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●第30号メニュー(2008/6/15発行) |
【神・神社とその祭神】《その]》 八坂神社 |
【はじめに】 【祗園社(八坂神社)】 【疫神社と蘇民将来】 |
【今宮神社と紫野御霊会】 【御霊会と祇園祭】 |
【津島神社】 |
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「都名所図会」秋里離島 安永9年(1780)刊 (拡大) |
また、祇園の牛頭天王は、水の神としての性格を持っていました。祇園社(現八坂神社)の本殿の床下には、竜穴という深い井戸のような池があります。いまもその井戸に蓋を被せてあります。また妃神の別名は少将井といい、中世にはこの名の井戸がお旅所にあり、神輿を井戸枠の上に安置したと伝えられています。神紋が水に縁のある瓜であることとも考え合わせて、水神=竜蛇神の性格を持つ複合的な神格であったことが窺われます。鴨川のほとりに鎮座しているのも、このような水神的性格に由来します。 日本の信仰の歴史は、仏教伝来から、神仏習合の形態が発展して、そこに御霊信仰が結び付いて、特徴ある性格を持ってきました。当社も、明治の神仏分離、廃仏毀釈により、祇園社感神院から八坂神社と名称を変えました。 当社の前身である祇園社感神院の創建については、どこに真をおいてよいのかまったく不明瞭であり、定説らしきものは有りません。 わが国では、もともと異常な死に方をした死者が禍をなすという考え方がありました。9世紀の頃、政争が盛んになり、しかも同時に都市が発達すると、疫病その他の不幸を、政治的敗北者の悪霊のたたりとみなすようになりました。 人の思考の枠を越えて信仰された呪術神がはやりだしたとき、それを具体的なイメージにするため、身近にある政治的悲劇のヒーローたちに結びつきました。もちろんこの結合の根底には、時の権力者(政治的悲劇のヒーローたちの敵(かたき))に対する民衆の反感もありました。全国的にわたり、怨霊を鎮めるため、仏をおがんだり、歌舞・相撲・騎射などに歓を尽くす御霊会が盛んになりました。 |
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(左)素盞鳴尊 (右)櫛名田比売命 |
政治的敗北者の霊を祀る代表的な神社が北野神社ですが、具体的な政治的敗北者の結び付きが弱く、むしろ普遍的な呪術神をまつる寺社の代表が祇園社感神院(現八坂神社)でありました。そして今も盛んなこの社の祇園祭(御霊会)が、残っていることは最大のしるしであります。 感神院の本尊は薬師如来で、かつては比叡山の支配下にありました。仏教が渡来してしばらくすると、日本人の信仰が混沌としてきます。仏教が神道化し、神道も仏教化して(御霊信仰も加わり)神仏習合という現象が生まれました。これは本地垂迹という考え方で、絶対的理想(本地)である仏陀(如来)が日本人を救おうとして跡を垂れた(垂迹・顕現した)のが神である(例えば天照大神の本地は大日如来)という説であります。 そして、これが神前読経、神前写経などの風習がはじまりで、神宮寺とか神護寺といって、神社が寺に、寺が神社に付属していました。 神仏習合というと、神のほうが格が上みたいに聞えますが、これは口調の都合で、実は仏が主体で神の位置は低く、神主よりも僧侶のほうがずっと権威がありました。(例外としては伊勢神宮や出雲大社がありますが) 感神院の本地垂迹では、薬師如来が日本に跡を垂れ(垂迹して)素盞鳴尊になったといわれます。これにもう一つ、新羅経由で天竺から伝わった悪疫退散の神、牛頭天王なるものが加わりました。 |
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航空写真 八坂神社 |
吉田神道では、日本の神々が本源であって、諸仏は衆生救済のために神々が現世に姿を顕したものという、仏教側の本地垂迹説とは反対の主張をします。この考え方から、吉田神道では中世社会で大流行していた牛頭天王を神道に取り込んで、その本体を素盞鳴尊だとして解釈したのです。 それまでの神仏習合説に反対したのは、第一は室町末期に始まる吉田神道でありました。第二は国学者で、殊に平田篤胤とその門下でありました。第三は儒者であります。水戸学といわれる一派は猛烈を極め、その主張を藩政に反映させるため、水戸藩では多くの寺を廃し、金銅仏や銅鐘をつぶして大砲を鋳造しています。幕末にはこの水戸学と平田学が、当時の若者にもてはやされました。 維新後、この平田篤胤の弟子たちが新政府の宗教政策を受け持ったため、慶応4年(1808)3月以降、神仏分離と廃仏毀釈とが全国的にすすめられました。祇園社感神院は延暦寺の支配からはなれ、5月には、牛頭天王像が破棄されます。