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●第36号メニュー(2008/12/21発行)
【神・神社とその祭神】《そのXVI》 伊勢神宮
〔伊勢神宮〕 〔両宮の成立と式年遷宮〕 〔内宮遷座の経緯〕
〔外宮遷座の経緯〕 〔日別朝夕大御饌祭〕 〔神宮の祭り〕
〔御師とは〕

〔伊勢神宮〕
 
 俗にお伊勢さん∞大神宮さま≠ニ呼ばれていて、庶民の厚い信仰があります。正式名称を「神宮」と称し、内宮に天照坐巣皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を、外宮に豊受大御神(とようけおおみかみ)を祀り、一般に伊勢神宮と呼ばれています。内宮の正称は皇大神宮(他に天照皇大神宮・伊須受(いすず)宮など)であり、外宮の正称は豊受大神宮(他に止由気(とゆけ)宮・度会(わたらい)宮など)であって、全国の神明社一万八千社の総本宮であり、国家の宗祀とされています。
 内宮、外宮のほかに、伊勢神宮には、123社の宮があります。この125社の中心が正宮と呼ばれる皇大神宮と豊受大神宮であります。その次に別宮と呼ばれるものが14社あります。その次が摂社、その次が末社、さらに所管社と続きます。
 14の別宮は、それぞれ内宮か外宮のどちらかに所属しており、内宮が10社、外宮が4社であります。
(左)伊勢神宮へのアクセス (右)伊勢神宮内宮正殿
 
 内宮に所属の10社とは、荒祭宮(あらまつりのみや)、風日祈宮(かざひのみや)、月読宮(つきよみのみや)、月読荒御霊宮(あらみたまのみや)、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊佐奈美宮(いざなみのみや)、倭姫宮(やまとひめのみや)、滝原宮(たきはらのみや)、滝原並宮(ならびのみや)、伊雑宮(いざわのみや)であり、滝原宮と滝原並宮は度会郡(わたらいぐん)大宮町に伊雑宮は志摩市磯部町に鎮座しています。
 外宮の別宮は、多賀宮(たかのみや)、土宮(つちのみや)、風宮(かぜのみや)、月夜見宮(つきよみのみや)の4社であります。そのほかに摂社として、内宮に27社、外宮に16社、多くは延喜式に所載されています。末社は内宮に16社、外宮に8社、所管社は内宮に30社、外宮に4社で、その他に、別宮所管社の8社があります。そこには、日神、月神、風神、土神など、天地万物諸神が祀られ、皇室の氏神、全日本人の総氏神として崇敬されています。
 例祭は神嘗祭(かんなめさい)と呼ばれ、外宮は10月15・16日、内宮は10月16・17日に行われます。内宮祭神の天照坐皇大御神は日の神と称えられ、食物神たる外宮祭神の豊受大御神ともども、人々に元気と活力を与える神徳があります。
 まず内宮の主祭神は天照大御神(相殿神として天手力男神と万幡豊秋津姫(よろずはたとよあきつひめ)命)であります。記紀などによると、「日神」とも「大日?貴(おおひるめむち)」とも称され、「光華明彩(ひかりうるわしく)、六合(くに)の内に照り徹(とお)る」ほど神徳の高い大神とつたえられています。
 日が天にあって此の国土を照らすという自然界の現象と、皇室がこの国を統治せられる政治形態の上から、この二つを結びつけて皇室を日(太陽)に擬したのであって、そこから日そのものとしての日の神が皇祖神となりました。
 つまり、天照大御神の本質は「皇祖神」であり、やがて日本列島を統一した皇室(大和朝廷)のルーツとして仰がれるにつれ、唯一不滅の太陽にたとえられるようになった(ヒルメは日(ひ)の女(め)の意)と考えられます。しかも、皇室のもとに統合された日本民族は、弥生時代以来、太陽の恵みを頼りに稲作を営んできたので、太陽になぞられる皇祖神への信仰は容易に受け入れられたものと思われます。
(左)内宮正宮平面図(拡大) (右)内宮正殿と古殿地
   
