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●第10号メニュー(2006/10/15発行)
秀吉と醍醐の花見

   醍醐寺と三宝院

   醍醐の花見

   名石・藤戸石の由来


 試行錯誤しながら続けている「月刊 京都史跡散策会」の第10号が出来あがりました。創刊号で、京都史跡散策会の200回を記念して発刊することをお知らせしました。過去の例会での説明不足を補うために、適宜に、前後の関係もなく、思い付くままに適当にセレクトして補っています。まだまだ、中途半端な域を脱することが出来ませんが、もう少しバライティに富んだウイットのある構成を考えています。今後とも宜しく、当誌の充実・向上にたいし、ご指導よろしくお願いします。

≪京の秀吉歳時記≫[その六]
【秀吉と醍醐の花見】


<<はじめに>>

 奈良街道に西面する総門を入ると左側に三宝院の唐門があります。扉には菊と桐の紋が大きく陽刻されています。総門から東に向う桜並木の彼方には丹塗りの仁王門が見えます。
三宝院玄関前の枝垂桜
 
 唐門から南にのびる桜並木は桜の馬場と呼ばれています。春は太閤ゆかりの五三の桐の紋を染め出した緋色の幔幕を、桜の幹にはりめぐらし醍醐の花見の豪華さを再現しています。
 慶長3年(1598)、豊臣秀吉が伏見城から醍醐寺に至る沿道を改修して、醍醐に七百本の桜を植えて花見の宴を催した時は、上醍醐への山路を約四町登ったヤリ山(花見山)頂上の千畳敷と呼ばれている平坦地に、数奇をこらした茶亭を設け、桜の梢に緋色の糸で紅の綱をはり花鈴をつけて、山風に鳴る鈴の音と花の香のなかを、きらびやかに粧した女房たちを従えて燕遊の歓をつくしたのであります。
 この年秀吉は高野山の木食上人応其を造営奉行として醍醐寺伽藍の再興にあたらせ、秀吉の死後は秀頼がその事業を受け継いでいます。
 京都最古の建築として名高い五重塔は、慶長3年、秀吉が1500石を投じて行なった根本修理によって倒壊寸前の塔が救われました。金堂は慶長5年(1600)、仁王門は同12年(1606)いずれも秀頼の時に竣工しています。醍醐の花見は一場の夢と消えたわけでなく、醍醐寺伽藍の復興のために、大きな業績を残しました。

<<醍醐寺と三宝院>>
 
[醍醐寺]
 真言宗醍醐派総本山醍醐寺は、弘法大師の法孫にあたる真言血脈の第11祖である聖宝理源大師が貞観16年(874)に開創した霊刹であります。その後、醍醐天皇はじめ、その御子、朱雀、村上の両天皇や穏子皇后の帰依あつく、延喜7年(907)には醍醐天皇の勅願寺と定められて、山上、山下にわたり、大伽藍が造営されました。
 以来、時代の変遷にともない、紆余曲折はありましたが、歴代の座主はその徳をもって荒波を乗越え、現代にその法灯を伝えています。
(左)開山理源大師坐像 (右)如意輪観音坐像
 
 醍醐寺は真言宗小野法流の渕そうであり、理源大師が創始した修験道当山派の本山であります。
 延長8年(930)、醍醐天皇崩御後、この地に葬り謚して醍醐天皇と称しています。朱雀天皇は父帝の発願をついで摂政藤原忠平に五重塔の建立を命じ、15年を経て村上天皇の天暦5年(951)に竣工しました。
 醍醐天皇は御父宇多天皇が仁和寺を創立されたのに倣って、ここに真言宗の巨刹を建てることを発願しました。延喜・天暦の治と呼ばれて、後世に王政復古の目標とされた時代に発願され完成した醍醐寺五重塔(国宝)は、藤原氏の権勢がまだ朝廷に及ぼさない、王家の権威が外戚の手におちていなかった時代の威風をとどめるわが国唯一の遺構であります。造営者忠平は時平の弟で、藤原道長の曽祖父にあたります。
 方5間五層の塔身は、その頂きに塔身の高さの2分のTに達する相輪を高く中空にさしのばし、その荘重雄偉な構造は王朝最盛期の作品であることを示しています。
 五重塔の北にある金堂(国宝)は慶長5年(1600)紀州湯浅の満願寺から移建したもので、鎌倉時代の遺構といわれています。金堂の東に伝法院がありその奥の山端に造られている庭園は近年の作庭でありますが、見事な石組みを用いて滝をおとし園池の中島に、丹塗の勾欄の反橋をかけて弁天堂が建てられています。
上醍醐五大堂
 
