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●第42号メニュー(2009/6/21発行)
【神・神社とその祭神】《そのXXII》石上神宮
〔はじめに〕 〔物部氏の正体〕
〔物部氏と蘇我氏の対立〕 〔むすびに〕

【石上神宮】
 
〔はじめに〕
 
 大和朝廷発祥以来の古社である石上神宮は、天理市布留(ふる)町の東南端山麓に鎮座しています。『延喜式』神名帳には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社(名神大。月次・相嘗・新嘗)とあり、その祭神を、布都御魂劔(ふつのみたまのつるぎ)大神(布都御魂神・布留御魂神・布都斯御魂神)と称します。『古事記』や『日本書紀』神武天皇即位前記によると、神武天皇が東征しながら紀伊国熊野へ来ると、土地の神が毒気(あしきいき)を吐き、兵卒が皆、病にかかって気力を失い、侵攻することが出来なくなりました。この時、天照大御神の命によって武甕槌(たけみかづち)命(建御雷神)が、かつて中国(なかつくに)平定に用いた「平国之剣(くにむけしつるぎ)」(?霊(ふつのみたま))を与えたところ、この剣の威力によって兵卒の病は治り、再び進軍を開始することが出来ました。
 『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』には、その後、天皇は、大和橿原に都を定めた時、物部(もののべ)氏の先祖である宇摩志麻治(うましまじ)命に命じ、国を守る神として、この剣を宮中で祀らせました。
 さらに、宇摩志麻治命は父饒速日(にぎはやし)命が高天原から降臨するさい、天津御祖(あまつみおや)から賜わった「天璽瑞宝十種(あまつしるしとくさのみずのたから)」を天皇に献上し、その十種神宝を布留御魂神と称して布都御魂神とともに宮中で奉祀しました。
 崇神(すじん)天皇7年になって、物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)命が勅を奉じて石上の高庭に遷し祀りました。こうした鎮座の由来から、石上大神(いそのかみおおかみ)と称して物部氏の氏神としました。また、垂(すい)仁(にん)天皇39年冬10月、五十瓊敷(いにしき)命(『古事記』・印色入日子命=垂仁天皇の皇子)は、剣一千口(いちぢ)を作って石上神宮に奉納しています。のち五十瓊敷命がそれを管理することになました。
 同87年、五十瓊敷命は妹の大中姫(おおなかつひめ)命に「自分は老いたので代わって管理をしてほしい」と頼みましたが、大中姫命は「吾は手弱女(たおやめ)なり。何ぞ能(よ)く天神倉(あめのほくら)に登らむ」といって固辞しました。そこで物部十千根(とちね)大連(七世孫建膽心大禰(たけいこころおほね)命の弟)にその任に当たらせました。以後、物部連が石上の神宝を管理するようになりました。こうした事情から、天皇家は古来、刀剣などの武器や宝物を奉納し、神社の宝庫は兵器貯蔵庫の役割を持っていたと考えられます。現在も境内の一角に、校倉造(あぜくらづくり)の宝庫(神庫)があり、多数の神宝類が納められています。国宝七支刀(しちしとう)、重要文化財鉄盾(てつたて)なども宝庫に伝わったものです。
 古代には、相当の規模を誇った由緒ある神社であったと思われます。現在もそれにふさわしい、国宝の拝殿など優れた建物があります。ただ、もともと、石上神宮には現在あるような本殿はなく、拝殿の背後の禁足(きんそく)地が一種の祭祀の場所でありました。
 明治7年(1874)に、当時の宮司菅政友(かんまさとも)の行なった発掘調査で、現在、重要文化財に指定されている多数の玉(たま)類、鉄製太刀など、4世紀のものと思われる遺物が出土しました。
石上神宮拝殿(国宝 鎌倉時代)
 
