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●第37号メニュー(2009/1/18発行)
【神・神社とその祭神】《そのXVII》 宗像大社・厳島神社
【宗像大社】 〔三社の由緒〕 〔三社を結ぶみあれ祭=l
【厳島神社】 〔弥山信仰の美と荘厳〕 〔弥山と弘法大師〕

〔厳島神社の沿革〕 〔平清盛と厳島神社〕 〔厳島弁財天〕


【宗像大社】
 
 宗像大社は、福岡県宗像郡に鎮座する、全国に約9000社を数える宗像神社の総本社であります。当社は玄界灘に臨む宗像郡田島にある辺津宮(へつみや)(第一宮)と、そこから海上約7キロの大島にある中津宮(第二宮)、さらに大島から海上約50キロの沖ノ島にある沖津宮(第三宮)の3宮からなっています。
 祭神はいずれも女神で、市杵島姫(いちきしまひめ)命・田心姫(たごりひめ)命・湍津姫(たぎつ)命の三姉妹であります。天照大御神と素戔鳴尊(すさのおのみこと)の誓約(うけい)の際、この三女神は素戔鳴尊の剣から生まれたとされています。
 天孫降臨に先立ち、『日本書紀』神代(上)には、天照大御神がこの三女神に「汝三の神(いましみはしらのかみ)、道の中に降り居まして、天孫(あめみま)を助け奉りて、天孫の為に祭られよ」と告げたとあり、三女神は天孫の降臨を助けたと記してあります。
 また、『古事記』では異なった内容を伝えています。宗像三女神の神名・鎮座地・順序など記紀の間に異同がみられます。その後においても祭神に関する諸説が見られ、一定していませんでしたが、現在の宗像大社ではこれらを整理して、現在は辺津宮に市杵島姫神、中津宮に湍津姫神、沖津宮に田心姫神を祀るとしました。
北九州の宗像地方は、海上で生活していた宗像海人族の根拠地で、それを統率していたのが宗像大宮司の祖である「胸形(むなかた)の君」でありました。つまり宗像三女神は宗像海人族の首領である宗像大宮司が奉斎した神々でありました。
沖ノ島全景 (海の正倉院)
 
 宗像大神は別の神名を「(「)道主貴(みちぬしのむち)」とも呼ばれていました。道主貴とは、国民道をはじめあらゆる道を司る最高の存在で、鎮座地は伊勢神宮に次ぐ広域で、海外に対する辺要の門戸として重要な位置におかれています。大島・沖ノ島・対馬を結ぶ海路は、北九州から朝鮮に至る重要な経路でありました。
 そこで宗像神社は海上交通の守護神として栄えました。もともと古くから大和朝廷との結びつきもあり、大化改新による国郡の制では宗像一郡が神領として与えられ、豪族宗像氏が神主を兼ね、神郡の行政も司っていました。 
 さらに、宗像三女神の鎮座地が大陸および朝鮮半島への重要な航路にあることから、これらの神々は海外交通・航海安全の守護神として崇敬されました。そして中津宮が鎮座する大島は玄界灘の漁業基地であり、漁民の大漁を祈願する信仰も生まれました。
 昭和29年から三次にわたる沖ノ島における学術調査により、三社の一つ沖津宮の莫大な遺物が海の正倉院≠ニして注目を浴び、宗像神社の祭祀に関する遺品が発見されました。これらは4世紀から10世紀わたるものであります。
 沖ノ島は周囲4`の孤島ですが、島全体が豪華な祭祀遺跡で、巨岩のかげなどから発見された2万点にもおよぶ遺物の多くは国宝に指定されています。
 
