗で、まさしく朝鮮系であることを名前が示しています。このように朝鮮に近い家柄であったので、帰化人の支配・統一がうまくいっていたと考えられます。
 蘇我高麗の子が稲目であります。この稲目から蘇我氏の歴史はほぼ正確になってきます。それまでは、どちらかといえば武内宿禰まで、血統をさかのぼるためにつくられた人物と云わざるをえません。
 しかし稲目になるとはっきりとしてきます。稲目は欽明天皇の時、大伴金村と争って政界から引退させ、物部尾輿とともに、朝廷の二大勢力にのし上がったのであります。 
 蘇我氏にとって、はじめての大臣はこの稲目でありました。稲目は政治家としても優れており、貿易や、天皇家直轄領である屯倉の経営に力を尽くし、また、屯倉の部民の戸籍を作ったりしています。これらの仕事は、蘇我氏が支配している帰化人があったからこそできたものであり、他の豪族達と蘇我氏の違うところであります。
 稲目はまた、抜目なく天皇との政略結婚をはかりました。稲目の娘、堅塩媛は欽明天皇との間に7男6女をもうけ、長子は後の用命天皇、4子は推古女帝となりました。同じく稲目の娘で、堅塩媛の妹である小姉君も、また欽明天皇との間に4男1女をもうけ、その5子は崇峻天皇であります。さらに稲目の娘、石寸名は、甥にあたる用明天皇の妃になっています。

(註)欽明天皇は5人の后妃を迎えています。宣化天皇の女石姫を皇后として、皇后の妹に当る稚綾姫皇女や日影皇女、さらに蘇我稲目の娘、堅塩媛と小姉君、春日臣の娘、糠子であります。蘇我氏の娘らはいずれも天皇の皇子女を産むことで稲目に外戚の地位を確実なものにしました。

 このように稲目は着々と朝廷内に勢力を浸透させていき、次の馬子の代の繁栄の基礎をつくったのであります。稲目は欽明31年に死に、その翌年、欽明天皇も崩じています。
 欽明天皇のあとが敏達天皇、その次に即位したのが用明天皇であります。用明天皇は、生母が蘇我稲目の娘である堅塩媛、つまり稲目の息子馬子にとっては甥にあたります。
 この時、蘇我氏では馬子が稲目の跡を継いで、一族の采配を振るっていました。馬子の意思によって即位した用明天皇は、即位して2年目、疱瘡にかかってしまいます。当時、疱瘡は死病であり、用明天皇は、用明2年4月、崩御されました。
次の天皇の即位をめぐって、蘇我氏と物部氏の間で争いが起こりました。蘇我馬子は、自分の妹である小姉君が欽明天皇との間に生んだ泊瀬部皇子を天皇に立てようとしていました。これに対し物部守屋は穴穂部皇子を推します。泊瀬部皇子と穴穂部皇子も母が同じで、蘇我氏とはともに親しかるべき人物でありますが、どういうものか穴穂部皇子は、蘇我馬子とは不仲でありました。蘇我馬子はここで一挙に反対勢力を一掃することを決意し、まず穴穂部皇子を殺し、つづいて河内国志紀郡渋河にあった守屋の邸を包囲しました。
だか、物部氏は武をもって鳴る家柄であります。この時の戦いで16歳になる一人の皇子が、馬子の軍の中にいました。父が用明天皇、母が穴穂部皇子の姉である穴穂部間人皇女という大変身分の高い皇子で、名は厩戸皇子と呼ばれていました。この皇子がのちの聖徳太子でありますが、16歳の皇子は馬子とともに信仰する仏に勝利を祈願し、戦いを勝利に導きました。物部氏は滅び、泊瀬部皇子が即位して崇峻天皇となります。馬子にとっては甥に当る新天皇にいろいろと圧力をかけています。
  馬子にすれば、天皇も蘇我氏の一族であり、名前だけは天皇でも政治の実権は蘇我馬子が握り、時には馬子の気に入らない天皇であれば、それを除くことは平気で行うことが出来る立場でありました。
そのことを知った崇峻天皇は、ある時、厩戸皇子に、
「馬子は表面は仏教を信じているが、内心は私利私欲に凝り固まった男であり、自分のことをないがしろにしている。まことに不愉快である」と言ったと伝えられています。
その時の厩戸皇子の答は、
「馬子はおっしゃるとおりの男ですが、いまは権勢が盛んでどうしょうもありません。ここは隠忍自重して下さい」とたしなめています。
 この話は後世に作られたものですので、真実であるかどうかはわかりません。いずれにせよ、崇峻天皇が馬子の専横を嫌っていたことは真実であると云われています。
後世、厩戸皇子(聖徳太子)は、尊敬のあまりに、必要以上に美化されていますが、この時点では、皇子は天皇側より馬子の側についていたと思われます。
崇峻5年(592)の冬のことであります。大きな猪を天皇に献上したものがありました。その猪をみて崇峻天皇は、
「この猪の首を絶つように、自分が憎いと思っている者の首を断つことはできないものか」ともらしました。
 これは、明らかに自分をのけものにしている、馬子に対する不満をぶちまけたものだったので、傍らにいた厩戸皇子は大いに驚き、人々に口止めをしました。
だが、このことはすぐに馬子の耳に入りました。馬子は激怒しました。自分が後押しをして皇位につけた甥に当たる天皇が、自分のことをそれほどまでに嫌っていたとなると、怒るのも当たり前です。しかも天皇がひそかに兵を集めているという情報もあったので、馬子はただちに天皇を除く決意をしました。
蘇我馬子は自分の配下にいる帰化人集団の一人、東漢直駒に命じて、東国から貢物がもたらされたと天皇を誘い出し、殺してしまいました。
物部守屋の堂塔破壊(聖徳太子絵伝)
 