〔物部氏の正体〕
 
 大化改新以前の大和王権は、天皇(大王)を中心にした畿内の有力豪族層の連合というかたちで形成されていました。その政権の中枢に立つ最高の執政官は、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)でありました。大臣は、葛城(かつらぎ)・平群(へぐり)・蘇我(そが)などか占める要職でありました。大和盆地の地名を冠する豪族で、しかもともに武内宿禰(すくね)の子孫と称し、同族意識で結ばれた有力者でありました。おそらく、大和王権が確立する以前は、大和盆地の磐余(いわれ)地方を基盤とした天皇家と、対等の勢力を有していた大和地方の各地に割拠(かっきょ)した豪族だったと考えられています。
 それに対し、大連は、連(むらじ)の姓(かばね)を称する伴造(とものみやつこ)グループを代表する最高執政官であり、大伴(おおとも)・物部(もののべ)の両氏が任命されることになっていました。
 大臣系の氏族とは異なり、早くから天皇家に仕え、天皇家が大和王権の大王としての権力を獲得するのに
ともなって、その地位を上昇せしめ、大臣とならぶ実力者となったのであります。その典型的氏族は、大伴
氏で、天皇家の股肱(ここう)の臣としての誇りを終生保ち続けてきました。大伴家持の「海行かば……」の歌は、まさにそれを表現したものであります。
 たが、その大伴氏と物部氏は、大連としての共通点を多く残しながら、やはり、氏族としての性格は基本
的に異なるものであります。
 それは、物部氏が、鎮魂の呪能(じゅのう)を持ち続けてきたという点と、物部氏は、天皇家と同じような天降る神の子孫としてのプライドを有しています。
石上神宮楼門(重文 鎌倉時代)
 
 「神武紀」にも、天神の子、櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命が天磐船(あまのいわふね)に乗って天降り、長髄彦(ながすねひこ)の妹、三炊屋(みかしきや)媛(ひめ)を娶って、可美真手(うましまで)命を生んでいます。天羽羽矢(あまのはは)と歩靭(かちゆき)を保持していました。
 物部の氏族伝承を伝える『旧事紀』(天孫本紀)には、天祖が饒速日命に、「天璽瑞宝十種」を授けて天降らせたとあります。饒速日命は天祖の勅をうけて、天磐船に乗り、河内国河上哮峰(たけるがみね)に下り、さらに大倭国の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわのやま)に移ったと記しています。
 河内国の河上の哮峰は、天之川の河上の地であり、大阪府交野市、私市の磐船の竜王山や、獅子窟寺、ないしは生駒山に比定されています。
 その地より、大和の鳥見の白庭山に遷るとありますが、ここは『和名抄』にいう大和国添下郡鳥見郷であると思われます。白庭山は、式内社、登弥(とみ)神社が祀られる奈良市の西郊、富雄に比定されています。哮峰が生駒山の北嶺とすれば、そこより大和に東遷した地域が鳥見でありました。
 この鳥見は、いうまでもなく饒速日命の妻の兄、長髄彦が神武天皇に討たれたところで、天皇の弓弭(ゆみはず)に金鵄が飛来したことに由来する地名であります。
 饒速日命は、長髄彦を殺し、兵を率いて天皇に帰順し、天皇家に仕えることになりました。その子孫が物部連、穂積臣、?(うねめ)臣であります。
 このような物部氏の伝える氏族の伝承から推測すると、物部氏はかつて天皇家と同様な卓越した宗教的権威を持っていた一族で、初期の段階で天皇家と大和王権の首長の座を争って敗れ、服従した豪族であったとも考えられます。
 物部の名は、モノノフ(武士)と、モノ(精霊)を司る司祭者に由来していると考えられます。物部氏の特有の宗教は、鎮魂(ちんこん)≠ナあります。鎮魂は、「タマフリ」または「タマシヅメ」と読まれますが、古代の戦士は戦いに臨み、神の加護を祈り、そして自らの魂をふるい立たせて、精力の増大を願っています。つまり、それが「タマフリ」であります。そしてまた、向かう敵の邪霊を鎮圧する「タマシズメ」の呪術を行ないます。その優れた宗教的能力を有するものがモノノフそのものであります。
 物部氏が鎮魂の呪具として伝えたものは、饒速日命が天祖より天降る時、授けられた「天璽瑞宝十種」であります。
 「瑞宝十種」とは、息津鏡(おきつかがみ)、部津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、足玉(たるたま)、死反玉(しかえしのたま)、道反玉(みちかえしのたま)、蛇比布(へびのひれ)、蜂比布(はちのひれ)、品(くさぐさ)の物の比布(ひれ)の十種の神宝であります。
 この十種の神宝を合わせて、「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」といってゆらりゆらりと振れば、死人も必ず生き返るといわれています。
(左)禁足地を囲む瑞垣 (右)石上神社拝殿の内陣
 