 この天照大御神は、もともと皇室の内部で祖先神として祀られていましたが、朝廷の勢力が大和を中心にだんだんと拡大される過程で、大和から伊勢に遷されました。そのいきさつは記紀や『皇大神宮儀式帳』などによると、第10代の崇神天皇朝(3世紀後半)にいったん大和の笠縫邑(かさぬいむら)(桜井市の大神神社付近)に遷し祀られていましたが、次の垂仁天皇朝(3世紀末)に皇女の倭姫命が「五大夫」(有力な武将ら)に護られながら「大神を頂き奉りて、願(ね)ぎ給ふ国
を求め」、大和より伊賀・近江・美濃をへて伊勢に至ったところ「この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪(しきなみ)よする国。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。この国にをらむとおもう」との神慮にかなったので、五十鈴(いすず)川の上流(宇治)に神宮を建てて祀ることになりました。これは結果的にみれば、天照大御神の鎮座地にふさわしい常世(理想郷)を大和の東方(太陽の出る方向)の伊勢に求めたことになります。
 3世紀末、畿外への勢力拡大をはかっていた大和朝廷が、東国へ出る前進基地として伊勢に信仰の拠点を据えたものとも考えられます。
 一方、外宮の主祭神は豊受大御神(相殿神として御伴神三座)を祀っています。記紀などによれば、この神は伊佐奈美(イザナミ)の尊から化生された「和久産巣日(わくむすび)(稚産霊)神」の御子で、養蚕や稲作など産業の守護神とされ、『止由気(とゆけ)宮儀式帳』には「御饌津神(みけつかみ)」(食物神)と見えています。また、『古事記』には豊宇気毘売(とようけひめ)神と記されています。
 この豊受大御神は、もと丹波(丹後)の比治に祀られていましたが、のち雄略天皇22年戌午(478)伊勢の度会(わたらい)の山田原に遷し祀られました。5世紀後半当時は大和朝廷の最盛期であり、このような時期に、豊受大御神を丹波から伊勢へ遷されたのは、皇室(大和朝廷)の勢力拡大にともない、皇祖天照大御神の権威も一段と高まって日本民族の総氏神的な性格をもたせるため、その一要素である産業・食物の守護神的役割を専門の豊受大御神に委ねて、その充実をはかろうとしたと思われます。
(左)内宮正殿透視図 (右)家屋文鏡 佐味田古墳出土
 