 天皇の遺体は、その日のうちに倉梯岡陵(桜井市)に葬られました。これは大変異例なことであります。天皇が崩御すると、その遺体は埋葬されるまでの間、殯宮に安置され、陵墓が完成するまでの数ヶ月から数年にわたり、殯が続くのが通例でありましたが、崇峻天皇だけは、ただちに埋葬されてしまいました。
天皇を殺した東漢直駒は、天皇の妃で馬子の娘である河上娘を強奪して、いずれかに隠しました。それを知った馬子は、兵をさし向けて東漢直駒を殺しました。この東漢直駒は、武勇にすぐれ才能もあったので馬子に重んじられていましたが、彼が天皇を殺したあとの筋書は、馬子によって作られたと思われます。
蘇我馬子は臣下でありながら天皇を殺してしまう大罪を犯したのであります。そして馬子が天皇を暗殺しようとしていることを厩戸皇子は知っていたのであります。知っていながら、天皇にはなにも告げずに手をこまねいたと思われます。
 積極的に馬子に手をかしたわけではありませんが、傍観することにより、結果的には馬子に味方しているのでその立場は微妙であり、厩戸皇子のこの時の態度は。大いに非難されるものであります。
厩戸皇子は、天皇暗殺という大事件を見過ごすことによって、次の推古天皇の皇太子・摂政の切符を手に入れているので、天皇が殺されたことによって、もっとも利益を得た人と云えるのではないでしょうか。
推古天皇が即位したのは、天皇家としても皇子の即位が望ましいが、そうなると馬子の圧力が強くなるので、いったん、蘇我氏にもっとも近い存在である推古女帝を立て、皇子を摂政として、即位への時期をはかっています。
崇峻天皇の後継者としては、二人の皇子がいました。厩戸皇子と竹田皇子であります。竹田皇子は、第30代敏達天皇とその皇后炊屋姫との間に生まれた子であります。炊屋姫は馬子の姪に当るので、竹田皇子と厩戸皇子もともに蘇我氏の血を強く受けております。
 二人の皇子には、それぞれ朝廷内にバックがあり、調整がつかなかったので、取敢えず、敏達天皇の皇后であり、当時、朝廷でもっとも高貴な存在である炊屋姫が、はじめて女帝として即位されたと考えられます。
厩戸皇子が摂政となった20歳前後ならともかく、49歳で死ぬまでの長い間に、即位のチャンスはあったはずと思われます。馬子のいいなりになっていた皇子は、おとなしくて凡庸であったからか、馬子にとってそれは大変重宝な存在だったのではないでしょうか。
 大臣である馬子が反対すれば、どんなに素晴らしい政策も実行することができずに、実施された政策のすべてに馬子の息がかかっていたはずであります。そうなると、聖徳太子の業績と称されるもの全ては、馬子の政策ということになってしまいます。

【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その2》おわり  次号につづく


【亥年にちなんで】
 
〔亥・猪の文字の語源〕
 『説文』によると、「亥は古文の豕ぶたなり、豕と同じ」とあり、豕≠ヤたの象形であることは間違いない。猪は俗字であって、本字は豬と豕偏になっています。
亥≠ヘ核で次代の種となる意味があり、新しい生命の内蔵を示しています。
イノシシのシシは、肉のことで、むかしは獣類全般の通称でありましたが、とくに猪の肉が美味であるとして、シシの代名詞となりました。
では、イ≠ノついて、『日本古代家畜史』によれば。猪の吠声が、ウィー≠ワたはウー≠ネので、これから「イ」となったとあります。「亥」の音読みはカイ≠ナあります。
「亥」は、十二支の最期、第12番目であり、方角では北北西、時刻では午後10時、または午後9時から11時までをさします。
日本語のなかで、猪のついたものに、陶製の小さな盃のことを猪口≠ソょこ、小利口な者を猪口才≠ニいうが、なぜ猪≠ェついているのか意味が不明です。また、猪・豕・豚の故事・格言は、十二支のなかで最も少ないと云われています。
(左)京都新聞より 拡大 ・(右)平成19年干支文字切手 
 
