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【神・神社とその祭神】《その]》 八坂神社
【はじめに】 【祗園社(八坂神社)】 【疫神社と蘇民将来】
【今宮神社と紫野御霊会】 【御霊会と祇園祭】
【津島神社】

【はじめに】
 
 慶応4年(1868=この年9月より明治元年)、鳥羽伏見の戦いの直後から、明治の新政府は相次いで神仏分離令といわれる一連の法令を発布しました。それには、僧侶の神前からの追放や仏具・梵鐘の類の神社からの破棄が強い調子で命ぜられました。新政府に加わった復古神道の国学者らの主張によるものでした。
 それらの布告の中の一つとして、慶応4年3月28日付けで発布された「神祇事務局達」の中で、下記のような通達を出しています。

一、 中古以来、某権現或いは牛頭天王之類、其の外佛語を以って神号に相称へ候神社少なからず候、いずれも其の神社之由緒委細に書付け、早や早や申し出づ可く候。
一、 佛像を以って神体と致し候神社は、以来相改む可く候事。

 ここには「牛頭天王之類」と明確に名指して、神仏分離令の対象とされたのです。特に牛頭天王が神仏分離令の標的とされているのは、神社でも佛寺でもない異様な存在の代表であった祇園社(現八坂神社)で全国的に天王信仰が民間で盛んであったためと思われます。全国各地の牛頭天王信仰の社は、この時、徹底的に改変させられ、一般の神社(弥栄・八坂・天王)となっています。
 これらの神社の祭神が、牛頭天王から古代神話の素盞鳴尊に転化する背景には、このような国家神道成立期の宗教政策の改革がありました。
「都名所図会」秋里離島 安永9年(1780)刊 (拡大)
 
【祇園社(八坂神社)】
 
 八坂神社という名称は、明治維新の神仏分離の際に、地名によって改名されたものです。それまでは祇園社感神院と称しました。この名称は、古代インドで須達長者が釈迦に寄進したという寺、祇園精舎に因んだものといわれます。
 葵祭の賀茂神社が王城の守り神≠ニいう性格が濃いのに対し、祇園社は京都に住む庶民たちの信仰の象徴として親しまれています。祇園社の祭神は、牛頭天王といって、もともとは疫病鎮めの神でありました。
その神は、3面の頭上に牛頭をいただく異形の姿をとり、それまでの神像や仏像の枠では納まらない、新しい神格が誕生していました。
 祇園社感神院の本尊である牛頭天王という神には、平安時代以来、もとはインドの神であったという伝承があります。「祇園」という名称も、この神の故郷に由来するものです。この祇園精舎の守護神が牛頭天王であります。
 縁起によると、その神が新羅を経て日本に渡り、播磨の明石浦に垂迹し、そこから同国の広峰に移って鎮座(姫路市の広峰神社の前身)しました。そこからさらに京都北白川東光寺と転々とした後、清和天皇の貞観18年(876)に常住寺の円如大法師が八坂の地に祀りました。
 牛頭天王の妃は婆梨采女(ばりさいじょ)で八柱御子(八王子)といわれる御子神たちも、同殿に祀られて、祇園社の主神を構成していました。
 牛頭天王は八王子をしたがえた神でありますが、素盞鳴尊もまた8人の王子をもうけており、荒ブル神という共通性のあるところから、素盞鳴尊と牛頭天王が習合・垂迹されました。こうして神輿を置く神殿を造り、素盞鳴尊の八王子、妃の櫛稲田姫を合祀したのが現在の八坂神社であります。
(左) 祗園牛頭天王御縁起 (右)牛頭天王像 京都・松尾神社蔵
 
