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●第9号メニュー(2006/9/17発行)

鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源

三重・新大仏寺
大仏師法橋 快慶

 鎌倉時代の兵火で焼失した東大寺の大仏再興の大勧進に任じられ、生涯を通じてその復興にあたったのが、重源上人であります。平成18年(2006)は重源上人没後800年の節目の年です。東大寺では≪重源上人800年御遠忌法要≫が、10月14日〜16日に行なわれます。春には奈良国立博物館で上人の偉大な足跡を振り返る特別展が催されました。京都史跡散策会も東大寺や浄土寺など、重源上人が勧進の拠点とした別所に参拝しています。現在の大仏は永禄10年の兵火に巻き込まれ、治承の炎上に次ぐ東大寺の不幸であり、その再興に当ったのが公慶上人であります。公慶上人については本誌の1号と2号で扱っています。第9号では連載している≪京の秀吉歳時記≫は休載にしました。

【鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源】


<<はじめに>>

 平家の専横を苦々しく思っていた平安時代末期の京都では、平家打倒の空気が広がり、後白河法皇はその主唱者でありました。法皇の皇子高倉宮以仁親王は源三位頼政とともに、治承4年(1180)5月平家討伐を計画しましたが、その方策は平家に見破られ、逆に追われる立場となり、一旦は大津の園城寺(三井寺)に逃れますが、さらに南都奈良に向う途中、頼政は宇治で、以仁王は井手の近くで討死されました。このとき南都の東大寺と興福寺の僧兵が以仁王の味方をしたことから、平家はこれを深く憎んで、治承4年(1180)12月25日、三位中将重衡を大将軍として4万余騎の軍兵を南都に差し向け、木津川で合戦後、奈良に入り込み、ついに東大寺・興福寺を焼き払いました。
東大寺縁起絵巻 下巻 (重文)
 
平家物語 (延暦本 重文)
 
 ことに大仏殿をもつ東大寺の炎上は壮絶をきわめ、折りからの強風に紅蓮の炎は南都の夜空をこがし、敵味方のおめき叫ぶ声と、焼け落ちる大仏殿の断末魔のひびき、阿鼻叫喚のなか大仏の頭部は地響きをたてて崩落しました。
 大仏殿、4面の回廊、講堂、三面僧房、食堂、東塔、戒壇院など、さしもの東大寺も一夜にして灰燼に帰しました。二月堂、三月堂、転害門などは残りましたが、聖武天皇が造営され、建立に心魂を注がれた中心伽藍のほとんどが焼失しました。
 平家物語には、

「十二月二十八日の夜なりければ、風は烈しし、火本は一つなりけれども、吹迷う風に多くの伽藍に吹きかけたり。恥をも思い、多をも惜しむ程の者は奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり。行歩に叶へる者は、吉野、十津川の方へ落ちゆく。歩みも得ぬ老僧や尋常なる修学者、児ども、女童部は大仏殿、山階寺の内へ我先にとぞ逃げ行ける。大仏殿の二階の上には千余人昇り上り、敵の続くのを上せじと階を引いてけり。猛火は正う押懸たり。喚叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の焔の罪人も、是には過じとぞ見えし。……東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思しなづらへて、聖武皇帝、手みずからみがき立給ひし金銅十六丈の廬舎那大仏、烏瑟高く顕れて、半天の雲にかくれ、白豪新たに拝まれ給ひし満月の尊容も、御頭は焼落て大地にあり、御身は鎔合て山の如し、八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に掩隠れ、四十一地の瓔珞は、夜の星空く十悪の風に漂ふ。煙は中天満々ちて、炎は虚空に隙もなし。親りに見奉る者、更に眼を当てず。遥に伝聞く人は、肝魂を失へり。……焔の中にて焼け死ぬる人数を記いたれば、大仏殿の二階の上には、一千七百余人、山階寺には八百余人、或御堂には三百余人、具に記しいたりければ、三千五百余人なり。戦場にして討るる大衆千余人、少々は般若寺の門に切りかけ、少々は顎供持持せて都に上り給ふ。……聖武皇帝の宸筆の御記文には『我寺復興せば、天下も復興し、我等衰微せば天下も衰微すべし』と遊されたり。されば天下の衰微せん事疑いなしとぞ見えたりける。浅ましかりつる年も暮れ、治承とも五年に成りにけり」とて。