 ふつう伊勢参宮といえば、宇治の内宮正宮と山田の外宮正宮にお参りをするのであります。他に別宮と摂社・末社や所管社があり、合計125所(神座数では137座)にのぼります。
 内宮の別宮は、@荒祭宮(あらまつりのみや)、A滝原宮(たきはらのみや)、B滝原並宮(ならびのみや)、C伊雑宮(いざわのみや)、D月読宮(つきよみのみや)、E月読荒御霊宮(あらみたまのみや)、F伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、G伊佐奈美宮(いざなみのみや)、H風日祈宮(かざひのみや)、I倭姫宮(やまとひめのみや)の10所であります。
 @は、正宮が天照大御神の和御魂(にぎみたま)を祀るのに対して、その荒御魂(あらみたま)(勇猛な神霊)を祀り、正宮に近い真北の丘に鎮座しています。ABとCは、正宮と同じ天照大御神の御魂を祀っていますが、ともに正宮よりはるか遠い所(ABは宮川上流の度会郡大宮町野後、Cは海に近い志摩郡磯部町上之郷)に鎮座しています。『延喜式』に「大神の遥宮(とおのみや)」と記されています。
 また、DEは、天照大御神の弟とされる月読神の和魂と荒魂を祀り、FGは、天照大御神・月読神の両親にあたるイザナギ・イザナミの尊を祀っています。いずれも内宮より少し離れた北側に4所並んで鎮座しています。
 さらにHはイザナギの尊から化生した風神(級長津彦・級長戸部(しなとべ)命)を祀り、蒙古襲来のさい神風を吹かせた霊験により別宮に列せられたもので、神楽殿の近くにあります。なおIは、神宮の創祀に尽力した倭姫命を大正12年に倉山田の一角に祀ったのであります。
 一方、外宮の別宮は、J多賀宮(高宮)、K土宮、L風宮、M月夜見宮の4所があります。このうちJは、正宮が豊受大御神の和御魂を祀るのに対して、その荒御魂を祀り、正宮に近い南方の丘に鎮座しています。Kの土宮は「宮地神(みやぢかみ)」とか「土御祖神(つちみおやのかみ)」とも称される外宮一帯の地主神を祀ります。平安末期に付近の宮川が再三氾濫したので、それを鎮めるため末社から別宮へと昇格されたものであります。Lの風宮は、内宮のH風日祈宮(かざひのみや)と同じく風神を祀り、蒙古襲来のあとその功績により別宮に列せられました。KもLもJの近くに鎮座しています。Mの月夜見宮は、内宮の月読宮と同じ神を祀っていますが、鎌倉初期に摂社から別宮へ昇格され、外宮の北方(宮後町、旧宮川沿い)に鎮座しています。
 次に摂社と末社でありますが、『延喜式』の神名帳に所載の(本宮・別宮を除く)式内社をいいます。
(左)五十鈴川御手洗場 (中)瀧祭神
 
 末社は延暦(804年提出)の両宮儀式帳に所載(本宮・別宮・摂社を除く)のいわゆる帳内社をいいます。また、所管社は正宮か別宮に所管されている小社でありますが、摂社・末社と同じく平安以前から当地に祀られていたとみられる古社であり、神宮の成立には不可欠な存在であります。
 内宮側の摂社・末社等は、(イ)五十鈴川流域、(ロ)宮川流域、(ハ)田丸平野の3地域に分かれ、外宮側の摂社・末社等は、(ニ)山田原と高倉山周辺、(ホ)勢田川流域、(へ)宮川流域の3地域に分かれています。これらの地域は、内宮に奉仕した荒木田氏や外宮に奉仕した渡会(わたらい)氏や磯部氏たちの生活基盤であったとみられ、そこに従来から祀られていた地主神的な古社や両宮に貢納する御贄(みにえ)・土器・織物などに関係する諸社が、やがて神宮の摂末社なり所管社として位置づけられたと考えられます。そのなかには、先に述べたH風日祈宮、K土宮、L風宮などの、著しい霊験によって摂末社から別宮に昇格したものもあります。また、内宮側所管社の滝祭神(たきまつりがみ)のごとくは、五十鈴川の御手洗場の脇に社殿を造らず、石畳の上に石を水波能売神(みずはめのかみ)のご神体として祀りながらも、別宮に準ずる鄭重な供饌・奉幣が行われます。
 このように、神宮の中心をなす内宮の天照大御神も外宮の豊受大御神も、大和や丹波から遷し祀られたもので、伊勢にとっては外来新参の神でありますが、その鎮座後も在地の神々を排除することなく、むしろ積極的に包摂して共存を図っています。
 このような神宮のあり方は、平安時代末期以降、神宮の神領をはじめ全国各地で奉斎されるに至った神明社の場合もほぼ同様であったと思われます。それ故に、元来は皇室により遷し祀られた神宮は、やがて全日本人の総氏神として広く信仰されるようになりました。
(左)倭姫宮 (右)風日祈宮橋
 
