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●第18号メニュー(2007/6/17発行) |
【聖徳太子信仰のながれ】(その4)《法隆寺後編》 |
〔太子建立の寺院〕〔太子尼寺建立の謎〕 |
法隆寺 金堂内部 |
「和」の強調や「世間虚仮、唯仏是真」(この世は虚仮であり、ただ仏のみ真である)の告白も、争いの現実を嫌悪した太子の魂の揺れを抜きにしては、正しくその意味をとらざるを得ません。 けれども、太子の悲劇性を決定的にしたのは、没後22年目に起こった上宮王家の滅亡と言う運命でありました。太子には3人の妃と14人の子供がありましたが、それらすべての人たちは、斑鳩寺における山背大兄王一家の自縊を最後にその血は断たれました。 もちろん、太子自身が刃に倒れたわけでなく、その苦難の多い生涯と上宮王家の滅亡は、太子の厚い仏教信仰と、すぐれた政治的文化的功績をいっそう際立たせました。聖霊会と呼ばれる太子忌日の法要が、太子に縁の深い諸寺院において太子没後まもなく行なわれはじめ、今日まで続いていることも、単に太子が偉大であっただけではありません。 しかも、7世紀後半から8世紀にかけての日本は、民族意識を高揚し、律令国家体制を確立する必要に迫られていました。このような背景のなかで、聖徳太子が理想的治世者・理想的日本人として発見され、以後、社会の要請に答える形で神話的色彩にいろどられた太子像が急速に成立していきます。 太子説話は、すでに早く『上宮聖徳法王帝説』と『日本書紀』のうちに見出すことができます。『法王帝説』には、のちの夢殿伝説の萌芽ともいうべき金人来教の説話と恵慈追死の説話が記されています。また、『日本書紀』には、この恵慈追死の説話のほか、厩戸生誕、豊聡耳、片岡山の飢人遭遇などに関する説話をあげています。この点からみて、太子は当時すでに思慕あるいは崇敬の対象として神秘化されはじめたことであります。このような太子説話は、思託の菩薩伝や淡海三船の『唐大和上東征伝』の南岳慧恵後身説、さらに『日本霊異記』の聖武再生説などを経て、平安中期の『聖徳太子伝暦』に集大成されます。 後世広く流布し、太子信仰の一つの担い手となった『太子絵伝』は、この『伝暦』を基本として太子の伝記を絵画化したものであります。いま、これに従って、いくつか太子信仰に関すると思われる点を年齢別に抜き出してみます。 |
聖霊会 四天王寺 |
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太子絵伝 法隆寺(拡大) |
以上のように太子の事蹟は、いずれも史実かどうかかなり疑わしいものであります。これらすべてが全くのフィクションであると断定することもできません。 ともかく、ここに描かれる太子が、仏伝その他の仏教伝説や、さらにはキリスト教伝説の影響までも匂わせつつ、理想化され、超人化されていることは明らかであります。この『伝暦』こそは初期の太子信仰のみごとな反映であるとともに、それ自身、太子信仰を培っていったものであります。 この『伝暦』のなかの太子は、一方ではその超人性が強調されています。たとえは@のように、太子は救済者の化身であり、仏と同格の地位を獲得しています。太子を信仰することは、菩薩・仏を信仰することでありました。ここに、太子信仰が成立する基盤があります。けれども、このなかの太子は、単に崇敬の対象であるだけではなく、思慕の対象でもあります。誰もが一歩でも二歩でもそれへと近づきうる理想的人間でもありました。けっして、人間から断絶的な手の届かない神格ではありません。Cに示される太子は、道徳的規範、あるいは社会倫理に進んで適応する「良い子」の典型であり、Lは、夫婦関係の倫理的理想をあらわしています。 太子信仰が庶民に親しめるものとして展開した思想上の理由には、この点を見落としてはならないようにおもわれます。 |
他には、『聖徳太子伝』(逸文)や、『上宮太子菩薩伝』『上宮太子伝』『上宮太子御記』『聖徳太子伝私記』『聖徳太子伝記』などがあります。 しかし、史料価値の認められるのは@〜Bまでであります。あとはいわゆる一等史料ではなく、価値の低いものであります。だが、一等史料でなくとも、Cはぜひ参照しなければならないものであります。@〜Bが、断片的な記事の寄せ集めに対して、Cはともかく物語として完成しているからであります。また、太子を超人的な存在としている「聖話」は、いかに平安時代には太子信仰が盛んだったかという興味にもつながり、物語自体も荒唐無稽であるのが大変面白く記されています。 |
法隆寺伽藍縁起并流記資材帳(拡大) |
聖徳太子伝暦(拡大) |
太子建立の寺と伝える最も古い記録に、天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』と『上宮聖徳法王帝説』などがあります。 それによると、 |
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以上の7ヶ寺を挙げています(蜂丘寺にかえて定林寺を加える説もある)。 しかし、この7ヶ寺すべてを太子建立寺とするにはやや問題がありますが、寺を建立することを欲しながらその生存中に完成できず、太子薨去ののち、その遺願によって建立したものも含まれています。太子は多くの寺を建立することを誓願し、実行に移しつつあった最中に薨去されたのであります。 |
(左)奈良・橘寺 (右)奈良・飛鳥寺 |
そのほかに、太子の建立と伝える主な寺院には、 |
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他に、大聖将軍寺、野中寺、世尊寺、日向寺、平隆寺、頂法寺などがある。 |
天寿国繍帳(拡大) |
いくら婚姻関係が乱れていた時代であったからとはいえ、太子としては実母と義兄とのそのような関係は、太子の心に暗い影が生じていたと思われます。 そのため、太子は母間人皇后の滅罪生善と、この世での母の多難な生涯を来世で繰り返えされることがないことを祈る意味からだとも考えられます。 また、太子が病にあるとき、最愛の妃である膳大郎女が懸命な看病のために疲労が重なり、太子に先立って薨じたために尼寺を建てることを遺願したと思われます。太子の長子山背います。大兄皇子らその一族は太子の遺願によって女性の寺、尼寺を建立しました。 しかし、太子建立の尼寺のうち、今ではそのほとんどが僧寺に変わっていますが、ただ中宮寺のみが建立以来、尼寺として、またわが国最古の尼寺として、その伝統を連綿として護持しています。 |
聖徳太子信仰のながれ(その4)《法隆寺後編》完 |