 十種の神宝も、つまりは鏡と剣と玉と比布のセットであります。ここに、天皇家の神璽、いわゆる三種の神器の鏡と剣と玉が含まれていることは注目です。
蛇の比布、蜂の比布は、『古事記』には、葦原色許男(あしはらのしこお)(大国主命)が、須佐能男(すさのお)命のもとで試練をうけた時、須勢理毘売(すせりひめ)が密かに授け、これによって危機を脱出することが出来たという鎮魂(たましずめ)の呪具であります。
 それ故、物部氏は、その始めに当たって祭事にかかわる豪族として「記紀」に登場します。「崇神紀」には、大物主神の災害を鎮めるために、大物主神の子孫、大田田根子(おおたたねこ)を祭主とすべきことを奏上したのは、穂積臣の遠祖、大水口宿禰(おおみくちのすくね)であります。
 穂積は、大和国山辺郡大和郷内の地名で、大和神社が祀られる朝和村の穂積であります。それは石上神社の南に位置しています。『姓氏録』によれば、穂積臣は、伊香賀色雄(いかがしこお)の息子、大水口宿禰の後裔氏族とみられ、物部氏と同族であります。
 ちなみに、伊香(賀)色雄は饒速日命の六世の孫にあたり、伊香(賀)色雄の名は、「厳めしい呪能を有する醜男(しこお)」に由来しています。醜男は、大国主命が葦原色許男と名乗ったように、醜い男という意味ではなく、超人的、かつ宗教的な力を有する者の意であります。
 「垂仁紀」によれば、物部十千根(とちね)大連に勅して、出雲の神宝を検校させ、それを掌握させたとあります。十千根は、『旧事紀』(天孫本紀)によれば伊香(賀)色雄の子となっています。この十千根はまた、石上の神宝を治めることになります。
 もともと、石上神宮の神宝は、垂仁天皇の皇子、五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命が管理するものでありました。五十瓊敷入彦命が、茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)の川上宮にいた時、剣千口を作って石上神宮に納めています。それがもととなって五十瓊敷入彦命がこの神宮の神宝を司ることとなりました。だが、後に妹の大中(だいなか)姫(ひめ)に委ねられました。その大中姫からさらに神宝の管理をまかされたのが、物部十千根でありました。以後、物部連が石上神宮を祭祀してきたことはまぎれない事実であります。
(左)御田植神事(拡大) (右)神剣渡御祭(拡大)
 