〔両宮の成立と式年遷宮〕
 
 皇大神宮(内宮)の創立は3世紀末、豊受大神宮(外宮)の創設は5世紀後半と考えられます。周知のごとく神宮の建物は、古来から簡素な萱葺き、掘立柱で、高床式の神明造りであります。古墳時代以前の弥生時代の原始的な様式を今に伝えています。
 ちなみに、神明造の棟持柱(むなもちばしら)(切妻の張出屋根を支えるため棟木の両脇を持ち上げる柱)は、弥生時代の銅鐸に描かれている高床建築に見ることが出来ます。また、両宮正殿の妻飾に刻まれている鏡形木(丁字形の束柱)の半弧文様も、弥生時代の銅鏡や土器にみられる直弧文(木葉文)に似ています。
 かつて村々で収穫した米穀を集めて保管した高床式の穀倉には穀霊が宿ると信じられ、やがて特別に神の依代(よりしろ)として屋代(やしろ)=社を建てるようになると、この高床式穀倉の様式が社殿に用いられたものと考えられます。それらは段々に洗練され、今に見る神明造の様式が確立しました。ただ、萱葺や掘立柱の建物では、20〜30年も経つと朽ちてしまうので、折々に補修し、30年前後に改築せざるをえないのと、神々を祀る社殿であれば、清浄を保つため20年前後で建て直すことが慣習化して、前の様式を忠実に復原して、原初の神明造を後々まで繰り返し伝えることとなりました。
 このことが朝廷によって公式に制度化されたのは、7世紀後半の天武・持統天皇朝であります。天武天皇(大海人皇子)は、『日本書紀』によると、壬申の乱(672)のさい「天照大神(内宮)を望拝」して戦勝を祈願され、即位直後に大来皇女(おおくのひめみこ)を斎王として「天照大神宮」に遣わしており、また神宮に祭主を朝廷から派遣し、両宮に禰宜(ねぎ)を任命するようになりました。
 しかも、朱鳥元年(686)天武天皇が崩御されると、その皇后が称制して持統天皇となられ、いわゆる朱雀3年(持統2年)「二所太神宮御遷宮の事、二十年に一度遷御せしめ奉る」ことが宣旨により制度化(大神宮諸雑事記)されました。
(左)内宮の御垣と御門 (右)豊受大神宮(外宮)
 
 この20年目ごとの式年(定まった年)に遷宮する制度は、内宮で持統4年(690)に、外宮では同6年を第1回として実施され、奈良・平安から鎌倉時代までの六百数十年間ほぼ励行されています。しかし、南北朝から室町時代中期に遅延しがちとなり、戦国時代には内外宮とも中断されています。
 それを安土・桃山時代に再興する際、大いに力をつくしたのは、名も無き尼寺(のち慶光院の号を勅賜される)に住み、諸国を勧進して歩いた清順尼(せいじゅんに)と周養尼(しゅうように)でありました。その遷宮費用は、織田信長も豊臣秀吉も応分に寄進しています。また、徳川幕府も全額負担するようになったので、遷宮は順調に行われています。
 明治以降は、律令時代の例に倣って造神宮使庁を設け国費で賄われていましたが、戦後の新憲法下では神宮自体が宗教法人となり、民間の式年遷宮奉賛会により、献金によって行われています。
 このように神宮の式年遷宮制度は、途中幾多の困難を乗り越えて1300年間も続いてきました。これを可能にしたのは、何といっても歴代天皇の皇祖神に対する深い崇敬の念であり、また神宮を総氏神と仰ぐ国民による篤い奉賛の心情によるものであります。
 ところで、式年遷宮には、正宮と別宮の神殿を従来の古殿の隣に新築するだけでなく、殿舎の装飾(帳・幌)や神々の装束(服飾・持物)および神宝(織機・武具・楽器)などもすべて新調されます。その真新しい内宮正殿では10月2日、外宮正殿では10月5日に、それぞれ真夜中に遷御の秘儀が行われ、続いて神田から収穫した新米の御飯・御酒や新鮮な海産物などが、大御饌(おおみけ)≠ニして供進されます。第一別宮は一週間後に行われます。
 このような神殿も装束も神宝なども一新したうえで大御饌を供進することによって、神宮の大神たちは大いなる神威を蘇らせ、それを仰ぐ人々も新しい生命力を蘇らせることができます。この素朴で強固な信仰こそが、式年遷宮を支えてきた真の力であります。
(左)御塩殿 御塩焼所 (右)外宮御饌殿 
 