 また、祇園の牛頭天王は、水の神としての性格を持っていました。祇園社(現八坂神社)の本殿の床下には、竜穴という深い井戸のような池があります。いまもその井戸に蓋を被せてあります。また妃神の別名は少将井といい、中世にはこの名の井戸がお旅所にあり、神輿を井戸枠の上に安置したと伝えられています。神紋が水に縁のある瓜であることとも考え合わせて、水神=竜蛇神の性格を持つ複合的な神格であったことが窺われます。鴨川のほとりに鎮座しているのも、このような水神的性格に由来します。
 日本の信仰の歴史は、仏教伝来から、神仏習合の形態が発展して、そこに御霊信仰が結び付いて、特徴ある性格を持ってきました。当社も、明治の神仏分離、廃仏毀釈により、祇園社感神院から八坂神社と名称を変えました。
当社の前身である祇園社感神院の創建については、どこに真をおいてよいのかまったく不明瞭であり、定説らしきものは有りません。
わが国では、もともと異常な死に方をした死者が禍をなすという考え方がありました。9世紀の頃、政争が盛んになり、しかも同時に都市が発達すると、疫病その他の不幸を、政治的敗北者の悪霊のたたりとみなすようになりました。
人の思考の枠を越えて信仰された呪術神がはやりだしたとき、それを具体的なイメージにするため、身近にある政治的悲劇のヒーローたちに結びつきました。もちろんこの結合の根底には、時の権力者(政治的悲劇のヒーローたちの敵(かたき))に対する民衆の反感もありました。全国的にわたり、怨霊を鎮めるため、仏をおがんだり、歌舞・相撲・騎射などに歓を尽くす御霊会が盛んになりました。
(左)素盞鳴尊 (右)櫛名田比売命
 
 政治的敗北者の霊を祀る代表的な神社が北野神社ですが、具体的な政治的敗北者の結び付きが弱く、むしろ普遍的な呪術神をまつる寺社の代表が祇園社感神院(現八坂神社)でありました。そして今も盛んなこの社の祇園祭(御霊会)が、残っていることは最大のしるしであります。
 感神院の本尊は薬師如来で、かつては比叡山の支配下にありました。仏教が渡来してしばらくすると、日本人の信仰が混沌としてきます。仏教が神道化し、神道も仏教化して(御霊信仰も加わり)神仏習合という現象が生まれました。これは本地垂迹という考え方で、絶対的理想(本地)である仏陀(如来)が日本人を救おうとして跡を垂れた(垂迹・顕現した)のが神である(例えば天照大神の本地は大日如来)という説であります。
そして、これが神前読経、神前写経などの風習がはじまりで、神宮寺とか神護寺といって、神社が寺に、寺が神社に付属していました。
 神仏習合というと、神のほうが格が上みたいに聞えますが、これは口調の都合で、実は仏が主体で神の位置は低く、神主よりも僧侶のほうがずっと権威がありました。(例外としては伊勢神宮や出雲大社がありますが)
感神院の本地垂迹では、薬師如来が日本に跡を垂れ(垂迹して)素盞鳴尊になったといわれます。これにもう一つ、新羅経由で天竺から伝わった悪疫退散の神、牛頭天王なるものが加わりました。
航空写真 八坂神社
 