 醍醐寺の境内は山麓の下醍醐と山上の上醍醐に分かれています。下醍醐の東のはずれに女人堂があって、昔は高野山や大峯山と同じくここから山上への女人の登山を禁じていました。醍醐寺(真言宗)は大峯入をする山伏を統轄する修験道一派の本山で、洛中の聖護院(天台宗)が修験道の他の一派を擁して本山派と称しているのに対し、醍醐寺を当山派と云っています。女人堂から37町登ると、醍醐山の頂上に上醍醐の伽藍があります。薬師堂(国宝)は保安2年(1121)の古建築で、下醍醐の五重塔とともに平安時代の貴重な遺構であります。本尊薬師三尊(国宝・現在は霊宝館安置)は醍醐寺創立当時の作品と思われます。清滝宮拝殿(国宝)は永享6年(1434)の建築で、寝殿造に倣った舞台造の構造は神社の拝殿には珍しいものです。他に開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、西国第十一番霊場の准胝観音堂があります。五大堂は近年焼失しましたが、現在再建の堂が建てられています。清滝宮拝殿の前にあるいまもコンコンと清水が湧いている閼伽井の水は醍醐水と呼ばれています。
醍醐寺総図  (拡大)
 
[三宝院]
 醍醐寺第14世座主勝覚僧正によって、文久3年(1115)、現在の西大門のうち、北側に創立され、天承元年(1131)には灌頂堂が建てられます。その後、鳥羽上皇の御願寺となり諸堂宇が営なまれ、灌頂院とも称され、小野法流の頂点に立って隆盛を極めました。しかし、応仁・文明の乱の戦禍は醍醐寺にも及びました。文明2年(1470)7月に下醍醐は大内政弘の兵火によって殆ど焼き払われてしまいます。
 その後、桃山時代初期までの間、少しずつの復興が試みられていますが、伽藍の復興などは全く手につかないままで、桃山時代を迎えました。豊臣秀吉が帰依信任した座主義演によって、整備復興された金剛輪院を、慶長3年の花見を契機に改称して三宝院の名を改めました。
三宝院勅使之間
 
 桃山時代の天正年間(1578〜90)に醍醐寺は復興の機運が生じました。この復興に終始その力を注いだのが義演でありました。義演は二条晴良の子で、将軍義昭の猶子となって永禄7年(1564)に7歳で醍醐寺に入り、天正4年(1576)に第80代醍醐寺座主となります。寛永3年(1626)に入寂するまでの50余年の間、醍醐寺の復興とその整備に生涯をかけました。
 義演の行なった醍醐寺の復興事業は豊臣秀吉の絶大な援助に依るところが大でありました。秀吉と義演との関係が急速に深まったのは、天正13年(1584)に秀吉が関白職に就任したことにはじまります。秀吉の受けた関白職の前任者は義演の実兄二条昭実でありました。その譲りを受けて関白となったことによって秀吉は義演を積極的に後援をはじめました。秀吉が関白となった翌日に、義演には准三后(宮)の宣下がなされています。

《註》三宝院は、醍醐寺座主の住房で三宝院門跡といい、足利義満の尊信をうけた満済や秀吉の信任を得た義演は、皇后・皇太后・太皇太后に准ずる准三后の称号を与えられて、満済准后・義演准后と呼ばれ、宗教界だけでなく政界にも隠然たる勢力をもち黒衣の宰相と目されていました。

 義演は秀吉の力をかりて慶長3年に三宝院を再興し、同11年(1606)に竣工しました。唐門(国宝)は秀吉が造営した醍醐観月亭の遺構であると伝えられています。唐門の脇にある中門を入ると玄関前庭があります。左に大きな枝垂桜があり、これを描いた日本画家奥村土牛の「醍醐」(土牛の桜)(山種美術館蔵)は有名です。
表書院と純浄観
 