〔内宮遷座の経緯〕
 
 天照大御神は、日本神話で皇祖神とされている女神であります。別名を「オオヒルメムチ」ともいうように、神話学的には日の神格化であり太陽神であります。天照大御神の名は、天上にあって照らします偉大な神の意であります。別名の「オオヒルメ」の「オオ」は美称であり、「ヒルメ」は太陽の女神「日女」だとも、太陽神の妻「日妻」の意味だともいわれています。太陽信仰は、われわれの祖先が古くから持っていた信仰であります。
 日本神話では、天照大御神の子の一人「アメノオシホミミノミコト」が皇室の祖先であり、その子「ニニギノミコト」に群神を随伴させ、三種神器を持たせて中つ国(日本)に遣わし、国土の主としました。これが有名な天孫降臨であります。九州の高千穂へ降臨した「ニニギノミコト」の後裔である「カンヤマトイワレヒコノミコト」が東征し、日本を統一して大和橿原宮で即位しました。それが初代の神武天皇であります。 
 このように、皇室の祖先神とされる天照大御神は、日本の最高神として位置づけられ、三種神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)が天照大御神の御霊代(みたましろ)(御神体)であるとされています。
(註) 天照大御神が、高天原から地上に降下しようとする天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に鏡を授けて、「わが児、この鏡を視(み)まさんこと、まさに吾を視るがごとくすべし。ともに床(ゆか)を同じくし殿(おおどの)を共にして、斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」といわました。はじめは同殿同床の形式で祀られていました。
 神武天皇から9代の間は大御神(鏡)と天皇が同殿同床でありましたが、第10代崇神天皇が皇居内に神(鏡)を奉祀するのは穢れに触れる危険性が大きいとして、別に神聖性を保ちえる聖地に遷されることを望んで、大和の三輪の御室嶺上之宮(大和の笠縫邑)に神祠を建て大御神(鏡)を祭祀しました。同天皇58年には奉斎していた豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命に交替して、倭姫命が大御神(鏡)の御杖代として伊勢鎮座に至るまで諸国を巡幸しました。『倭姫命世記』によると、同60年に大和国宇陀の秋宮(4年)、伊賀国隠の市守宮(2年)、伊賀穴穂宮(4年)、次いで垂仁天皇2年に伊賀国敢都美恵宮(2年)、近江国甲可日雲宮(4年)、近江国坂田宮(2年)、美濃国伊久良河宮(4年)、尾張国中嶋宮(2年)、伊勢国桑名野代宮(4年)、伊勢国阿佐加藤方片樋宮(4年)、伊勢国飯野高宮(4年)、伊勢国伊蘇宮(1年)と巡行を重ね、垂仁天皇26年10月にようやく伊勢国渡会の五十鈴川上宮に鎮座されたとあります。
 
〔外宮遷座の経緯〕
 
 外宮の鎮座について、『倭姫命世記』には、雄略21年10月、倭姫命(垂仁天皇の第二皇女)が夢に天照大御神の託宣を受けますが、「吾一所にのみ坐せば、御饌(みけ)も安らけく聞召すことがままならない。それで丹波国与佐の小見の比沼の魚井原に坐す、丹波の道主命の子、八乎止女が斎き奉っている御饌津神である止由気大神を、吾が坐す国へ招いてほしい」と。
 そこで倭姫命は大若子命を使者として雄略天皇にその旨を申し告げさせました。天皇はさっそく大若子命に、手置帆負・彦狭知二神の裔を率い、斎斧(おの)・斎?(すき)をとって山材を採り、神殿を造営させました。そして翌22年7月7日に、大佐佐命をもって、丹波国余佐郡真奈井原より、止由気(とゆけ)皇大神を迎え奉り、度会の山田原の下津磐根(いわね)に、大宮柱広敷き立て遷斎しました。豊受大御神を主祭神として、相殿神として御伴神三座を祀っています。
 この外宮の遷座を終えて倭姫命は、雄略天皇23年己未2月、尾上山峯に退去し、薨去されたと『倭姫命世記』は記しています。
(左)神饌の例(季節により内容が変わる) (右)日別朝夕大御饌儀−参進 
 