まさに仏法減尽の様相、焦熱地獄そのものであったと語っています。
 頼朝挙兵と前後して、反平氏の挙兵が相つぎ、延暦寺、園城寺の僧兵も謀叛し、奈良の興福寺にも不穏な動きがありました。清盛はついに南都討伐を決意し、重衡の軍勢を奈良に向わせました。
重源上人 (国宝 東大寺蔵)
 
重源上人勧進状 (重文 東大寺蔵)
 
 治承4年(1180)12月28日夜、興福寺は僧兵6万をもってこれを迎え撃ちますが、重衡は、興福寺、東大寺に火を放ち、焼き討ちして僧兵を追い散らしました。これまで部分的に一堂一宇が焼けたり壊れたりすることもありましたが、全寺がことごとく焼き払われたということは、両寺の歴史はじまって以来の非運でありました。
 この両寺焼亡の報せをきいた九条兼実は、「仏法王法は滅びてしまうのか、悪運の時にあたり、破滅をあらわしているのかもしれない。この悲しみは父母を喪うよりはなはだしい」と、筆舌につくしがたいと嘆き訴えています。
 東大寺炎上ののち、皇室をはじめ鎌倉幕府の絶大な庇護の下に直ちに再興が始まりました。養和元年(1181)8月には俊乗坊重源に東大寺大勧進の宣旨が下されました。重源上人はもと醍醐寺の僧で、浄土教の篤信者であります。
 治承5年(1181)4月9日に藤原行隆のもとをたずねて東大寺の焼跡を見て廻り、その惨状に悲嘆にくれ涙し、復興への勧進を決意しました。この上人はまた、自ら「南無阿弥陀仏」と称して、法然上人の弟子として浄土信仰に深い心のよりどころをもっていました。また醍醐寺の勝賢僧正が、東南院と深い関係持っていたので、その関係で東大寺再興を委嘱されたとも考えられます。
 ついで同年6月26日に蔵人左小弁正五位下藤原朝臣行隆を造東大寺長官に、三善為信を次官に、仲原基康を判官に、三善行政が主典に任じられました。この鎌倉時代における東大寺の再建については、3期に分けることができます。


<<第1期 養和元年1181〜1185文治元年>>

 この間は主として廬舎那大仏の鋳造が中心であって、重源はこの間に一輪車6輌を作って諸国に勧進を始めました。皇室や幕府の寄進のほかに、広く庶民に期待し、上人の勧進状を持った僧や山伏が全国を遍歴して作善をすすめて廻りました。
 この東大寺の再建にあたって重源上人が適任であったことについて、重源が当時すでに三度入宋(安元2年2月6日の高野山延寿院鐘銘による)を果しているので、巨材の運送の方法や、鋳造技術に、新しい宋の知識を多く持っていたことによると考えられます。一輪車なども、宋での交通の一つのあらわれであるとも云えます。また、重源の残した『南無阿弥陀仏作善集』では、重源が宋の明州阿育王山の舎利殿を造立したことも伝えています。
南無阿弥陀仏作善集 (重文 東大寺蔵)
 
