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●第18号メニュー(2007/6/17発行)
【聖徳太子信仰のながれ】(その4)《法隆寺後編》

〔太子説話と太子絵伝〕〔太子の伝記史料〕

〔太子建立の寺院〕〔太子尼寺建立の謎〕


【聖徳太子信仰のながれ】(その4)《法隆寺後編》
 
〔太子説話と太子絵伝〕

 
 聖徳太子は、一面では悲劇の人でもありました。危機的な古代天皇制の渦中に生れ、感じやすい少年期から青年期にかけて天皇家の惨劇を目の当たりにしています。しかしそれのみならず、20歳の若さで、はからずも政務を委ねられて、以後49歳の没年にいたるまで摂政の立場に置かれるのでありますが、その政治的活動もけっして思うままになされたとは考えられません。なぜなら、一方に、外戚化しつつみずからを執政官的立場にまで押し上げた蘇我馬子が存在していたことにあります。太子は、その政策実行に際して、おそらくはつねに馬子をはじめとする蘇我氏の力や出方を気にしなければならず、ときには孤独の寂しさに沈み、ときには絶望の渕に立ったことと思われます。

法隆寺 金堂内部
 
 「和」の強調や「世間虚仮、唯仏是真」(この世は虚仮であり、ただ仏のみ真である)の告白も、争いの現実を嫌悪した太子の魂の揺れを抜きにしては、正しくその意味をとらざるを得ません。 
けれども、太子の悲劇性を決定的にしたのは、没後22年目に起こった上宮王家の滅亡と言う運命でありました。太子には3人の妃と14人の子供がありましたが、それらすべての人たちは、斑鳩寺における山背大兄王一家の自縊を最後にその血は断たれました。
もちろん、太子自身が刃に倒れたわけでなく、その苦難の多い生涯と上宮王家の滅亡は、太子の厚い仏教信仰と、すぐれた政治的文化的功績をいっそう際立たせました。聖霊会と呼ばれる太子忌日の法要が、太子に縁の深い諸寺院において太子没後まもなく行なわれはじめ、今日まで続いていることも、単に太子が偉大であっただけではありません。
しかも、7世紀後半から8世紀にかけての日本は、民族意識を高揚し、律令国家体制を確立する必要に迫られていました。このような背景のなかで、聖徳太子が理想的治世者・理想的日本人として発見され、以後、社会の要請に答える形で神話的色彩にいろどられた太子像が急速に成立していきます。
太子説話は、すでに早く『上宮聖徳法王帝説』と『日本書紀』のうちに見出すことができます。『法王帝説』には、のちの夢殿伝説の萌芽ともいうべき金人来教の説話と恵慈追死の説話が記されています。また、『日本書紀』には、この恵慈追死の説話のほか、厩戸生誕、豊聡耳、片岡山の飢人遭遇などに関する説話をあげています。この点からみて、太子は当時すでに思慕あるいは崇敬の対象として神秘化されはじめたことであります。このような太子説話は、思託の菩薩伝や淡海三船の『唐大和上東征伝』の南岳慧恵後身説、さらに『日本霊異記』の聖武再生説などを経て、平安中期の『聖徳太子伝暦』に集大成されます。
後世広く流布し、太子信仰の一つの担い手となった『太子絵伝』は、この『伝暦』を基本として太子の伝記を絵画化したものであります。いま、これに従って、いくつか太子信仰に関すると思われる点を年齢別に抜き出してみます。
聖霊会 四天王寺
 