〔日別朝夕大御饌祭〕
 
 日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)は、毎日午前8時から午前9時までにかけての朝大御饌。午後3時から午後4時までにかけての夕大御饌の毎日2回、外宮御饌殿において御饌を供えて行う行事です。常典御饌とも呼ばれています。
 豊受大御宮の斎館にて前日から潔斎していた権禰宜が、外宮の「忌火屋殿」において火錐具を用いて錐り出す神聖な「忌火」を使用して同じく前日から潔斎していた神職が調理した御飯(おんいい)3盛、上御井(かみのみい)神社の神水、御塩(みしお)、干鯛(季節により、するめ・?(かます)・?(むつ))、乾鰹、海藻、野菜、果物、清酒3献を、禰宜、権禰宜、宮掌各1名、出仕2名が「御饌殿」において、天照大御神と豊受大御神と、天手力男神、万幡豊秋津(よろずはたとよあきつ)姫命、相御伴(あいみとも)神三座に奉る祭典であります。神饌としての御塩(みしお)を伊勢市にある御塩殿神社から、外宮に運ぶ際に使う御塩道が定められており、また、御塩の豊受大神宮斎館への輸送のためだけに用いられる橋として「御塩橋」が外宮の宮域にあります。
 米は伊勢市内の「神宮神田」、野菜は伊勢市内の「神宮御園」で造られるなど、神宮の神饌は自給自足を旨としているだけでなく、祭具としての土器も多気郡明和町にある土器調製所で造られます。
 
〔神宮の祭り〕
 
 伊勢の神宮は、太陽にもたとえられる生命(いのち)の本源を与えてくれる民族の祖神、天照大御神と、毎日の食べ物や衣食住の恵みの御神徳を合わせて祀ることにより、生きる、生かさせていただくという感謝の心の源となり、全国に10万もある神社の中で最高位のお宮として、どの時代にも皇室の篤い崇敬のもとに伝統ある祭がなされてきました。
 年間では、新年の歳旦祭(さんたんさい)から大晦日の大祓(おおはらい)まで、大小の神事が千数百回におよびます。それは、天照大御神の三大神勅に基づくものであります。三大神勅とは、「宝鏡奉斎」で聖寿(せいじゅ)(天子の寿命)への万歳であり、鏡が象徴する清く明るく正直をモットーとして万民の幸福を、「斎庭(ゆにわ)の稲穂」は米の豊作、経済繁栄を、そして「天壌無窮(てんじょうむきゅう)」は皇室と国家の永遠の発展と世界平和を祈るおさとしであります。神宮の祭りは、いわば天照大御神との約束事、祝福の神事を祈念するものであります。
(左) 内宮神楽殿 (右)御師の家 沢潟太夫
 