 養和元年(1181)10月6日に東大寺大勧進の勅許を得て、都中を勧進して廻り、まずはじめに後白河法皇・皇嘉門院をはじめ、女院などから銅、銭、黄金等の奉加を受けています。
 焼け落ちた廬舎那大仏の再鋳には技術者不在の問題に直面していた重源に朗報がもたらされました。大宋国鋳物師陳和卿なる人物が、商いのため日本を訪れているという情報でありました。彼に大仏再鋳の鋳師になることを承諾させた重源は、寿永元年(1182)7月23日、陳和卿と焼け落ちた大仏を前にして再建の計画をたてています。
 寿永2年(1183)2月には源平争乱の最中にもかかわらず大仏御首の土の原型が出来あがりました。また、宋人陳和卿の協力があって、同年2月11日には大仏の右手の鋳造が終り、4月19日より大仏仏頭の鋳造にかかりました。5月19日には眼や鼻などの仏顔の完成を見て、ついに28日に御頭が出来あがりました。この鋳造には宋人陳和卿・陳仏寿の兄弟など宋人鋳物師7人と、わが国の鋳物師として草部是助・助延など14人が携わっています。
 天平大仏は完成後もたび重なる修理を経ています。天長4年(827)には大仏の傾きを止めるために仏体の後方に山を築いています。重源と陳和卿はここに3口の大炉を構えました。炉の口の広さは1丈、高さは1丈余であります。炭をたいて熱せられ、融解し灼熱した銅は空中に炎を吹き上げ、雷電のごとき大音響を発していました。冶鋳の間、興福寺別当覚憲(信西入道の子)を導師として読経と念呪が続けられました。鋳造は前後14回に分けて行なわれ、途中、銅湯が漏れ出して工事のために組まれていた仮屋が炎上する事故もありましたが、居合わせた僧俗が消火にあたり事無きをえています。頭部の鋳造は『続要録』によれば、5月18日に終わり、表面の研磨と荘厳に作業は移りました。用いられた木炭は50石〜60石、熟銅(精錬銅)は7.8千斤〜1万斤余でありました。像表面の金色の荘厳は鍍金と箔押しのふたつの技法が併用されました。
 ときの東大寺別当禎喜は陳和卿の労を讃え、駿馬1匹と上絹10疋を贈っています。翌19日の藤原兼実の敬白文によると、このとき兼実は「生身舎利」T粒を水晶小塔に納め、鋳造の終わった大仏頭部内に納入したと記されています。
 同年7月には平氏は都落ちし、これを追って入京した木曾義仲も翌寿永3年(1184)1月に敗死するなか、鋳造は継続されました。同年1月5日、行隆は兼実を訪れ、すでに左手の鋳造が終わっていると報告し、日本の鋳物師を作業に加えたことに対し、宋人は当初は不快感を示していましたが、重源のとりなしにより落着したとその経緯を述べています。つづいて6月23日には再び行隆が訪れて大仏の体部の鋳造も完了したことを報告し、翌月中には仕上げと表面の荘厳、その後開眼という次第となる見込みであると述べています。
 このとき奥州の藤原秀衡は金5千両、そして武家の棟梁としての地位を確立しつつあった源頼朝は千両の奉加を約束しました。しかし頼朝から砂金・上絹・米が実際に送られてきたのは翌元暦2年(1185)3月7日のことでありました。同月24日には、平氏は壇ノ浦で滅亡しました。以後、覇権確立への道を歩む頼朝は、一貫して東大寺再建事業の偉大な支援者でありました。
 このころ重源は間近にせまった大仏開眼の準備のため、大仏の胎内に納める舎利を集めています。4月27日には兼実のもとに行き、あらかじめ手配されていた舎利3粒を納めた五色の五輪塔を、敬白文とともに五色の錦袋に入れたものを受け取っています。
 大仏開眼供養は8月28日にとりおこなわれることが決定します。開眼師は別当定遍、咒願師は兼実や慈円の弟信円、導師は覚憲と定められました。改元があって同じ年の文治元年(1185)8月23日、後白河法皇寄進の舎利を大仏腹部に篭めるに際して、重源の敬白文が添えられています。それには、重源は初め醍醐寺、後に高野山にすみ、各地の霊地名山を巡礼したこと、奥州および九州にも布教したこと、また宋へ渡り、五台山に参詣し、文殊の瑞光を拝したこと、帰国後、夢想のお告げによって焼亡直前の東大寺大仏を参拝したことなどともに、この舎利を醍醐寺勝賢が百箇日祈祷し、いま大仏の腹内に納める経緯を記しています。
 開眼供養会当日は嵐でありました。しかし儀式は粛々と進められ、各種の雅楽が演ぜられ、後白河法皇以下百官が参加し、七大寺の僧千人余を集め、朝6時から午後4時まで、天平の盛儀にまさるとも劣らない盛大な供養が営まれました。開眼に用いた筆は勅封蔵に保管されていた、天平大仏の開眼に用いられ、バラモン僧菩提僊那が手にしたものであります。後白河法皇は近臣の助けを受けながら大仏の面前までよじ登り、開眼を行ないました。なおこのときの大仏は、面部こそ金色でありましたが、体部についてはまだ荘厳がなされていない未完成の状況でありました。この供養会を実見した源雅頼は、大仏の面相が昔に比べて劣るという感想をもらしています。このことが何を意味するのか定かでありませんが、少なくとも天平様式の大仏を見慣れた目には違和感があったと考えられます。先のひな形の製作者が誰であったかを想定することは難しく、一つは、宋風の相貌であったか、あるいは慶派(奈良仏師)によっての鎌倉新様式であったか、それとも定朝様にもとずいたものであったのか。戦国時代に松永久秀の兵によって大仏は再び焼かれ、重源らが苦心のうえ完成させたこのときの大仏頭部が現存していないので、答えは謎に包まれています。
 文治5年(1189)兼実は再興後はじめて大仏を拝し、「相亳神妙」という所感を述べています。