 吉田神道では、日本の神々が本源であって、諸仏は衆生救済のために神々が現世に姿を顕したものという、仏教側の本地垂迹説とは反対の主張をします。この考え方から、吉田神道では中世社会で大流行していた牛頭天王を神道に取り込んで、その本体を素盞鳴尊だとして解釈したのです。
 それまでの神仏習合説に反対したのは、第一は室町末期に始まる吉田神道でありました。第二は国学者で、殊に平田篤胤とその門下でありました。第三は儒者であります。水戸学といわれる一派は猛烈を極め、その主張を藩政に反映させるため、水戸藩では多くの寺を廃し、金銅仏や銅鐘をつぶして大砲を鋳造しています。幕末にはこの水戸学と平田学が、当時の若者にもてはやされました。
維新後、この平田篤胤の弟子たちが新政府の宗教政策を受け持ったため、慶応4年(1808)3月以降、神仏分離と廃仏毀釈とが全国的にすすめられました。祇園社感神院は延暦寺の支配からはなれ、5月には、牛頭天王像が破棄されます。社名は「八坂神社」と改名して、その大鳥居からは、小野道風筆といわれた「感神院」の額がはずされました。
 貞観5年(863)の神泉苑御霊会以来、庶民の間での疫病退散の行事は一段と盛大になりました。その後、貞観11年(869)には、日本66ヶ国にちなみ、鉾を立て牛頭天王を祀り、疫神を神泉苑に送ったのが祇園御霊会の始まりであります。疫神―牛頭天王―祇園社が結び付き、貞観18年に、延長4年(926)に、承平4年(934)に、社地・社殿が拡大整備され、順次社会的な位置づけを持って造営されて行きました。牛頭天王をわが国で素盞鳴尊として考えるのも、日本人の祖霊であり、それも、最も恐ろしい御霊神(荒ブル神)であったからです。中古以来、祇園社感神院に祀るものは、薬師如来であり、牛頭天王であり、素盞鳴尊でありました。
 かつて、感神院なる寺の境内には祇園社があって、社殿の西隣には薬師堂があったと伝えられています。秋里離島もその「都名所図会」のなかに祇園社頭の鳥瞰図を挿入していて、社殿の西隣に薬師堂を描き、本尊は最澄作の薬師如来だと記しています。「都名所図会」が出版された安永9年(1780)には、まだこのような堂宇が存在していました。
 また、文政10年(1827)に刊行された「洛陽十二社霊験記」には、薬師堂には本尊薬師如来のほか日光・月光菩薩の脇侍と十二神将があったと記し、御堂のなかは堅く閉ざされた厨子がひとつがあり、そこには最澄がもろもろの疾病を払うために造立した秘仏の夜叉明王が納められていましたが、観神院の仏僧たちは祟りを怖れて開けたがらない、ということを記しています。
年中行事絵巻 第九巻 京都芸術大学蔵 (拡大)
 
 われわれの先祖は明治維新の頃まで、こうゆう漠然とした「カミ」を特におかしいとも思わず、ただ「カミ」のみを尊崇して世の平安を祈っていました。
幕末まで天台別院感神院として広大な寺領を与えられていましたが、薬師堂が秘仏もろとも失せたのは明治初年の廃仏毀釈でありました。神仏配祀であったので、すっきりした社名のなかった社に、そのときに八坂神社の名がつけられました。
  日本全国には、牛頭天王を勧請した祇園社が3053社ありましたが、明治の廃仏毀釈令によって、八坂神社・弥栄神社・八枝神社・八雲神社・素戔雄神社・進雄神社・須賀神社・素鵞神社・須我神社・清神社・酒賀神社などと改名しています。

《註》八坂神社のご祭神の素盞鳴尊は、気性の激しい直情径行の性格で、随分乱暴な所行がありましたが、艱難辛苦の末、遂に清浄な心境に到達された神様であるので、罪穢を祓い清める神として、また、清々しさそのものを表す神として信仰されています。
また、櫛稲田姫命とのご結婚のとき詠まれた「八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣
造るその八重垣を」は、日本最初の和歌といわれ、文学の神、縁結びの神としての信仰があります。かつて本殿正面の軒下に三十六歌仙の額が懸けられていました。
また、御子五十猛神と新羅国牛頭山に降り、植林に努められ、山林生育の神として、さらに自らの赤心をかけ、天照大神とご誓約された故事から、誓文払いの神として商家の信仰も厚いものがあります。このように、ご祭神のご神徳は多岐に亘り、あらゆる階層の深い信仰を集め、多くの人の参詣があります。

《註》八坂の塔で知られる法観寺は、八坂神社のすぐ南方にあり、崇峻天皇2年(589)、聖徳太子の建立であります。この頃から東山山麓一帯は霊地として信仰の対象でありました。今も修学院の鷺森神社から南へ、八大神社・柊神社・吉田神社の若宮・須賀神社・岡崎神社・栗田神社・法観寺・清水寺の地主神社、さらに藤森神社と数多くの同祭神の神社が続いています。
また、牛頭天王(素盞鳴尊)化現の跡と伝える瓜生石が、近くの知恩院の黒門前に現存しています。

