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【神・神社とその祭神】《そのXXII》石上神宮 |
〔はじめに〕 〔物部氏の正体〕 |
〔物部氏と蘇我氏の対立〕 〔むすびに〕 |
「神武紀」にも、天神の子、櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命が天磐船(あまのいわふね)に乗って天降り、長髄彦(ながすねひこ)の妹、三炊屋(みかしきや)媛(ひめ)を娶って、可美真手(うましまで)命を生んでいます。天羽羽矢(あまのはは)と歩靭(かちゆき)を保持していました。 物部の氏族伝承を伝える『旧事紀』(天孫本紀)には、天祖が饒速日命に、「天璽瑞宝十種」を授けて天降らせたとあります。饒速日命は天祖の勅をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峰(たけるがみね)に下り、さらに大倭国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に移ったと記しています。 河内国の河上の哮峰は、天之川の河上の地であり、大阪府交野市、私市の磐船の竜王山や、獅子窟寺、ないしは生駒山に比定されています。 その地より、大和の鳥見の白庭山に遷るとありますが、ここは『和名抄』にいう大和国添下郡鳥見郷であると思われます。白庭山は、式内社、登弥(とみ)神社が祀られる奈良市の西郊、富雄に比定されています。哮峰が生駒山の北嶺とすれば、そこより大和に東遷した地域が鳥見でありました。 この鳥見は、いうまでもなく饒速日命の妻の兄、長髄彦が神武天皇に討たれたところで、天皇の弓弭(ゆみはず)に金鵄が飛来したことに由来する地名であります。 饒速日命は、長髄彦を殺し、兵を率いて天皇に帰順し、天皇家に仕えることになりました。その子孫が物部連、穂積臣、?(うねめ)臣であります。 このような物部氏の伝える氏族の伝承から推測すると、物部氏はかつて天皇家と同様な卓越した宗教的権威を持っていた一族で、初期の段階で天皇家と大和王権の首長の座を争って敗れ、服従した豪族であったとも考えられます。 物部の名は、モノノフ(武士)と、モノ(精霊)を司る司祭者に由来していると考えられます。物部氏の特有の宗教は、鎮魂(ちんこん)≠ナあります。鎮魂は、「タマフリ」または「タマシヅメ」と読まれますが、古代の戦士は戦いに臨み、神の加護を祈り、そして自らの魂をふるい立たせて、精力の増大を願っています。つまり、それが「タマフリ」であります。そしてまた、向かう敵の邪霊を鎮圧する「タマシズメ」の呪術を行ないます。その優れた宗教的能力を有するものがモノノフそのものであります。 物部氏が鎮魂の呪具として伝えたものは、饒速日命が天祖より天降る時、授けられた「天璽瑞宝十種」であります。 「瑞宝十種」とは、息津鏡(おきつかがみ)、部津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死反玉(しかえしのたま)、道反玉(みちかえしのたま)、蛇比布(へびのひれ)、蜂比布(はちのひれ)、品(くさぐさ)の物の比布(ひれ)の十種の神宝であります。 この十種の神宝を合わせて、「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」といってゆらりゆらりと振れば、死人も必ず生き返るといわれています。 |
(左)禁足地を囲む瑞垣 (右)石上神社拝殿の内陣 |