<<第2期 文治元年1185〜1195建久6年>>

 つぎの第2期は重源上人のもっとも活躍した時でありました。この11ヵ年間は主として大仏殿の建立に中心が置かれました。文治2年(1186)東大寺造営料として周防国があてられて、重源上人は周防国国司職に補任されました。
 重源は4月10日に宋人陳和卿、番匠物部為重、桜島国宗などをひきいて周防国に下向して、18日には佐波川上流の上下得地保の杣山に入って、用材の切り出しにかかりました。この切り出しは大変なもので、1本の柱について牛120頭をあてなければならないほどでありました。しかし、この切り出しに対して材木を引く人夫の調達に在地の地頭などか妨害するので、重源は朝廷に訴え、さらに朝廷よりこの旨を鎌倉に伝えて妨害を停止させました。これによって文治5年(1189)には土肥遠平は地頭職を罷免されています。
 長さ13丈の棟木をはじめ、柱、梁、垂木など、巨大な木材をはるばる奈良へ送るため、重源は独特の運搬法を考えだしました。川で運ぶ時には、堰を造って川の水をためた上に木材を浮かべ、いっきに堰を切ってつぎの堰まで木材もろとも押し流す方法をとりました。瀬戸内海からは特殊な筏を組んで運んでいます。このため、2.3千人は必要とする人夫をわずか60〜70人ですませることが出来ました。また、伐採のときや大仏殿の立柱のときには、滑車を使うなど、彼の発案は非常に実際的でありました。
行基菩薩行状絵伝 (重文 家原寺蔵)
 
 重源上人は、この東大寺再建のために、しばしば伊勢神宮に参拝しています。文治2年・建久4年・建久6年と3度も伊勢神宮に60人の僧をひきいて、宝前に新写の大般若経を転読して大仏殿の造営の完成を祈願されています。
 大仏殿は建久元年(1190)7月15日に大仏殿母屋柱2本を建て始め、同年10月19日には上棟の式を行なっています。この式にも再び後白河法皇の御幸がありました。また12月12日には、伊賀国の山田有丸名・広瀬・阿波杣山での用材の切り出しに際して、在地の地頭を罷免して、これを陳和卿の所領としています。
 ことに重源は周防国、備中国、伊賀国をもって用材などの調達地として自らその土地に入っていきました。ことに周防国の用材運搬について瀬戸内海の交通開発の必要を感じて、いまの三田尻港、家島群島(いまも東大寺という地名が残っている)、兵庫関(現在の神戸港)、難波の渡辺付近の港湾などを整備しています。またこのために東大寺はのちに兵庫関を管理して、九州の鎮西米の運送など東大寺による西国経営に便をあたえることとなりました。
 また、この東大寺建立を通じて重源上人は伊賀、播磨などの東大寺荘園の強化をはかり、播磨大部庄、伊賀王滝杣、黒田庄などの発展に期待するところがありました。そのために播磨大部庄の地に浄土寺を、伊賀の阿波庄に新大仏寺、難波渡辺の地に渡辺別所を、造東大寺知行国の周防国の牟礼の地に阿弥陀寺の末寺を建立し、これらを東大寺の末寺化するとともに、自己の浄土信仰の道場としました。
東大寺大仏殿落慶法要 (昭和55年10月15日)
 