(左)疫神社の茅の輪 (中)八坂神社神紋 (右)祇園祭長刀鉾稚児社参
 
【疫神社と蘇民将来】
 
 四条通の東の突当り、西の楼門を潜った真正面にある末社は、石の鳥居の中央の束には、社名の額がかからないで、直接疫神社と彫ってあります。祭神は蘇民将来であります。   
以前は楼門の西、東山通にありましたが、現在地に移され、その際、蘇民将来社から「疫神社」と改められました。八坂神社の祭神の素盞鳴尊を、古くは牛頭天王とか武塔天神とも称していました。
『備後国風土記』によると、昔、北の海にいた武塔という名の天神が、南海の神の娘に
求婚にでかけました。その途中で日暮れになったので、将来という名の兄弟に宿を乞いま
した。兄の巨旦将来は裕福でありましたが、弟の蘇民将来は貧しく、宿を貸してもてなしたのが弟のほうで、兄は拒絶しました。
しばらくの後、武塔天神は8人の子を引き連れて再び蘇民将来の家を訪れ、「以前のもてなしのお礼をしようと思うが、お前には子孫はあるか」とたずねました。蘇民将来が「娘と妻がおります」と答えると、武塔天神は「茅の輪を腰の上につけさせよ」といいました。そこで蘇民将来が教えのとおりにすると、その夜のうちに疫病が襲い、蘇民将来の一家をのぞいて、すべての人々が死んでしまいました。このとき、武塔天神は、蘇民将来に「私は速須佐雄(はやすさのお)神である」と正体を明かし、もし疫病が襲ってきたら、いつであれ「蘇民将来之子孫也」と唱えて腰に茅の輪をつければ、疫病から免れるであろうと教えました。
それからは、速須佐雄神(素盞鳴尊)を祀って疫病にかからないように祈願をするようになりました。以後は、全国にわたり素盞鳴尊を祀るようになりました。夏越祓に茅の輪をかけるのもこの故事から起りました。ところが、蘇民将来がいつの間にやら疫神になってしまいました。
蘇民将来にちなむ神事は各地で行われています。その代表が、いまでも神社などで祓い行事として行われている「茅の輪くぐり」であります。茅の輪くぐりとは、しめ縄を張った2本の笹竹の間に、人がくぐり抜けられるだけの大きさの茅の輪を結び、そこをくぐり抜ける神事のことで、これにより災いや穢れが祓われると観念されました。
この神事は、季節が春から夏に移る旧暦の6月に行われます。一般でいう「夏越」の祭りの一つで、7月の祖霊祭り(盆行事)の前に身を清めるという意味のほかに、疫病が最も流行しやすい夏を迎えるに当って、あらかじめ避疫の呪いをしておく意味合いがありました。
 祇園社の祇園祭は、もともとは怨霊である御霊を鎮めるために行われたのが始めですが、平安末期には、疫神を鎮め退散させるために山鉾や花傘をだして都大路を練り歩く雅な「夜須礼やすらい」の祭りに変わりました。
 山車につけられた長大な鉾は、空中を浮遊する疫鬼を切り鎮め、追い込む呪具であり、
神聖な松を立てた花傘は、空中から追いたてられた疫鬼を集め、松の呪力で封じ込めるための呪具でありました。また、祭礼の踊りは地の霊を踏み鎮める呪法であり、祭りのすべては疫鬼・悪霊退散という目的のもとにつくられています。こうして集められた疫鬼・悪霊は、祇園社(八坂神社)に追い込まれました。そこには蘇民将来がおり、疫鬼退散の総元締めである、素盞鳴尊(平安時代には疫神・牛頭天王に習合されていましたが)が鎮まっており、その霊威によって、疫鬼・悪霊の鎮圧が祈念されたのであります。
(左)神輿供奉行列 (右)粟田神社の阿古陀鉾(瓜鉾)
 