@ 入胎――母后が夢に金色の僧を見ます。僧は「われは救世の菩薩なり、家は西方にあり」といい、母后の許しを得て口中に入りました。そのとたんに母后は目を醒ましますが、喉のなかにはまだ物を飲みこんだときのような感触がありました。
A 誕生――入胎十二ヶ月を経て、母后は宮園内の厩の前で太子を産み落としました。殿内
に入った後、赤い光、黄色の光が四方よりさしこんできました。また、太子には香気がありました。
B 二歳――合掌し、東に向って「南無仏」と称え、再度礼拝をしました。
C 三歳――花園に遊んだとき、「桃花は一旦の栄物、松葉は万年の貞木なり」といって、松葉を賞しました。
D 四歳――「穴を地に穿つも隠るることを得ず」といって、騒いだ罰として自ら進んで鞭を受けようとしました。
E 七歳――経論を披見して、六斎日の殺生禁断を奏上しました。
F 十歳――蝦夷の侵攻に対して、教え諭すことによって、むさぼりの性をなくすことを奏上して、その鎮撫に成功しました。
G 十一歳――弓石の競技において他の童子たちを圧倒しました。
H 十四歳――蘇我馬子、塔を建てる。太子の言葉を機縁として、馬子の願いに応じて仏舎利が涌現しました。
I 二六歳――百済より阿佐王子来朝。太子、眉間より長さ三丈余の白光を放ちました。
J 二七歳――「この人、すこぶる合えり」といって、膳大郎女を妃とします。愛馬の黒駒に乗り、舎人調子丸をともなって富士山頂に登り、信濃・三越を経て三日でかえりました。
K 三五歳――『勝鬘経』を講じ終わった夜、蓮華の花がふり、講説の地に満ち溢れました。
L 三七歳――三昧定に入ること七日七夜、魂を遣わして、前生における修行の時に所持した経典を持ち帰りました。
M 三九歳――膳大郎女にわが身の幸せを語り、同穴を誓います。
N 四二歳――片岡山の飢人に会います。飢人が没したあと、その墓を開いたところが、かれの遺体はなく、衣服がたたんで置いてありました。ただ、太子の与えた紫の袍だけは無かったということです。
O 薨後二二年――上宮王家の人びと、斑鳩寺の塔より西に向かって飛び去っています。ときに光明がかがやき、天花あめふり、妙なる音楽が聞かれました。

太子絵伝 法隆寺(拡大)
 
 以上のように太子の事蹟は、いずれも史実かどうかかなり疑わしいものであります。これらすべてが全くのフィクションであると断定することもできません。
 ともかく、ここに描かれる太子が、仏伝その他の仏教伝説や、さらにはキリスト教伝説の影響までも匂わせつつ、理想化され、超人化されていることは明らかであります。この『伝暦』こそは初期の太子信仰のみごとな反映であるとともに、それ自身、太子信仰を培っていったものであります。
 この『伝暦』のなかの太子は、一方ではその超人性が強調されています。たとえは@のように、太子は救済者の化身であり、仏と同格の地位を獲得しています。太子を信仰することは、菩薩・仏を信仰することでありました。ここに、太子信仰が成立する基盤があります。けれども、このなかの太子は、単に崇敬の対象であるだけではなく、思慕の対象でもあります。誰もが一歩でも二歩でもそれへと近づきうる理想的人間でもありました。けっして、人間から断絶的な手の届かない神格ではありません。Cに示される太子は、道徳的規範、あるいは社会倫理に進んで適応する「良い子」の典型であり、Lは、夫婦関係の倫理的理想をあらわしています。
 太子信仰が庶民に親しめるものとして展開した思想上の理由には、この点を見落としてはならないようにおもわれます。
 
〔太子の伝記史料〕
 
 太子の事歴について書かれた古い史料や本は非常に多くあります。

@ ―『日本書紀』「推古紀」=養老4年(720)の撰上。
A ―『上宮聖徳法王帝説』=聖徳太子の系譜・伝記・関係事件などを記載した記録であります。まとまった成書というよりは、いくつかの古記録を書き連ねたものであります。法隆寺に伝えられ、知恩院に現存する平安時代の古写本を唯一の伝本としています。法隆寺の僧侶によって集録された記録と推定されています。
B ―『聖徳太子伝補闕記』=一巻。聖徳太子の伝記について異聞を記したもので、著者者、成立年は不明であります。『日本書紀』や古い太子伝などを参照して編集されています。『日本書紀』にない記事もあるので、原資料を見て書かれたという説もあります。『補闕記』とあるから、これよりさきに基本となった太子伝が存在していましたが、今は失われています。
C ―『聖徳太子伝暦』=二巻。藤原兼輔の著作で、延喜17年(917)に完成しています。『日本書紀』や『聖徳太子伝補闕記』などを参照し、太子を超人化し、神秘的な説話に充ちています。太子神話(太子信仰)の集大成ともいうべきで、伝記として形式のうえでは最もよく整ったものであります。

