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●第31号メニュー(2008/7/20発行)
【神・神社とその祭神】《そのXI》 春日大社(その1)
〔春日大社の成立〕 〔枚岡神社〕 〔カスガの神・ミカサの神〕
〔赤童子出現石〕 〔鹿島神宮〕 〔香取神宮〕

【春日大社の成立】
 
 春日大社は、武甕槌(たけみかづち)神、経津主(ふつぬし)神、天児屋根(あめのこやね)命、比売神(ひめがみ)の四柱の神々を祀り、いずれも藤原氏(中臣氏)と深い関係があります。
武甕槌神は、『古事記』に葦原中津国を最終的に平定した武神であります。本来、茨城県の鹿島神宮の祭神であります。鹿島は藤原氏(中臣氏)の出身地であり、藤原氏の中央進出に伴って勧請されました。四柱の神々の筆頭で、春日神の影向(ようごう)を描いた「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」は、鹿島から鹿に乗って現れた武甕槌神の姿を描いています。
 千葉県の香取神宮から勧請されたのが、経津主神であります。この神も、古来武神として知られています。『古事記』によれば、武甕槌神とともに大国主命のもとを訪れて「国譲り」を求めた神であります。
葦原中津国を平定した2神は、国家秩序を担(にな)っていた藤原氏にとって、単に出身地の神という以上に価値のある重要な神でありました。
 他方、天児屋根命と比売神は大阪の枚岡神社から勧請された、藤原氏の祖先神であります。神話には、天児屋根命は、天岩戸に隠れた天照大神を外に誘い出そうと祝詞(のりと)を読んだとされ、『日本書紀』には「中臣神(なかとみのかみ)」とも記されています。中臣とは、神と人との中を取り持つ神主の役目を持っています。国家的祭祀を司っていた中臣氏にとって、自らを根拠づける神々でありました。

春日大社 中門
 
これら春日の祭神は、天孫降臨に際して随従して降(くだ)られた神々で、武甕槌神と経津主神は武事にあたられ、天児屋根命は祭事にあたられて、建国の大業を補佐されました。比売神は武甕槌神の姫で、天児屋根命の妻神であります。
そして、春日の神々は、武と祭の力によって国家的秩序を支える神であったため、平安時代末期以来近代に至るまで、伊勢、八幡と共に、日本を代表する「三社」の神と崇められてきたのであります。
 和銅2年(709)、平城宮の造営に際し、時の右大臣藤原不比等(ふじわらふひと)が、かねてより崇敬していた武甕槌神
を常陸(ひたち)国鹿島(かしま)より遷して祀ったのが最初で、のちに経津主神を下総(しもうさ)国香取(かとり)より三笠山(春日山)に遷座しました。さらに河内国枚(ひら)岡(おか)より天児屋根命と比売神を合祀し、四柱併殿として祀る官社となりました。その地名から春日神と称したのが創始であります。
 『春日権現験記』(春日明神にかかわる数々の奇跡・霊験を描いた20巻におよぶ絵巻。原本は延慶2年1309、宮廷
絵師の高階隆廉(たかしなたかかね)によってえがかれた。緻密な描線と華麗な色彩が特徴である。)によれば、このとき鹿島明神は白鹿に乗り、柿の木を杖に遷ったといわれています。
 いわば、藤原氏が、みずからの氏神であった鹿島、香取の両武神を勧請合祀し、天皇家や信徒を守護す
る強力な武神として創建した神社であります。
 当初は社殿がなく、そこには祭祀にあたり臨時の神籬(ひもろぎ)が設けられるだけの野原(春日野)で、常陸国を
はるかに望む遥拝所の形態であったといわれています。その後、その規模は藤原氏の権勢拡大にともない、次第に大きなものになって行きました。初めの藤原氏(中臣氏)は、河内国の枚(ひら)岡(おか)神社(東大阪市)に祖先神である天児屋根命の祭祀を行っていました。
 天照大神が天岩戸に隠れたとき、天児屋根命は岩戸の前で太祝詞(ふとのりと)(立派な祝詞)を唱えました。このことにより、天児屋根命は、神職が神事に用いる祝詞の神だとされました。古代人は、よい言葉は幸運を呼ぶ力をもつとする言霊信仰を持っていました。そこから、春日神社の祭神は祝詞を通してよい言霊を与えてくれると信じられました。この祝詞には生活の智恵が込められています。そのため、春日大社は智恵の神、さらにそこから開運、出世などのあらゆる願いごとをかなえてくれる神であると考えられるようになりました。
(左)鹿島立神影図 春日大社蔵 (拡大)
(中)鹿座神影図 (拡大)
(右)春日宮曼荼羅 (拡大)
 