【今宮神社と紫野御霊会】
 
 正暦5年(994)の初めに悪疫が流行して、4月には洛中洛外の路頭に多くの行き倒れが見られました。5月には、左京の三条大路と油小路との交差する辻から西入るところに湧いている井泉を飲むと疫病を免れるという言を信じて、噂で聞かされた5月16日にはこの井戸水を汲むものが終日あとを絶たなかったといわれています。
 6月になると疫神が洛中を横行するという流言があり、家々は門を閉ざして日中でも通行人がなかったと、『本朝世紀』に詳記されています。
 そこで6月27日に、紫野に古くから田の神として祀られている素盞鳴尊と妃奇(くし)稲田姫命を神輿二基に斎(いつ)きこめて、これを船岡山に安置し、疫神と崇めて仁王(にんのう)経を講じ歌舞を奏して悪疫の退散を祈りました。洛中洛外の老若男女は鎮疫を願う一心から、それぞれ供え物を捧げるために船岡山に登り、祭礼を一層にぎやかなものにしました。祭礼が終わると、人々は神輿の列に加わって山城と攝津の境の山崎まで行き、神威によって病精が淀川に流される祭儀を見守り、やがては流れのままに難波の海に消え行くであろう病魔の末路を想い歓喜しました。
 その後、長保3年(1001)5月9日にも紫野御霊会が行われました。この時は素盞鳴尊の疫(みやみ)神社の傍らに妃神の奇稲田姫命の霊を祀る社殿を設けて疫神を慰め、さらに大国主・事代主命のような病魔を退けて病人を治癒する霊験の強い神々をも併せ祀って、これを今宮神社と名付け、両社の前で盛大な御霊会が行われました。
 御霊会や祗園御霊会・紫野御霊会などに、市中の人々が参加した古い姿を伝えているのが、現在も4月第2日曜日に行われている夜須礼(やすらい)祭であります。御霊会は鎮疫祭でありますが、またこれを鎮花会(ちんげえ)(はなしずめのまつり)とも呼んでいます。この鎮花会は、鎮疫の意義を当時の人々に最も具体的に理解させると共に、神と民衆との協力によって悪疫の精霊を鎮圧しようとした古い神事でありました。綾張りの大傘の上に松の枝を飾り、その周囲に桜と椿の花を挿し立て、また山吹や柳を添えるなどして、傘の周りには赤い帽額(もこう)を垂れ下げ、その傘を主体に、赤毛の被った男2人が鉦を、黒毛の男2人が太鼓を強く叩き、白衣に袴を着け緋縮緬の表着(うわぎ)を羽織り襷がけの姿で大地を踏みしめ踊躍(ゆこう)して、笛の調べとやすらい花や≠フ歌に合わせて行進します。同じ姿の童子は赤毛の上に烏帽子をつけて鞨鼓(かっこ)を打ちながら同行します。鉾を振り立ててゆくもの、御幣をささげて行くもの、太刀を持ち扇をかざして歌をうたうもの、督殿(こうどの)と呼ばれる一座の差配役など、一団は10名ばかりの少数ですが、今宮神社(北区紫野今宮町)の広い産土地域内にある各町内のひとたちがそれぞれ一団を編成して、守護神(鎮守社)の神霊を傘の上の影向(ようごう)(神仏の憑依(よりしろ))の松に斎き鎮め、病精を笛・太鼓・鉦の囃子で浮かれさせ、空中に浮遊する病精を鉾先の威力で傘の上の花のところに追いこみ、松に宿る神の力で花に封じこんで、今宮神社と疫神社との社頭に送り届けた上で、鎮圧していただこうというのであります。
今宮神社のやすらい祭
 
 疫病の精霊は、花の咲く頃には花粉に乗り移って四方八方に伝播するものと考えられていた当時としては、この鎮花会のやすらい≠フ行事は確かに人々を納得させるものがありました。
 正暦5年(994)6月27日に船岡山から山崎まで病精を追い淀川に流したというのも、花を飾った傘に病精を封じこんで、神輿に鎮まる神の威力で淀川まで追い立てて行き、病精の乗り移っている花の枝を大川に流したことを意味するものであります。
 この傘の上の影向の松をもっと威力のある鉾先に改め、これを神霊降臨の標識とし、その鉾先の周りを花で飾り、傘の下の帽額(もこう)をよそおったものが、傘鉾または綾傘鉾で、これも古くから行われており、御霊・今宮祭の先頭に進むみごとな剣鉾や祇園祭の鉾の原型ともいうべきものであります。これらの神社の神輿が特に大きく豪華であることも、病精を威圧する神力を、神輿をまのあたりにするだけで畏れさす効果を狙ったものであります。
 