〔物部氏と蘇我氏の対立〕
 
 さて、物部氏が執政官のひとりとして、次第に頭角をあらわすようになるのは、5世紀であります。おそらく、
大和王権が、軍事的に全国を制覇していく時期に当たり、その大和王権の尖兵として軍隊を率いて戦ったのが、大
伴氏や物部氏であった、次第に政界にも発言権を強めていきます。
 物部氏は、日本各地に転戦するや、必ず氏の神を奉斎して戦い、各地に物部氏の神を勧請して祀っていました。
『肥前国風土記』の三根郡物部郷の条には、ここに、物部の経津主(ふつぬし)の神の社があることにより物部郷と名付けられたとありますが、これは推古天皇の時代、来目(くめ)皇子を将軍とした新羅征討軍が進駐した際、物部の若宮部をして、この神を分詞するだけでなく、服属した豪族の所領や人民の一部を差し出させ、物部を置き、それら部民制の上に立って、大和王権の最高の執政官を獲得していったのであります。それがいわゆる「物部の八十氏」であります。
 「記紀」によって、具体的に物部氏の活躍ぶりを見ていきます。履中天皇の時代、仲皇子の叛乱をおさえた人物に、物部大前(おおさき)宿禰が登場します。そして、また履中朝の執政官として、平群木菟(へぐりつくの)宿禰、蘇我満智(そがまち)宿禰、葛城円大使主(かつらぎつぶらのおおみ)とともに、物部伊?弗(いろふ)大連が名を連ねています。いうまでもなく物部氏が、軍事力を最も発揮したのは、継体天皇の時代の筑紫君(ちくしのきみ)磐
井の叛乱であります。
 この時、継体天皇は、大連の物部麁鹿火(あらかひ)に、自ら斧鉞(まさかり)を賜い、「長門より東をば朕制(と)らむ、筑紫より西をば、汝制れ、専ら賞罰を行なえ」と命じています。
 麁鹿火に与えられた斧と鉞(まさかり)は、中国の刑罰の道具であり、それを賜うことは、刑罰の大権を麁鹿火に委ねたことになります。まさに、刑罰を掌(つかさど)り、邪霊鎮魂の神をいただく物部氏に相応しいものでありました。
 大将軍麁鹿火は、磐井と筑紫国御井郡で決戦し、これをやぶり磐井をうちとります。麁鹿火は、継体・安閑・宣化の三朝の大連として仕えましたが、次の欽明朝では、それに代わって物部尾輿(おこし)が、大伴金村大連、蘇我稲目大臣とともに最高執政官に就任しました。しかし、大伴金村が外交上の失敗を問われて失脚すると、物部氏と蘇我氏の対立が、にわかに激しくなってきました。
 蘇我臣は、渡来系氏族と結び、外交、財政を司る氏族として重きを成していました。宮司制を整え、屯倉(みやけ)の経営に積極的に乗り出すなど、部民制に立脚する旧態依然たる物部氏より、開明的でありました。特に外交に当たっては、百
済系氏族の漢(あや)氏の助言もあり、百済に接近し、百済文化の摂取につとめています。

(左)物部守屋の墓 (右)物部守屋の渋川の邸跡に建てられている渋川神社
 

 欽明天皇13年(552)に、百済の聖明王が、釈迦仏の金銅像1躯と幡蓋(はたきぬがさ)および経論を献じましたが、蘇我稲目大臣は、「西蕃の諸国、皆仏法を礼(うやま)う。どうして、我が日本だけ、それに背くことが出来ようや」と主張し、仏教の伝来を支持したのに対し、物部尾輿大連と中臣鎌子らは「今、改めて蕃神(あだしくにのかみ)を拝みたまわば、国神(くにつかみ)の怒りをまねかん」といって反対しました。これが世にいう崇
仏・廃仏の政争であります。
 確かに、日本の神々を奉斎して来た物部氏や中臣氏が、外国の神を祀ることに反対するのは当然であります。
 当時の神の祀り方を見ると、多くの神々は、氏神として、一族内の神として祀られるか、地域的な神として、地縁的な共同体に祀られるかであります。換言すれば、限られた人々に祀られる神でありました。つまり排他性を持ち、祭祀に参加しうる条件は、氏人であるとか、地縁的共同体の成員に限定されていました。
 おそらく、物部氏が仏教が入ってくることを阻止する最大の原因は、氏や地縁性を超えて信仰される仏教の普遍的な性格そのものを恐れたためであると考えられます。それは逆に統一国家や独裁的な権力を志向する蘇我氏には、仏教はうってつけの宗教であったと思われます。
 両氏の争いが頂点に達したのが、用命天皇崩御のあとの皇位継承をめぐる争いであります。物部守屋大連は、穴穂部皇子の擁立をはかっていましたが、蘇我馬子に先手をうたれて皇子は殺されてしまいました。
 蘇我馬子は、その血を引く炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)(敏達皇后、後の推古天皇)をいただき、諸皇子や群臣を糾合し、物部守屋を渋河の家に攻めました。この時、大伴連噛(くい)、阿部臣人(ひと)、平群臣神手(かむて)、坂本臣糠手(あらて)らが蘇我氏側に立って戦いました。守屋は大いに戦って蘇我氏側をなやましましたが、ついに迹見首赤檮(とみおびといちい)に射殺されて敗れました。
(左)七支刀(拡大) (中)鉄盾(拡大) (右)石上神宮禁足地出土品(重文 古墳時代)
 