 大化改新のとき、大功があったことにより、中臣鎌足はめざましい出世を遂げ、かれの子孫が藤原の姓を名乗るようになりました。
 つまり、文人官僚としての藤原氏と祭官である中臣氏とに分かれました。そのため、藤原氏が奈良時代のはじめに、平城京のそばに新たに自家の氏神としての春日大社を創始しました。これまで中臣氏は、使者などを送って関東の自家の領地にある鹿島神宮と香取神宮を祭祀していました。ところが、藤原氏は春日大
社で枚岡神社から迎えた天児屋根命のほかに鹿島、香取の武甕槌神と経津主神を祀るようになりました。もう一柱の祭神である比売神は、春日の神に仕える巫女の霊とされています。
 
【枚岡神社】 東大阪市出雲井町 
 
 社伝によると、神武天皇が天種子命に命じて、平岡の神である天児屋根命と比売大神の2神を神津嶽(かみつだけ)(神の降臨する山)に祀らせたのを、孝徳天皇の白雉元年(650)に中臣(なかとみ)氏の一族である平岡連(ひらおかのむらじ)らが、その始祖天児屋根命と比売大神を祀り、その山麓の現在地に移したと伝えています。地名から枚岡神社と称し
ました。
 宝亀9年(778)に、藤原氏(旧姓中臣氏)が、祖神2神と、鹿島神(経津主神)と香取神(武甕槌神)を加えて4神を春日野に勧請し、一門の氏神としたのにならって平岡神社も鹿島・香取の2神を勧請しました。皇室の外戚である藤原氏の祖神を祀った神社なので、皇室の崇敬も厚く、延喜式では名神大社に列する名社で、河内国の一宮となりました。
 奈良の春日大社は、和銅年間(708〜715)には当社の天児屋根命と比売大神を勧請した神社であったため、当社は元春日平岡大社と称され、中臣(藤原)氏の繁栄とともにいっそう尊崇されました。貞観元年(859)には正一位を贈られ、明治4年(1871)には官幣大社となりました。明治まで神官は中臣氏の子孫である水走(みずはや)氏が代々つとめていました。
 本殿は4殿あり、前記の4神を祀っています。慶長年間(1596〜1615)、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として造営したと伝えられていますが、現在の本殿はすべて文政9年(1826)の造営で、枚岡造とよばれ、屋根は檜皮葺で千木・鰹木をのせ、春日造と似ています。
 