〔三社の由緒〕
 
 三女神の鎮座は、市杵島姫命が玄海町田島の辺津宮に、湍津姫命海上約10`の大島にある中津宮に、田心姫命が玄海灘のほぼ中央に位置する沖ノ島の沖津宮にそれぞれ祀られています。この三社を総称して宗像大社といいます。『延喜式』神名帳に三座とも名神大社に列し、明治34年に官幣大社に列しました。信仰の中心は、地域的に玄海灘の海上交通を守護する海の神であります。神功皇后の三韓出兵に霊験があったことが伝えられ、遣唐使はじめ外交使節が航海の安全を祈願しました。また朝廷の崇敬が篤く国家大事のときは奉幣がありました。
 奉斎者は、記紀に見えるように筑紫の宗像氏と水沼氏で、とくに宗像氏は朝廷と姻戚関係を結び、宗像郡の郡司として地方行政にも権限がありました。天武天皇の妃で高市皇子(たけちのみこ)の母は胸形君徳善の娘の尼子娘(あまごのいらつめ)であります。
 記紀神話に三女神が取上げられたのも、天武天皇朝における宗像氏の存在が大きいとされています。桜井市外山に鎮座する延喜式内社の大社であった宗像神社は、この宗像一族の神社で、高市皇子の末裔(まつえい)の高階(たかしな)氏が祭祀しています。
 田島の辺津宮の本殿は、桃山時代初期の特徴を持ち、拝殿は小早川隆景が天正18年(1590)に再建寄進したものであります。境内には校倉造風の宝物館があって、沖ノ島の発掘調査で発見された豪華な展示品があります。5世紀の大陸文化の影響の大きい金属製品、平重盛が宋の育王山へ贈った黄金の返礼におくられてきたという阿弥陀経石、そのほか一筆一切経、漢武鏡、奈良三彩、真珠、純金製指環、金銅製透彫金具などの逸品ぞろいで、古代のわが国と中国大陸との交通の歴史を知ることができます。
(左)国宝 金の指輪 (右)宗像神社本殿
 
 大島は、面積7・49`、人口1700人の小島です。ここに宗像神社の中津宮があります。
島は玄海灘の漁業基地であり、漁民の大漁を祈願する信仰がみられます。
沖津宮のある沖ノ島は、古記録に「澳津島」「瀛津島」とも書かれています。そのほか「不言(おいわず)
島」とも呼ばれますが、島のことについて決して口外しないという意味であります。
 沖ノ島は山口県と対馬を結ぶ一線の中ほどにあり、最も近い大島でも50`あり、江戸時代には福岡藩が外国船監視に警備の役人を送ったりしましたが、近年は島へ渡る定期便も無く、明治38年に設置された沖ノ島灯台を管轄する海上保安庁の船が、10日間隔で勤務要員交替のために立ち寄るだけであります。ところが最近無人灯台となって交替が廃止となり、沖津宮奉仕の神職と聖地監視人が各一人、島に留まるだけとなりました。
 しかし、沖ノ島付近は西日本でも有数の漁場なので、島の南端に緊急避難用の波止場があります。その一帯を御前とよび、島で唯一つの船着場であります。波止場から左手の鳥居をくぐると、九十九折の石段が社務所に通じ、同所から更に急な石段を登ること200mほどで沖津宮社殿に達します。社殿の付近にはいまも古い祭祀遺跡を見ることが出来ます。
 島全体が神域なので、島へ渡るときは大島で潔斎し、上陸前にも禊(みそぎ)が行われます。島にあるものは御神水と魚介類のほかは、一木一草たりとも持ち帰ることは許されません。禁を犯せば崇があると信じられてきました。島への参詣は、年一回5月27日の現地大祭のときを利用する以外は、なかなか困難であります。
 沖ノ島では、忌詞(いみことば)が数多く存在しています。つまり島全体が神域なので、敬意を欠いた言葉は使わないことになっています。貝原益軒も『筑前国続風土記』(16巻、澳津島)に、「この島にて忌詞多し。常の詞のけがれ也と云。僧侶、山伏、女人、牛、馬、鹿、鼠は皆別名を有」と記しています。数例をあげると、塩はナミノハナ、米をシャリ、味噌はヒシホ、血や尿をアセといいます。神の島なので神事に穢れのあるシやチといった言葉を忌み、名をかえています。
(左)祭祀遺跡(依代) (拡大) (右)岩陰遺跡出土状況(拡大)
 