 玄関(国宝)から殿舎に通ると葵の間と秋草の間からなる細長い一棟(国宝)があります。葵の間の襖には賀茂の葵祭の図が描かれています。これは徳川時代の作品で筆者は石田幽汀であります。葵の間の東に一段高く秋草の間があり、さかいの框にみる牡丹蝶の飾金具は桃山時代の豪華さを示しています。秋草の間の上段を勅使之間といい、上段・下段の2間に入り交じっている襖の秋草図と花鳥図は桃山時代の作品で、狩野山楽の筆と云われていますが、長谷川等伯かその一派の作品と考えられています。この間は唐門の北正面に面して外縁と南階を備えています。
(左)義演僧正像 (右)豊臣秀吉像
 
その昔、三宝院門跡にのぞむ貴人は唐門から入って秋草の間上段の勅使之間に通ります。三宝院の御殿は公家の宸殿造と武家の書院造とを折衷した桃山時代の典型的な住宅建築の構造を伝えています。勅使之間の南庭にある枝垂桜をみながら渡廊を右に廻ると、表書院の東南隅に付設されている泉殿に出ます。これは表書院の南広縁の東端を南に折曲げて園池にのぞむ泉殿の俤をとどめた袖廊で、武家造の中門廊の形式を伝えていると云われています。横に長い宸殿建築の両隅から前方に突き出した部分を造り、その両側の床下に水を流して、その突出している建築の部分を釣殿とも泉殿とも名付けたのは、平安時代の貴族の邸宅にはじまります。現在建築として現存するものはありません。この建築の向うに水をたたえた大池があるにもかかわらず、池の岸の石組、土堤の手前に宸殿の建築にそって、白砂を敷いています。その白砂のなかに数個の石が点々と配されて、枯山水のかたちをあらわしています。この枯山水の流れに泉殿が浮かんでいるかたちを示しています。この泉殿の発案は秀吉の懐古趣味による藤原時代の貴族生活の再現と考えられます。この建築から見られる庭園は滝あり、島あり、橋もあって、いわば回遊式庭園でありますが、建物の内部より眺める観賞式の形になっています。庭の奥行が比較的に狭いので、そのために広さを必要としなかったわけであります。庭園全体に石が多すぎるほどに感じるのは秀吉の趣味からきたと思われます。
表書院前の庭園
 
 庭園に面している表書院(国宝)は西から東へ能楽之間(三之間)・中之間(二之間)・柳之間(上段之間)が並んでいます。能楽之間の襖絵は石田幽汀の筆でありますが、これは桃山時代の襖絵が失われたため新調したものであります。中之間と柳之間の襖絵は狩野山楽の筆と云われていますが、むしろ長谷川等伯の筆と考えられています。金銀の砂子が用いられていて豪華のうちにも優艶な趣きが漂わせている気品の高さは、なんといっても桃山時代障壁画の代表的な名作として知られています。
庭園(特別史蹟・特別名勝)は秀吉が自ら監督して伏見城の庭師与四郎に造らせたものでありますが、秀吉の死後もひきつづき寛永の初年頃まで工事は進められています。慶長7年(1602)以後には桂離宮の庭園を造ったといわれている庭師賢庭が工事に当って漸く完成を見た大庭園であります。豪壮な石組をあふれるばかりに盛りあげた苑池・中島・滝組・築山の景観は、桃山時代の代表的庭園として、二条城二の丸庭園や桂離宮庭園の先鞭をなした名園として知られています。滝口の近くにある藤戸石という巨石は。備前藤戸浦にあった佐々木盛綱由来の名石で、聚楽第から移したものであります。築山には伏見城から移したという茶室枕流亭があり、上段構になっている三畳の本席と二畳台目と二畳の小間からなっている特殊な構造は、桃山時代の好趣をうかがわせます。
表書院の東に並んで水面に高く架構されている御殿風の純浄観(国宝)は、月見台をかねた特殊な構造で、茅葺入母屋の屋根の下に瓦葺きの庇屋根をとり、大きな民家風の外観としていますが、内部は豪華な書院造になっていて、桃山時代の好趣をうかがわせます。かつて秀吉がヤリ山に建てた花見の御殿を移建したものであります。襖絵は当初の作品が失われたので、現代の画家堂本印象の筆になる華麗な花鳥画と水墨画がはめられています。純浄観の西廊は表書院の東廊と高い登廊で連絡し、北廊は宸殿(奥書院)に連絡しています。
(左)弥勒菩薩坐像・快慶作 (右)薬師如来坐像
 