【カスガの神・ミカサの神】
 
 春日奥山の原生林を背後に、その前山である御蓋山(みかさやま)(三笠山)を御神体山として、「カスガの神」、「ミカサの神」が、この地方にかって在住した古代氏族たちの手によって極めて原始的な形で祭祀(まつり)はじめられたのは、はるかの上代の3世紀ごろにさかのぼります。
 社殿も何もない、磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)といった自然神道期の祭祀形態に濫觴(らんしょう)するものであると考えられています。おそらく古墳文化とほぼ平行したところにその原型が求められ、次第に変貌をとげつづけて、いわゆる後の神社形態へとすすんで来たとおもわれます。そして結果としてはいわゆる社殿神道の建築群と儀礼の社へと発展しました。「杜(もり)と神」にはじまり、「社(やしろ)と神」に変貌したのが春日大社の永い歴史であります。
 はからずも8世紀のはじめ、この地に平城京が造営されたときから、この「杜と神」には大きな運命の輪廻が訪れました。古来の「神地」は、平城京の東北隅艮(うしとら)(丑寅)の方位で「表鬼門」であります。陰陽(おんよう)説や五行の思想に深くあやつられて来た上代から、鬼門の隅は畏怖せられ、またこの方位を常に清浄にし、この方位の神聖を常に保つことに大きな努力が払われてきました。したがってこの「神地」は、平城京の鬼門鎮護の神と崇められました。地方の一神格は次第に宮廷と国家の権威をもって修飾されていきました。
 平城宮廷に大きな勢力を扶植しはじめていた藤原氏は、まず中臣氏の遠祖にゆかりの深い神々であり、当時はみちのくに備える武神として尊崇されていた「鹿島の神(たけみかずちのかみ)」と「香取(ふつぬし)の神」をここに勧請し、また氏の祖神たる「枚岡の神(あめのこやねのかみ)」と「比盗_(ひめがみ)」をここに移し、平城京の備えを次第に強固にしたことは、平城京の守りはすなわち、「氏の守り」という宮廷貴族らの深い歴史への「訓(よみ)」と「企(くわだて)」が劃されていました。
春日大社 航空写真
 
 本来は神体山たる御蓋山を背に西方にむいていた筈の神地を、平城京が正面する南方に向けて四所の神殿を設け、宮殿と東大寺と春日社は相並んで、平城京条坊の線に添う天子南面の方位性を持つことになりました。それが今の春日四所本殿の方位であります。
 おそらく和銅3年(710)ごろから次第に勧請されはじめて、神護景雲2年(768)ごろに四社が成立したと考えられています。
 神体山を背に負うて、いまも西面しているのは春日の若宮だけであります。この若宮の方位が古い春日信仰の姿を保っています。神体山と若宮と一の鳥居をつなぐ方位が本来の春日信仰の参拝道であります。
 いまの四所本殿の場所には、かつては榎本神社がありました。いまは摂社の格式で南回廊の一廓(西南隅)にかろうじて体面を維持しています。この榎本社が春日の神に社地をとりあげられた形が、神々の歴史の現実を物語っています。
 承和8年(841)に勅旨によって春日山が神山とされ、狩猟や伐木が禁ぜられました。これは春日山が春日社の神山とされ、これが発端として春日社の社殿や社地が拡大されました。
 春日山が神山となると、従前の山岳仏教の道場や遺跡(神祠)は撤去されました。この中には榎本社も含まれていました。伝承には、春日の旧地主神は榎本明神といい、耳に障りがあったので新参の春日大明神の借地申し入れを聞き違えたとあります。
(右)春日宮曼荼羅 奈良 南市町自治会蔵
(左上)部分
(左下)部分
 
【赤童子出現石】
 
 赤童子出現石は、春日大社入口の楼門の前にある、一個の小形自然石で、参道の中央に玉垣をめぐらして置かれてあります。華麗な楼門の前にあるので、大半の参拝者は見逃しています。これについて「春日大明神垂跡小社記」に「南門。赤童子御影岩座。石橋下六足去座」と見えていますが、詳細については語っていません。
 御蓋山(みかさやま)の神は雷神として信仰されていたので、その影向(ようごう)の姿は童子形をとり、いわゆる護法童子の一つとして示されるので、古い春日信仰の名残を止めるものと見られます。画像では文字通り赤色裸形の童子像で、岩上に杖をつき、一臂を杖におき、一方は掌を顎にあてた立像で、容貌は怪異で普通の童子像とは大分趣を異にします。
赤童子出現石
 