〔御師とは〕
 
 江戸時代に、その絶頂期を迎えた御師の制度とは、全国の檀家と伊勢神宮を結び、伊勢参りのすべてを仕切ったツアーコンダクターの元祖とも呼べる存在でした。参宮者の宿泊所として使われた御師の邸宅は、単なる宿泊施設、宴会場を超えた「旅」を演出する舞台装置であり、神楽やお祓いの場としても活用されました。
 御師の出自は社家であります。中世に、武家の参宮を周旋したのが初めであります。近世になると庶民の参宮をも周旋しました。とくに、近世の御師は、道中の手配や伊勢での神楽奉納、はては伊勢講の金の管理・運用まで手がける総合旅行業者となりました。
 師職株(ししきかぶ)をもっての営業であり、江戸前期で150家から200家、中期になると500家以上に増加しています。その御師が、それぞれにカスミという旦那場(だんなば)(お得意先)を定めて商業活動を行ったのであります。そして伊勢には御師の配下の手代や楽人、それにみやげ物や食料の製造、販売に携わる人は数万人に達したといわれています。
 伊勢は、また、日本人はもとより、世界でも冠たる観光産業都市でありました。

【神・神社とその祭神】《XVI》伊勢神宮 完 つづく


≪月刊 京都史跡散策会≫ 平成20年 バックナンバー メニュー
【神・神社とその祭神】《そのX》
【出雲に鎮まる大国主神の物語】 【出雲大社】 【出雲の神】
【神・神社とその祭神】《そのY》
【天孫降臨】 【天宇受売命と猿田比古命】
【木花之佐久屋比売(神阿多津比売)】
【霊峰富士への信仰】 【海幸彦と山幸彦】
【神・神社とその祭神】《そのZ》
【神武東征】 <白盾津(河内)の戦い> <熊野路の戦> <八咫烏>
<金色の鵄> 【神武天皇陵】 【饒速日命】(爾芸速日命) 【饒速日命を祀る神社】
【神・神社とその祭神】《その[》 加茂神社・松尾大社
【はじめに】 【賀茂建角身命・玉依日売命(たまよりひめみこと)・別雷命】
【賀茂神社】 【賀茂祭(葵祭)】 【松尾大社】
【神・神社とその祭神】《その\》 宇佐神宮・石清水八幡宮
【八幡大菩薩】 【宇佐神宮】 【八幡神と神仏習合】
【宇佐神宮の祭神】 【託宣の神】 【古式の神祭・放生会】
【宮寺の石清水八幡宮】
【神・神社とその祭神】《その]》 八坂神社
【はじめに】 【祗園社(八坂神社)】 【疫神社と蘇民将来】
【今宮神社と紫野御霊会】 【御霊会と祇園祭】
【津島神社】
【神・神社とその祭神】《そのXI》 春日大社(その1)
〔春日大社の成立〕〔枚岡神社〕〔カスガの神・ミカサの神〕
〔赤童子出現石〕〔鹿島神宮〕〔香取神宮〕
【神・神社とその祭神】《そのXII》 春日大社(その2)
〔若宮社成立と春日信仰〕
〔春日大社の祭神〕 「天児屋根命」 「経津主神」 「武甕槌神」
【神・神社とその祭神】《そのXIII》 北野天満宮
〔はじめに〕
〔初公開の木造鬼神像十三躰〕 「京都新聞記事中より」 「開催にあたりて」「木造鬼神像について」
〔菅原道真と天満宮の成立〕 〔怨霊と雷神と天神様〕 〔北野天満宮境内の諸堂〕
【神・神社とその祭神】《そのXIV》 日吉大社
〔日吉神社と山王神信仰の広がり〕
〔山王七社〕 〔山王祭〕
〔日吉大社の祭神〕 〔日吉大社の諸堂〕 〔山王曼荼羅〕
【神・神社とその祭神】《そのXV》伏見稲荷大社
〔稲荷の神のなりたち〕
〔本殿周辺の諸堂〕 [楼門][本堂][権殿][奥宮]
〔お山めぐり〕 〔伏見稲荷アラカルト……〕
【神・神社とその祭神】《そのXVI》伊勢神宮
〔伊勢神宮〕 〔両宮の成立と式年遷宮〕 〔内宮遷座の経緯〕
〔外宮遷座の経緯〕 〔日別朝夕大御饌祭〕 〔神宮の祭り〕
〔御師とは〕
編集:山口須美男 メールはこちらから。

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