〔和気清麻呂と猪〕
 和気清麻呂は、奈良時代の半ば、天平5年(733)に、地方豪族の和気氏の嫡男として、備前国藤野郷(現在 岡山県和気町)に生まれました。和気氏一族は、遠く垂仁天皇から分れた名門で、代々、美作と備前の豊かな土地を治めています。その14代目にあたり、姉広虫と二人だけの兄弟でありました。
 当時、地方豪族の子弟は、男子は成人すると舎人になり、また女子は13歳になると采女になって、宮廷に仕えるのが慣しでありました。
 清麻呂は出仕して4年で右兵衛少尉になっています。非常に早い出世でありました。聖武天皇の天平の世は最盛期を迎え、続く孝謙天皇の天平勝宝4年(725)4月、東大寺の大仏開眼供養が行なわれました。都に出てきたばかりの清麻呂も、おそらく、金色に輝く大仏の姿に目を見張ったと思います。
 しかし、この大仏開眼を頂点に、天平の繁栄は終わりを告げようとしていました。国家財政は窮乏し、聖武天皇と光明皇后があいついで亡くなります。
(左)神殿に額づく和気清麻呂 (右)道鏡に神託を告げる清麻呂
 
 後を継いだのは、光明皇后の生んだ一人娘の女帝、孝謙天皇でありました。女帝は阿部内親王である時代、すでに皇太子に立てられていて、独身のまま帝位につき、後継者である皇太子はまだ定められていません。そのため宮廷は、皇太子の冊立をめぐってにわかに騒がしくなり、宮廷貴族たちの権力闘争が激化しました。橘奈良麻呂や藤原仲麻呂(恵美押勝)らが、次々に乱を起こしては失脚していきました。その中で、女帝の絶大な信頼を得て政治の実権を握ったのは、河内国出身の僧侶、弓削道鏡でありました。
 弓削道鏡は、法相宗の高僧義淵や、有名な良弁について仏教を学び、当時では珍しい梵文(サンスクリット語)に通じるなどの英才でありました。また、葛城山中にこもって呪術の修行をも積んでいました。
 天平宝字6年(762)、道鏡は、呪術をもって女帝の病気を治してから、その信頼と寵愛を受けて僧綱に任ぜられ、3年後には早くも太政大臣禅師となる異常に早い出世でありました。
 このあと、女帝は退位して上皇となり、恵美押勝が擁立した淳仁天皇の治世となっていました。しかし、その淳仁天皇が道鏡と女帝の間柄を批判したことから、激怒した女帝は、淳仁天皇を廃して淡路島へ流し、みずから再び即位して称徳天皇となりました。この女帝のもとで、道鏡はさらに法王の位を授けられました。これは天皇の位にも匹敵する高い地位でありました。
 あいついで父母を亡くした40歳半ばの独身の女帝にとって、宮廷貴族たちが立太子をめぐって暗躍が飛び交う宮廷は、殺伐とした気疲れのする場でありました。こうした時に現われて、女帝の悩みを取り除いたのが、名僧道鏡で孤独な女帝にとって、ただ一人の味方であり、救世主のような存在でありました。
(左)称徳天皇の筆跡 (右)道鏡の筆跡
 