 建久2年(1191)閏12月9日には鎌倉幕府は下文を出して、西海道の地頭に命じて東大寺大仏殿用材の運搬に協力することを約束させ、建久3年中に柱118本を東大寺に送ることを援助させています。建久4年(1193)4月10日幕府より、重源の申請によって、周防一国のみでは十分でないために備前国をも東大寺に付せられています。ここに用材の調達が順調にはこんで、大仏殿は完成に近づいてきました。同年5月10日には30余本の大柱が東大寺に到着し、つづいて重源によって大仏の後に6丈ばかりの築山があったのを上人は思いきって取り除きました。幕府もまた佐々木氏をはじめ御家人層を通じて東大寺建立に助勢すべきことを命じています。夜を日についで完成への槌音が響きわたりました。
南大門 全景 (国宝)
 
 再建に着手してから15年後、建久6年(1195)3月12日の東大寺落慶供養が春雷のなか大仏殿で行なわれました。新造なった大仏殿上には美しい彩幡、華曼をかけ、上下二層の四隅には宝幢をつるし、南のひさしの西3ヵ所中央柱の南に天井をつけた仮屋を設けて、天皇の御座所ときめ大宋の屏風をはりめぐらし、蔵人たちの休憩所も合わせて設置されました。大仏殿のうちでは仏前に香華を供え、7つの大花瓶に造花をくわえ、中央柱の北に八脚の供花机を設けて證誠の座を設けました。仏前中央には長床を置いて唄師の座と定め、南東西第3間より西に広筵をしいて公卿の座を設けました。正面の左右には2脚の礼盤と高座を置いて、講読師の華厳経講讃の座としています。
 そして大仏殿前の庭上には、天平落慶の如く舞楽台を大燈篭の南に組み上げて、世紀の大供養は天平の盛儀をしのぐものでありました。
 この日の供養に開眼の日にまして盛大におこなわれ、後鳥羽天皇はじめ、源頼朝も妻政子とともに上京して法要に参加しています。
 (註)大仏様(天竺様)と呼ばれるこの建築様式は、平安末期の優美で繊細な建築をみなれた人々には、ひじょうに荒々しいものにうつりました。部分品の規格を統一して、量産し、それを組みたててゆくという単純な工法で、少ない用材で大きな建物を、しかも短時日で造ることが可能でありました。
 工法が単純で時間も経費もかからず、しかも構造的に、あの大屋根を支えるのにもたえるこの方法は、画期的な工法でした。現存する南大門には、わずか5種類の断面ないし大きさの木材で造られています。