十種の神宝も、つまりは鏡と剣と玉と比布のセットであります。ここに、天皇家の神璽、いわゆる三種の神器の鏡と剣と玉が含まれていることは注目です。 蛇の比布、蜂の比布は、『古事記』には、葦原色許男(あしはらのしこお)(大国主命)が、須佐能男(すさのお)命のもとで試練をうけた時、須勢理毘売(すせりひめ)が密かに授け、これによって危機を脱出することが出来たという鎮魂(たましずめ)の呪具であります。 それ故、物部氏は、その始めに当たって祭事にかかわる豪族として「記紀」に登場します。「崇神紀」には、大物主神の災害を鎮めるために、大物主神の子孫、大田田根子(おおたたねこ)を祭主とすべきことを奏上したのは、穂積臣の遠祖、大水口宿禰(おおみくちのすくね)であります。 穂積は、大和国山辺郡大和郷内の地名で、大和神社が祀られる朝和村の穂積であります。それは石上神社の南に位置しています。『姓氏録』によれば、穂積臣は、伊香賀色雄(いかがしこお)の息子、大水口宿禰の後裔氏族とみられ、物部氏と同族であります。 ちなみに、伊香(賀)色雄は饒速日命の六世の孫にあたり、伊香(賀)色雄の名は、「厳めしい呪能を有する醜男(しこお)」に由来しています。醜男は、大国主命が葦原色許男と名乗ったように、醜い男という意味ではなく、超人的、かつ宗教的な力を有する者の意であります。 「垂仁紀」によれば、物部十千根(とちね)大連に勅して、出雲の神宝を検校させ、それを掌握させたとあります。十千根は、『旧事紀』(天孫本紀)によれば伊香(賀)色雄の子となっています。この十千根はまた、石上の神宝を治めることになります。 もともと、石上神宮の神宝は、垂仁天皇の皇子、五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命が管理するものでありました。五十瓊敷入彦命が、茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)の川上宮にいた時、剣千口を作って石上神宮に納めています。それがもととなって五十瓊敷入彦命がこの神宮の神宝を司ることとなりました。だが、後に妹の大中(だいなか)姫(ひめ)に委ねられました。その大中姫からさらに神宝の管理をまかされたのが、物部十千根でありました。以後、物部連が石上神宮を祭祀してきたことはまぎれない事実であります。 |
欽明天皇13年(552)に、百済の聖明王が、釈迦仏の金銅像1躯と幡蓋(はたきぬがさ)および経論を献じましたが、蘇我稲目大臣は、「西蕃の諸国、皆仏法を礼(うやま)う。どうして、我が日本だけ、それに背くことが出来ようや」と主張し、仏教の伝来を支持したのに対し、物部尾輿大連と中臣鎌子らは「今、改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまわば、国神(くにつかみ)の怒りをまねかん」といって反対しました。これが世にいう崇 仏・廃仏の政争であります。 確かに、日本の神々を奉斎して来た物部氏や中臣氏が、外国の神を祀ることに反対するのは当然であります。 当時の神の祀り方を見ると、多くの神々は、氏神として、一族内の神として祀られるか、地域的な神として、地縁的な共同体に祀られるかであります。換言すれば、限られた人々に祀られる神でありました。つまり排他性を持ち、祭祀に参加しうる条件は、氏人であるとか、地縁的共同体の成員に限定されていました。 おそらく、物部氏が仏教が入ってくることを阻止する最大の原因は、氏や地縁性を超えて信仰される仏教の普遍的な性格そのものを恐れたためであると考えられます。それは逆に統一国家や独裁的な権力を志向する蘇我氏には、仏教はうってつけの宗教であったと思われます。 両氏の争いが頂点に達したのが、用命天皇崩御のあとの皇位継承をめぐる争いであります。物部守屋大連は、穴穂部皇子の擁立をはかっていましたが、蘇我馬子に先手をうたれて皇子は殺されてしまいました。 蘇我馬子は、その血を引く炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)(敏達皇后、後の推古天皇)をいただき、諸皇子や群臣を糾合し、物部守屋を渋河の家に攻めました。この時、大伴連噛(くい)、阿部臣人(ひと)、平群臣神手(かむて)、坂本臣糠手(あらて)らが蘇我氏側に立って戦いました。守屋は大いに戦って蘇我氏側をなやましましたが、ついに迹見首赤檮(とみおびといちい)に射殺されて敗れました。 |
≪月刊京都史跡散策会42号≫【神・神社とその祭神】《XXII》石上神宮 完 つづく |