 一介の僧侶道鏡が、前代未聞の法王の位についた翌年、神護景雲3年(769)5月、宮廷中を揺り動かす大事件が起こりました。称徳女帝が道鏡への皇位継承を考えていた折も折り、「道鏡を天皇の位につかせたならば、天下は太平になるであろう」という、宇佐八幡の神託が、九州から朝廷にもたらされたのであります。もたらしたのは、太宰主神である習官阿曹麻呂であります。当時、大宰府の長官は、道鏡の弟、弓削浄人でありました。
 この神託に朝廷は色めきたちました。当時、宇佐八幡は、伊勢の皇大神宮と並び、皇室の絶大な崇敬のまとでありました。かつて聖武天皇が東大寺大仏鋳造の成功を危ぶんだ時、「われ天神地祇を引率い、かならず成し奉らん」との神託を下したように、その神のお告げは、これまでもしばしば朝廷の政治を左右しており、至上命令に近い威力がありました。臣下の身で皇位を窺うという前代未聞の事態でありますが、道鏡は大いに喜びましたが、称徳天皇は事の重大さに思い悩みました。また、人々は神託を容易に信ずることはできませんでした。
 天皇の夢に、八幡大神の使いが現われました。真の神託を伝えたいので、法均尼(広虫)を遣わすようにとのお告げがありました。天皇は法均尼のかわりに、弟の清麻呂を遣わしたいと答えました。天皇は清麻呂に「汝よろしく早く参りて、神の教えを聞くべし」と命じました。
 この時、和気清麻呂は、近衛将監で美濃大掾という中堅官僚として、姉の法均尼(広虫)とともに女帝の側近に仕えていました。37歳の清麻呂は、思いもかけず、大きな政治問題に巻き込まれることになりました。
 女帝は大変気丈なかたであり、発せられた宣命(和文の詔勅)の中には、「王を奴となすも、奴を王となすも、朕が意のままなり」と云っています。しかし、女帝も、日本の建国以来の伝統を打ち破って、異姓の人に皇位を譲るということは、これはどうかな、群臣どもははたしてそれを承認するだろうかと案じています。それで、宇佐大神の神勅を仰ぎ、その権威のもとに群臣の異議を圧殺しようとされました。
 都を出発してから1ヶ月の後、宇佐八幡宮に着いた清麻呂は、さっそく神に宣託を求めました。神前にぬかずく清麻呂に対し、神のお告げは、やはり「道鏡を皇位につけよ」というものでありました。しかし、清麻呂は神に向ってさらに祈りを続けました。
 「今、大神の教える所、これ国家の大事なり、神託信じ難し、願わくは神意を示せ」と。すると、身の丈3丈ばかりで、色は満月の如く輝く神々しい八幡の大神が姿を現しました。清麻呂は仰天して、その場に伏してしまいました。その時、厳かに真の神託がくだされました。「わが国家は開闢より以来君臣定まれり。臣をもって君となしこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく掃い除くべし」と、
 宇佐八幡の真の神託は、清麻呂の信念の表われで、また、その危険を顧みないという覚悟が大神に通じました。
 八幡大神の神意を得た清麻呂はいそぎ都へ帰りました。宮中に参内した清麻呂は、強い決意を持って、神の教えのとおりに報告しました。群臣が見守るなか、「道鏡を掃い除くべし」と奏上したのです。朝廷を安堵が包みました。一方、称徳女帝は失望し、道鏡は憤怒の形相で、烈火の如く怒りました。
 怒った道鏡は、宇佐大神の神託を偽ったとの罪で、清麻呂の名を「別部穢麻呂」と改名した上で、大隅国(鹿児島県牧園町)へ流刑にしました。姉の法均尼も還俗させられて、別部挟虫と改名の上、備後国(広島県三原市)へ流罪となりました。
 大隅国に流される途中清麻呂は、道鏡の放った刺客に襲われますが、激しい雷雨によって免れ、天皇の意を受けた勅使によって救われました。
 また、清麻呂は先の神の教えのお礼参りに、宇佐八幡に参拝しようとしますが、脚が萎えて歩くことが出来ないので、輿に乗って豊前国(福岡・大分県)宇佐郡の?田村まで来た時、300頭の猪が現われて、輿の前後を守りながら、八幡宮までの10里の道を無事に案内し、のち山の中に走り去りました。清麻呂は無事参拝を終え、萎えていた脚が治り、歩くことが出来るようになりました。
 神護景雲4年=宝亀元年(770)8月、称徳天皇は53歳で崩御されました。そして光仁天皇が即位されると、道鏡は下野国(栃木県)の薬師寺別当に左遷されました。一方、清麻呂と法均尼は、流罪を解かれて都に帰りました。そして本姓本位に復して名誉は回復しました。
 桓武天皇が天応元年(781)に即位されると、それまでの仏教遍重政治を克服し、律令政治を立て直すなど、さまざまな改革を強力に推進していきます。天皇は新時代に相応しい都造りを決定されました。人心の一新をはかる目的もありました。清麻呂は予定通りに進まない長岡京の造営中止と葛野方面(京都市)への再遷都を提言しました。清麻呂は造営大夫として、新都造営に手腕を振るいました。新しい時代の象徴として平安京は完成し、延暦13年(794)に遷都しました。

【護王神社】旧別格官幣社
 
 和気清麻呂とその姉広虫を祭神とする神社で、京都市上京区烏丸通に面しています。
明治19年、高尾山神護寺境内より、皇室の守護神として現在地に移されました。
 祭神の和気清麻呂は、弓削道鏡の野望をくじいた忠臣として知られます。また、平安京造営の際には造営大夫となり、今日の京都を築いた恩人として崇敬されています。広虫は孝謙天皇の側近に仕え、孤児の養育につくした慈悲に富んだ女性として知られています。
 烏丸通に面した社地は広く、本殿・拝殿・社務所などが整っています。社殿前に石造の猪像があります。これは清麻呂が大隅に流された時、猪によって危難を免れた故事によっています。社務所横の展示室には、猪にちなむコレクションが展示されています。


≪第13号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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