〔むすびに〕
 
 石上神宮には、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)が主祭神として祀られ、五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)命、宇摩志麻治(うましまじ)命、白河天皇、市川臣命が配祀神として祀られています。
 石上神宮は、古代、物部氏の氏神にして大和政権の武器庫的性格もある国家鎮護の神でありました。一方、魂を再生させる鎮魂(魂振り(たまふり))の場としても知られていました。石上神宮の主祭神の3神には、この二つの性格が、端的に現われています。すなわち、布都御魂大神と布留斯魂大神は武神としての性格を担い、布留御魂大神は鎮魂の神としての性格を担っています。
 布都御魂大神と布都斯魂大神は、ともに刀剣とその力を神格化したもので、布都(ふつ)というのは、物が刀によってプッツリと切れるさまをあらわしています。布都御魂大神とは、記紀神話によれば、大和国攻略に苦戦していた神武天皇が、熊野の高倉下を介して建御雷神(たけみかづちのかみ)から与えられた剣のことで、この剣を得て苦境を脱したといわれています。
 社伝よれば、この剣が石上神宮に祀られたのは、物部氏の祖先伊香色雄(いかがしこお)命が崇神天皇7年に勅を受けて布留御魂大神とともに宮中から遷して祀られました。
 一方、布都斯魂大神は、布都御魂大神とは別の神で、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が大蛇退治に使った十握剣(とつかのつるぎ)のこととされています。『日本書紀』一書(あるふみ)には、十握剣は石上に祀られていると記されていますが、『新撰姓氏録』によれば、仁徳天皇56年に勅をうけた市川臣が、吉備(きび)神部(かんべ)から石上神宮に遷し祀ったとされています。
布留御魂大神は、神武天皇より先に天降った饒速日命が携えてきたと『旧事本紀』にみえる十種(とくさ)の神宝(かんだから)の神器のこととされています。
物部氏の遠祖宇摩志麻治命が、十種の神宝を用いて天皇の鎮魂を行なったと伝えられ、歴史的にも、白河天皇が永保元年(1081)に鎮魂祭の祭場として宮中三殿の神嘉殿(しんかでん)を寄進しています。
 古代大和政権の軍事を掌握した物部氏の氏神は、神剣の霊力を象徴する国家鎮護の神であり、鎮魂の神でありました。大和王家は5世紀末ごろまで石上の神を自家の守り神である大物主神と同等に扱っていました。6世紀に大和王権は天照大御神を自家の祖先神としました。これをきっかけに、石上の神が粗略に扱われるようになりました。
 物部氏とのかかわりが薄れたのちも、石上神宮は伝統のある古社として朝廷や武家からある程度の保護を受けましたが、信仰の担い手がいないために、石上信仰は全国的広がりを見ることが出来なかったと考えられます。

≪月刊京都史跡散策会42号≫【神・神社とその祭神】《XXII》石上神宮 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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