 宸殿(国宝)は、上段之間・下段之間・三之間・四之間からなる書院造で、三方を囲む広縁の部分が畳敷になっていて、いかにも奥書院らしい感じをかもしています。上段之間の床・違棚・付書院・帳台構・欄間などには桃山時代の様式がうかがわれ、後壁から前に離してつくられている違棚の構造は醍醐棚と呼ばれて有名であります。障壁画は長谷川等伯の作品であります。宸殿の西北につづく庫裏(重文)は、白書院と呼ばれ内部は3室に分かれています。奥の間には床と違棚があり黒漆塗りの床框には秋草に虫の蒔絵が施されて、桃山時代の意匠を伝えています。
 宸殿の東庭には表書院の大庭園から回流する水をひいて瀟洒な泉水がつくられて、宸殿の西北に付設されている茶室松月亭が泉水にのぞんで建てられています。松月亭は文政年間(1818〜29)の建築で国宝指定の殿堂建築の中には含まれていません
 宸殿の北にある護摩堂(国宝)は、外面は塗篭式で土蔵のような外観を呈しています。内部には奥の境に不動明王坐像(重文・快慶作)を安置し、その前に護摩壇があって密教の修法が行なわれます。
 三宝院の本堂は、純浄観の東にある弥勒堂で、慶長年間(1596〜1614)の建築であります。本尊弥勒菩薩坐像(重文・快慶)は、鎌倉時代の作品であります。かつて堂の裏側に安置していた不動明王坐像(重文)は建仁3年(1203)に快慶の作であることが胎内の墨書銘でわかります。
 
奥宸殿内部
 
<<醍醐の花見>>
 
 文禄元年(1592)3月に始まった朝鮮の役は、威勢のよかったのは始めのしばらくだけで、やがて祖国防衛のために朝鮮各地に起こった義軍と明軍の積極的な来援、そして日本とは格段の差のある猛烈な寒気、さらには日本の水軍が劣勢のため制海権を失い、糧食・兵員などの補給線を遮断されて、戦況は不利となり、翌文禄2年3月には早くも全軍は釜山の周辺に撤退、その後はもっぱら守勢に回らざるを得ない情勢となりました。
 秀吉の健康は文禄初年ごろから衰えを見せはじめてきました。秀吉の大言壮語は相変わらずでありましたが、かんばしくない戦況の進展は、さすがの秀吉をして心身ともに大きな疲れを覚えさせていました。
 このような秀吉にとって最大の慰めは、愛児秀頼でありましたが、その愛児があまりにも幼いことであったことは、さらに悩みの種でありました。結局、養子の関白秀次を謀反の疑いで高野山に追いこみ、そこで自害させるとともに。三条河原にその妻妾と子供までも誅殺することになりますが、この事件も朝鮮の役と同様、豊臣政権の基礎を大きくゆさぶるものでありました。
醍醐花見図屏風
 
 このようないわば失政続きのなかで、慶長3年(1598)3月15日、醍醐で盛大な花見が催されました。当時なお海をへだてた朝鮮で20数万の日本将兵が、きわめて不利な状況のもとに悪戦苦闘しているのを、まるで意にかいしないかのように、盛大な花見の宴をくりひろげました。
 秀吉にとって死の前年にあたる慶長2年(1597)3月8日に醍醐寺に一日の清遊をしています。寺内の桜馬場、金剛輪院南庭の桜、菩提寺の糸桜を見物し、上醍醐にも登拝しています。この時に秀吉は次の年の醍醐での花見の宴を思い付いたのでした。
 翌慶長3年2月9日に醍醐寺に来た秀吉は花見の準備についていろいろの指図を行なっています。その準備としては、山内馬場から「ヤリ山」に至る350間の両側に桜700本を植えさせました。この桜は近江・河内・大和・山城の4ヶ国から集められたものであります。

(註)「ヤリ山」という場所は女人堂から500m坂道を登ったところにある尾根の突端にある千畳敷とも呼ばれる平坦地であります。ここは山下の桜が一望できる場所であります。