〔三社を結ぶみあれ祭=l
 
 さて、これらの三社を結んで、年に一度、海のパレードが行われます。10月1日から3日間にわたる秋季大祭(放生会)で、初日に行われる神迎えの海上御神幸のみあれ祭(御生祭)であります。三女神が年に一度の顔合わせをするのであります。この行事に玄界灘や響灘沿岸から集まってくる氏子の漁船約600艘が、交通安全と豊漁を祈って御神幸に参加します。
 10月1日の朝、大島一帯は、幟や大漁旗を押したてた大小の漁船で埋まり、午前9時半の打ち上げ花火を合図に、玄海町の辺津宮を目ざして海上御神幸となります。沖津宮と中津宮の両女神の神輿と白装束の神官を乗せた御座船二隻を先頭に、大船団が神湊(かむみなと)を目指します。御座船は御幣と紅白の吹流しに、国家鎮護宗像大社≠ニ書かれた大幟を掲げ、満艦飾の供奉船団は先導船の打ち鳴らす大太鼓とエンジンの音を奏でます。
 一時間ほどで神湊に舞台は移ります。屯宮で三女神が合流して辺津宮までの約4`を、陸上の御神幸となります。正午から3日間にわたる放生会の幕開けです。
みあれ祭≠フ起源は、約7百年前の鎌倉時代にさかのぼります。御長手神事として、春・夏・秋・冬の年4回、沖ノ島から神霊が神湊まで運ばれていました。神船は沖ノ島で伐られた長竹を掲げ、御長手と呼ばれる紅白の吹流しで飾られています。竹は御神体、吹流しは開運と勝利を意味しています。
 戦国時代以後は廃れて忘れられていました。それを宗像七浦の6漁協が、昭和37年に復活しました。みあれ≠ニは、新たな霊力をいただくことで、むこう一年間の福運を授かることを意味しています。パレードの主役は、なんといっても船首に神輿を安置した御座船であります。
 新造船の中からその名誉の役が選ばれることになっていますが、御座船は翌年、必ず豊漁に恵まれるというので希望者が多く、抽選で決めています。この抽選はなかなかの人気があります。祭神が猛々しい素戔鳴尊と男まさりの天照大御神の御子神として育まれてきただけあって、まことに威勢のよい神事であります。
 交通主宰の神、国土開発の神、外敵覆滅の神、武運長久の神、酒造りの元祖神、本朝八幡宮の根本神、弁財天の総本社であります。
(左)国宝 菱形人物画象鏡 (右)国宝 内行花文鏡
 
【厳島神社】
 
〔弥山信仰の美と荘厳〕
 
 安芸といえば厳島神社の鎮座する宮島が、古くから日本三景の一つとして有名であります。厳島は本土の大野海岸からわずか2キロの海上に横たわる周囲32kmの小島であります。その秀麗な姿と神々しい形は古くから付近を航行する船人や里人たちによって、神の島として崇められてきました。
 宮島へは連絡船で10分ほどで着きます。船が桟橋に近付くと、右手の浜辺に厳島のシンボルである朱塗りの大鳥居、その奥に島内最高峰の海抜530mの弥山を背にして、朱の回廊を水にうつし、さながら龍宮城を思わせるような厳島神社が、海面に浮かび、さらに神社手前の丘の木立の間から、千畳閣の巨大な屋根と五重塔が見えています。日本三景の一つといわれる美しい眺望であります。
 島全体が特別史跡・特別名勝、弥山の頂上を取り囲む原始林は天然記念物に指定されています。さらに、平成8年(1996)12月には、厳島神社の国宝と重文の文化財の社殿と境内地(神社の背景をなす後背地と弥山の一部)が世界遺産として遺産台帳に登録されました。
 桟橋から両側にぎっしりと軒を連ねた土産物屋の町並みを通りぬけ、海沿いの参道を歩くと厳島神社の回廊の入口に着きます。
祭神は天照大御神から「天孫をたすけて、天孫のために祭(いつ)かれ」とご神託をうけた市杵島姫命であります。宮島は「いちきしま」と呼ばれたと云われますが、また神を斎(い)つき奉る島なので、そう呼ばれたとも云われています。とにかく「いつくしま」はその訛ったもので、鎌倉時代以後は宮島とも云われ、厳島の名とともに使われるようになりました。だから島全体がご神体であり、海の中に社(やしろ)が造られたのもそのためで、人がこの島に住みつくようになったのは、鎌倉時代以後のことであります。
大鳥居から社殿群を望む(厳島神社)
 