南大門 (左)六手先組物 (右)内部架構
 

 
 それにかかわらず外見が簡素で荒々しいため、日本人の好みに合わなかったのか、その後の建築にはあまり影響を与えず、部分的に和様建築にとり入れられています。 

<<第3期 建久6年1195〜1208建仁3年>>
 
 東大寺再建の事業についての第3期の9年間は主として、大仏殿の脇侍像と四天王像、さらに南大門の建築や、そのほか仁王像の制作、つづいて建久8年(1197)には東大寺八幡宮の造営、建仁2年(1201)12月の快慶による八幡神像の開眼などがあって、翌年11月30日の土御門上皇の御幸を仰いで東大寺総供養が営まれました。そして重源はその後、3年ののち、建永元年(1206)86歳の生涯を終えました。
 東大寺の造営事業は、建仁3年 の東大寺総供養をもってほぼ達成されています。このように鎌倉時代になって復興した主な伽藍は、大仏殿、東大寺八幡宮、戒壇院、南大門、尊勝院、大講堂、大湯屋、東塔、鐘楼、国分門などであります。これら伽藍の復興にともなって奈良仏師たちの活躍も急に目立ってきました。
 大仏殿内の四天王像についても建久6年(1195)8月からその造作が始められて持国天を大仏師法眼運慶、増長天を大仏師法眼康慶、多聞天を大仏師法橋定覚、広目天を大仏師丹波講師快慶によって完成しています。そしてこれらの用材は周防国より運ばれ、源頼朝は御家人に命じて調達をはかっています。
 また建仁元年(1201)には有名な東大寺八幡神像が造られました。つづいてこの神像をまつる鎮守八幡宮は建久8年(1197)に上棟し、神像は建仁元年12月27日、快慶、快尊、慶聖など28名の人々により造られ、とどこおりなく開眼供養が行なわれました。
 有名な南大門と仁王像は、正治元年(1199)6月に南大門が上棟されて、つづいて仁王像が建仁3年(1203)7月24日より10月3日までの2ヶ月余の短期間に完成されました。昭和大修理の際に発見された吽形像納入の経典奥書に、大仏師として定覚・湛慶が、阿形像持物の墨書銘に大仏師として運慶・アン(梵字)阿弥陀仏の名が見出されたことにより、阿形像は運慶と快慶、吽形像は定覚と湛慶の合作と判明しました。4人と小工16人によって造像され、10月3日に開眼されました。
 このように東大寺の再建にともなって奈良仏師の活躍は目覚しく、いままでの平安時代からの京都仏師の動きをも圧して、巨像の制作に大きな偉業を残しました。そしてその作風には新時代の気風がみなぎり、平安的な線中心の繊細さから脱して、逞しい肉感の迫力のある造像となりました。
 
【三重・新大仏寺】 真言宗 五宝山 重源
 
 重源は東大寺造営勧進を進めるため畿内近国や山陽道の各地に別所を設けました。重源自身が『南無阿弥陀仏作善集』に記した七別所は、東大寺別所、高野新別所、摂津国渡辺別所、伊賀別所、播磨別所、備中別所、周防別所でありました。
新大仏寺本堂と阿波大仏 (安阿弥 快慶作)
 
 別所(とは、別立道場で、大衆の教導のための道場を意味しています)は、単に造営資金を調達するためのものでなく、信仰の拠点となる堂舎を設け、思想を実践する場でありました。各別所に設けられたのは阿弥陀如来像とそれを安置する浄土堂であり、ここに重源の思想を見て取ることができます。ことに古くから東大寺領荘園のあった伊賀国と播磨国、そして大仏殿用の材木調達の料国となった周防国の別所には、今もその法灯を伝える寺院があり、独特の形式を持つ三角五輪塔をはじめ当時の遺品が数多く残されています。
 重源の思想を実践する場である別所の目的は別願道場として阿弥陀如来を念ずるためのものでありました。そのためにその寺の中心に浄土堂をきづき阿弥陀如来を本尊としてまつり、礼拝して行道(巨大な立像の廻りを廻って常行三昧の弥陀念仏を唱える)するために、その本尊を安置する台座は円型をなしています。この形式がよく残っているのは今では伊賀国の新大仏寺と播磨国の浄土寺でありますが、新大仏寺のほうの阿弥陀三尊は江戸時代の土砂崩れによって倒壊し、現状は、両脇侍を失い、中尊像は頭部のみ当初のもので、体部はこのときに失われ、坐像に改変されて今日に至っています。現状は一体の坐像であるのに対して、浄土寺のほうは阿弥陀三尊の形式がとられています。浄土寺の中尊像は像高530cmの丈六像で、頭部の大きさは新大仏寺如来坐像とほぼ等しいので、かつての新大仏寺中尊阿弥陀如来像は法量・図像ともに浄土寺像に等しいものと考えられます。阿弥陀像に礼拝して行道を行なう堂内には、像を廻るに中央に基壇がありますが、ことに新大仏寺の円形の基壇(台座)にはすばらしい獅子の彫物が残っています。
(左)板彫五輪塔 (重文 新大仏寺蔵) (右)水晶五輪塔 (山口・阿弥陀寺蔵)
 