社名は「八坂神社」と改名して、その大鳥居からは、小野道風筆といわれた「感神院」の額がはずされました。 貞観5年(863)の神泉苑御霊会以来、庶民の間での疫病退散の行事は一段と盛大になりました。その後、貞観11年(869)には、日本66ヶ国にちなみ、鉾を立て牛頭天王を祀り、疫神を神泉苑に送ったのが祇園御霊会の始まりであります。疫神―牛頭天王―祇園社が結び付き、貞観18年に、延長4年(926)に、承平4年(934)に、社地・社殿が拡大整備され、順次社会的な位置づけを持って造営されて行きました。牛頭天王をわが国で素盞鳴尊として考えるのも、日本人の祖霊であり、それも、最も恐ろしい御霊神(荒ブル神)であったからです。中古以来、祇園社感神院に祀るものは、薬師如来であり、牛頭天王であり、素盞鳴尊でありました。 かつて、感神院なる寺の境内には祇園社があって、社殿の西隣には薬師堂があったと伝えられています。秋里離島もその「都名所図会」のなかに祇園社頭の鳥瞰図を挿入していて、社殿の西隣に薬師堂を描き、本尊は最澄作の薬師如来だと記しています。「都名所図会」が出版された安永9年(1780)には、まだこのような堂宇が存在していました。 また、文政10年(1827)に刊行された「洛陽十二社霊験記」には、薬師堂には本尊薬師如来のほか日光・月光菩薩の脇侍と十二神将があったと記し、御堂のなかは堅く閉ざされた厨子がひとつがあり、そこには最澄がもろもろの疾病を払うために造立した秘仏の夜叉明王が納められていましたが、観神院の仏僧たちは祟りを怖れて開けたがらない、ということを記しています。 |
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年中行事絵巻 第九巻 京都芸術大学蔵 (拡大) |
われわれの先祖は明治維新の頃まで、こうゆう漠然とした「カミ」を特におかしいとも思わず、ただ「カミ」のみを尊崇して世の平安を祈っていました。 幕末まで天台別院感神院として広大な寺領を与えられていましたが、薬師堂が秘仏もろとも失せたのは明治初年の廃仏毀釈でありました。神仏配祀であったので、すっきりした社名のなかった社に、そのときに八坂神社の名がつけられました。 日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社ありましたが、明治の廃仏毀釈令によって、八坂神社・弥栄神社・八枝神社・八雲神社・素戔雄神社・進雄神社・須賀神社・素鵞神社・須我神社・清神社・酒賀神社などと改名しています。 |
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(左)疫神社の茅の輪 (中)八坂神社神紋 (右)祇園祭長刀鉾稚児社参 |
疫病の精霊は、花の咲く頃には花粉に乗り移って四方八方に伝播するものと考えられていた当時としては、この鎮花会のやすらい≠フ行事は確かに人々を納得させるものがありました。 正暦5年(994)6月27日に船岡山から山崎まで病精を追い淀川に流したというのも、花を飾った傘に病精を封じこんで、神輿に鎮まる神の威力で淀川まで追い立てて行き、病精の乗り移っている花の枝を大川に流したことを意味するものであります。 この傘の上の影向の松をもっと威力のある鉾先に改め、これを神霊降臨の標識とし、その鉾先の周りを花で飾り、傘の下の帽額(もこう)をよそおったものが、傘鉾または綾傘鉾で、これも古くから行われており、御霊・今宮祭の先頭に進むみごとな剣鉾や祇園祭の鉾の原型ともいうべきものであります。これらの神社の神輿が特に大きく豪華であることも、病精を威圧する神力を、神輿をまのあたりにするだけで畏れさす効果を狙ったものであります。 |
14世紀初めころの祗園社御霊会は、3基の神輿(牛頭天王・婆利采女・八王子)、13本の馬上鉾、5匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祗園社からお旅所へ渡り、14日に祗園社に戻るという日程で行われていました。この3基の神輿は四条大橋の上で川水による神輿洗い≠フのち、市内を巡行してお旅所(場所は時代により変遷がある)に一晩安置され、再び本社に戻ります。神輿の巡行は、上杉本の洛中洛外図にも描かれています。 この当時の馬上鉾とは、武器の鉾を模したもので、大きさも普通でしたが、この鉾に疫病神がより憑くと信じられていて、洛中の疫病神を吸い取る目的で用いられていました。 また、この時期の終わりごろには、鉾も巨大化して5〜6mの長さになり、複数の人が担いでいたと伝えられています。そして、この祭礼の費用は、朝廷の命により富裕な町民が負担しており、この頃から町衆によって支えられてきた祭りとなってきました。 14世紀半ばになると、山鉾が登場してきます。その数はだんだんと増加し、応仁の乱(1467〜78)の前には58基にもなったといわれます(現在は32基)。