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●第31号メニュー(2008/7/20発行) |
【神・神社とその祭神】《そのXI》 春日大社(その1) |
〔春日大社の成立〕 〔枚岡神社〕 〔カスガの神・ミカサの神〕 |
〔赤童子出現石〕 〔鹿島神宮〕 〔香取神宮〕 |
これら春日の祭神は、天孫降臨に際して随従して降(くだ)られた神々で、武甕槌神と経津主神は武事にあたられ、天児屋根命は祭事にあたられて、建国の大業を補佐されました。比売神は武甕槌神の姫で、天児屋根命の妻神であります。 そして、春日の神々は、武と祭の力によって国家的秩序を支える神であったため、平安時代末期以来近代に至るまで、伊勢、八幡と共に、日本を代表する「三社」の神と崇められてきたのであります。 和銅2年(709)、平城宮の造営に際し、時の右大臣藤原不比等(ふじわらふひと)が、かねてより崇敬していた武甕槌神 を常陸(ひたち)国鹿島(かしま)より遷して祀ったのが最初で、のちに経津主神を下総(しもうさ)国香取(かとり)より三笠山(春日山)に遷座しました。さらに河内国枚(ひら)岡(おか)より天児屋根命と比売神を合祀し、四柱併殿として祀る官社となりました。その地名から春日神と称したのが創始であります。 『春日権現験記』(春日明神にかかわる数々の奇跡・霊験を描いた20巻におよぶ絵巻。原本は延慶2年1309、宮廷 絵師の高階隆廉(たかしなたかかね)によってえがかれた。緻密な描線と華麗な色彩が特徴である。)によれば、このとき鹿島明神は白鹿に乗り、柿の木を杖に遷ったといわれています。 いわば、藤原氏が、みずからの氏神であった鹿島、香取の両武神を勧請合祀し、天皇家や信徒を守護す る強力な武神として創建した神社であります。 当初は社殿がなく、そこには祭祀にあたり臨時の神籬(ひもろぎ)が設けられるだけの野原(春日野)で、常陸国を はるかに望む遥拝所の形態であったといわれています。その後、その規模は藤原氏の権勢拡大にともない、次第に大きなものになって行きました。初めの藤原氏(中臣氏)は、河内国の枚(ひら)岡(おか)神社(東大阪市)に祖先神である天児屋根命の祭祀を行っていました。 天照大神が天岩戸に隠れたとき、天児屋根命は岩戸の前で太祝詞(ふとのりと)(立派な祝詞)を唱えました。このことにより、天児屋根命は、神職が神事に用いる祝詞の神だとされました。古代人は、よい言葉は幸運を呼ぶ力をもつとする言霊信仰を持っていました。そこから、春日神社の祭神は祝詞を通してよい言霊を与えてくれると信じられました。この祝詞には生活の智恵が込められています。そのため、春日大社は智恵の神、さらにそこから開運、出世などのあらゆる願いごとをかなえてくれる神であると考えられるようになりました。 |
大化改新のとき、大功があったことにより、中臣鎌足はめざましい出世を遂げ、かれの子孫が藤原の姓を名乗るようになりました。 つまり、文人官僚としての藤原氏と祭官である中臣氏とに分かれました。そのため、藤原氏が奈良時代のはじめに、平城京のそばに新たに自家の氏神としての春日大社を創始しました。これまで中臣氏は、使者などを送って関東の自家の領地にある鹿島神宮と香取神宮を祭祀していました。ところが、藤原氏は春日大 社で枚岡神社から迎えた天児屋根命のほかに鹿島、香取の武甕槌神と経津主神を祀るようになりました。もう一柱の祭神である比売神は、春日の神に仕える巫女の霊とされています。 |
本来は神体山たる御蓋山を背に西方にむいていた筈の神地を、平城京が正面する南方に向けて四所の神殿を設け、宮殿と東大寺と春日社は相並んで、平城京条坊の線に添う天子南面の方位性を持つことになりました。それが今の春日四所本殿の方位であります。 おそらく和銅3年(710)ごろから次第に勧請されはじめて、神護景雲2年(768)ごろに四社が成立したと考えられています。 神体山を背に負うて、いまも西面しているのは春日の若宮だけであります。この若宮の方位が古い春日信仰の姿を保っています。神体山と若宮と一の鳥居をつなぐ方位が本来の春日信仰の参拝道であります。 いまの四所本殿の場所には、かつては榎本神社がありました。いまは摂社の格式で南回廊の一廓(西南隅)にかろうじて体面を維持しています。この榎本社が春日の神に社地をとりあげられた形が、神々の歴史の現実を物語っています。 承和8年(841)に勅旨によって春日山が神山とされ、狩猟や伐木が禁ぜられました。これは春日山が春日社の神山とされ、これが発端として春日社の社殿や社地が拡大されました。 春日山が神山となると、従前の山岳仏教の道場や遺跡(神祠)は撤去されました。この中には榎本社も含まれていました。伝承には、春日の旧地主神は榎本明神といい、耳に障りがあったので新参の春日大明神の借地申し入れを聞き違えたとあります。 |
(右)春日宮曼荼羅 奈良 南市町自治会蔵 (左上)部分 (左下)部分 |
霊験記をはじめ社記の類にも赤童子に関する所伝は記されていません。春日明神には童子像の影向は認められますが、四所や若宮とは関係がないように思われます。明神降臨以前の地主神的霊を、この像を借りて表したのではないかと推定されています。 また、赤童子出現石は、一見何の奇もない小さい自然石の塊でありますが、現在でも大切に保護されています。そこには古代以来連綿とつづく信仰の絆があることを感じます。その原初が何時まで遡れるかはわかりませんが、古典にある「磐座(いわくら)」の一つとして、かつては重要な神の憑代(よりしろ)であったと考えられます。 |
【神・神社とその祭神】《XI》(その2)へ つづく |