〔弥山と弘法大師〕
 
 主峰の弥山(標高630m)山頂には巨岩が累積し、特異な景観をなしているので、古代の人々が山岳信仰の対象としていたことがわかります。弥山原始林(国天然)はその北斜面で、古来厳島神社の神地として保護されてきました。
弥山をはじめて開いたのは弘法大師であります。大師は延暦23年(804)唐に渡り、大同元年(806)に帰国し、霊地を求めて各地を歩きました。海上はるか紫雲たなびく弥山をながめ、さっそく厳島にわたり山中にこもって修行しました。山容が唐の須弥山に似ているところから弥山と命名され、自ら百日の求聞持の秘法を修された遺跡であります。当時の護摩の火は、以来1200年の今日まで、絶えることなく燃えつづけている全国唯一の霊火であり、山内には大師の遺徳をしのぶ多くの霊跡があります。
大聖院本堂の背後から急な山道を1時間ほど登ると、山頂近くの護摩谷に着きます。ここには巨岩が蔽いかぶさって、室屋の形をした龍窟と呼ぶ洞穴があります。大師が修行したところだと伝えられ、さらに10分ばかり登れば、大師の入山以来1200年間消えずの火≠ェ燃え続けているという求聞堂(霊火堂)に着きます。
頂上には平宗盛が奉納したという釣鐘(重文)があります。付近には奇岩怪石が多く、巨岩を割って生えている松や、庇のように突き出ている岩が点在しています。ここからの眺めは、遠く四国、九州の連山、中国山脈の連峰、近くは内海に浮かぶ大小無数の島が一望の内にあって、造化の巧妙、大自然の風光は実に素晴らしいものがあります。ここからの瀬戸内海の眺めは絶景であります。
(左)宮島周辺地図 (右)高舞台での舞楽「陵王」
 
〔厳島神社の沿革〕
 
 そもそもこの神社の起こりは、荘厳な弥山の姿に神霊を感じた古代人が、神の棲む島として、あるいは島そのものを神として崇拝した聖なる地に、自然発生的に生まれた信仰が原初と思われます。
 神社に伝わる縁起物語によれば、あるとき、佐伯鞍職(くらもと)が大野の瀬戸で釣りをしていた時、美しい姫が一艘の小舟にのって現われ「この島に御殿を建ててくれ」と頼みました。さっそく鞍職は天皇のお許しをもらいに都にのぼることになりましたが、出発の日、ふたたび姫があらわれて「私は市杵島姫命であるが、その証拠は、お前が天皇のところへいったとき、都の空に不思議な星が現われ、宮殿に笹の枝をくわえた烏が入るだろう」と云い残して立ち去りました。はたして鞍職が都にのぼると、予言がぴたりとあたり、天皇のお許しを得ることが出来ました。
 そこで鞍職は神社を建てる場所をさがすために、舟で島巡りを始めました。島の裏側にあたる東海岸の青海苔浦を出発するときに、水で米の粉をかためた粢(しとぎ)団子をつくって、神にお供えしたところ、ひとつがいの烏が舞い降りてきました。そして鞍職の舟を導いて脇ノ浦まできたとき、飛び去っていきました。鞍職はここに市杵島姫命を祀つる社を造りました。
 この神烏(ごがらす)は、そのまま弥山にすみついて毎年3月ごろひとつがいの雛烏を育て、親鳥は姿を消してしまうと云い伝えられています。初代の烏は青海苔浦のちかくの養父ガ崎に祀られていますが、いまも子孫のひとつがいが付近の山中にすみ、ほかの鳥はこの近くによらないといわれています。神烏の伝説はよほど古くからあったとみえ『芸備通史』という風土記のなかに「弥山に神烏一雙(つがい)ありて島巡りの祭儀に養父ガ崎にて波上に粢盛(しとぎもり)をあぐる。これをお鳥喰(とぐい)とて第一の瑞(しるし)とす。(中略)神烏は古くより唯雄雌一雙にて年々三月末より雌雄巣をつくり子を育す」とあります。
 現在でも島巡りの祓いと云って、島中の7つの浦に祀ってある神社を巡拝する儀式が行われていますが、このとき、養父ガ崎神社の前の海上で「鳥喰(とぐい)」という行事があり、かならず、ひとつがいの烏が弥山の山中から海上に舞い降りてくるといわれています。烏の習性がそうさせるのか、生きている神話の謎であります。
厳島を神の島と考える風習は現代の生活にも残っていて、島内には今でも墓地を作らないことなどがあります。