【御霊会と祇園祭】
 
 平安後期から中世にかけての京都は都市の発展にともないさまざまな社会問題が発生しました。特に人口の集中による疫病の恒常的な流行により、常に疫病の危険にさらされていました。毎年梅雨明けの時期に都を襲う疫神の退散を願って始められたものが祇園祭の起源であります。
 貞観5年(863)には、政争によって敗れて死んだ6名の怨霊を鎮め慰めるための大々的な御霊会を、大内裏の南側の神泉苑でときの朝廷が行いました。
 この頃になると庶民たちによって、死者の怨霊ではなく、疫神を鎮め慰めるための御霊会が、都の各地で行われるようになり、北野社や稲荷社などでも行われていましたが、なかでも疫病を退治する神、牛頭天王を祀る祗園社の御霊会が一番の賑わいを呈しました。
 平安京およびその近在に限ってみると、その開催地はいずれも平安京の京内と京外との境を接する場所か、近接する地でありました。八坂・出雲路・船岡・紫野・衣笠・花園・東寺・西寺・白河などといった所でありました。これは怨霊が道を伝って侵入し京内に災いをもたらすと信じられていたために、京内に通じる主要な道路で、侵入する以前に食い止めようとしたからで、祗園御霊会もそのうちの一つでありました。
 八坂神社に残る記録によると、最初の祗園会は、貞観11年(869)のこととして、この年、悪疫が流行したため、卜部比日良麿(うらべひひらまろ)が、日本66ヵ国になぞられた66本の鉾(槍のような武器)を建てて牛頭天王を祀り、神輿を神泉苑に送ったのがはじまりと記されています。鉾とは先の尖った木の枝のことであり、神の依り憑くものと考えられていて、悪い神をこれに依り憑かせて、神事後に燃やしたり壊したりして、疫神を退治しました。最初の祗園会の
鉾は槍のようなものでなく、先の尖った木の棒であったといわれています。
 鉾や山の前身は、それに災厄や疫病の神を依りつけて牛頭天王の霊威によって鎮めたのち、水に流すための形代(かたしろ)だったと考えられます。
祇園の神輿を担ぐ人々 「洛中洛外図屏風」舟木本
 
 14世紀初めころの祗園社御霊会は、3基の神輿(牛頭天王・婆利采女・八王子)、13本の馬上鉾、5匹の神馬、獅子舞、巫女の神楽、田楽の行列が、旧暦の6月7日に祗園社からお旅所へ渡り、14日に祗園社に戻るという日程で行われていました。この3基の神輿は四条大橋の上で川水による神輿洗い≠フのち、市内を巡行してお旅所(場所は時代により変遷がある)に一晩安置され、再び本社に戻ります。神輿の巡行は、上杉本の洛中洛外図にも描かれています。
 この当時の馬上鉾とは、武器の鉾を模したもので、大きさも普通でしたが、この鉾に疫病神がより憑くと信じられていて、洛中の疫病神を吸い取る目的で用いられていました。
 また、この時期の終わりごろには、鉾も巨大化して5〜6mの長さになり、複数の人が担いでいたと伝えられています。そして、この祭礼の費用は、朝廷の命により富裕な町民が負担しており、この頃から町衆によって支えられてきた祭りとなってきました。
 14世紀半ばになると、山鉾が登場してきます。その数はだんだんと増加し、応仁の乱(1467〜78)の前には58基にもなったといわれます(現在は32基)。かつては現在のように町内単位の山鉾だけでなく、商業組合の出す山鉾などもありました。山鉾の上で繰り広げられる出し物も、毎年いろいろと工夫されました。応仁の乱後はしばらく中断していましたが、明応9年(1500)に山鉾38基が復活しました。そのとき、巡行の順序をめぐって争いが起こり、籤による方法がとられました。これが「くじ取り式」の起源です。
 江戸時代になると、大政所のお旅所が現在の四条京極に移転したのと、祭礼の費用が広く町民に課せられるようになりましたが、行事としての変化はなく、神事・行事などは固定化されました。また、山鉾の大型化、装飾の華麗さが進み、数も33基に決められ、現在の祇園祭の原型となる「祗園会」の神事がはっきりとしてきました。比較的順調に推移していた祇園祭は、元治元年(1864)の禁門の変での大火「どんどん焼け」で多くの山鉾が焼失してしまいます。
 この大火から復興されないまま、明治元年の神仏分離令でさらに大きな試練に見舞われました。
 祗園社は仏教色の強い宮寺でありましたが、「八坂神社」と名を改め神道の社と変わりました。祇園会は「祇園祭」として残り、明治10年に巡行日程が新暦(太陽暦)の7月17日と24日に決まりました。しかし、これまで朝廷の命により祭礼の費用が集められていたものが、まったくの氏子だけの負担となり、その資金調達に苦しんでいました。
 第二次世界大戦後は、昭和22年に長刀鉾1基だけで巡行するという形で復興を遂げました。同29年には先祭(17日)20基、後祭(24日)9基が巡行し、同31年、巡行コースの一部が松原通から御池通に変更されています。同33年、祇園祭が無形文化財に指定され、同36年、寺町通から河原町通へと巡行コースが変更されました。同38年には人手不足のため、人が担ぐタイプの山に車輪が付けられるようになり、同41年からは、後祭(24日)に巡行する山鉾も17日に一緒に巡行するようになりました。
【奇稲田姫命】
 