 霊験記をはじめ社記の類にも赤童子に関する所伝は記されていません。春日明神には童子像の影向は認められますが、四所や若宮とは関係がないように思われます。明神降臨以前の地主神的霊を、この像を借りて表したのではないかと推定されています。
 また、赤童子出現石は、一見何の奇もない小さい自然石の塊でありますが、現在でも大切に保護されています。そこには古代以来連綿とつづく信仰の絆があることを感じます。その原初が何時まで遡れるかはわかりませんが、古典にある「磐座(いわくら)」の一つとして、かつては重要な神の憑代(よりしろ)であったと考えられます。
 
【鹿島神宮】 茨城県鹿島市宮中
 
 常陸(ひたち)国(茨城県)で祀られていた雷の神が、日本神話に取り込まれて鹿島神社へと発展しました。日本神話は、伊邪那伎(いざなぎ)尊が火の神軻遇突智(かぐつち)を斬ったときに武甕槌神が生まれました。国譲りの使者として地上に到着したとき、武甕槌神は十握剣(とつかのつるぎ)という長い剣を地上に突き立てて、その上にすわって大国主命を威圧しました。
 この剣は、落雷のありさまを象徴するものと考えられています。タケミカヅチの神名「ミカヅチ」の部分は「御厳雷(みいかづち)」を表わしているといわれています。
 古代の農民は、雷神をゆたかな水をもたらす農耕神として祀っていました。しかし、国譲りの神話が出来た後には、武甕槌神は皇室(天皇家)に背くものを討つ武神と考えられるようになりました。そのため、今日では鹿島神宮は、武道上達、国家鎮護の神として祀られています。
 武甕槌神を日本神話に取り込んだのは、代々天皇家の祭官をつとめた中臣氏ではないかと考えられています。そのころ、中臣氏は東国に広大な領地を持っていました。
 そのような中臣氏ゆかりの土地の雷神が、出雲氏がまつる大国主命を従えた話がつくられました。このことは中央の祭官である中臣氏が朝廷の出雲支配に重要な役割を果たしたことからくるものであります。国譲りの神話は、古い伝統をもつ地方の祭祀氏族であっても、天皇(大王(おおきみ))に権威づけられた中臣家であるので、自家の主張をふまえて創祀されました。
(右)香取神宮 楼門 (左)鹿島神宮 楼門
 
【香取神宮】 千葉県佐原市香取
 
 香取神宮は、経津主神(ふつぬしのかみ)を祭神として、千葉県佐原市に鎮座して、全国の香取神社の総元締めであります。
 経津主神も武甕槌神と同じく、伊邪那伎尊が火の神軻遇突智を斬ったときに生まれた神であります。この経津主神は霊剣の神とされています。剣が物を斬る音を表す「ふつ」という古代語があります。これは、いまの「ぶっつり」「ぷっつり」といった言葉につながるものでありますが、剣が物を斬る音を神格化した神が、香取神宮の祭神であります。「悪霊を斬り退けてくれる神」という意味でその神名が付けられました。
 香取神宮と鹿島神宮とは、強いつながりをもっています。秋の御船祭(おふねまつり)のときには、鹿島から香取までの御船の神幸が行われます。香取神社をまつる首長も、鹿島神社をまつる首長も、古代には中臣氏の支配下に置かれていました。ところが、主に中臣氏の手で整えられた国譲りの神話の中で鹿島の神と鹿島の神とが違った扱いをされていることです。
 武甕槌神と経津主神とともに出雲への使者になったとするものと、武甕槌神と案内人である天鳥船神(あめのとりふねのかみ)とが出雲に行ったとするものとの二通りの伝承があります。しかも経津主神が出てくる話でも、出雲の神と力くらべをしたのは武甕槌神であるとされています。これは、日本神話が整えられた7世紀に、中臣氏が鹿島の神を香取の神の上位に置いたからといわれています。しかし関東では経津主神の人気が高かったために、香取信仰が今日でも繁栄を見せています。

【神・神社とその祭神】《XI》(その2)へ つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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