 他には、『聖徳太子伝』(逸文)や、『上宮太子菩薩伝』『上宮太子伝』『上宮太子御記』『聖徳太子伝私記』『聖徳太子伝記』などがあります。
しかし、史料価値の認められるのは@〜Bまでであります。あとはいわゆる一等史料ではなく、価値の低いものであります。だが、一等史料でなくとも、Cはぜひ参照しなければならないものであります。@〜Bが、断片的な記事の寄せ集めに対して、Cはともかく物語として完成しているからであります。また、太子を超人的な存在としている「聖話」は、いかに平安時代には太子信仰が盛んだったかという興味にもつながり、物語自体も荒唐無稽であるのが大変面白く記されています。
法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(拡大)
 
聖徳太子伝暦(拡大)
 
〔太子建立の寺院〕
 
 仏教の伝来に伴い今まで見聞したことのないような新しい文化・文明が導入され、仏教の浸透によってわが国の文化は非常な進歩を遂げました。国政を司る太子としては寺を建立して仏教を広めるかたわら、わが国の文化水準の向上をも希求しました。
 しかも、その頃、蘇我馬子が国政を専横していた時代でもあり、馬子との力の対決を憂いた太子は、飛鳥より斑鳩へ移って太子の理想郷作りと「諸悪莫作 衆善奉行」(悪いことをせず 良いことを行なえ)という仏教の根本理念を実践した結果、「世間虚仮 唯仏是真」という哲理を悟ったのであり、自ら求道の修行者として、多くの寺を建てることにつとめ、罪ある人々の滅罪生善をも願い、住み良い明るい国造りが仏教を中心に行われることを誓願しました。そのため、太子は在世中に寺造りを大いに促進し、臨終にのぞんでも山背大兄王らに寺を建てることを願っています。
 太子は、社会福祉事業(井戸・池・道の造成など)の促進など国の発展に大きな貢献をしました。馬子の専横によって皇位につくことが出来なかった非運な皇太子であり、多くの人々はその薨去後も太子の徳を崇め尊び、わが国の文化の祖としての信仰が生まれました。
 その結果、太子に直接関係のないお寺までも、太子建立の寺とする縁起を作り、それらの寺を中心として太子信仰興隆に至らしめたのであります。太子が建立したとする伝承を持つ寺の数も次第に増加していきました。
 事実、太子建立の寺がどれほどあったかは全く明らかではありません。一説によれば、46ヶ寺を建てたという伝承もありますが、いくら太子が皇太子としての立場から、多くの寺を建てられ得たであろうといっても、46ヶ寺もの寺を建立することは時間的にも経済的にも到底不可能だと考えられます。
 おそらく、多くの寺々は太子信仰の勃興によって、太子と直接関係のない寺までをも、太子と結びつけようとした結果、太子建立としての寺の縁起が作られ、それが人々に信じられるようになってきました。
大阪・四天王寺
 
 太子建立の寺と伝える最も古い記録に、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』と『上宮聖徳法王帝説』などがあります。
 それによると、