 「不死見」を願って築いた晩年の居城・伏見城の造営がすすむにつれて、おそらく秀吉の死への不安は増々大きくなっていったと思われます。弟秀長や大政所、鶴松が早逝し、利休や秀次一族を死に追いやり、秀吉は自らの死への恐怖とともに、人を信じることがもはやできなくなっていたのではないかと思われます。
 翌慶長3年3月15日、秀吉は再び大規模な花見を醍醐で行ないますが、前に京都で行なった北野大茶ノ湯とは、その様相は全く違ったものであります。この花見に先立って、秀吉は3回も現場に足を運んで縄ばりして、庭作りに大きな関心を示し、五重塔その他の建物の修理を指図しています。
 この日の花見の興趣もさることながら、別の点からとりわけ注目されるのは、この日の警戒の厳しさであります。秀吉に仕えていた太田和泉守牛一の「太閤さま軍記のうち」によると、上醍醐より下醍醐まで、50町四方の山々に23ヵ所の警固所を設け、弓・槍・鉄砲の武器で囲い、伏見城から下醍醐までは小姓・馬廻衆が固めています。「醍醐惣構」には柵・虎落が幾重にも構えられ、道ぎわにも埒(柵)が作られていました。また、現在白書院といわれる建物には監視のための望楼が建てられています。秀吉ら一行の「御構」への入口も守りは固く、これより奥へは御用の人以外は入れない厳しさでありました。すべて「見物群集」への対策であります。その群集の大半が京都の町人や近郊の百姓でありました。
 醍醐の花見は、燃え尽きようとする秀吉の命が、最後の光彩を放って、歴史の一頁に留める大イベントでありました。地震で倒壊した伏見城もまったく新しくなり、そこから谷間を1里余り入った醍醐の地に、秀吉は1300人の女房衆を従え、仮装行列を繰りひろげ、大掛かりな花見の宴を催しました。
 秀吉は輿の通る道の両側には朱色に桐紋の幔幕を張りました。輿は一番はじめが正室おね、続いて淀殿、三番目が松の丸殿、四番目が三の丸殿(信長の娘)、五番目がお摩阿(前田利家の娘)と続きました。そして六番目に秀吉夫妻の親友である利家の妻・お松が乗り、以下女中百数十人が醍醐へ向いました。
女房衆たちは三宝院で衣裳を改めました。ヤリ山には新しい御殿が建てられて、そこまで歩いて登りました。この花見で3度の衣裳替えが行なわれました。用意された装束は単純に見積もっても3900着にも達することになります。しかも、この装束の調達は、花見の8日前に薩摩の島津氏に命令が下り、島津氏はその仕事を京都の細工人に頼み、誂えさせました。
(左)醍醐寺五重塔 (右)醍醐花見短冊二通
 
 上醍醐は山岳修行の修験道の道場で、女人禁制でありましたが、秀吉はこの山の桜を女房衆に見せてやりたくて、その日のみ禁制を解いて、彼女たちを山に招き入れました。道筋には、とりどりの趣向を凝らした茶屋が8棟も設けられました。この8棟は8人の部将に割り振られました。益田少将、小川土佐守、増田長盛、前田玄以、長束正家らであります。茶屋のほかには、金銀をちりばめた休息所、お座敷、湯殿が作られていました。
 「あらためて名を替えてみむ深雪山 うずもる花もあらわれにけり」と、秀吉は歌を詠みあげました。六歳の秀頼を伴って、茶屋を回り、湯殿につかって休息しています。桜花に酔い、女房たちのあでやかさに酔い、また酒に酔って上機嫌であったことは云うまでもないことであります。華やかな花見の宴の蔭で演じられたハプニング「盃争い」もありましたが、好天に恵まれた醍醐の花見の宴は盛大でありました。薄紅色の満開の桜をめで、女房たちは歌を詠んでそれぞれ寺に納めました。また、ヤリ山の御殿に集まった者達は花見の和歌の会を催して、各自短冊に和歌を記して、桜につり下げました。