(註) 『延喜式』神名帳に伊都伎嶋(いつきしま)神社と載り、弘仁2年(811)に名神大社に列しました。神名帳には一座であり、社名から推して元はイツキシマヒメ一柱ではなかったかと考えられます。

(左)朝焼けの宮島 (右)講社御鳥喰式
 
〔平清盛と厳島神社〕
 
 厳島神社が初めて歴史の舞台に登場するのは、平安時代の弘仁2年(1168)で、『日本後記』に「伊都岐島神」の名が初見であります。その頃の社殿の様子は不明ですが、仁安3年(1168)に大造営工事があり、それ以前の板葺の社殿を桧皮葺に改め、規模も大きくして、神社は面目を一新しました。
 この造営は神主の佐伯景弘が自力で行ったとされていますが、これを陰で支えたのが、時の太政大臣平清盛であるといわれ、現在の社殿の基本的な骨格がこの時すでに整えられていました。
 数々の神秘な伝説に彩られた厳島神社が山陽道の大社として、多くの人々から尊崇されるようになったのは、平安朝の末ごろ、朝廷の権力を握っていた藤原氏にかわって、その権力をにぎり、政治の中心人物になった平清盛が、平家の氏神として、一門の財力をかたむけて、社殿をつくり一族の氏神として信仰したことにはじまります。それまでは地方の人々の航海安全と、商売繁盛の守り神にすぎなかった社でありました。
 平清盛は保元の乱後、応保2年(1162)29歳のとき、安芸国の守護職に任じられましたが、ある夜、夢の中に一人の老僧があらわれ、「安芸国の厳島は荒れているから、修理して信仰すれば、必ずや子孫は栄えるであろう」と告げたので、驚いた清盛は、さっそく鳥羽法皇のお許しを得て、厳島神社の再建にのりだしました。
 工事は十余年の歳月を費やし、社殿が完成したのは長寛から仁安年間(1163〜68)であったといわれ、清盛が50歳前後で平家の全盛時代でありました。
 清盛は完成を祝って、京都から舞楽を導入し、貴族の遊びであった管弦祭をうつし、千人の僧侶を集めて、豪華な「千僧供養」を催しました。そして高倉上皇の「厳島御幸」があり、安芸の小島に絢爛たる平安文化の華が開きました。今日、厳島神社の代表的行事の管弦祭や舞楽は、実に800年前、清盛がここに移してから連綿として伝えられています。
(左)厳島神社本殿正面 (右)厳島神社本殿側面
 
〔厳島弁財天〕
 
 厳島神社の主祭神とされている市杵島姫命は、本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想による神仏習合のなかで、七福神のひとつで仏教の天部の神である弁財天が本地仏(ほんちぶつ)とされ、滋賀県竹生島・神奈川県江ノ島の弁財天とともに「日本三弁財天」として信仰されるようになりました。
 その後、明治維新期における神仏分離策にともない、全国の弁財天社の多くが厳島神社と名を改めると、当社がその総本社とみなされるようになりました。

【神・神社とその祭神】《そのXVII》 宗像大社・厳島神社 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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