 彫造について重源は、運慶のきびしい作風より快慶のやさしい作風のほうを好んだので、この新大仏寺の本尊・阿弥陀如来像をこの快慶に作らせたと思われます。
 重源の別所浄土堂の建立は東大寺の寺領確保とつながるものであり、播磨国大部荘や伊賀国の阿波・広瀬・山田有丸荘を管理するための役目も持っていました。これらの荘園は周防国のように造営のための用材調達という目的だけでなく、造営のための職工や、協力者への食料の調達の使命を持っていたと考えられます。 
 この新大仏寺は服部川の北岸にあって、もと阿波庄の地で重源の伊賀別所にあたり、作善集では、金色の弥陀三尊来迎の立像と観音勢至をはじめ、釈迦立像、十六羅漢をまつり、湯釜をそなえた湯屋があったと記しています。ことに「巌石を引き平めて一堂を建てる」と丸い石段を築き獅子座としています。
 現在の大仏堂の本尊はその御首だけが快慶の時代の建仁2・3年に造られ、重源の発願になるものといわれ、その胴の部分と後背などは、享保12年(1727)に大仏寺勧化の比丘といわれた陶瑩が、京都仏師祐慶に命じて、さきの頭部に合うように坐像としての胴体部などを補作しています。
 このほか、この寺には重源上人像(これは東大寺の同上人像に似せて作成されたもの)、阿弥陀三尊の中尊の像内に篭められてあったものといわれる水晶五輪塔があります。この重源関係の五輪塔は屋根の部分が三角となっていて、火輪を表し、より教理にもとづいて正しく作成されて、他の五輪塔のように四角の屋根ではありません。
この重源の伊賀別所より新大仏寺という寺名が明らかになるのは法隆寺にある『古今目録抄』抜粋に「東大寺勧進上人南無阿弥陀仏俊乗房(中略)伊賀国造大伽藍、名新大仏寺云々」と記されています。
  いま新大仏寺に重源の残した板五輪塔があります。これは高さ一尺九寸の五輪型板の表面に1千36躰の小仏(千躰仏)を浮彫りにして、その裏面の上方に宝篋印陀羅尼、下方に銘文をそれぞれ陰刻しています。これでこの板五輪塔が、建仁3年(1203)9月15日に作られたことがわかります。そしてそれは南無阿弥陀仏作善集の東大寺別所のところにある「印仏一面一千余躰」や、また渡辺別所の条にある「印仏一面一千余躰」などと同じものであります。そしてこの板五輪塔の内容をなす千躰仏の印仏は、現在はその磨耗がひどく、その一つ一つの仏の姿を詳細に見ることは出来ませんが、その一尊ずつがほとんど同じような如来の坐像であることだけがわかります。しかしこの外形をなす五輪塔の形は、本格的なもので、これがいわゆる重源の三角五輪塔の典型であります。
 
【大仏師法橋 快慶】
 快慶は鎌倉時代に活躍した仏師で、運慶の父康慶の弟子と伝えられ、いわゆる慶派に属し、運慶とほぼ同時代の仏師であります。寿永2年(1183)に運慶が発願して書写した法華経の結縁者として始めて史上に登場し、貞応2年(1223)運慶の長男湛慶とともに醍醐寺閻魔堂の諸像を制作したのを記録上の最後として、史上から姿を消しています。
 鎌倉時代初頭、南都復興の造仏は、京都を本拠地とする院派仏師・円派仏師と奈良を本拠とする慶派仏師に振り分けることができます。院派と円派は、主に京都の貴族たちの依頼による造像に従事していました。両者の作風は、定朝様という枠内におさまる保守的な造像でありました。

浄土寺浄土堂 阿弥陀三尊像 (国宝)
 