(註)この短冊はそのまま保存され、1冊に貼りまぜて画帳仕立てになっています。重文指定です。

 秀吉は花見のイベントに満足して、あらたに1600石の寺領を三宝院に寄進しました。この醍醐の花見は、豊臣秀吉の最後を飾る話として語られていますが、秀吉はより華やかな第二幕への構想を持っていました。花見の後、三宝院では翌年に予定されている天皇行幸のための大改造が開始されました。4月には造園工事(拡張)が始まり、5月には建物工事(移築を含む)も本格化し、順調に進んでいましたが、秀吉は6月に体調をくずし、8月18日に死去したことにより、第二幕を開くことがなくなりました。
 秀吉の遺言により、9月には工事が再開されますが、それまでの大規模な計画は白紙に戻され、新たに北政所の援助を得て前田玄以が造営奉行を務めています。その結果、秀吉がこの年建立したヤリ山上の花見のための御殿や下清滝宮の前の能舞台・楽屋が不要になったので、これらの施設を再利用するため三宝院に移しました。
 現在の表書院もそのいずれかの施設の移築であり、同年11月18日より21日にかけて解体され、翌22日には柱立を行なっています。そして12月21日には、他の7棟の建物(書院・常御所・護摩堂・灌頂堂・廊下・部屋・台所)が一応完成し、当時の座主であった義演がここに移り住みました。
 
<<名石・藤戸石の由来>> (異名 浮州石・千石石)
 
 この石はもともと、藤戸の渡(現岡山県倉敷市藤戸町)の海中にありました。源平合戦にかかわる物語『平家物語』の謡曲「藤戸」の段に次ぎのような逸話が語られています。
 都落ちした平家と、それを追う源氏の一党は、備前の国で海を挟んで陣を構えました。水上での戦いを得意とする平家は、舟で海を渡り児島に陣を張っていました。一方の源氏には舟がなく、敵軍のそばにいながら、成す術がありません。
 じりじりと日は過ぎていきます。「この海に馬で渡れるところはないものか」と、源氏方の佐々木盛綱は、地元の男に褒美を与えて尋ねてみました。男は潮の満ち引きを熟知しており、馬でたやすく渡れる場所を知っていると答えます。
 さっそく、その男に案内させて、海に入りました。足腰の立つところもあれば、少し泳がねばならないところもありましたが、確かに浅いので馬は渡れると確信しました。
 しかし、この浅瀬を平氏に知られることを恐れた盛綱は、その場で案内した男を斬り殺してしまいます。
 伝承によれば、盛綱が男を斬ったのは、まぎれもなくこの石(名石・藤戸石)の上であります。こうして、海から引き上げられた藤戸石は、まず東山殿に運ばれ、さらに佐々木氏綱の庭園に運ばれています。
 織田信長が氏綱邸から二条第(足利15代将軍義昭の二条御所)へ永禄12年(1569)3月3日に、庭にこの石を据えさせています。
藤戸石遠望
 
 その日、藤戸石は錦で包まれ、笛や太鼓で囃されながら、3〜4千人で引いたと伝えられています。信長自ら花笠を被り、石を引く男たちにも花笠を被らせての、華やかな道行でありました。
 のちに秀吉がこの石を二条第から聚楽第の庭に移しますが、そのときも笛や太鼓で囃しながらの道行きでありました。
 聚楽第は、秀吉が天正15年(1587)に造営した居館でありましたが、のち秀吉の甥秀次の居所となります。秀吉は長男の鶴松を亡くし、嫡子の誕生をあきらめていたので、秀次を養子に迎えて、関白職を譲ります。しかし、淀殿に拾丸(後の秀頼)が生まれると、今度は謀叛の罪で関白職をとりあげます。高野山に追われた秀次は、ついに自害して果てます。
 聚楽第は、完成後わずか8年で秀吉自らによって破却されました。建物は伏見城へ移されたり、寺院に寄進されたりしています。また、この名石藤戸石が三宝院に有るのは、醍醐の花見をよみした秀吉が寺禄を千石加増しようか、それとも藤戸石を贈ろうか≠ニの言葉に義演は後者を選びました。こうして、三宝院に寄進されることになりました。秀吉が計画した3月15日の花見には間に合わず、4月9日に運び込まれています。
花見当日は、秀吉の思いが通じたのか、ヤリ山への沿道に植えられた桜が満開の花を咲かせ、天気にも恵まれました。北政所や側室、拾丸はじめ、1300人の女房衆をともなった豪華絢爛な宴でありました。「醍醐花見図屏風」は後年の作でありますが、秀吉の顔には笑みが浮かび、晴れがましい春の日を彷彿することができます。
しかし、花見から5ヶ月後の8月18日、秀吉はこの世を去ってしまいました。いっぽう、藤戸石はこの庭に据えられることによって、はじめて安住の地を得たと云えます。権力者に愛され、栄枯盛衰の歴史を見つめてきた石は、いまも三宝院の庭で黙したまま、時の流れを見つめています。

≪第10号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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