 素盞鳴尊は高天原から追放され、出雲へと降り立ちます。そして八岐大蛇に呑まれる危機に瀕していた奇稲田姫とその両親に出会います。
 奇稲田姫はその名からも稲田の女神であり、姫を襲う大蛇は水害をあらわしていると考えられます。姫は8人の姉妹がありましたが、姉たちは年毎に大蛇にのまれたというのは、まさに毎年起こる水害を意味していると考えられています。また、稲の豊穣を祈る巫女と水神の関係がもとにあるとおもわれています。
『古事記』では櫛名田比売と記されていますが、これは大蛇を退治する際に素盞鳴尊が姫を櫛に変え、自らの髪に挿したことを背景にしています。
 櫛は古代より霊的な力を宿すとみなされており、伊邪那岐尊は黄泉国で鬼女に追われたとき、湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を投げてこれを防ごうとしています。湯津は神聖であることをいみしています。
 『日本書紀』では奇稲田(くしいなだ)とあります。櫛とは整然とならべられた様子、稲田は稲をあらわすところから、文字通り稲霊(いなだま)の神とされ、八俣遠呂智(やまたのおろち)に献じられる人柱(生け贄(いけにえ))の巫女とも考えられます。高天原を追われた素盞鳴尊の正妻であり、素盞鳴尊と合祀されることがほとんどです。
 祗園山笠の拠点、福岡市の櫛田神社のように、この女神が主祭神とされ祀られています。
 

【津島神社】
 

 津島神社は、織田・豊臣・徳川の3家が崇敬した疫病退散の神、牛頭天王を祀る「津島の天王さん」と呼ばれています。
 愛知県の西端、木曽川下流の東岸に位置するのが津島神社であります。祭神は建速(たけはや)須佐之男命(素盞鳴尊)で、相殿に大穴牟遅(おおなむち)命(大国主命)を祀っています。
 社伝によると、建速須佐之男命は欽明天皇元年(540)に西海の対馬から来臨し、この地に鎮座したという。また弘仁元年(810)、勅により日本総社の号と正一位の神階を、正暦年中(990〜995)に天王社の号を賜ると伝えています。
 中世以降、疫病退散の神、牛頭天王を祀り、「津島牛頭天王社」と呼ばれました。天王信仰の流行とともに大いに発展し、「津島の天王さん」と親しまれました。
(左)津島神社の蘇民祭 (右)牛頭天王像 津島市・興禅寺蔵
 
 室町時代、津島御師と呼ばれる社家を中心とする人々が、全国の村々を布教に歩きました。この活動が、近世の当神社の繁栄につながりました。
 近世、京都の八坂神社(祗園社)とともに2大天王社となり、「西の祗園社、東の津島社」として全国に知られました。
 鎮座以来、とくに武門の尊信が篤く、織田信長は氏神と仰いで造営に協力し、豊臣秀吉は楼門、秀頼は南門、徳川家康の4男松平忠吉の妻は本殿をそれぞれ寄進しています。
 明治の神仏分離令により、明治2年に津島神社と改称しました。

【神・神社とその祭神】《その]》完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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