 一方、慶派は、貴族たちの依頼よりも、奈良の寺や僧侶からの依頼よる古い仏像の修理修復を主な仕事としていました。そのため定朝(?〜1057)以前の古典彫刻を学ぶ機会が多く、作風に新鮮さが創り出されていました。その作風は停滞気味だった院派・円派に比べ、新時代に相応しい、新鮮な感性に満ち溢れていました。
 東大寺の復興は、諸方面の勧進と新興勢力である鎌倉幕府の寄進によって造営料がまかなわれていましたが、なかでも大仏の両脇侍や四天王像などの巨像は、鎌倉幕府の御家人の寄進により造立されました。おそらく将軍源頼朝(1123〜60)の意向を受けて、慶派仏師が造像にあたりました。それは、大勧進の重源はじめ僧侶の指導のもとで進められました。
 快慶の作品で最も若いころのものは、文治5年(1189)に制作した弥勒菩薩像(旧興福寺蔵、現ボストン美術館蔵)であります。膨らみのある肉付きと腰をひねって颯爽と立つ姿は、いかにも鎌倉時代に新風を起こした慶派仏師の作品の代表作といえます。

(左)阿弥陀如来立像 (重文 東大寺蔵) (右)弥勒菩薩坐像 (重文 醍醐寺三宝院蔵)
 

 さらに、快慶らしさを発揮した建久3年(1192)制作の京都・醍醐寺三宝院の弥勒菩薩像があります。はっきりと大ぶりの両眼を見開いた、明快で理知的な顔立ちは特徴的であります。衣の襞はにぎやかでありますが、複雑に乱れるものでなく、ほぼ左右相承に整えられています。こうした特色は、以後、洗練の度を加えていきました。像内には「功匠アン(梵字)阿弥陀仏」という朱書銘があり、東大寺復興の大勧進として晩年の情熱をかたむけた重源との出会いがあったことを示しています。「阿弥陀仏号」は熱心な浄土信仰を抱いていた重源が、自ら「南無阿弥陀仏」と号し、そして周りに集まった信者たちにも付与しはじめたものであります。快慶はその阿弥陀仏号を最も早く与えられた信者の一人で、熱心な浄土教徒であり、後に「其身浄行」と讃えられたほどでありました。慶派の傍流にありながら、快慶が名をなすことができたのは、ひとえに重源の引き立てがあったからです。
 重源は東大寺の巨大な木彫仏像群復興の手はじめに、南中門二天像の造立に慶派の正系の運慶をさしおいて、快慶を起用しています。引き続き東大寺の諸仏像制作では、快慶は運慶とともに中心的役割をはたすこととなり、大仏殿脇侍像や四天王像、南大門金剛力士像などの制作に参加しています。
(左)奈良大仏 仏頭 (右)阿波大仏 仏頭
 
 建仁3年(1203)東大寺の総供養の折には その功により法橋に叙せられています。このころ、快慶は最も充実した時期を迎え、俊乗堂阿弥陀如来像、公慶堂地蔵菩薩像、八幡宮御神体の僧形八幡神像など魅力に富む作品を制作しています。これら東大寺内の造像のほか、重源が各地に建てた別所と呼ばれる念仏道場の造仏などにも起用され、重源がいかに快慶を気に入っていたかが察せられます。別所のうち、兵庫・浄土寺と三重・新大仏寺の阿弥陀三尊像は、いずれも快慶が制作し(新大仏寺は中尊頭部のみ当初のもの)、重源の事蹟を記した『南無阿弥陀仏作善集』によると、宋より舶載の画像を手本としたことがわかります。
 快慶は像高三尺前後の来迎印を結んだ阿弥陀如来像を多く制作し、河内・八葉蓮華寺、東大寺俊乗堂など14体が現存しています。快慶の整った形式美を追求した作風は、この阿弥陀如来像に顕著に示され、後世「安阿弥様」と呼ばれて人気を集めました。庶民の極楽往生をめざした浄土教の教えにふさわしい、親しみやすく、わかりやすいイメージとして、
多くの人々の心を引き寄せてやまないものであります。

≪第9号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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