@ ―法隆寺 奈良・斑鳩にあり、推古15年用明天皇のために、推古天皇と聖徳太子が建立した寺で、斑鳩寺ともいう。天智9年(670)の火災で焼失したため、今の伽藍は場所をかえて建立した。
A ―四天王寺 大阪・阿倍野にあり、廃仏派の物部守屋との戦いの時、戦に勝たしめたまえば、四天王のための寺を建立することを太子が請願し、その勝利のあと、推古元年(593)に建てた寺で、荒陵寺ともいう。
B ―中宮尼寺 奈良・斑鳩にあり、太子が母間人皇后のために建てた尼寺で、法興寺ともいう。
C ―橘尼寺 奈良・明日香にあり、太子が誕生した宮を改めて尼寺としたもので、ここで太子は勝鬘経を講じられたとき、曼荼羅花が降り、千仏頭が出現したので、仏頂山という名がある。
D ―蜂丘寺 京都・太秦にあり、推古11年(603)、秦川勝が太子より賜った仏像を本尊とする寺を建立し、秦氏の氏寺としたもので、広隆寺ともいう。
E ―池後尼寺 奈良・斑鳩にあり、太子が法華経を講じたという岡本宮をのちに尼寺としたもので、法起寺、岡本寺という。
F ―葛城尼寺 奈良・橿原にあり、太子が蘇我葛木臣に賜った尼寺で、葛木氏の氏寺となっていた。今は和田廃寺と呼ばれている。

以上の7ヶ寺を挙げています(蜂丘寺にかえて定林寺を加える説もある)。
しかし、この7ヶ寺すべてを太子建立寺とするにはやや問題がありますが、寺を建立することを欲しながらその生存中に完成できず、太子薨去ののち、その遺願によって建立したものも含まれています。太子は多くの寺を建立することを誓願し、実行に移しつつあった最中に薨去されたのであります。
(左)奈良・橘寺 (右)奈良・飛鳥寺
 
 そのほかに、太子の建立と伝える主な寺院には、

(1) ―額安寺 奈良・郡山にあり、太子が熊凝に精舎を建てることを発願したが、まも   なく薨じられたので、推古天皇と田村皇子がその遺志をついで建立したもので、のち移建して百済大寺、大官大寺と称した。
(2) ―定林寺 奈良・明日香にあり、太子建立の7ヶ寺のひとつで立部寺とも云う。
(3) ―久米寺 奈良・橿原にあり、太子が弟久米皇子に命じて建立した寺という。

 他に、大聖将軍寺、野中寺、世尊寺、日向寺、平隆寺、頂法寺などがある。
 
〔太子尼寺建立の謎〕
 
太子が建立したという7ヶ寺のうち、法隆寺、四天王寺蜂丘寺の3ヶ寺を除く、中宮寺、橘寺、池後寺、葛城寺の4ヶ寺が尼寺で、その半数以上を占めています。太子が母、間人皇后の菩提を祈って建立を発願したものや、最愛の妃であった膳部大郎女のために寺を建てて欲しいことを遺願したのではなかろうかと考えられます。とくに、間人皇后は用明天皇薨去後、如何なる事情かわかりませんが、太子の異母兄、間人皇后からすれば義理の息に当る多米王と再婚して、佐富王女を産んでいることに関係があるのではないでしょうか。
天寿国繍帳(拡大)
 
 いくら婚姻関係が乱れていた時代であったからとはいえ、太子としては実母と義兄とのそのような関係は、太子の心に暗い影が生じていたと思われます。
そのため、太子は母間人皇后の滅罪生善と、この世での母の多難な生涯を来世で繰り返えされることがないことを祈る意味からだとも考えられます。
また、太子が病にあるとき、最愛の妃である膳大郎女が懸命な看病のために疲労が重なり、太子に先立って薨じたために尼寺を建てることを遺願したと思われます。太子の長子山背います。大兄皇子らその一族は太子の遺願によって女性の寺、尼寺を建立しました。
しかし、太子建立の尼寺のうち、今ではそのほとんどが僧寺に変わっていますが、ただ中宮寺のみが建立以来、尼寺として、またわが国最古の尼寺として、その伝統を連綿として護持しています。
 
聖徳太子信仰のながれ(その4)《法隆寺後編》完


≪第18号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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