かつては現在のように町内単位の山鉾だけでなく、商業組合の出す山鉾などもありました。山鉾の上で繰り広げられる出し物も、毎年いろいろと工夫されました。応仁の乱後はしばらく中断していましたが、明応9年(1500)に山鉾38基が復活しました。そのとき、巡行の順序をめぐって争いが起こり、籤による方法がとられました。これが「くじ取り式」の起源です。 江戸時代になると、大政所のお旅所が現在の四条京極に移転したのと、祭礼の費用が広く町民に課せられるようになりましたが、行事としての変化はなく、神事・行事などは固定化されました。また、山鉾の大型化、装飾の華麗さが進み、数も33基に決められ、現在の祇園祭の原型となる「祗園会」の神事がはっきりとしてきました。比較的順調に推移していた祇園祭は、元治元年(1864)の禁門の変での大火「どんどん焼け」で多くの山鉾が焼失してしまいます。 この大火から復興されないまま、明治元年の神仏分離令でさらに大きな試練に見舞われました。 祗園社は仏教色の強い宮寺でありましたが、「八坂神社」と名を改め神道の社と変わりました。祇園会は「祇園祭」として残り、明治10年に巡行日程が新暦(太陽暦)の7月17日と24日に決まりました。しかし、これまで朝廷の命により祭礼の費用が集められていたものが、まったくの氏子だけの負担となり、その資金調達に苦しんでいました。 第二次世界大戦後は、昭和22年に長刀鉾1基だけで巡行するという形で復興を遂げました。同29年には先祭(17日)20基、後祭(24日)9基が巡行し、同31年、巡行コースの一部が松原通から御池通に変更されています。同33年、祇園祭が無形文化財に指定され、同36年、寺町通から河原町通へと巡行コースが変更されました。同38年には人手不足のため、人が担ぐタイプの山に車輪が付けられるようになり、同41年からは、後祭(24日)に巡行する山鉾も17日に一緒に巡行するようになりました。 |
【奇稲田姫命】 |
素盞鳴尊は高天原から追放され、出雲へと降り立ちます。そして八岐大蛇に呑まれる危機に瀕していた奇稲田姫とその両親に出会います。 奇稲田姫はその名からも稲田の女神であり、姫を襲う大蛇は水害をあらわしていると考えられます。姫は8人の姉妹がありましたが、姉たちは年毎に大蛇にのまれたというのは、まさに毎年起こる水害を意味していると考えられています。また、稲の豊穣を祈る巫女と水神の関係がもとにあるとおもわれています。 『古事記』では櫛名田比売と記されていますが、これは大蛇を退治する際に素盞鳴尊が姫を櫛に変え、自らの髪に挿したことを背景にしています。 櫛は古代より霊的な力を宿すとみなされており、伊邪那岐尊は黄泉国で鬼女に追われたとき、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を投げてこれを防ごうとしています。湯津は神聖であることをいみしています。 『日本書紀』では奇稲田(くしいなだ)とあります。櫛とは整然とならべられた様子、稲田は稲をあらわすところから、文字通り稲霊(いなだま)の神とされ、八俣遠呂智(やまたのおろち)に献じられる人柱(生け贄(いけにえ))の巫女とも考えられます。高天原を追われた素盞鳴尊の正妻であり、素盞鳴尊と合祀されることがほとんどです。 祗園山笠の拠点、福岡市の櫛田神社のように、この女神が主祭神とされ祀られています。 |
津島神社は、織田・豊臣・徳川の3家が崇敬した疫病退散の神、牛頭天王を祀る「津島の天王さん」と呼ばれています。 愛知県の西端、木曽川下流の東岸に位置するのが津島神社であります。祭神は建速(たけはや)須佐之男命(素盞鳴尊)で、相殿に大穴牟遅(おおなむち)命(大国主命)を祀っています。 社伝によると、建速須佐之男命は欽明天皇元年(540)に西海の対馬から来臨し、この地に鎮座したという。また弘仁元年(810)、勅により日本総社の号と正一位の神階を、正暦年中(990〜995)に天王社の号を賜ると伝えています。 中世以降、疫病退散の神、牛頭天王を祀り、「津島牛頭天王社」と呼ばれました。天王信仰の流行とともに大いに発展し、「津島の天王さん」と親しまれました。 |
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(左)津島神社の蘇民祭 (右)牛頭天王像 津島市・興禅寺蔵 |
室町時代、津島御師と呼ばれる社家を中心とする人々が、全国の村々を布教に歩きました。この活動が、近世の当神社の繁栄につながりました。 近世、京都の八坂神社(祗園社)とともに2大天王社となり、「西の祗園社、東の津島社」として全国に知られました。 鎮座以来、とくに武門の尊信が篤く、織田信長は氏神と仰いで造営に協力し、豊臣秀吉は楼門、秀頼は南門、徳川家康の4男松平忠吉の妻は本殿をそれぞれ寄進しています。 明治の神仏分離令により、明治2年に津島神社と改称しました。 |
【神・神社とその祭神】《その]》完 つづく |